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文献資料 (bs006)

  『資本論』目次  資本論ワールド編集部による探究と検索
(段落) 第1篇 商品と貨幣
第1章 商 品 第2章 交換過程
1-1~
1-18
 第1節 商品の2要素 使用価値と価値
     (価値実体、価値の大いさ)
第3章 貨幣または商品流通
2-1~
2-16
 第2節 商品に表わされた労働の二重性  第1節 価値の尺度 
3-1~
3-
 第3節 価値形態または交換価値  第2節 流通手段
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態   a 商品の変態
 1 価値表現の両極、
      すなわち相対的価値形態と等価形態 
  b 貨幣の流通 ウムラウフ
 2 相対的価値形態   c 鋳貨 価値標章
  a 相対的価値形態の内実  第3節 貨幣
  b 相対的価値形態の量的規定性   a 貨幣退蔵
 3 等価形態   b 支払手段
 4 単純な価値形態の総体   c 世界貨幣
B 総体的または拡大された価値形態
 1 拡大された相対的価値形態 第2篇 貨幣の資本への転化 
 2 特別な等価形態  第4章 貨幣の資本への転化
 3 総体的または拡大された価値形態の欠陥
C 一般的価値形態
 1 価値形態の変化した性格
 2 相対的価値形態と等価形態の発展関係
 3 一般的価値形態から貨幣形態への移行
D 貨幣形態
第4節 商品の物神的性格とその秘密

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成素形態 経済学批判 アリストテレス バーボン 方程式
商品種 膠状物 凝結物
ヘーゲル『小論理学』 マルクス『経済学批判』



『資本論』 向坂逸郎訳 岩波書店
 (1969年1月16日 岩波文庫版発行)

  
 ■資本論ワールドによる編集注意事項
 マルクスによる本文「注」は「原注」と表記。編集部による「注」は「*1」のように「*」の後に数字を記入し、リンクを貼った。また、本文中のドイツ語等外国語の挿入は、向坂訳ではドイツ語の同じ単語であっても必要に応じて意訳があり、元のドイツ語を表示した。

第1篇 商品と貨幣 第1章 商品

第1章 第1節

 
      第1節 商品の2要素 使用価値と価値 (価値実体、価値の大いさ)

1-1 資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積*1(原注1)」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態*2 として現われる。したがって、われわれの研究は商品 の分析をもって始まる。

 (注1) カール・マルクス『経済学批判』1859年、新潮社版第7巻p.57
「市民社会の富は、一見して、巨大な商品集積であり、個々の商品はこの富の成素的存在で あることを示している。しかして、商品は、おのおの、使用価値と交換価値(1)という二重の観点で現われる。」
   〔*『経済学批判』アリストテレスの注(1):「何故かというに、各財貨の使用は二重になされるからである。・・・・その一つは物そのものに固有であり、他の一つはそうではない。例えていえば、サンダ ルの使用は、はきものとして用いられると共に交換されるところにある。両者共にサンダル の使用価値である。何故かというにサンダルを自分のもっていないもの、例えば食物と交換 する人も、サンダルを利用しているからである。しかし、これはサンダルの自然的な使用法 ではない。何故かいうに、サンダルは交換されるためにあるのではないからである。他の諸 財貨についても、事情はこれと同じである。」(新潮社版p.57)

資本論ワールド編集部の注(*1:巨大なる商品集積)、(*2:成素形態)

1-2 商品はまず第一に外的対象である。すなわち、その属性によって人間のなんらかの種類の欲望を充足させる一つの物である。こ れらの欲望の性質は、それが例えば胃の腑から出てこようと想像によるものであろうと、こ との本質を少しも変化させない(注2)。ここではまた、事物が、直接に生活手段として、すなわち、享受の対象としてであれ、あるいは迂路をへて生活手段としてであれ、いかに人 間の欲望を充足させるかも、問題となるのではない。
   
(原注2)「願望をもつということは欲望を含んでいる。それは精神の食欲である。そして身体にたいする飢餓と同じように自然的なものである。・・・大多数(の物)が価値を有するのは、それが精神の欲望を充足させる3 からである」(ニコラス・バーボン『新貨幣をより軽く改鋳することにかんする論策、ロック氏の「考察」に答えて』 ロンドン、1696年、2-3ページ)。

1-3 鉄・紙等々のような一切の有用なる物は、質と量にしたがって二重の観点から考察され るべきものである。このようなすべての物は、多くの属性の全体をなすのであって、したが って、いろいろな方面に役に立つことができる。物のこのようないろいろの側面と、したがってその多様な使用方法を発見することは、歴史的行動(原注3)である。有用なる物の量をはかる社会的尺度を見出すこともまたそうである 。商品尺度の相違は、あるばあいには測定さるべき対象の性質の相違から、あるばあいには 伝習から生ずる。

 (注3)「物は内的な特性(vertue ― これはバーボンにおいては使用価値の特別な名称である)をもっている。物の特性はどこに行っても同一である。例えば、磁石は、どこにいっても鉄を引きつける」(同上、6ページ)。磁石(関連コラム)の鉄を引きつける属性は、人がその性質を利用して磁極性を発見する4にいたって初めて有用となった。

3:精神の欲望を充足させる)、(4:磁極性を発見する)

1-4 一つの物の有用性は、この物を使用価値にする(原注4)。しかしながら、この有用性は 空中に浮かんでいるものではない。それは、商品体の属性によって限定されていて、商品体なくしては存在するものではない。だから、商品体自身が、鉄・小麦・ダイヤモンド等々というように、一つの使用価値または財貨である。このような商品体の性格は、その有効属性を取得することが、人間にとって多くの労働を要するものか、少ない労働を要するものか、ということによってきまるものではない。使用価値を考察するに際しては、つねに、1ダースの時計、1エレの亜麻布、1トンの鉄等々というよ うに、それらの確定した量が前提とされる。商品の使用価値は特別の学科である商品学(原注5)の材料となる。使用価値は使用または消費されることによってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容をなしている。われわれがこれ から考察しようとしている社会形態においては、使用価値は同時に-交換価値の素材的な担 い手をなしている。

1-5 交換価値は、まず第一に量的な関係として、すなわち、ある種類の使用価値が他の種類 の使用価値と交換される比率として、すなわち、時とところとにしたがって、絶えず変化する関係として、現われる(原注6)。したがって、交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に 相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値(valeur intrinseque)という ようなものは、一つの背理(原注7)*(contradictio in adjecto)のように思われる。われわ れはこのことをもっと詳細に考察しよう。

1-6 一定の商品、1クォーターの小麦は、例えば、x量靴墨、またはy量絹、またはz量金等々 と、簡単にいえば他の商品と、きわめて雑多な割合で交換される。このようにして、小麦は 、唯一の交換価値のかわりに多様な交換価値をもっている。しかしながら、x量靴墨、同じく y量絹、z量金等々は、1クォーター小麦の交換価値であるのであるから、x量靴墨、y量絹、z 量金等々は、相互に置き換えることのできる交換価値、あるいは相互に等しい大いさの交換 価値であるに相違ない。したがって、第一に、同一商品の妥当なる交換価値は、一つの同一 物を言い表している。だが、第二に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき内在物の 表現方式、すなわち、その「現象形態」でありうるにすぎない。

1-7 さらにわれわれは二つの商品、例えば小麦と鉄をとろう*。その交換価値がどうであれ、 この関係はつねに一つの方程式に表わすことができる。そこでは与えられた小麦量は、なん らかの量の鉄に等置される。例えば、1クォーター小麦=aツェントネル鉄というふうに。こ の方程式は何を物語るか?
二つのことなった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様にaツェントネル鉄にも、同一大いさのある共通なものがあるということである。したがって、両つのものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身 としては、前の二つのもののいずれでもない。両者のおのおのは、交換価値である限り、こ うして、この第三のものに整約しうるのでなければならない。

1-8 一つの簡単な幾何学上の例がこのことを明らかにする。一切の直線形の面積を決定し、それを比較するためには、人はこれらを三角形に解いていく 。三角形自身は、その目に見える形と全くちがった表現-その底辺と高さとの積の2分の1― に整約される。これと同様に、商品の交換価値も、共通なあるものに整約されなければなら ない。それによって、含まれるこの共通なあるものの大小が示される。

1-9 この共通なものは、商品の幾何学的・物理的・化学的またはその他の自然的属性である ことはできない。商品の形体的属性は、ほんらいそれ自身を有用にするかぎりにおいて、し たがって使用価値にするかぎりにおいてのみ、問題になるのである。しかし、他方において 、商品の交換価値をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象で ある。この交換価値の内部においては、一つの使用価値は、他の使用価値と、それが適当の 割合にありさえすれば、ちょうど同じだけのものとなる。あるいはかの老バーボンが言って いるように、「一つの商品種は、その交換価値が同一の大いさであるならば、他の商品と同 じだけのものである。このばあい同一の大いさの交換価値を有する物の間には、少しの相違 または差別がない(原注8)。」

1-10 使用価値としては、商品は、なによりもまずことなれる質のものである。交換価値と しては、商品はただ量をことにするだけのものであって、したがって、一原子の使用価値を も含んでいない。

1-11 いまもし商品体の使用価値を無視するとすれば、商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである。だが、われわれにとっては、この労働生産物も、すでにわ れわれの手中で変化している。われわれがその使用価値から抽象するならば、われわれは労 働生産物を使用価値たらしめる物体的な組成部分や形態からも抽象することとなる。それは もは指物労働の生産物でも、建築労働や紡績労働やその他なにか一定の生産的労働の生産物 でもない。労働生産物の有用なる性質とともに、その中に表わされている労働の有用なる性 質は消失する。したがって、これらの労働のことなった具体的な形態も消失する。それらは もはや相互に区別されることなく、ことごとく同じ人間労働、抽象的に人間的な労働に整約される。

1-12 われわれはいま労働生産物の残りをしらべて見よう。もはや、妖怪のような同一の対象性いがいに、すなわち、無差別な人間労働に、いいかえればその支出形態を考慮すること のない、人間労働力支出の、単なる膠状物というもの意外に、労働生産物から何物も残って いない。これらの物は、ただ、なおその生産に人間労働力が支出されており、人間労働が累 積されているということを表わしているだけである。これらの物は、おたがいに共通な、こ の社会的実体の結晶として、価値―商品価値である。

1-13 商品の交換関係そのものにおいては、その交換価値は、その使用価値から全く独立しているあるものとして、現われた。もしいま実際に労働生産物の使用価値から抽象するとすれば、いま規定されたばかりの労働生産物の価値が得られる。商品の交換比率または交換価値に表われている共通なものは、かくて、その価値である。研究の進行とともに、われわれは価値の必然的な表現方式または現象形態としての交換価値に、帰ってくるであろう。だが、この価値はまず第一に、この形態から切りはなして考察せらるべきものである。

1-14 このようにして、一つの使用価値または財貨が価値をもっているのは、ひとえに、その中に抽象的に人間的な労働が対象化されているから、または物質化されているからである。そこで、財貨の価値の大いさはどうして測定されるか? その中に含まれている「価値形成実休」である労働の定量によってである。労働の量自身は、その継続時間によって測られる。そして労働時間には、また時・日等のようか一定の時間部分としてその尺度標準がある。

1-15 もしある商品の価値が、その生産の間に支出された労働量によって規定されるならば、ある男が怠惰であり、または不熟練であるほど、その商品は価値が高いということになりそうである。というのは、その商品の製造に、この男はそれだけより多くの時間を必要とするからである。だが、価値の実体をなす労働は、等一の人間労働である。同一人間労働力の支出である。商品世界の価値に表わされている社会の全労働力は、ここにおいては同一の人間労働力となされる。もちろんそれは無数の個人的労働力から成り立っているのであるが。これら個人的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力の性格をもち、またこのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間をのみ用いるというかぎりにおいて、他のものと同一の人間労働力なのである。社会的に必要な労働時間とは、現に存する社会的に正常な生産諸条件と労働の熟練と強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値仝造り出すために必要とされる労働時間である。例えば、イギリスに蒸気織機が導入されたのちには、一定量の撚糸を織物に変えるために、おそらく以前の半ばほどの労働で足りた。イギリスの手織職人は、この織物に変えるために、実際上は前と同じように、同一の労働時間を要した。だが、彼の個人的労働時間の生産物は、いまではわずかに半分の社会的労働時間を表わしているだけとなった。したがって、その以前の価値の半ばに低落した。

1-16 そんなわけで、ある使用価値の価値の大いさを規定するのは、ひとえに、社会的に必要な労働の定量、またはこの使用価値の製造に社会的に必要な労働時間にほかならないのである(原注9)。個々の商品は、このばあい要するに、その種の平均見本にされてしまう。(原注10)同一の大いさの労働量を含む商品、または同一労働時間に製作されうる商品は、したがって、同一の価値の大いさをもっている。ある商品の価値の他の商品のそれぞれの価値にたいする比は、ちょうどその商品の生産に必要な労働時間の、他の商品の生産に必要な労働時間にたいする比に等しい。
「価値としては、すべての商品は、ただ凝結せる労働時間の一定量であるにすぎない。」(原注11)

 (原注9) 第二版への注。「使用対象の価値は、それらが相互に交換されるときには、その生産に必然的に要せられ、通例として投下される労働の量によって規定される」(『一般金利、とくに公債等における金利にかんする二、三の考察』ロンドン、三六ページ)。この注目すべき前世紀の匿名書には日付がない。だが、それがジョージ2世治下、およそ1739年または1740年に刊行されたものであることは、その内容から明らかである。

 (原注10)「すべて同一種の産物は、本来、その価格が一般的にかつ特別の事情を考慮することなく規定される一つの集塊であるにすぎない」(ル・トゥローヌ『社会的利益について』893ページ)。

 (原注11)カール・マルクス『批判』6ページ〔ディーツ版『全集』第13巻、18ページ。邦訳、岩波文庫版、26ページ。新潮社版『選集』第7巻、60ページ〕。

1-17 したがって、ある商品の価値の大いさは、もしその生産に必要な労働時間が不変であるならば、不変である。しかしながらこの労働時間は、労働の生産力における一切の変化とともに変化する。労働の生産力は、種々の事情によって規定される。なかでも、労働者の熟練の平均度、科学とその工学的応用の発展段階、生産過程の社会的組み合わせ、生産手段の規模と作用力とによって、さらに自然的諸関係によって、規定される。同一量の労働は、例えば豊年には 8ブッシェルの小麦に表わされるが、凶年には僅か4ブッシェルに表わされるにすぎない。同一量の労働は、富坑においては、貧坑におけるより多くの金属を産出する、等々。ダイヤモンドは、地殼中にまれにしか現われない。したがって、その採取には、平均して多くの労働時間が必要とされる。そのために、ダイヤモンドは、小さい体積の中に多くの労働を表わしている。ジェーコブは、金はいまだかつてその価値を完全に支払われたことはあるまい、といっている。このことは、
もっとつよくダイヤモンドにあてはまる。エッシュヴェーゲによれば、1823年、ブラジルのダイヤモンド坑80年間の総産出高は、ブラジルの砂糖栽培とコーヒー栽培の1ヵ年半の平均生産物の価格にも達しなかった。ダイヤモンド総産出高の方が、より多くの労働を、したがってより多くの価値を表わしていたのは勿論のことであったが。より豊かな鉱山では、同一の労働量がより多くのダイヤモンドに表わされ、その価値は低下するであろう。もし少量の労働をもって、石炭がダイヤモンドに転化されうるようになれば、その価値は練瓦以下に低下することになるだろう。一般的にいえば、労働の生産力が大であるほど、一定品目の製造に要する労働時間は小さく、それだけその品目に結晶している労働量は小さく、それだけその価値も小さい。逆に、労働の生産力が小さければ、それだけ一定品目の製造に必要な労働時間は大きく、それだけその価値も大きい。したがって、ある商品の大きさは、その中に実現されている労働の量に正比例し、その生産力に逆比例して変化する。

  *第1版には、次の一文がつづく。「われわれは、いまや価値の実体を知った。それは、労働である。われわれは価値の大いさの尺度を知った。それは労働時間である。価値をまさに交換価値にしてしまうその形態は、これから分析する。だが、その前に、すでにここで見出された規定を、いま少し詳しく述べておかなければならぬ。」―ディーツ版編集者

1-18  物は、価値でなくして使用価値であるばあいがある。その物の効用が、人間にとって労働によって媒介せられないばあいは、それである。例えば、空気・処女地・自然の草地・野生の樹木等々がそうである。物によっては、有用であり、また人間労働の生産物であって、商品でないばあいがある。自分の生産物で自身の欲望を充足させる者は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他の人々にたいする使用価値、すなわち、社会的使用価値を生産しなければならぬ。
(そしてただに他の人々にたいして生産するだけではない。中世の農民は封建領主のために年貢の穀物を、僧侶のために10分の1税の穀物を生産した。しかし、この年貢穀物も10分の1税穀物も、それらが他の人々のために生産されたということによって、商品となったわけではない。商品となるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他の人にたいして、交換によって移譲されるのでなければならない。(11a))最後にどんなものでも、使用対象でなくして、価値であることはできない。それが効用のないものであるならば、その中に含まれている労働も効用がなく、労働のうちにはいらず、したがってまた、なんらの価値をも形成しない。(11a)第4版への注。私はこのカッコ内の文句を入れた。というのは、この文旬を除くと、生産者以外の人々によって消費される生産物はすべてマルクスにおいて商品と考えられているという誤解が、きわめてしばしば生じたからである。― F・E(Friedrich Engels フリードリヒ・エンゲルス)

第1章 第2節



  第2節 商品に表わされた労働の二重性

2-1 最初商品はわれわれにとって両面性のものとして、すなわち、使用価値および交換価値として現われた。後には、労働も、価値に表現されるかぎり、もはや使用価値の生産者としての労働に与えられると同一の徴表をもたないということが示された。商品に含まれている労働の二面的な性質は、私がはじめて批判的に証明したのである。この点が跳躍点であって、これをめぐって経済学の理解があるのであるから、この点はここでもっと詳細に吟味しなければならない。

  (12)『批判』12、13ページおよびその他の諸所〔ディーツ版『全集』第13巻、22、23ページ以下。邦訳、岩波文庫版、33・35ページ以下、その他。新潮社版『選集』第7巻、64、65ページ、その他〕。

2-2  二つの商品、例えば1着の上衣と10エレの亜麻布とをとろう。前者は後者の2倍の価値をもっており、したがって、10エレの亜麻布がWとすれば、1着の上衣は2Wであるとしよう。

2-3  上衣は特別の欲望を充足させる一つの使用価値である。これを作るためには、一定の種類の生産的活動を必要とする。生産的活動はその目的、作業法、対象、手段および成果によって規定される。労働の有用性が、かくて、その生産物の使用価値に表わされ、すなわちその生産物が一つの使用価値であるということのうちに表わされているばあい、この労働を簡単に有用労働と名づける。この観点のもとでは、労働はつねにこの利用効果と結びつけて考察される。

2-4  上衣と亜麻布とが質的にちがった使用価値であるように、その存在を媒介する労働は、質的にちがっている。―裁縫と機織。もしそれらのものが質的にちがった使用価値でなく、したがって、質的にちがった有用労働の生産物でないとすれば、これらのものは、決して商品として相対することはありえないであろう。上衣は上衣に対しては交換されない。同一使用価値は同一使用価値と交換されることはない。

2-5  各種の使用価値または商品体の総体の中に、同じく属・種・科・亜種・変種等々というように、種々様々のちがった有用労働の総体が現われている。― 社会的分業である。この分業は商品生産の存立条件である。商品生産は逆に社会的分業の存立条件ではないのであるが。古代インドの共同体では、労働に、社会的に分割されているが、生産物が商品となることはない。あるいはもっと近い例をあげると、あらゆる工場で労働は系統的に分割されている。だが、この分割は、労働者がその個人的生産物を交換するということによって媒介されてはいない。お互いに商品として相対するのは、独立的でお互いに分かれている私的労働の生産物だけである。

2-6  したがって、こういうことが明かとなる。すなわち、すべての商品の使用価値の中には、一定の目的にそった生産的な活動または有用労働が含まれている。もし使用価値の中に、質的にちがった有用労働が含まれていないとすれば、使用価値は商品として相対することはできない。その生産物が一般に商品の形態をとる社会においては、すなわち、商品生産者の社会においては、独立生産者の私業として相互に独立して営まれる有用労働のこのような質的な相違は、多岐に分かれた労働の体制に、すなわち社会的分業に発展する。

2-7  だが、上衣にとっては、それを裁縫職人が着るか、その顧客が着るかは、どうでもいいことなのである。そのいずれのばあいでも、上衣は使用価値として作用している。同じように、上衣とこれを生産する労働との関係は、それ自身としては、裁縫が特別の職業となること、社会的分業の独立の分肢となることによって、変化することはない。着物を着るという欲望が人間に強要するかぎり、人間は、ある男が裁縫職人となる以前に、幾千年の永きにわたって裁縫した。しかしながら、上衣・亜麻布等、自然に存在しない素材的富のあらする要素が現存するようにたったことは、特別な人間的要求に特別な自然素材を同化させる特殊的な目的にそった生産活動によって、つねに媒介されなければならなかった。したがって、使用価値の形成者として、すなわち、有用なる労働としては、労働は、すべての社会形態から独立した人間の存立条件であって、人間と自然との間の物質代謝を、したがって、人間の生活を媒介するための永久的自然必然性である。

2-8  上衣・亜麻布等々の使用価値、簡単に商品体は、自然素材と労働という二つ要素の結合である。上衣・亜麻布等々に含まれているちがった一切の有用労働の総和を引き去るならば、つねに入間の加工なしに自然に存在する物質的基盤が残る。人間は、その生産において、自然みずからするようにするほか仕方のないものである。すなわち、ただ素材の形態を変更するほかに仕方のないものである(13)。さらに、この製作の労働そのものにおいても、人間はたえず自然力の援けをかりている。したがって、労働はその生産する使用価値の、すなわち素材的富の、唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティがいうように、労働はその父であって、土地はその母である。

 (13) 「宇宙の一切の現象は、それが人間の手によってもたらされようと、物理学の一般法則によってもたらされようと、事実上の新創造ではなくして、単に素材の形態変更であるにすぎない。複合と分離は、人間精神が再生産の観念の分析にあたって、いかなるときにも見出す唯一の要素である。そして、価値(使用価値のこと。むろん、ヴェリはこのばあいその重農学派にたいする論争において、どんな種類の価値について自分が語っているのかを、自分ではよく知らないのである)と富の再生産についても、土地・空気および水が、耕地で穀物に転化されるばあい、あるいはまた人間の手によってある種の昆虫の分泌物が絹糸に転化され、あるいは若干の金属の小片が一つの時打ち懐中時計をつくるために組み立てられるばあいで見るように、ことは同様である」(ピエトロ・ヴェリ『経済学にかんする考察』―初版、1771年―。クストディの『イタリアの経済学者』版で刊行。近代篇、第15巻、21、22ページ)。

2-9 われわれは、使用対象という限度内で商品を論じたのであるが、これから商品価値に移ろう。

2-10 われわれの想定によれば、上衣は亜麻布の2倍の価値をもっている。しかしながら、このことは量的な相違にすぎないのであって、いまのところわれわれの関心を惹くものではない。したがって、われわれは、もし1着の上衣の価値が10エレの亜麻布の価値の2倍の大いさであるとすれば、20エレの亜応布は1着の上衣と同一の価値の大いさをもっているということを思い起こすのである。価値として、上衣と亜麻布とは同一実体のものであり、同一性質の労働の客観的表現である。しかしながら、裁縫と機織とは質的にちがった労働である。だが、こういう社会状態がある。そこでは同一人間が交互に裁縫したり織ったりする、したがって、この二つのちがった労働様式は、同一個人の労働の変形にすぎないもので、ちがった個人の特殊な固定した機能にまだなっていないのであって、ちょうど今日われわれの裁縫職人の作る上衣と明日彼のつくるズボンとが、同一の個人的労働の変化であるにすぎないことを前提するのと同じである。さらに、われわれは日頃こういうことを目で見ている。すなわち、われわれの資本主義社会では、労働需要の方向の変化によって、一定分の人間労働が交互に裁縫の形態で供給されたり、機織の形態で供給されたりするのである。このような労働の形態変更は、摩擦なく行なわれるわけではあるまいが、しかし、行なわれざるをえないものである。生産的活動の特定性、したがってまた労働の有用な性格を見ないとすれば、労働に残るものは、それが人間労働力の支出ということである。裁縫と機織とは、質的にちがった生産的活動ではあるが、両者ともに、人間の頭脳・筋肉・神経・手等々の生産的支出であって、この意味では両者ともに人間労働である。それは人間労働力を支出する二つのちがった形態であるにすぎない。もちろん、人間の労働力それ自身は、どの形態でも支出されうるためには、多少とも発達していなければならぬ。しかしながら、商品の価値は人間労働そのものを、すなわち人間労働一般の支出を表わしている。さてブルジョア的社会では、将軍または銀行家が大きな役割を演じ、人間そのものは、これに反して、きわめてみすぼらしい役割を演ずる(14)ように、このばあいでも人間労働は同じ取り扱いをうけている。この労働は、すべての普通の人間が特別の発達もなく、平均してその肉体的有機体の中にもっている単純な労働力の支出である。単純なる平均労働自身は、国のことなるにしたがい、また文化時代のことなるにしたがって、その性格を変ずるのではあるが、現にある一定の社会内においては与えられている。複雑労働は、強められた、あるいはむしろ複合された単純労働にすぎないものとなるのであって、したがって、複雑労働のより小なる量は、単純労働のより大なる量に等しくなる。この整約が絶えず行なわれているということを、経験が示している。ある商品はもっとも複雑な労働の生産物であるかもしれない。その価値はこの商品を、単純労働の生産物と等しい関係におく。したがって、それ自身、単純労働の一定量を表わしているにすぎない(15)。それぞれちがった種類の労働が、その尺度単位としての単純労働に整約される種々の割合は、生産者の背後に行なわれる一つの社会的過程によって確定され、したがって、生産者にとっては慣習によって与えられているように思われる。ことを簡単にするために、以下においてはどの種類の労働力も直接に単純労働力であると考えられる。これによってただ整約の労をはぶこうというのである。

  (14) ヘーゲル『法の哲学』ベルリン、1840年、250ページ、第190節参照。
  (15) 読者に注意して貰わなければならぬことは、ここでは、労働者が例えば一労働日にたいして受け取る賃金または価値について論じているのではなくして、その労働日が対象化されている商品価値について論じているということである。労働賃金という範疇は、そもそもわれわれの説明のこの段階では、まだ問題にはならない。

2-11  したがって、上衣や亜麻布という価値においては、その使用価値の相違から抽象されているように、これらの価値に表わされている労働においては、その有用なる形態である裁縫や機織の相違から抽象されている。上衣や亜麻布という使用価値が、目的の定められた生産的な活動と布や撚糸との結合であるように、上衣や亜麻布という価値が、これと反対に、単なる同種の労働膠状物であるように、これらの価値に含まれている労働も、布や撚糸にたいするその生産的な結びつきによるのでなく、ただ人間労働力の支出となっているのである。上衣や亜麻布という使用価値の形成要素は、裁縫であり、機織である。まさにそれらの質がちがっていることによってそうなるのである。それらの労働が上衣価値や亜麻布価値の実体であるのは、ただそれらの特殊な質から抽象され、両者が同じ質、すなわち人間労働の性質をもっているかぎりにおいてである。

2-12  しかしながら、上衣と亜麻布とは、ただ価値そのものであるだけではなく、一定の大いさの価値である。そしてわれわれの想定によれば、1着の上衣は10エレの亜麻布の2倍だけの大いさ心価値である。どこから、それらの価値の大いさの相違が生ずるのか? それは、亜麻布がただ上衣の半分だけの労働を含んでいること、したがって、上衣の生産には、労働力が亜麻布の生産にくらべて2倍の時間、支出されなければならぬということから来るのである。

2-13  したがって、使用価値にかんしては、商品に含まれている労働がただ質的にのみ取り上げられているとすれば、価値の大いさについては、労働はすでに労働であること以外になんら質をもたない人間労働に整約されたのち、ただ量的にのみ取り上げられているのである。前者では、労働は、如何になされるかということ、何を作るかということが問題であるが、後者では、労働のどれだけということ、すなわち、その時間継続ということが問題なのである。ある商品の価値の大いさは、ただそれに含まれている労働の定量をのみ表わしているのであるから、商品はある割合をもってすれば、つねに同一の大いさの価値でなければならぬ。

2-14  例えば、1着の上衣の生産に必要な一切の有用労働の生産力が不変であるこすれば、上衣の価値の大いさは、それ自身の量とともに増大する。もし1着の上衣がX労働日を表わすそすれば、2着の上衣は2x労働日を表わす、等々である。しかしながら、1着の上衣の生産に必要な労働が2倍に増大するか、または半分だけ減少するという場合を仮定しよう。第一のばあいにおいては、1着の上衣は、以前の2着の上衣と同じ価値をもつものとなる。後のばあいには、2着の上衣が、以前の1着の上衣と同じ価値をもつにすぎないこととなる。もちろん、二つのばあいにおいて、1着の上衣は依然として同一のはたらきを果たし、それに含まれている有用労働は、依然として同一品質のものにとどまっているのであるが。ところが、その生産に支出されている労働量は、変化しているのである。

2-15  より大きな量の使用価値は、それ自身としてはより大きな素材的富をなしている。2着の上衣は1着よりは多い。2着の上衣では、2人の人に着せることができる。1着の上衣では、1人の人に着せることができるだけである、等々。だが、素材的富の量が増大するのにたいしては、その価値の大いさの同時的低下ということが、相応じうる。この相反する運動は、労働の両面的な性格から生じている。生産力は、もちろんついに有用な具体的な労働の生産力である。そして実際にただ与えられた期間における、目的にしたがった生産的活動の作用度を規定しているだけである。したがって、有用労働は、その生産力の増大あるいは低下と正比例して、より豊富な生産物源泉ともなれば、より貧弱なそれともなる。これに反して、生産力の変化は、価値に表わされている労働それ自身には、少しも触れるものではない。生産力は、労働の具体的な有用な形態がもっているものであるから、労働が、この具体的な有用な形態から抽象されるやいなや、当然にもはや労働に触れることはできない。したがって、同一の労働は、同一の期間に、生産力がどう変化しようと、つねに同一大いさの価値を生む。しかしながら、生産力は同一期間に、ちがった量の使用価値をもたらす。生産力が増大すればより多く、それが低下すればより少ない。労働の生産度を増大させ、したがって、これによってもたらされる使用価値の量を増加させる同じ生産力の変化は、このようにして、もしこの変化がその生産に必要な労働時間の総計を短縮するならば、この増大した総量の価値の大いさを減少させる。同じように、逆のばあいは逆となる。

2-16  すべての労働は、一方において、生理学的意味における人間労働力の支出である。そしてこの同一の人間労働、または抽象的に人間的な労働の属性において、労働は商品価値を形成する。すへての労働は、他方において、特殊な、目的の定まった形態における人間労働力の支出である。そしてこの具体的な有用労働の属性において、それは使用価値を生産する(16)。

  (16) 第2版への注。「労働のみがすべての商品の価値を、あらゆる時代に、評価し、比較しうる終局的な真実な尺度である」ということを証明するために、A・スミスはこう述べている。「同一量の労働は、あらゆる時代あらゆる場所において、労働者自身のために同一価値をもっていなければならぬ。労働者の健康・力および活動の正常な状態において、そして彼のもっていると考えられる熟練の平均度とともに、彼は、つねにその安息、その自由およびその幸福の、それ相応の部分を犠牲としなければならぬ」(『諸国民の富』第1篇第5章〔E・G・ウェイクフィールド版、ロンドン、1836年、第1巻、104ページ以下。邦訳、大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』岩波文庫版、第1分冊、155―156ページ〕)。一方A・スミスは、ここで(どこででもというわけではない)、商品の生産に支出された労働量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と混同している。したがって、同一量の労働が、つねに同一価値をもつことを証明しようと企てる。他方では彼は、労働が商品の価値に表わされるかぎり、労働力の支出としてのみ考えられるものであることを感じているが、この支出をまた、ただ安息・自由および幸福の犠牲とのみ解していて、正常な生活活動とも解していない。もちろん、彼は近代賃金労働者を眼前に浮かべている。
―注(9)に引用した匿名のA・スミスの先駆者は、はるかに正しくこう述べている。
「一人の男がこの欲望対象の製造に1週間をかけた。……そして彼に他の対象を交換で与える男は、彼にとって同じ大いさの労働と時間を費やさせるものを計算するよりほかには、より正しく実際に同価値であるものを算定することができない。このことは、事実上ある人間が一定の時間に一つの対象に費消した労働と、同一時間に他のある対象に費消された他の人の労働との、交換を意味している」(『一般金利……にかんする二、三の考察』 39ページ)。―{ 第4版に。英語は、労働のこの二つのことなった側面にたいして、二つのことなった言葉をもっているという長所がある。使用価値を作り出し、質的に規定される労働を Work といい、Labour に相対する。価値を作り出し、ただ量的にのみ測定される労働を Labour といって、Workに相対する。英語訳14ページの注を参照されよ。-F・E }。
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第1章 第3節

  第3節 価値形態または交換価値

3-1 商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄・亜麻布・小麦等々として、生まれてくる。これが彼等の生まれたままの自然形態である。だが、これらのものが商品であるのは、ひとえに、それらが、二重なるもの、すなわち使用対象であると同時に価値保有者であるからである。したがって、これらのものは、二重形態、すなわち自然形態と価値形態をもつかぎりにおいてのみ、商品として現われ、あるいは商品の形態をもつのである。

3-2 諸商品の価値対象性は、かのマダム・クィックリ 〔シェイクスピアの『ヘンリー4世』等の中の人物。……訳者〕とちがって、一体どこを摑まえたらいいか、誰にもわからない。商品体の感覚的に手触りの荒い対象性と正反対に、諸商品の価値対象性には、一分子の自然素材もはいっていないのである。したがって、一々の商品をどう捻りまわして見ても、それを価値物として摑むことはできない。だが、もし諸商品が同一の社会的等一性である人間労働の表現であるかぎりでのみ、価値対象性を有ち、したがってそれらの価値対象性は、純粋に社会的であるということを想い起こして見るならば、おのずから価値対象性が、ただ商品と商品との社会的関係においてのみ現われうるものであるということも明らかとなる。われわれは、実際において商品の交換価値から、または交換比率から出発して、その中にかくされている商品の価値をさぐりえたのである。いまわれわれは、価値のこの現象形態に帰らなければならぬ。

3-3 人は、何はともあれ、これだけは知っている、すなわち、諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態をもっているということである。―すなわち、貨幣形態である。だが、ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっとも単純なもっとも目立たぬ態容から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。これをもって、同時に貨幣の謎は消え失せる。

3-4 最も単純な価値関係は、明らかに、ある商品が、他のなんでもいいが、ただある一つの自分とちがった種類の商品に相対する価値関係である。したがって、二つの商品の価値関係は、一つの商品にたいして最も単純な価値表現を与えている。

3-5  A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

3-6   x量商品A = y量商品B あるいは、x量の商品Aは y量の商品B に値する (亜麻布20エレ = 上衣1着 または20エレの亜麻布は1着の上着に値する)。

3-7 1 価値表現の両極。すなわち、相対的価値形態と等価形態
 一切の価値形態の秘密は、この単純なる価値形態の中にかくされている。したがって、その分析が、まことの難事となるのである。

3-8 ここでは、2種の異なった商品 AとB、われわれの例でいえば、亜麻布と上衣とは、明白に二つのちがった役割を演じている。亜麻布はその価値を上衣で表現している。上衣はこの価値表現の材料の役をつとめている。第一の商品は能動的の役割を演じ、第二の商品は受動的のそれを演じている。第一の商品の価値は、相対的価値として表わされている。いいかえると、第一の商品は相対的価値形態にあるのである。第二の商品は等価として機能している。すなわち等価形態にあるのである。

3-9 相対的価値形態と等価形態とは、相関的に依存しあい、交互に条件づけあっていて、離すことのできない契機であるが、同時に相互に排除しあう、または相互に対立する極位である。すなわち、同一価値表現の両極である。この両極は、つねに価値表現が相互に関係しあうちがった商品の上に、配置されるものである。私は、例えば亜麻布の価値を、亜麻布で表現することはできない。亜麻布20エレ = 亜麻布20エレというのは、なんら価値表現とはならない。方程式はむしろ逆のことをいっている。すなわち、20エレの亜麻布は、20エレの亜麻布にほかならないということ、亜麻布という使用対象の一定量にほかならないということである。したがって、亜麻布の価値はただ相対的にのみ、すなわち、他の商品においてのみ、表現されうるのである。したがって、亜麻布の相対的価値形態は、何らかの他の商品が、自分にたいして等価形態にあるということを予定している。他方において、等価の役を引き受けているこの他の商品は、みすから同時に相対的価値形態にあるというわけにはいかぬ。この商品は自分の価値を表現しているのではない。この商品はただ他の商品の価値表現に、材料を供給しているだけである。

3-10 むろん、亜麻布20エレ=上衣1着 または20エレの亜麻布は1着の上衣に値するという表現は、上衣1着=亜麻布20エレ または1着の上着は20エレの亜麻布に値するという逆関係をも今んではいる。しかしながら、上衣の価値を相対的に表現するためには、方程式を逆にしなければならぬ。そして私がこれを逆にしてしまうやいなや、亜麻布は上衣のかわりに等価となる。したがって、同一の商品は同一価値表現において、同時に両形態に現われることはできない。この二つの形態は、むしろ対極的に排除しあうのである。

3-11 それで、ある商品が相対的価値形態にあるか、これに相対立する等価形態にあるかということは、もっぱら価値表現におけるその時々の位置にかかっているのである。ということは、ある商品がその価値を表現するものであるか、それともその商品によって価値が表現されるものであるか、にかかっているということである。

3-12 2 相対的価値形態






  2 相対的価値形態 

  b 相対的価値形態の量的規定性   

1. 価値の表現せられるべきあらゆる商品は、15シェッフェルの小麦、100ポンドのコーヒー等というように、一定量の使用対象である。この与えられた商品量は、人間労働の一定量を含んでいる。したがって、価値形態は、ただに価値一般を表現するだけでなく、量的に規定された価値、すなわち価値の大いさをも表現しなければならぬ。商品Aの商品Bにたいする価値関係、亜麻布の上衣にたいする価値関係においては、したがって、上衣なる商品種は、ただに価値体一般として亜麻布に質的に等しいと置かれるだけでなく、一定の亜麻布量、例えば20エレの亜麻布にたいして、価値体または等価の一定量、例えば1着の上衣が等しいと置かれるのである。


2. 亜麻布20エレ=上衣1着 または亜麻布20エレは上衣1着に値する」という方程式は、1着の上衣のなかにまさに20エレの亜麻布の中におけると同じだけの量の価値実体がかくされているということ、両商品量は、したがって、おなじだけの労働が加えられている、または同一大いさの労働時間がかけられているということを前提とする。しかしながら、20エレの亜麻布または1着の上衣の生産に必要なる労働時間は、機織または裁縫の生産力における一切の変化とともに変化する。そこで、価値の大いさの相対的表現に及ぼすこのような変化の影響が、もっと詳細に研究されなければならぬ。


3.  I 亜麻布の価値は変化するが(19)、上衣価値は不変であるとするばあい。亜麻布の生産に必要な労働時間が、例えば亜麻栽培地の豊度の減退の結果、2倍となったとすれば、その価値は2倍となる。亜麻布20エレ=上衣1着のかわりに、われわれは亜麻布20エレ=上衣2着という式をもつことになる。というのは、1着の上衣は、いまでは20の亜麻布の半ばだけの分量の労働時間を含むにすぎないのであるからである。これに反して、亜麻布の生産に必要な労働時間が半分だけ、例えば織台改良の結果、減少するとすれば、亜麻布価値は半分だけ低下する。したがってこんどは亜麻布20エレ=上衣1/2着となる。商品Aの相対的価値、すなわち、その商品Bに表現された価値は、このようにして、商品Bの価値を同一としても、商品Aの価値に正比例して上騰したり、低下したりするのである。

 (19) 「価植」(„Wert“)という表現は、ここでは、すでに以前に時々あちこちでやったたように、量的に規定された価値、すなわち、価値の大いさという意味に用いられている。


4.  Ⅱ 亜麻布の価値は不変であって、上衣価値が変化するばあい。この事情のもとでは上衣の生産に必要な労働時間が、例えば羊毛剪截〔せんせつ:はさみで断ち切ること〕が不便とたったために、2倍となったとすれば、われわれは亜麻布20エレ=上衣1着という式のかわりに、いまでは亜麻布20エレ=上衣1/2着という式を得る。これに反して、上衣の価値が半分に低下したとすれば、亜麻布20エレ=上衣2着という式を得ることになる。したがって商品Aの価値を不変としても、商品Bで表現されるその相対的価値は、Bの価値変化と反比例で、低下したり上騰したりするのである。

5.  I および Ⅱの項における各種のばあいを比較すると、次のような結果が生ずる。すなわち、相対的価値の同一なる量的変化が、全く相反した原因から発生しうるということである。このようにして、亜麻布20エレ=上衣1着という式から、(1)、亜麻布20エレ=上衣2着という方程式が出てくる。それは亜麻布の価値が2倍となったのか、または、上衣の価値が半ばに低下したのかによるのである。さらに、(2)、亜麻布20エレ=上衣1/2着という方程式も出てくる。それは亜麻布の価値が半分に低下したのか、または上衣の価値が2倍にのぼったからである。


6.  Ⅲ 亜麻布と上衣の生産に必要な労働量は、同時に同一方向に同一割合で変化することもある。このばあいには、その価値がどんなに変化しても、依然として亜麻布20エレ=上衣1着である。この価値変化を発見するには、これらの二つの商品を、価値不変なる第三の商品と比較しさえすればよいのである。一切の商品の価値が、同時に同一割合で上騰または低下するならば、その相対的価値は不変にとどまるであろう。こんどは、この実際の価値変化は、同一労働時間に、以前より大きな商品量か、小さな商品量かが、同じように供給されるということから明らかとなるであろう。


7.  Ⅳ 亜麻布と上衣の生産にそれぞれ必要な労働時間、したがって、それらの価値は、同時に同一の方向に変化するとしても、ちがった程度に変化するばあい、または反対の方向に変化するばあい等々がある。一商品の相対的価値にたいする、この種のあらゆる可能な組み合わせの影響は、簡単にI、Ⅱ、Ⅲのばあいの応用によって明らかとなる。
 このようにして価値の大いさの現実の変化は、その相対的な表現において、あるいは相対的価値の大いさにおいて、曖昧さを残さず反映されるわけでも、剰(あま)すところなく反映されるわけでもない。一商品の相対的価値は、その価値が不変であっても変化しうる。その相対的価値は、その価値が変化しても、不変でありうる。そして最後に、その価値の大いさとその価値の大いさの相対的表現とにおける同時的変化は、決して相互に一致するわけのものではないのである(20)。

 (20) 第2版への注。価値の大いさとその相対的表現との間のこの不一致は、俗学的経済学によってもちまえの鋭敏さで、利用しつくされている。例えば、「かりに、Aが低落するのは、その間にAにたいして支出される労働は減少しないとしても、その交換されるBが上騰するからであるということを承認するとしたらどうか。そうなったら、諸君の一般的な価値原理は崩壊するであろう。……もし、Aの価値は相対的にBにたいして上騰し、Bの価値は相対的にAにたいして低下するということを承認するならば、リカードが、一商品の価値はつねにこれに体現されている労働の量によって規定されるという、彼の大命題を樹立した基礎は、ゆらぐ。なぜかというに、もしAの費用における変化が、それが交換されるBにたいする比率において、それ自身の価値を変化させるだけでなく、Bの生産に要する労働量においてなんらの変化が起こらなかったにもかかわらず、相対的にAの価値にたいするBの価値をも変化させるとする力らば、一商品にたいして支出される労働量が、その価値を規制するということを主張する教義は、崩壊するだけでなく、一商品の生産費がその価値を規制するという教義も、亡びることになるからである」(J・ブロードハースト『経済学にかんする論策』ロンドン、1842年、11・14ページ)。
  ブロードハースト氏は、これと同じように、こうも言うことができたのだ。こころみに10/20、10/50、10/100等々という数的比率を考えて見るといい。10なる数に変わりはない。だがしかし、その比、その分母たる20,50,100にたいする相対的な大いさは、不断に減少している。だから、10というような整数の大いさが、例えば、これに含まれている1の倍数によって「規制」されるという大原理は、崩壊してしまう、と。

・・・以上、「b 相対的価値形態の量的規定性」 終わり・・・
『資本論』B_1拡大された相対的価値形態
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『資本論』第1章 商品 第3節 価値形態または交換価値 

 B 総体的または拡大せる価値形態

 z量商品A= u量商品B または v量商品C または = w量商品D または = x量商品E または =その他
(亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =コーヒー40ポンド または =小麦1クウォーター または =金2オンス または =鉄1/2トン または =その他 )

 1 拡大された相対的価値形態


1. 一商品、例えば、亜麻布の価値は、いまでは商品世界の無数の他の成素に表現される。すべての他の商品体は亜麻布価値の反射鏡となる(23)。こうしてこの価値自身は、はじめて真実に無差別な人間労働の凝結物として現われる。なぜかというに、価値を形成する労働は、いまや明瞭に、一切の他の人間労働がそれに等しいと置かれる労働として、表わされており、その労働がどんな自然形態をもっていようと、したがって、それが上衣に対象化せられようと、小麦や鉄または金等々に対象化せられようと、これを問わないからである。したがって、いまや亜麻布は、その価値形態によって、もはやただ一つの個々の他の商品種と社会関係にあるだけでなく、商品世界と社会関係に立っているのである。それは、商品としてこの世界の市民なのである。同時に、この市民たる表現の無限の序列の中にあるから、商品価値は、使用価値が、どんな形態であろうと、その特別の形態にたいして、無関心であることにもなるわけである。

(23) それゆえに、人は亜麻布の価値が上衣で示されるばあいには、亜麻布の上衣価値について語り、これを穀物で示すばあいには、その穀物価値について語ることになる、等々。上衣、穀物等々の使用価値に現われるのが、亜麻布の価値であるということを、すべてこのような表現は言っていることになる。「あらゆる商品の価値は、〔なんらか他の商品との〕交換におけるその比率を示すのであるから、われわれは価値について、その商品が比較される商品にしたがって、それぞれ穀物価値、布価値……という風に語ることができるわけである。したがってまた、それぞれちがった数千の価値種があり、商品のあるかぎり、これと同じ数の価値がある。そしてすべての価値が、同じように真実であり、また同じように名目的である」(『価値の性質、尺 度および原因にかんする批判的一論考、主としてリカード氏とその追随者たちの著作に関連して』『所信の形成と公表にかんする諸論』の著者による。ロンドン、1825年、39ページ〔邦訳、鈴木鴻一郎訳『リカアド価値論の批判』日本評論社、世界古典文庫、54ページ〕)。S・ベイリーが、当時イギリスで大さわぎをひき起こしたこの匿名の著作の著者であるが、彼は、このように同一商品価値の相対的表現の乱雑さを指摘することによって、価値の一切の概念規定を破壊したと妄信している。だが、彼自身の偏狭固陋にもかかわらず、リカードの理論の痛い所を探り当てていたということを、リカード学派の彼を攻撃した激昂が証明した。例えば『ウェストミンスター・レヴュー』所載。

2. 亜麻布20エレ=上衣1着 という第1の形態においては、これら二つの商品が、一定の交換比率で交換されるということは、偶然の事実であるかもしれない。これに反して、第二の形態では直ちに、偶然の現象と本質的に区別され、かつこれを規定する背景が、露われている。亜麻布の価値は、上衣で示されようと、コーヒーや鉄等々で示されようと、種々雑多な所有者に属する無数にちがった商品で示されようと、同じ大いさである。二人の個人的な商品所有者の偶然的な関係はなくなってしまう。交換が商品の価値の大いさを規制するのでなく、逆に商品の価値の大いさが、その交換比率を規制するのであるということは、明瞭となっている。

 2 特別な等価形態

 上衣、茶、小麦、鉄等々というような商品は、それぞれ亜麻布の価値表現においては、等価として、したがってまた価値体として働いている。これらの商品のおのおのの特定なる自然形態は、いまでは多くの他の商品とならんで、一つの特別な等価形態である。同じように、各種の商品体に含まれている特定の具体的な有用な多種多様の労働種は、いまではそれと同じ数だけ、無差別の人間労働を、特別な実現形態または現象形態で示すことになっている。

 3 総体的または拡大された価値形態の欠陥

1. 第一に、商品の相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示序列がいつになっても終わらないからである。一つの価値方程式が、他のそれを、それからそれとつないでいく連鎖は、引きつづいてつねに、新しい価値表現の材料を与えるあらゆる新たに現われる商品種によって引き延ばされる。第二に、それは崩壊しがちな雑多な種類の価値表現の色とりどりの寄木細工をなしている。最後に、あらゆる商品の相対的価値は、この拡大された形態で表現されざるをえないのであるが、そうなると、あらゆる商品の相対的価値形態は、すべての他の商品の相対的価値形態とちがった無限の価値表現の序列である。―拡大された相対的価値形態の欠陥は、これに相応する等価形態に反映する。すべての個々の商品種の自然形態は、ここでは無数の他の特別な等価形態とならんで、一つの特別な等価形態であるのであるから、一般にただ制限された等価形態があるだけであって、その中のおのおのは他を排除するのである。これと同じように、すべての特別な商品等価に含まれている特定の具体的な有用労働種は、ただ人間労働の特別な、したがって十全でない現象形態である。人間労働は、その完全な、または総体的な現象形態を、かの特別な現象形態の総体的広がりの中にもってはいるか、なんら統一的の現象形態をもたない。
2. だが、拡大された相対的価値形態は、ただ単純な相対的価値表現、または第一形態の諸方程式の総和から成っているだけである。例えば
    亜麻布20エレ=上衣1着
    亜麻布20エレ=茶10ポンド 等々
3. これらの諸方程式のおのおのは、だが、両項を逆にしても同じ方程式である、
    上衣1着=亜麻布20エレ
    茶10ポンド=亜麻布20エレ 等々
4. 実際上、一人の男がその亜麻布を多くの他の商品と交換し、したがってその価値を、一連の他の商品の中に表現するとすれば、必然的に多くの他の商品所有者もまた、その商品を亜麻布と交換し、したがって、彼らの種々の商品の価値を同一の第三の商品、すなわち、亜麻布で表現しなければならぬ。―かくて、もしわれわれが、亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =その他 というような序列を逆にするならば、すなわち、われわれが、実際にはすでに序列の中に合まれていた逆関係を表現するならば、次のようになる。

 〔 以下、「 C 一般的価値形態 」につづく 〕

  
C 一般的価値形態


 Ⅲ. 第3形態 C 一般的価値形態
  


  上着1着 =    
 茶10ポンド =
 コーヒー40ポンド  =
 小麦1クォーター =  亜麻布20エレ
 金2オンス =
 鉄1/2トン =
 A商品x量 =
 その他の商品量 =

 1 価値形態の変化した性格  Veränderter Charakter der Wertform

 諸商品は、その価値をいまでは第一に、唯一の商品で示しているのであるから、単純に表わしていることになる。また第二に、同一商品によって示しているのであるから、統一的に表わしていることになる。それら商品の価慎形態は、単純で共同的であり、したがって一般的である。
 第一および第二の形態は、二つとも、一商品の価値を、その商品自身の使用価値、またはその商品体から区別したあるものとして表現するために、生じたものにすぎなかった。


 第一の形態は、上衣1着 = 亜麻布20エレ、茶10ポンド = 鉄1/2トン 等々というような価値方程式を作り出した。上衣価値は亜麻布に等しいものとして、茶価値は鉄に等しいものとして、というようなふうに表現される。しかしながら、亜麻布に等しいものと鉄に等しいもの、このような上衣および茶の価値表現は、亜麻布と鉄とがちがっているのと同じようにちがっている。この形態が明瞭に実際に現われるのは、ただ、労働生産物が、偶然的な、そして時折の交換によって商品に転化されるような、そもそもの端緒においてである。
 第二の形態は、第一のそれより完全に、商品の価値を、それ自身の使用価値から区別する。なぜかというに、例えば上衣の価値は、ここではその自然形態に、あらゆる可能な形態で、例えば亜麻布に等しいものとして、鉄に等しいもの、茶に等しいもの等として、すなわちただ上衣に等しいものでないだけで他の一切のものに等しいものとして、相対するからである。他方において、ここには商品のあらゆる共通な価値表現は、ただちにできなくされている。なぜかというに、ここでは一商品ごとに価値表現を行なって、すべての他の商品は、ただ等価の形態で現われるにすぎないからである。ある労働生産物、例えば家畜がもはや例外的にでなく、すでに習慣的に各種の他の商品と交換されるようになると、まず拡大された価値形態が、事実上出現するのである。


 新たに得られた形態は、商品世界の諸価値を、同一なる、この世界から分離された商品種で表現する、例えば亜麻布で、そしてすべての商品の価値を、かくて、その亜麻布と等しいということで示すのである。亜麻布に等しいものとして、あらゆる商品の価値は、いまやただそれ自身の使用価値から区別されるだけでなく、一切の使用価値から区別されるのである。そしてまさにこのことによって、この商品とあらゆる商品とに共通なるものとして表現される。したがって、この形態にいたって初めて現実に、商品を価値として相互に相関係させ、またはこれらを相互に交換価値として現われさせるようになる。


 先の二つの形態は、商品の価値を唯一の異種の商品をもってするばあいと、この商品と異なる多くの商品の序列をもってするばあいとの違いはあるが、いずれにしても一商品ごとに表現するのである。両場合ともに、価値形態を与えられるのは、個々の商品のいわば私事である。そして個々の商品は他の商品の協力なしに、このことをなすのである。他の諸商品は、先の一商品にたいして等価形態という単なる受動的の役割を演ずるのである。これに反して一般的価値形態は、商品世界の共通の仕事としてのみ成立するのである。一商品が一般的価値表現を得るのは、ただ、同時に他のすべての商品がその価値を同一等価で表現するからである。そして新たに現われるあらゆる商品種は、これを真似なければならない。このことによって、こういうことがはっきりとしてくる、すなわち、諸商品の価値対象性も、それがこれら諸物の単なる「社会的存在」であるのであるから、その全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって、その価値形態は、社会的に妥当する形態でなければならないということである。


 亜麻布に等しいものの形態において、いまではあらゆる商品が、ただに質的に等しいもの、すなわち価値一般としてだけでなく、同時に量的に比較しうる価値の大いさとしても現われる。すべての商品が、その価慎の大いさを同一材料で、亜麻布で写し出すのであるから、これらの価値の大いさは、交互に反映し合うのである。例えば 茶10ポンド = 亜麻布20エレ、さらに コーヒー40ポンド = 亜麻布20エレ. したがって、茶10ポンド = コーヒー40ポンド というようにである。あるいは1ポンドのコーヒーには、ただ1ポンドの茶におけるものの4分の1だけの価値実体、すなわち、労働が含まれているというようにである。


 商品世界の一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価商品である亜麻布に、一般的等価の性質をおしつける。亜麻布自身の自然形態は、この世界の共通な価値態容であり、したがって、亜麻布は他のすべての商品と直接に交換可能である。この物体形態は、一切の人間労働の眼に見える化身として、一般的な社会的な蛹化(ようか)としてのはたらきをなす。機織という亜麻布を生産する私的労働は、同時に一般的に社会的な形態、すなわち、他のすべての労働との等一性の形態にあるのである。一般的価値形態を成立させる無数の方程式は、順次に亜麻布に実現されている労働を、他の商品に含まれているあらゆる労働に等しいと置く。そしてこのことによって、機織を人間労働そのものの一般的な現象形態にするのである。このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用なる属性とから抽象された労働として、たんに否定的に表示されるだけではない。それ自身の肯定的性質が明白に現われるのである。それは、すべての現実的労働を、これに共通なる人間労働の性質に、人間労働力の支出に、約元したものなのである。
 労働生産物を、無差別な人間労働のたんなる凝結物として表示する一般的価値形態は、それ自身の組立てによって、それが商品世界の社会的表現であるということを示すのである。このようにして、一般的価値形態は、この世界の内部で労働の一般的に人間的な性格が、その特殊的に社会的な性格を形成しているのを啓示するのである。


  ・・・以上、「1 価値形態の変化した性格」 終わり・・・
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『資本論』 第1章 第3節 価値形態または交換価値


  C 一般的価値形態 

  2 相対的価値形態と等価形態の発展関係


1. 相対的価値形態の発展程度に、等価形態の発展程度が応ずる。しかしながら、そしてこのことはよく銘記されなければならぬのであるが、等価形態の発展は相対的価値形態の発展の表現であり、結果であるにすぎない。

2. ある商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的な等価にする。相対的価値の拡大された形態、一商品の価値の他のすべての商品におけるこのような表現は、これらの商品に各種の特別な等価の形態を刻印する。最後に、ある特別な商品種が一般的等価形態を得る。というのは、他のすべての商品が、これを自分たちの統一的一般的な価値形態の材料にするからである。

3. しかしながら、価値形態一般が発展すると同じ程度で、その二つの極たる相対的価値形態と等価形態の間の対立もまた発展する。

4. すでに第一の形態―亜麻布20エレ=上衣1着―がこの対立を含んでいる。しかしまだ固定してはいない。同じ方程式が順に読まれるか、逆に読まれるかにしたがって、亜麻布と上衣というような両商品極のおのおのが、同じように、あるときは相対的価値形態に、あるときは等価形態にあるのである。このばあいにおいては、なお両極的対立を固着せしめるのに骨が折れる。

5. 第二の形態では、依然としてまだ各商品種ごとに、その相対的価値を全体として拡大しうるのみである。言葉をかえていえば、各商品種自身は、すべての他の商品がこれにたいして等価形態にあるから、そしてそのかぎりにおいて、拡大せる相対的価値形態をもっているにすぎないのである。このばあいにおいては、もはや価値方程式―亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =小麦1クォーター等々―の両項を移し換えると、その総性格を変更し、これを総体的価値形態から一般的価値形態に転換させてしまうほかはないことになる。

6. 最後の形態である第三形態は、ついに商品世界にたいして一般的社会的な相対的価値形態を与える、それは、唯一の例外を除いて、この世界に属するすべての商品が一般的等価形態から排除されるからであり、またそのかぎりにおいてである。ある商品、すなわち亜麻布は、したがって、他のすべての商品と直接的な交換可能性の形態に、あるいは直接的に社会的な形態にある。というのは、他の一切の商品がこの形態をとっていないからであり、また、そのかぎりにおいてである(24)。

 (24) 人は、一般的な直接的な交換可能性の形態について、その形態が対立的な商品形態であって、直接的な交換可能性でない形態から、一つの電極
の陽性が他の極の陰性にたいすると同じように、分離しえないものであることを、事実上すこしも見ようとしない。したがって、すべての商品に、同時に直接的交換可能性の刻印を押しつけることができるという風に、妄想を描いているようである。ちょうどあらゆるカトリック信者を、教皇にすることができると思いこんでいる人があるように。商品生産に人間の自由と個人の独立の nec plus ultra (絶頂)を見る小市民にとっては、この形態に結びつけられている不都合を、ことに商品の直接に交換可能でないということを、除くことは、むろんきわめて願わしいことであろう。この俗人的空想境の色どりを示しているのは、プルードンの社会主義である。それは、私が他の所で示したように、独創という功績すらもっていないのであって、彼よりずっと以前にグレーやブレーその他の人々によって、はるかにうまく展開されたのである。このことは、このようなこざかしさが、今日ある仲間で「科学」の名で流行するというようなことをさまたげないのである。プルードン学派ほどに、「科学」という言葉を乱用した学派はかつてなかった。なぜかというに、 「ちょうど概念のない所へ詞(ことば)が猶予なく差し出ているものだ」〔ゲーテ『ファウスト』第1部、1995、森林太郎訳による〕から。



7. 逆に、一般的等価という役割を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態から排除される。亜麻布が、すなわち、一般的等価形態にあるなんらかのある商品が、同時に一般的相対的価値形態にもなるとすれば、その商品は、自分自身にたいして等価としてつかえるということにならなければなるまい。そうすると、われわれは、亜麻布20エレ=亜麻布20エレという式を得ることになる。これは内容のない繰り返しであって、そこには価値も価値の大いさも表現されてはいない。一般的等価の相対的価値を表現するためには、われわれはむしろ第三形態を引っくり返さなければならない。一般的等価は、他の商品と共同の相対的価値形態をもってはいないのであって、その価値は、すべての他の商品体の無限の序列の中に相対的に表現されるのである。このようにして、いまでは拡大せる相対的の価値形態または第二形態は、等価商品の特殊的な相対的価値形態として現われる。

 ・・・以上、 2 相対的価値形態と等価形態の発展関係 終わり・・・


 C 一般的価値形態

 3 一般的価値形態から貨幣形態への移行


 D 貨幣形態


  第4節 商品の物神的性格とその秘密


 第4節 商品の物神的性格とその秘密 
   Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis

 〔■第4節 目次〕
 1. 感覚的にして超感覚的な物
 2. お互いの労働は社会的の形態を得る
 3. 謎にみちた性質はこの形態から
 4. 商品形態の神秘・・・物神的性格・・・
 5. 私的労働の複合が社会的総労働
 6. 私的労働の二重の社会的性格
 7. 労働生産物の価値発見は人類史上の画期・・・新約聖書「ヨハネの黙示録」
 8. 彼等の社会的運動は物の運動形態をとる
 9. 価値性格の確定は貨幣表現から
 10. 商品世界の神秘


  第4節 商品の物神的性格とその秘密
 
                                     
   〔 感覚的にして超感覚的な物 〕

1. 一つの商品は、見たばかりでは自明的な平凡な物であるように見える。
これを分析して見ると、商品はきわめて気むずかしい物であって、形而上学的小理屈(けいじじょうがくてきこりくつ)と神学的偏屈(へんくつ)にみちたものであることがわかる。商品を使用価値として見るかぎり、私がこれをいま、商品はその属性によって人間の欲望を充足させるとか、あるいはこの属性は人間労働の生産物として得るものであるとかいうような観点のもとに考察しても、これに少しの神秘的なところもない。人間がその活動によって自然素材の形態を、彼に有用な仕方で変えるということは、真昼のように明らかなことである。例えば材木の形態は、もしこれで一脚の机を作るならば、変化する。それにもかかわらず、机が木であり、普通の感覚的な物であることに変わりない。しかしながら、机が商品として現われるとなると、感覚的にして超感覚的な物に転化する。机はもはやその脚で床(ゆか)の上に立つのみでなく、他のすべての商品にたいして頭で立つ。そしてその木頭から、狂想を展開する、それは机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議なものである(注1)。

    (注1)シナと机とは、他のすべての世界が静止しているように見えたときに踊りはじめた(他の人々を元気づけるために)、ということが想い起こされる。


  〔 お互いの労働は社会的の形態を得る 〕

2. だから、商品の神秘的性質はその使用価値から出てくるものではない。それは、同じように価値規定の内容から出てくるものでもない。なぜかというに、第一に、有用な労働または生産的な活動がどんなにいろいろあるにしても、これが人間有機体の機能であり、かかる機能のおのおのが、その内容その形態の如何にかかわらず、本質的に人間の脳髄と神経と筋肉と感覚器官等の支出であるということは、生理学的真理であるからである。第二に、価値の大いさの規定の基礎にあるものは、すなわち、それらの支出の継続時間、または労働の量であるが、この量は、労働の質から粉(まご)うかたなく区別できるといってよい。どんな状態においても、生活手段の生産に用いられる労働時間は、発展段階のことなるにしたがって均等であるとはいえないが、人間の関心をもたざるをえないものである(注2)。 最後に、人間がなんらかの仕方でお互いのために労働するようになると、その労働は、また社会的の形態をも得るのである。
   
 (注2)第二版への注。古代ゲルマン人においては、一モルゲンの土地の大いさは、一日の労働にしたがって はかられた。したがって、一モルゲンは(日仕事)(男仕事)(男力)(男草地)(男刈地)等々と呼ばれた。ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・マウレル『マルク・農園・村落および都市諸制度ならびに公権の歴史序説』ミュンヘン、1854年


  〔 謎にみちた性質はこの形態から 〕

3. それで、労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみちた性質はどこから発生するのか?明らかにこの形態自身からである。人間労働の等一性は、労働生産物の同一なる価値対象性の物的形態をとる。人間労働力支出のその継続時間によって示される大小は、労働生産物の価値の大いさの形態をとり、最後に生産者たちの労働のかの社会的諸規定が確認される、彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態をとるのである。


  〔 商品形態の神秘 ・・・物神的性格・・・ 〕

4. それゆえに、商品形態の神秘に充ちたものは、単純に次のことの中にあるのである。すなわち、商品形態は、人間にたいして彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として、反映するということ、したがってまた、総労働にたいする生産者の社会的関係をも、彼らのほかに存する対象の社会的関係として、反映するということである。このquid proquo(とりちがえ)によって、労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的な物となるのである。このようにして、ある物の視神経にたいする光印象は、視神経自身の主観的刺激としてでなく、眼の外にある物の対象的形態として示される。しかしながら、視るということにおいては、実際に光がある物から、すなわち外的対象から、他のある物、すなわち眼にたいして投ぜられる。それは物理的な物の間における物理的な関係である。これに反して、商品形態とそれが表われる労働諸生産物の価値関係とは、それらの物理的性質やこれから発出する物的関係をもっては、絶対にどうすることも出来ないものである。このばあい、人間にたいして物の関係の幻影的形態をとるのは、人間自身の特定の社会関係であるにすぎない。したがって、類似性を見出すためには、われわれは宗教的世界の夢幻境にのがれなければならない。ここでは人間の頭脳の諸生産物が、それ自身の生命を与えられて、相互の間でまた人間との間で相関係する独立の姿に見えるのである。商品世界においても、人間の手の生産物がそのとおりに見えるのである。私は、これを物神礼拝 Fetischismus と名づける。それは、労働生産物が商品として生産されるようになるとただちに、労働生産物に付着するものであって、したがって、商品生産から分離しえないものである。


 〔 商品世界の物神的性格・・・労働の独特な社会的性格・・・〕

5. 商品世界のこの物神的性格は、先に述べた分析がすでに示したように〔*注1〕、商品を生産する労働の独特な社会的性格から生ずるのである。


   〔 私的労働の複合が社会的総労働の形成 〕

6. 使用対象が一般に商品となるのは、もっぱらそれが相互に相独立して営まれる私的労働の生産物であるからである。これらの私的労働の複合が社会的総労働をなす。生産者たちは、彼らの労働生産物の交換によって、はじめて社会的接触にはいるのであるから、彼らの私的労働の特殊的に社会的なる性格も、この交換の内部においてはじめて現われる。いい換えると、私的労働は、事実上、交換のために労働生産物が、そしてこれを通じて生産者たちが置かれる諸関係によって、はじめて社会的総労働の構成分子たることを実証する。したがって、生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的連結は、あるがままのものとして現われる。
すなわち、彼らの労働自身における人々の直接に社会的な諸関係としてでなく、むしろ人々の物的な諸関係として、また物の社会的な諸関係として現われるのである。


  〔 私的労働の二重の社会的性格 〕

7. 労働生産物はその交換の内部においてはじめて、その感覚的にちがった使用対象性から分離された、社会的に等一なる価値対称性を得るのである。労働生産物の有用物と価値物とへのこのような分裂は、交換がすでに充分な広さと重要さを得、それによって有用物が交換のために生産され、したがって事物の価値性格が、すでにその生産そのもののうちで考察されるようになるまでは、まだ実際に存在を目だたせるようにはならない。この瞬間から、生産者たちの私的労働は、事実上、二重の社会的性格を得るのである。これらの私的労働は、一方においては特定の有用労働として一定の社会的欲望を充足させ、そしてこのようにして総労働の、すなわち、社会的分業の自然発生的体制の構成分子であることを証明しなければならぬ。これらの私的労働は、他方において、生産者たち自身の多様な欲望を、すべてのそれぞれ特別に有用な私的労働がすべての他の有用な私的労働種と交換されうるかぎりにおいて、したがって、これと等一なるものとなるかぎりにおいてのみ、充足するのである。(全く)ちがった労働が等しくなるということは、それが現実に不等一であることから抽象されるばあいにのみ、それらの労働が、人間労働力の支出として、抽象的に人間的な労働としてもっている共通な性格に約元されることによってのみ、ありうるのである。
私的生産者の脳髄は、彼らの私的労働のこの二重な社会的性格を、ただ実際の交易の上で、生産物交換の中で現われる形態で、反映するのである。すなわち――したがって、彼らの私的労働の社会的に有用なる性格を、労働生産物が有用でなければならず、しかも他人にたいしてそうでなければならぬという形態で――異種の労働の等一性の社会的性格を、これらの物質的にちがった物、すなわち労働生産物の共通な価値性格の形態で、反映するのである。


  〔 労働生産物の価値発見は人類史上の画期をなす 〕

8. したがって、人間がその労働生産物を相互に価値として関係させるのは、これらの事物が、彼らにとって同種的な人間的労働の、単に物的な外被(がいひ)であると考えられるからではない。逆である、彼らは、その各種の生産物を、相互に交換において価値として等しいと置くことによって、そのちがった労働を、相互に人間労働として等しいと置くのである。彼らはこのことを知らない。しかし、彼らはこれをなすのである。したがって、価値のひたいの上には、それが何であるかということは書かれていない。〔→新約聖書「ヨハネの黙示録」〕 価値は、むしろあらゆる労働生産物を、社会的の象形文字(しょうけいもじ)に転化するのである。後になって、人間は、彼ら自身の社会的生産物の秘密を探(さぐ)るために、この象形文字の意味を解こうと試みる。なぜかというに、使用対象の価値としての規定は、言語と同様に彼らの社会的な生産物であるからである。労働生産物が、価値である限り、その生産に支出された人間労働の、単に物的な表現であるという、後の科学的発見は、人類の発展史上に時期を画するものである。しかし、決して労働の社会的性格の対象的外観を逐(お)い払うものではない。この特別なる生産形態、すなわち、商品生産にたいしてのみ行なわれているもの、すなわち、相互に独立せる私的労働の特殊的に社会的な性格が、人間労働としてのその等一性にあり、そして労働生産物の価値性格の形態をとるということは、かの発見以前においても以後においても、商品生産の諸関係の中に囚(とら)われているものにとっては、あたかも空気をその成素に科学的に分解するということが、物理学的物体形態としての空気形態を存続せしめるのを妨げぬと同じように、終局的なものに見えるのである。


   〔 物の運動の形態をとりその運動に規制される 〕

9. 生産物交換者がまず初めに実際上関心をよせるものは、自分の生産物にたいしてどれだけ他人の生産物を得るか、したがって、生産物はいかなる割合で交換されるかという問題である。このような割合は、ある程度習慣的な固定性をもつまでに成熟すると同時に、労働生産物の性質から生ずるように見える。したがって、例えば1トンの鉄と2オンスの金とは、1ポンドの金と1ポンドの鉄が、その物理学的化学的属性を異にするにかかわらず同じ重さであるように、同じ価値であることになる。事実、労働生産物の価値性格は、価値の大いさとしてのその働きによってはじめて固定する。この価値の大いさは、つねに交換者の意志、予見、行為から独立して変化する。彼ら自身の社会的運動は、彼らにとっては、物の運動の形態をとり、交換者はこの運動を規制するのではなくして、その運動に規制される。相互に独立して営まれるが、社会的分業の自然発生的構成分子として、あらゆる面において相互に依存している私的労働が、継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは、私的労働の生産物の偶然的で、つねに動揺せる交換諸関係において、その生産に社会的に必要なる労働時間が、規制的な自然法則として強力的に貫かれること、あたかも家が人の頭上に崩れかかるばあいにおける重力の法則のようなものであるからであるが(注3)、このことを、経験そのものの中から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには、その前に完全に発達した商品生産が必要とされるのである。
労働時間によって価値の大いさが規定されるということは、したがって、相対的商品価値の現象的運動のもとにかくされた秘密である。その発見は、労働生産物の価値の大いさが、単なる偶然的な規定であるという外観をのぞくが、しかし、少しもその事物的な形態をなくするものではない。

    (注3)「周期的な革命によってのみ貫徹されうる法則を何と考えるべきであろうか?それはまさしく一つの自然法則であって、関与者たちの無意識にもとづいているものなのである」 (フリードリヒ・エンゲルス 『国民経済学批判大綱』、『独仏年誌(アーノルト・ルーゲおよびカール・マルクス編、パリ、1844年)


   〔 価値性格の確定は、貨幣表現から 〕

10. 人間生活の諸形態に関する思索、したがってまたその科学的分析は、一般に現実の発展とは対立した途を進む。このような思索は、(後から)始まり、したがって、発展過程の完成した成果とともに始まる。労働生産物に商品の刻印を捺(お)し、したがって、商品流通の前提となっている形態が、すでに社会生活の自然形態の固定性をもつようになってはじめて、人間は、彼らがむしろすでに不変であると考えている、このような諸形態の歴史的性質についてでなく、それらの形態の内包しているものについて、考察をめぐらすようになる。このようにして、価値の大いさの規定に導いたのは、商品価格の分析にほかならず、その価値性格の確定に導いたのは、商品が共同してなす貨幣表現にほかならなかったのである。ところが、私的労働の社会的性格を、したがって、私的労働者の社会的諸関係を明白にするかわりに、実際上蔽いかぶせてしまうのも、まさに商品世界のこの完成した形態――貨幣形態――である。私が、上衣、深靴等々は、抽象的人間的労働の一般的体現としての亜麻布に関係しているというとすれば、この表現の倒錯(とうさく)は、目を射るように明らかである。しかし、もし上衣や深靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的等価としての亜麻布に――あるいは事実上すこしもことなるところはないのだが、金や銀に―関係せしめるとすれば、彼らにとっては、その私的労働の社会的総労働にたいする関係は、正確にこの倒錯した形態で現われる。

   〔 商品世界の一切の神秘、一切の魔術と妖怪は、他の諸生産形態に移って見ると消えてなくなる 〕

11. このような形態が、まさにブルジョア的経済学の諸範疇(しょはんちゅう)をなしているのである。それは、この歴史的に規定された社会的生産様式の、すなわち、商品生産の生産諸関係にたいして、社会的に妥当した、したがって客観的である思惟形態なのである。それゆえに、商品生産にもとづく労働生産物を、はっきり見えないようしている商品世界の一切の神秘、一切の魔術と妖怪は、われわれが身をさけて、他の諸生産形態に移って見ると消えてなくなる。


12 経済学はロビンソン物語を愛好するから、まず、ロビンソンをかれの島に出現させよう。本来彼は控え目な男ではあったが、それでもとにかく彼は、各種の欲望を充足せしめなければならない。したがってまた、各種の有用労働をなさなければならない。道具を作り、家具を製造し、ラクバを馴らし、漁りし、猟をしなければならない。祈禱その他のことはここでは語らない。というのは、われわれのロビンソンは、このことに楽しみを見出し、このような活動を休息と考えているからである。彼の生産的な仕事がいろいろとあるにもかかわらず、彼は、それらの仕事が同じロビンソンのちがった活動形態にすぎないことを知っている。したがって、人間労働のちがった仕方であるにすぎないことを知っている。必要そのものが、彼の時間を、正確にそのちがった仕事の間に分配しなければならないようにする。
彼の総活動の中で、どの仕事が割合をより多く、どのそれがより少なく占めるかということは、目的とした有用効果の達成のために克服しなければならぬ困難の大小にかかっている。経験が彼にこのことを教える。そして、時計、台帳、インクおよびペンを難破船から救い出したわがロビンソンは、よきイギリス人として、まもなく自分自身について記帳しはじめる。彼の財産目録は、彼がもっている使用対象、彼の生産に必要な各種の作業、最後に、これら各種の生産物の一定量が、平均して彼に支出させる労働時間の明細表を含んでいる。ロビンソンと彼の自分で作り出した富をなしている物との間の一切の関係は、ここではきわめて単純であり、明白であって、M・ヴィルト氏すら、特別に精神を緊張させることなくとも、これを理解できるようである。そしてそれにもかかわらず、この中には価値の一切の本質的な規定が含まれている。

 (注29) 第2版への注。リカードにも彼のロビンソン物語がないわけではない。「彼は原始漁夫と原始猟師を、ただちに商品所有者にして魚と野獣とを交換させる、これらの交換価値に対象化されている労働時間に比例して。このおり、彼は、原始漁夫と原始猟師とが、彼らの労働要具の計算のために、1817年ロンドンの取引所で行なわれるような減価計算表を利用するという、時代錯誤に陥っている。″オーウェン氏の平行四辺形″は、彼がブルジョア的社会形態以外に識っている唯一の社会形態であるように見える」(カール・マルクス『批判』38.39ページ〔岩波文庫版、69.70ページ。新潮社版『選集』第7巻、86.87ページ〕)。

14 いまわれわれは、ロビンソンの明るい島から陰惨なヨーロッパの中世に移ろう。ここでは独立人のかわりに、すべての人が非独立的であるのを見出す―農奴と領主、家臣と封主、俗人と僧侶という風に。人身的な隷属ということが、物質的生産の社会的諸関係にも、その上に築かれている生活部面にも、特徴となっている。しかしながら、与えられた社会的基礎をなしているのは、まさしく人身的隷属関係であるのであるから、労働と生産物とは、その実在性とちがった幻想的な態容ihrer Realität verschiedne phantastische Gestaltをとる必要はない。それらのものは、奉仕として、また現物貢納として、社会の営為の中にはいる。労働の自然形態Die Naturalform der Arbeitと、そして商品生産の基礎におけるようにその一般性Allgemeinheitではなく、その特殊性Besonderheitとが、ここでは労働の直接に社会的な形態unmittelbar gesellschaftliche Formである。径役労働は、商品を生産する労働と同じように時間によってはかられる。だが、各農奴は、彼がその主人の仕事のために支出するのが、彼の個人的労働力の一定量であるということを知っている。

僧侶にたいして納むべき10分の1税は、僧侶の祝福よりずっとはっきりしている。したがって、人々がここで相対して着ている仮装die Charaktermaskenをどう観るにしても、彼らの労働における人々の社会的関係は、いずれにしても彼ら自身の人的の関係persönlichen Verhältnisseとして現われ〔gegenübertreten:向かい合って歩み出る〕、 物の、すなわち、労働生産物の社会的関係に扮装してはいないsind nicht verkleidet in gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen, der Arbeitsprodukte.。

15 共同的な、すなわち直接に社会的となっている労働を考察するために、われわれはその自然発生的な形態、すなわち、すべての文化民族の歴史の入口で、われわれが出会うような形態に帰る必要はない。もっと身近な例をあげると、自家の欲望のために穀物や家畜や撚糸や亜麻布や衣服等を生産している、農家の田園的家父長的な産業がある。これら各種の物は、家族にとって、その家族労働のそれぞれの生産物である。しかしそれがお互いに商品として相対するのではない。これらの生産物を作り出す各種の労働、すなわち、農耕、牧畜、紡績、機織、裁縫等々は、それぞれの自然形態のままで社会的な機能gesellschaftliche Funktionenをなしている。というのは、それらは、商品生産と同じように、それ自身の自然発生的な分業naturwüchsige Teilung der Arbeitをもって行なわれている家族の機能であるからである。性別や年齢別、ならびに季節の変化とともに変化する労働の自然諸条件が、家族間における労働の分配と個々の家族員の労働時間とを規制する。しかしながら、継続時間によって測定される個人的労働力の支出は、ここでは、初めから労働自身の社会的規定として現われる。というのは個人的労働力は、本来家族の共同の労働力の器官としてのみ作用するからである。

 (注30) 第2版への注。
「自然発生的な共有財産制の形態が、特殊的にスラブ人的の形態であるとか、さらには、ロシア以外にはない形態であるなどというような主張は、最近拡がっている笑うべき偏見である。それは、ローマ人、ゲルマン人、ケルト人に立証されうる原始形態であるが、これについては、いろいろな見本でいっぱいの見本帳が、インド人の間に、部分的には崩壊しているが、なお依然として存している。アジア的な、とくにインドの共有財産形態のより正確な研究は、各種の自然発生的共有財産制の形態から、いかにその崩壊の種々の形態が出てくるかということを証明するであろう。こうして例えば、ローマ人やゲルマン人の私有財産制の各種の原型を、インド共有財産制の種々なる形態から導き出すことができるのである」(カール・マルクス『批判』10ページ〔ディーツ版『全集』第13巻、21ページ。邦訳、岩波文庫版、31ページ。新潮社版『選集』第7巻、63ページ〕)。


  〔 社会の生産有機体 〕
16 最後にわれわれは、目先きを変えて、自由な人間の一つの協力体を考えてみよう。人々は、共同の生産手段をもって労働し、彼らの多くの個人的労働力を、意識して一つの社会的労働力として支出する。ロビンソンの労働の一切の規定がここで繰り返される。ただ、個人的であるかわりに社会的であることがちがっている。ロビンソンのすべての生産物は、もっぱら彼の個人的な生産物であった。したがってまた、直接に彼のための使用対象であった。この協力体の総生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部は、再び生産手段として用いられてそれは依然として社会的である。しかしながら、他の部分は生活手段として、協力体の成員によって費消される。したがって、この部分は彼らの間に分配されなければならぬ。この分配の様式は、社会的生産有機体 gesellschaftlichen Produktionsorganismus 自身の特別な様式とともに、またこれに相応する生産者の歴史的発展の高さとともに、変化するであろう。ただ商品生産と比較するために、各生産者の生活手段にたいする分け前は、その労働時間によって規定されると前提する。したがって、労働時間は二重の役割を演ずるであろう。労働時間の社会的に計画的な分配は、各種の労働機能が各種の欲望にたいして正しい比例をとるように規制する。他方において、労働時間は、同時に生産者の共同労働にたいする、したがってまた共同生産物の個人的に費消さるべき部分にたいする、個人的参加分の尺度として役立つ。人々のその労働とその労働生産物とにたいする社会的な連結は、このばあい生産においても分配においても簡単明瞭であることに変わりない。

17 商品生産者の一般的に社会的な生産関係は、彼らの生産物に商品として、したがって価値として相対し、また、この物的な形態の中に、彼らの私的労働が相互に等一の人間労働として相連結するということにあるのであるが、このような商品生産者の社会にとっては、キリスト教が、その抽象的人間の礼拝をもって、とくにそのブルジョア的発展たるプロテスタンティズム、理神論等において、もっとも適応した宗教形態となっている。古代アジア的な、古代的な、等々の生産様式においては、生産物の商品への転化、したがってまた人間の商品生産者としての存在は、一つの副次的な役割を演ずる。だが、この役割は、その共同体が没落の段階にすすむほど、重要となってくる。本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、あるいはポーランド社会の小穴の中のユダヤ人のように、古代世界の合間合間にのみ、存在している。かの古代の社会的生産有機体は、ブルジョア的なそれにくらべると、特別にずっと単純であり明瞭である。しかし、それは個々の人間が、他の人間との自然的な種族結合の臍の緒をまだ切り取っていない、その未成熟にもとづくか、あるいは直接的な支配関係または隷属関係にもとづいているのである。これらの諸関係は、労働の生産諸力の発展段階が低いということ、これに応じて、人間の物質的な生活をつくり出す過程の内部における諸関係、したがって相互間と自然とにたいする諸関係が、狭隘であるということによって、条件づけられている。このような実際の狭隘さは、思想的には古い自然宗教や民族宗教に反映されている。現実世界の宗教的反映は、一般に、実際的な日常勤労生活の諸関係が、人間にたいして、相互間のおよび自然との間の合理的な関係を毎日明瞭に示すようになってはじめて、消滅しうるものである。社会的生活過程、すなわち、物質的生産過程の態容は、それが自由に社会をなしている人間の生産物として、彼らの意識的な計画的な規制のもとに立つようになってはじめて、その神秘的なおおいをぬぎすてるのである。だが、このためには、社会の物質的基礎が、いいかえると一連の物質的存立条件が、必要とされる。これらの諸条件自体は、また永い苦悩にみちた発展史の自然発生的な産物である。


18 さて経済学は不完全ではあるが (注31) 価値と価値の大いさを分析したし、またこれらの形態にかくされている内容を発見したのではあるが、それはまだ一度も、なぜにこの内容が、かの形態をとり、したがって、なぜに労働が価値において、また労働の継続時間による労働の秤量が、労働生産物の価値の大いさの中に、示されるのか?(注32)という疑問をすら提起しなかった。生産過程が人々を支配し、人間はまだ生産過程を支配していない社会形成体に属するということが、その額に書き記されている諸法式は、人問のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと同じように、自明の自然必然性と考えられている。したがって、社会的生産有機体の先ブルジョア的形態は、あたかも先キリスト教的宗教が、教父たちによってなされたと同じ取扱いを、経済学によって受けている(注33)。

 (注31) リカードの価値の大いさの分析
 ―そしてこれは最良のものである―に不十分なところがあることについては、本書の第3および第4巻で述べる。しかしながら、価値そのものについていえば、古典派経済学はいずこにおいても、明白にそして明瞭な意識をもって、価値に示されている労働を、その生産物の使用価値に示されている同じ労働から、区別することをしていない。古典派経済学は、もちろん事実上区別はしている。というのは、それは労働を一方では量的に、他方では質的に考察しているからである。しかしながら、古典派経済学には労働の単に量的な相違が、その質的な同一性または等一性を前提しており、したがって、その抽象的に人間的な労働への整約を前提とするということは、思いもよらぬのである。リカードは、例えば、デステュット・ド・トラシがこう述べるとき、これと同見解であると宣言している、すなわち「われわれの肉体的および精神的の能力のみが、われわれの本源的な富であることは確かであるから、これら能力の使用、すなわち一定種の労働は、われわれの本源的な財宝である。われわれが富と名づけるかの一切の物を作るのが、つねにこの使用なのである。……その上に、労働が作り出したかの一切の物は、労働を表わしているにすぎないことも確かである。そしてもしこれらの物が、一つの価値をもち、あるいは二つの相ことなる価値をすらもっているとすれば、これらの物は、これをただ自分がつくられてくる労働のそれ(価値)から得るほかにありえない」(リカード『経済学および課税の原理』第三版、ロンドン、1821年、〔邦訳、岩波文庫版、下巻、19ページ〕。〔デステュット・ドゥ・トラシ『観念学概要』第四・第五部、パリ、1826年、35・36ページ、参照〕)。われわれはリカードが、デステュットにたいして、彼自身のより深い意味を押しつけていることだけを示唆しておく。デステュットは、事実、一方では富をなす一切の物が「これを作り出した労働を代表する」と言っているが、他方では、それらの物が、その「二つのちがった価値」(使用価値と交換価値)を「労働の価値」から得ると言っている。彼は、これをもって、俗流経済学の浅薄さに堕ちている。俗流経済学は、一商品(この場合労働)の価値を前提して、これによって後で他の商品の価値を規定しようとするのである。リカードは彼をこう読んでいる、すなわち、使用価値においても交換価値においても、労働(労働の価値ではない)が示されていると。しかし彼自身は、同じく二重に表示される労働の二重性を区別していない。したがって、彼は、「価値と富、その属性の相違」という章全体にわたって、苦心してT・J・B・セイ程度の男の通俗性と闘わなければならない。したがって、最後にまた彼は、デステュットが、彼自身と価値源泉としての労働について一致するが、また他方で価値概念についてセイと調和することを、大変に驚いている。

 (注32) 古典派経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが達成されなかったということは、この学派の根本欠陥の一つである。A・スミスやリカードのような、この学派の最良の代表者においてさえ、価値形態は、何か全くどうでもいいものとして、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして取り扱われている。その理由は、価値の大いさの分析が、その注意を吸いつくしているということにだけあるのではない。それはもっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式のもっとも抽象的な、だがまたもっとも一般的な形態であって、この生産様式は、これによって社会的生産の特別なる種として特徴づけられ、したがって同時に歴史的に特徴づけられているのである。したがって、もし人あって、これを社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的に価値形態の、したがってまた商品形態の、さらに発展して、貨幣形態、資本形態等の特殊性をも看過することになる。それゆえに、労働時間による価値の大いさの秤定について全く一致する経済学者に、貨幣、すなわち一般的等価の完成体についての、もっとも混乱した、 そしてもっとも矛盾した観念を見ることになるのである。このことは、はっきりと、例えば銀行制度の取扱いにあらわれる。ここでは、貨幣の陳腐な定義だけでは、もはや間に合わなくたる。反対に、価値を社会的形態とだけ考え、あるいはむしろその実体のない幻影としか見ないような新装の重商主義(ガニール等々)が、ここに発生した。―これを最後にしておくが、私が古典派経済学と考えるものは、W・ペティ以来の一切の経済学であって、それは俗流経済学と反対に、ブルジョア的生産諸関係の内的関連を探究するものである。俗流経済学は、ただ外見的な関連のなかをうろつき廻るだけで、いわばもっとも粗けずりの現象を、尤もらしくわかったような気がするように、またブルジョアの自家用に、科学的な経済学によってとっくに与えられている材料を、絶えず繰りかえして反芻し、しかもその上に、ブルジョア的な生産代理者が、彼ら自身の最良の世界についてもっている平凡でうぬぼれた観念を、体系化し、小理窟づけ、しかもこれを永遠の真理として言言する、ということに限られているのである。

 (注33) 「経済学者たちは一種独特のやり方をするものだ。彼らにとっては、制度に二種類があるだけである。人工的なそれと、自然的なそれである。封建体制の制度は人工的のそれであり、ブルジョアジーの制度は自然的である。彼らはこの点では神学者に似ている。彼らも同じように二種の宗教をたてる。彼らの宗教でない宗政は、すべて人間の作ったものであるが、彼ら自身の宗教は神の啓示である。―かくて、歴史はそのようにつづいたのであるが、もはや歴史は終わった」(カール・マルクス 『哲学の貧困。プルードン氏の″貧困の哲学″に答えて』 1847年、112ページ〔ディーツ版『全集』第4巻、139ページ。邦訳、山村喬訳『哲学の貧困』岩波文庫版、132-133ページ。新潮社版『選集』第3巻、93-94ページ〕)。古代ギリシア人やローマ人が掠奪だけで生きていたと思っているバスティア氏は、まことにおかしい考え方だ。しかし、もし数世紀を通じて掠奪で生きられるとすれば、絶えず何か掠奪さるべきものが、ここになければならない。いいかえれば、掠奪の対象が継続的に再生産されなければならない。したがって、ギリシア人もローマ人も、一つの生産過程をもっていたようである。したがって、ブルジョア経済が今日の世界の物質的基礎をなしているのと全く同じように、彼らの世界の物質的基礎をなしていた経済をもっていたようである。それともバスティアは、奴隷労働にもとづく生産様式が、一つの掠奪体制によるものであるとでも考えているのだろうか? こうなると、彼の立っている土台があぶないことになる。アリストテレスほどの巨人思想家が、奴隷労働の評価において過っているとすれば、バスティアのようなこびと経済学者が、どうして賃金労働の評価において正しいことをいえようか?―私はこの機会を摑んで、私の著書『経済孚批判』(1859年)の刊行に際して、一ドイツ語アメリカ新聞によってなされた抗議を駁しておきたい。この新聞は、こういうのである、私の見解、すなわち、一定の生産様式とこれにつねに相応する生産諸関係、簡単にいえば「社会の経済的構造が、法律的政治的上部構造のよって立ち、かつこれにたいして一定の社会的意識形態が相応する現実的基礎である」ということ、「物質的生活の生産様式が社会的政治的および精神的生活過程一般を条件づける」〔ディーツ版『全集』第13巻、8-9ページ。邦訳、岩波文庫版、13ページ。新潮社
版『選集』第7巻、54ページ〕ということ、―すべてこれらのことは、物質的利益が支配している今日の社会にとっては正しいが、カ
トリック教が支配していた中世にたいしても、政治が支配していたアテネやローマにたいしても、当たらないというのである。まず第一に、おかしなことは、中世と古代世界にかんする、よく人の言うこれらのきまり文句を、誰か知っていない者がいると、前提したがる男がいることである。これだけのことは明らかである。すなわち、中世はカトリック教によって生きていられたわけでなく、古代世界は政治によって生きえたのでもない。彼らがその生活を維持していた仕方が、逆に、なぜ古代に政治が主役をつとめ、なぜ中世にカトリック教が主役であったかを説明するのである。なお、土地所有の歴史が、その秘密を語っているということを知るためには、例えばローマ共和国の歴史にそれほど通暁している必要はない。他方において、すでにドン・キホーテは、遍歴騎士が、社会のどんな経済形態とでも同じように調和するものだ、と妄信していた誤りにたいして、充分につぐないをうけた。


19 一部の経済学者が、どんなに商品世界に付着している物神礼拝、または社会的な労働規定の対象的外観gegenständlichen Scheinによって、謬(あやま)らされたかということを証明するものは、ことに、交換価値の形成における自然の役割についてなされた、退屈で愚劣な争論である。交換価値は、ある物の上に投ぜられた労働を表現する一定の社会的な仕方であるのだから、それはちょうど為替相場と同じように、少しの自然素材Naturstoffも含みえない。

20 商品形態は、ブルジョア的生産のもっとも一般的でもっとも未発達の形態であり、そのために商品形態は今日と同じように支配的で、したがって特徴的な仕方ではないが、すでに早く出現しているのであるから、その物神的性格Fetischcharakterは、比較的にはもっと容易に見破られていいように思われる。より具体的な形態を見ると、この単純さの外観dieser Schein der Einfachheit.すら消える。重金主義(モネタル・ジュステム)の幻想はどこから来たか?重金主義は、金と銀とにたいして、それらのものが貨幣として一つの社会的生産関係を表わしているが、特別の社会的属性をもった自然物の形態で、これをなしているということを見なかった。そして上品に重金主義を見下している近代経済学も、資本を取扱うようになると、物神礼拝Fetischismusにつかれていることが明白にならないか?地代が土地から生じて、社会から生ずるものでないという重農主義的な幻想は、消滅して以来どれだけの歳月を経たか?

21 だが、あまり先まわりしないために、ここではなお商品形態自身について、一例をあげるだけで沢山だろう。もし商品が話すことが出来たら、こういうだろう、われらの使用価値が人間の関心事なのであろう。使用価値は物としてわれらに属するものではない。が、われらに物として与えられているものは、われらの価値である。商品物としてのわれら自身の交易が、このことを証明している。われらはお互いに交換価値としでのみ、関係しているのである。そこでいかに経済学者が商品の心を読みとって語るかを聴け。曰く「価値(交換価値)は物の属性であり、富(使用価値)は人の属性である。この意味で価値は必然的に交換を含んでいるが、富はそうでない(注34)」。「富(使用価値)は人間の特性であるが、価値は商品の特性である。一人の人間または一つの社会は富んでいる。一個の真珠または一個のダイヤモンドには価値がある。……一個の真珠または一個のダイヤモンドは、真珠またはダイヤモンドとして価値をもっている(注35)」。

 (注34) „Value is a property of things, riches of men. Value,in this sense, necessarily implies exchange, riches do not.“ (『経済学におけるある種の言葉の争いについての考察、とくに価値ならびに需要および供給に関連して』ロンドン、1821年、16ページ)

 (注35) „Riches are the attribute of man, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable. ・・・・・ A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond.“ (S・ベイリー『価値の性質、尺度および原因にかんする批判的一論考』165ページ〔邦訳、鈴木鴻一郎訳『リカード価値論の批判』151ページ〕)

22 これまでまだ、一人の化学者として、真珠またはダイヤモンドの中に、交換価値を発見したものはない。しかし、特別の深い批判力をもっているこの化学的実体の経済学的発見者たちは、物財の使用価値が、その物的属性から独立しているのに反して、その価値は、物としての属性に属しているということを発見している。彼らがここで立証することは、物の使用価値は人間にとって交換なしで実現され、したがって、物と人間との間の直接的関係において実現されるのに、逆にそれらの価値は交換においてのみ、すなわち、社会的過程においてのみ実現されるという特別の事態である。誰かここであの愛すべきドッグベリを思い出さないであろうか。彼は夜警人のシーコールにこう教えている、「立派な容貌の男であるのは境遇の賜物だが、読み書きが出来るということは生まれつきだ(注36)」〔シェイクスピア『むだ騒ぎ』。……訳者〕。

 (注36) 『考察』の著者およびS・ベイリーは、リカードを非難して、彼は交換価値を、相対的にすぎないものから、何か絶対的なものに転化したと言っている。逆だ。彼は、これらの物、例えばダイヤモンドと真珠とが交換価値として有する仮装相対性を、この外観の背後にかくれている真の関係に、すなわち、人間労働の単なる表現としてのそれらの物の相対性に、約元したのである。リカード派の人々がベイリーにたいして粗雑に答えて、的確に答えなかったとすれば、これはただ彼らが、リカード自身に、価値と価値形態または交換価値との間の内的関連について、少しも解明を見出さなかったからであるにすぎない。

・・・以上、第4節 終わり・・・

 第2章 交換過程


 第2章 交換過程

1. 商品は、自分自身で市場に行くことができず、また自分自身で交換されることもできない。したがって、われわれはその番人を、すなわち、商品所有者をさがさなければならない。商品は物であって、したがって人間にたいして無抵抗である。もし商品が従順でないようなばあいには、人間は暴力を用いることができる。言葉を換えていえば、これを持って歩くことができる。これらの物を商品として相互に関係せしめるために、商品の番人は、お互いに人として相対しなければならぬ。彼らの意志がそれらの物の中にひそんでいる。したがって、ある一人は、他人の同意をもってのみ、したがって各人は、ただ両者に共通な意志行為によってのみ、自身の商品を譲渡して他人の商品を取得する。したがって、彼らは交互に私有財産所有者として、認め合わなければならぬ。契約という形態をとるこの法関係は、適法的なものとして進行するかどうかは別として、一つの意志関係である。この関係に経済的関係が反映されている。この法関係または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。人々はここではただ相互に商品の代表者として、したがってまた商品所有者として存在している。叙述の進行とともに、われわれは、一般に、人々の経済的仮装は経済的諸関係の人格化にすぎず、この経済的諸関係の担い手として、彼らが相対しているということを見るであろう。

  
 (注37)―略―
 (注38)―略―

2. 商品所有者をとくに商品から区別するものは、商品にとっては、すべての他の商品体が、ただ自分の価値の現象形態と考えられるにすぎないという事情である。だから、生まれつきの平等主義者で皮肉屋である商品は、つねに、他のあらゆる商品と、自分はマリトルネス〔セルヴァンテスの『ドン・キホーテ』に出てくる醜い女中。・・・訳者〕よりもっと醜い様子をしていても、心だけでなく、肉体も換える用意をしている。商品に欠けているこの商品体の具体的なるものにたいする感覚を、商品所有者は、彼自身の五感ないし六感で補うのである。彼の商品は、彼にとってはなんら直接の使用価値ではない。そうでなければ、彼はこれを市場に心ってば行かない。商品は他人にたいする使用価値をもっているのである。彼にとっては、商品は直接には、交換価値の担い手であり、したがって交換手段であるという使用価値をもっているだけである(39)。それゆえに、彼はこれを、その使用価値が彼に満足を与える商品にたいして譲渡しようとする。すべての商品は、その所有者にたいしては非使用価値であり、その非所有者にたいしては使用価値である。商品は、こうして全般的に持ち手を換えなければならない。しかし、この持ち手変更がその交換をなすのである。そしてこの交換が商品を価値として相互に関係させる。さらにこれを価値として実現する。したがって、商品は、それが使用価値として実現されうる前に、価値として実現されなければならない。


(39) 「なぜかというに、すべての財貨の使用は二重であるからである。―その一つは物自体に固有であり、他はそうではない。サンダルのように、はくことに用いられると同時に交換されうるものである。両者ともにサンダルの使用価値である。なぜかというに、サンダルを、自分でもっていないものと、例えば、食物と交換する人でも、サンダルはサンダルとして利用するのであるからである。しかしながら、その自然の使用方法で利用するのではない。なぜかというに、サンダルは、交換のだめにあるのではないからである」(アリストテレス『デ・レプブリカ』第1巻、第9章)。
〔注:この注(39)は、『経済学批判』では第1章最初の第1回の注となっている。『アリストテレス全集』第15巻岩波書店p.23〕

3. 他方において、商品は、それが価値として実現されうる前に、使用価値であることを立証しなければならない。なぜかというに、商品に支出された人間労働は、それが他人にたいして有用な形態で支出されるかぎりでのみ、かかる人間労働の性質を受け取るからである。その労働が他人に有用であるか、したがって、その生産物が他人の欲望を充足させるかどうかは、だが、諸商品が交換されてはじめて証明しうることである。

4. あらゆる商品所有者は、その商品を、ただ彼の欲望を充足させる使用価値をもつ他の商品にたいして譲渡するだけである。そのかぎりにおいて、交換は彼にとって個人的な過程であるにすぎない。他方において、彼はその商品を価値として、したがって、同一価値をもっている任意のあらゆる他の商品に実現しようとする。ここでは彼自身の商品が他の商品の所有者にとって、使用価値をもっているかどうかは問題でない。そのかぎりにおいて、交換は彼にとって、一般的に社会的な過程である。だが、この同じ過程が、同時にすべての商品所有者にたいして、もっぱら個人的であって、同時にまたもつぱら一般的に社会的であるというようなことはありえない。

5. もっと詳細に見るならば、すべての商品所有者にたいして、あらゆる他人の商品は、彼の商品の特別な等価besondres Äquivalentとなっている。したがって彼の商品は、また他のすべての商品の一般的な等価allgemeines Äquivalentとなる。しかしながら、すべての商品所有者が、同一のことをするのであるから、いずれの商品も一般的の等価allgemeines Äquivalentではなく、したがって、諸商品は、それが価値として等置され、また価値の大いさとして比較さるべき、なんらの一般的相対的価値形態allgemeine relative Wertformをもっていない。したがって、諸商品は一般に商品として対立するのではなくして、ただ生産物または使用価値として対立するのである。

6. わが商品所有者たちは、困りはてて、ファウストのように考える。初めに行ないありき。したがって彼らは、彼らが考える前にすでに行なっていたのである。商品性質Warennaturの諸法則は、商品所有者の自然本能Naturinstinktの中に活動していた。彼らは、その商品をただ価値としてのみ、それゆえにまたただ商品としてのみ、相互に相関係せしめることができるのであるが、それをなすのに彼らは商品を、対立的に、一般的等価としてのなんらかの他の商品にたいして相関係せしめていたのである。これを商品の分析は明らかにした。しかし、ただ社会的行為のみが、一定の商品を一般的等価となすことができるのである。したがって、すべての他の商品の社会的行動は、諸商品が全般的にその価値を表示する一定の商品を除外する。このことによって、この商品の自然形態は、社会的に用いられる等価形態となる。一般的な等価であることは、社会的の過程によって、この除外された商品の特殊的に社会的な機能となる。こうして、この商品は―貨幣となる。「彼らは心を一つにして己が能力と権威とを獣にあたう。この徽章をもたぬすべての者に売買することを得ざらしめたり。その徽章は獣の名、もしくは其の名の数字なり」(ヨハネ黙示録、第17章13節および第13章17節)。

7. 貨幣結晶は交換過程の必然的な生産物である。交換過程で、種類のちがう労働生産物がおたがいに事実上等しく置かれ、したがってまた、事実上商品に転化される。交換の歴史的な拡がりと深化は、商品性質の中にねむっている使川価値と価値の対立を展開させる。この対立を、交易のために外的に表示しようという欲求は、商品価値の独立形態の成立へとかり立てる。そしてこの独立形態が、商品を商品と貨幣とに二重化することによって、終局的に確立されるまでは、安定し憩うことを知らない。したがって、労働生産物の商品への転化が行なわれると同じ程度に、商品の貨幣への転化が行なわれる(40)。

 (40) このことによって、小ブルジョア社会主義の狡猾さを判断してもらいたい。それは商品生産を永久化し、同時に「貨幣と商品の対立」を、したがってまた貨幣自身を―なぜかというに貨幣はただこの対立があってのみ存するのであるから―なくそうとするのである。これと同じように、人は教皇をなくして、カトリック教を存続させることができるかもしれない。このことにかんするもっと詳細なことは、拙著『経済学批判』61ページ以下〔・・・邦訳、岩波文庫版、103ページ以下。新潮社版『選集』第7巻、106ページ以下〕において見られたい。

8. 直接的な生産物交換は、一方において単純なる価値表現の形態をもち、他方においてまだこれをもたない。かの形態はA商品x量=B商品y量であった。直接的な生産物交換の形態は、A使用対象x量=B使用対象y量である(41)。AおよびBという物は、交換前には、このばあいまだ商品でなくして、交換によってはじめて商品となる。ある使用対象が可能性の上から交換価値となる最初の様式は、使用対象が非使用価値として、すなわち、その所有者の直接的欲望を超える使用価値のある量として、存在するということである。物は、それ自身としては人間にたいして外的のものである。したがってまた譲渡しうるものである。この譲渡が相互的であるためには、人間はただ暗黙の間に、かの譲渡さるべき物の私的所有者として、またまさにこのことによって、相互に相独立せる個人として、たいすることが必要であるだけである。だが、このような相互に分離している関係は、一つの自然発生的な共同体の成員にとっては存しない。それがいま家父長的家族の形態をとろうと、古代インドの村やインカ国等々の形態をとろうと、同じことである。商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる。しかしながら、物はひとたび共同体の対外生活において商品となると、ただちに、また反作用をおよぼして、共同体の内部生活においても商品となる。その量的交換比率は、まず初めは全く偶然的のものである。それらの物は、その所有者が、これを相互的に譲渡し合おうという意志行為によって、交換されうるものである。だが、他人の使用対象にたいする欲望は、次第に固定化する。交換の絶えざる反復は、これを一つの規則的な社会過程とする。したがって時の経過とともに、少なくとも労働生産物の一部は、故意に交換のために生産されなければならなくなる。この瞬間から、一方においては直接的欲望のための物の有用性と、その交換のための有用性との間の分裂が固定化する。その使用価値はその交換価値から分離する。他方において、それらが交換される量的関係は、その生産自身に依存するようになる。習慣は、それらの生産物を価値の大いさとして固定化する。

 (41)まだ二つのちがった使用対象が交換されず、われわれがこれをしばしば未開人に見るように、雑多なものが、第三の一つの物にたいして等価として提供されるかぎり、直接の生産物交換自身は、やっとその玄関にある。

9. 直接的な生産物交換においては、すべての商品は、直接にその所有者にとっては交換手段、その非所有者にとっては等価Äquivalentである。もちろん、それがこの非所有者にとって使用価値であるかぎりにおいてである。したがって、交換物品は、まだなんらそれ自身の使用価値から、または交換者の個人的欲望から、独立した価値形態を得ていない。この形態の必然性は、交換過程にはいる商品数が増大し、多様化されるとともに発展する。課題は、その解決の手段と同時に発生する。商品所有者が自分の物品を、ほかのいろいろな物品と交換し、比較する交易は、各種の商品所有者の各種の商品が、その交易の内部で同一の第三の商品種と交換され、また価値として比較されるということを必ず伴う。このような第三の商品は、各種の他の商品にたいして等価Äquivalentとなることによって、狭い限界内においてではあるが、直接に、一般的なまたは社会的な等価形態allgemeine oder gesellschaftliche Äquivalentformとなる。このような一般的等価形態は、これを発生させた瞬間的な社会的接触とともに成立し、消滅する。この一般的等価形態は、あの商品へこの商品へと、常なくかわるがわる与えられる。しかし、商品交換の発達とともに、一般的等価形態は、もっぱら特別な商品種besondere Warenartenに付着する、すなわち、結晶して貨幣形態kristallisiert zur Geldformとなる。どの商品種に付着してしまうかは、まず初めは偶然である。だが、大体においては二つの事情が決定する。貨幣形態は、あるいは、外域からのもっとも重要な交換品目に付着する。それらの物品は事実上、領域内生産物の交換価値の自然発生的な現象形態である。あるいはまた、例えば家畜のように、領域内の譲渡しうべき所有物の主要素をなす使用対象に付着する。遊牧民族が、最初に貨幣形態Formを発展させる。というのは、彼らの一切の財産は動かしうる、したがって直接に譲渡しうる形態にあるからであり、また彼らの生活様式は、彼らをつねに他の共同体と接触させ、したがって、生産物交換をひき起こしていくからである。人間は、しばしば人間自身を、奴隷の姿で最初の貨幣材料にした。しかしまだかつて、土地を貨幣材料にしたことはない。このような思想は、ただ、すでに完成したブルジョア社会においてのみ、出現することができた。それは17世紀の最後の3分の1期にあらわれた。そしてその実行は、国民的規模において、やっと一世紀後にフランス人のブルジョア革命で試みられたのである。


10. 商品交換が全く地方的な束縛を突き破るのに比例して、したがって、商品価値が人間労働一般の体化物Materiaturに拡がっていくのに比例して、貨幣形態は、本来一般的等価の社会的機能に適する商品、すなわち、貴金属に移行する。


11. そこで「金と銀はほんらい貨幣ではないが、貨幣はほんらい金と銀である(42)」ということが、それらのものの自然属性とその機能との一致を示している(43)。だが、これまでわれわれは、商品価値の現象形態として役立ち、または商品の価値の大いさが社会的に表現される材料として役立つという、貨幣の一つの機能を識っているのみである。価値の適当な現象形態、または抽象的な、したがってまた等一な人間労働の体化物となりうるものは、ただその見本のどれをとっても、同一の、ことなるところのない質をもっているような物質だけである。他方において、価値の大いさの差異は、純粋に量的なものであるから、貨幣商品は、純粋に量的差異を表わしえなければならない。したがって、随意に分割しえ、またその分割部分を再び合体させうるものでなければならぬ。しかして金と銀とは、このような属性をほんらいもっている。

(42) カール・マルクス『経済学批判』〔新潮社版『選集』第7巻166ページ〕「これらの金属は・・・ほんらい貨幣である」(ガリアニ『貨幣について』クストディの叢書、近代篇、第3巻、72ページ)

(43) これにかんする詳細は、私のすぐ前に引用した著書の「貴金属」の節にある。

12. 貨幣商品の使用価値は二重となる。商品としてのその特別な使用価値、例えば、金は、むし歯を充填するためとか。奢侈商品の原料等々に用いられるほかに、その特殊な社会的機能から生ずる、一つの形式的な使用価値〔formalen Gebrauchswert:形式上の使用価値〕を得るのである。

13. すべての他の商品は、貨幣の特別の等価besondre Äquivalente des Geldesにすぎず、貨幣はそれらの一般的等価allgemeines Äquivalentなのであるから、それらの商品は、一般的商品allgemeinen Ware(44)としての貨幣にたいして、特別の商品besondre Warenとしてたいするわけである。

  (44)「貨幣は一般的商品である」(ヴェリ『経済学にかんする考察』16ページ)。

14. 貨幣形態は、ただ、他の一切の商品の関係が、一商品に固着して反射されているものであるにすぎないことを知ったのである。したがって、貨幣が商品であること(45)は、その完成した姿から出発して、後からこれを分析しようとする人にとって、一つの発見であるにすぎない。交換過程は、貨幣に転化する商品に、その価値を与えるのではなく、その特殊な価値形態を与えるのである。両規定を混同すると、金と銀の価値を想像的なものと考えるような誤りにおちいる(46)。貨幣は一定の機能においては、それ自身の単なる標章によって置き代えられうるのであるから、貨幣が単なる標章であると考えるような、他の誤りも生じた。他方において、この誤りの中には、物の貨幣形態は、物自身にとっては外的のものであり、その背後にかくされている人間関係の単なる現象形態であるという予感がはいっていた。この意味では、あらゆる商品は一つの標章であろう。というのは、価値としては、ただ商品に支出された人間労働の物財的の外被にすぎないからである(47)。しかしながら、人は、物財が一定の生産様式の基礎の上に得る社会的性格、または労働の社会的規定が一定の生産様式の基礎の上に得る物財的性格、これらのものを、単なる標章と称えることによって、同時にこれらのものを人間の恣意的な想像の産物と称することになるのである。それは第18世紀愛好の啓蒙風であって、成立過程をまだ解くことのできなかった人間的諸関係の謎のような形相〔rätselhaften Gestalten:謎のような状態、形状〕から、少なくとも一応無知の外観を除こうとしたのである。

 (45) 「われわれが『貴金属』という一般的な名称で表わしうる銀と金そのものが、・・・商品・・・であって、価値・・・において上騰したり低落したりする。もし、その比較的小量にたいして、生産物またはその国の製造品等の比較的大量を取得することができるならば、貴金属により高い価値のあることが判定できる」(『相互関係として観た貨幣、商業および為替の一般的観念にかんする一論。一商人著』ロンドン、1695年、7ページ)。「銀と金とは、鋳造されようと、されまいと、すべての他の物にたいする尺度標準として用いられるが、しかし、葡萄酒、油、煙草、布、または服地と同じように商品である」(『商業、とくに東インドのそれにかんする一論』ロンドン、1689年、2ページ)。わが王国の財産と富とは、貨幣からのみ成っているわけではない。また金と銀とを商品でないと考えるのも、当をえない」(〔トーマス・パピロン〕、『最も有利な貿易としての東インド貿易』ロンドン、1677年、4ページ)。

(46) 「金と銀は、それが貨幣である前に、金属として価値をもっている」(ガリアニ『貨幣について』72ページ)。ロックはこう述べている、「人間の一般的な合意は、銀にたいして、その貨幣に適した性質のために、一つの想像的価値を与えた」〔ジョン・ロック『利子低下の諸結果にかんする若干の考察』1691年。『著作集』版、1777年。第2巻、15ページ〕と。これにたいしてローは、「どうしていろいろの国民が、なんらかの物財に想像的の価値を与えることができようか。・・・・あるいは、どうしてこの想像的な価値が、保持されえたであろうか?」といっている。しかし、その彼自身は、どんなに事柄を理解していなかったかを次のことが示している。すなわち「銀は、それがもっていた使用価値にしたがって交換された。すなわち、その実際の価値にしたがって。その貨幣・・・・としての性質によって、銀は付加的の価値(une valeur additionelle)を得た」(ジョン・ロー『鋳貨と商業にかんする考察』、『第18世紀の金融経済学者』デール版、469・470ページ)。

(47) 「貨幣はその(商品の)標章である」(V・ドゥ・フォルボネ『商業の基礎概念』新版、ライデン、1766年、第2巻、143ページ)。「標章として、貨幣は、商品によって引きつけられる」(前掲書、155ページ)。「貨幣は物財の標章であって、これを代表している」(モンテスキュー『法の精神』、『全集』ロンドン、1767年、第2巻、3ページ〔邦訳、宮沢俊義訳『法の精神』岩波文庫版、下巻、98ページ〕)。「貨幣は、決して単純な標章ではない。なぜかというに、貨幣自身が富であるからである。貨幣は価値物を代表するのではない。それは価値物にたいして価値を等しくするのである」(ル・トゥローヌ。『社会的利益について』910ページ)。「価値の概念を考察するならば、物財そのものは、ただ一つの標章と考えられるのみである。物財はそれ自身として意味をもつことなく、それが値するところのものとして、意味をもつのである」(ヘーゲル『法の哲学』100ページ)。経済学者たちよりずっと以前に、法律家は、貨幣の観念を、単なる標章として、また貴金属の純粋に想像的な価値として、大いに論じていたのであった。彼らは、これで王権にお追従のつとめをしていたのである。その鋳貨の悪鋳権を、彼らは、全中世を通じて、ローマ帝国の伝統とパンデクテンの貨幣概念によって支持していたのであった。その呑込のいい生徒たる、フィリップ・ドゥ・ヴァロアは、1346年の勅令でこう言っている、「貨幣事務、鋳造、品位、在高および鋳貨をわれらの自由に一定の価格で流通に投ずるに必要な一切の鋳貨関係命令、これらのことが全くわが国とわが陛下の権能に属するということは、何びとも疑いえず、また疑うべからざるものである」。皇帝が貨幣価値を制定するということは、ローマ法の信条であった。貨幣を商品として取り扱うことを、明文をもって禁じていた。「だが貨幣を買うことは、何びとにも許さるべきでない。なぜかというに、一般の使用のために作られたるものであって、それは商品であってはならないからである」。G・F・パニニのこれらにかんするすぐれた論議がある。G・F・パニニ『ローマ人の物の正当価格。正しき鋳貨価値および商業にかんする試論』1751年(クストディ編、近代篇、第2巻)。とくにこの書の第2部で、パニニは法律家諸君にたいして論駁している。

15. 先に述べたように、ある商品の等価形態は、その価値の大いさの量的規定を含んでいない。金が貨幣であり、したがって、すべての他の商品と直接に交換されうるということを知っても、これによっては、例えば10ポンドの金は、どれだけの価値をもっているかを知ったことにはならない。すべての商品と同じように、金〔カウツキー版・ポール英訳版では金、初版から第3版までは貨幣、エンゲルス版も貨幣、アドラツキー版・ディーツ『全集』版も貨幣であるが、前後の関係から金とした。……訳者〕は、それ自身の価値の大いさを、相対的に、他の商品で表現するほかない。それ自身の価値は、その生産に要した労働時間によって規定される。そして一切の他の商品の一定量で表現される。これら商品にも同一量の労働時間が凝結している(48)。このように金の相対的な価値の大いさの確定は、その生産源でなされる直接の物々交換で行なわれる。それが貨幣として流通にはいると同時に、その価値はすでに与えられている。すでに第17世紀の最後の10年間に、貨幣が商品であるということを知るために、ずっと突き進んだ貨幣分析の開始がなされているのであるが、これはやはり開始にすぎないものである。困難は、貨幣が商品であるのを理解することよりも、商品は、いかにして、なぜに、何によって、貨幣であるかを理解することにある(49)。

 (48) 「人間が1オンスの銀をペルーの地中から、1ブッシェルの穀物を生産するために要すると同一時間で、ロンドンにもって来ることができるとすれば、前者は後者の自然価格である。もし彼がいま新しい、より生産的な鉱山の採掘によって、以前の1オンスと同一の投下時間に2オンスの銀を得ることができるとすれば、穀物は、以前に1ブッシェル当り5シリングの価格であったのが、いまでは10シリングの価格となるであろう、caeteris paribus(他の条件を同一とすれば)」(ウィリアム・ペテイ『租税および貢納にかんする論策』ロンドン、1667年、31ページ)。

(49)ロッシェル教授がわれわれに、「貨幣のあやまれる定義は二つの主要群に分かたれる、すなわち、一つは貨幣を商品以上のものに考え、一つはこれを商品以下のものに考えているのである」ということを教えてくれたのち、貨幣制度にかんする混乱した著書目録が続く。これによっては、理論の真実の歴史へのかすかな洞察さえも見られない。それにお説教が続く、「しかして、大多数の近代国民経済学者が、貨幣を他の商品から区別する(では、一体商品以上のものか以下のものか?)諸特性を、充分に念頭に浮かべていないということは、否定すべくもない。……そのかぎりにおいて、ガニールの半重商主義的反動は、……全く理由のないことでもない』(ヴィルヘルム・ロッシェル『国民経済学大綱』第3版、1858年、207-210ページ)。以上―以下―充分でない―そのかぎり―全く・・・・ではない! そしてこのような折衷的な大学教授的たわごとを、ロッシェル氏は謙遜して経済学の「解剖学的・生理学的方法」と名づけている! だが、一つの発見だけは、彼に負うものである。すなわち、貨幣は「快適な商品」であるということである。

 この誤った外観〔falschen Scheins:誤った仮象〕


16. A商品x量=B商品y量というもっとも単純な価値表現において、すでに、ある他の物の価値の大いさを表示している一物が、その等価形態を、この関係から独立して社会的の自然属性としてもっているように見えるということを、われわれは知ったのである。われわれは、この誤った外観〔falschen Scheins:誤った仮象〕がどうして固定していくかを追究した。この外観は、一般的等価形態が、ある特別な商品種の自然形態と合生し〔verwachsen:合体する、合生する〕、または貨幣形態に結晶する〔kristallisiert:結晶する、明確な形をとる〕とともに、完成するのである。一商品は、他の諸商品が全面的にその価値を、それで表示するから、そのために貨幣となるのであるようには見えないで、諸商品は、逆に一商品が貨幣であるから、一般的にその価値をこれで表わすように見える。媒介的な運動は、それ自身の結果を見ると消滅しており、なんらの痕跡をも残していない。諸商品は、自分では何もするところなく、自分自身の価値の姿が、彼らのほかに彼らと並んで存在する商品体として完成されているのを、そのまま見出すのである。これらのもの、すなわち、土地の内奥から取り出されてきたままの金と銀とは、同時にすべての人間労働の直接的な化身Inkarnationである。このようにして貨幣の魔術が生まれる。人間がその社会的生産過程で、単に原子的な行動を採っているにすぎぬということ、したがって、彼らの規制と彼らの意識した個人的行為とから独立した彼ら自身の生産諸関係の物財的な姿sachliche Gestaltは、まず、彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるということの中に現われるのである。したがって、貨幣物神の謎は、商品物神の目に見えるようになった、眩惑的な謎であるにすぎないのである。

・・・以上、第2章終わり・・・


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  第3章 貨幣または商品流通

  第1節 価値の尺度


 (第3章_第1節-第1段落=3s_1-1)
 私は説明を簡略にするために、この著作では何処でも、金が貨幣商品であると前提する。
 金の第一の機能は、商品世界にたいして、その価値表現の材料を供し、または商品価値を同分母をもつ大いさ、すなわち質的に等一で、量的に比較のできる大いさとして、表示することにある。こうして、金は価値の一般的尺度として機能し、この機能によってはじめて金という特殊的な等価商品が、まず貨幣となる。
 諸商品は貨幣によって通約しうべきものとなるのではない。逆だ。すべての商品は、価値として対象化された人間労働であり、したがって、それ自体として通約しうるものであるから、その価値を同一の特殊な商品で、共通に測り、このことによってこの商品を、その共通の価値尺度、または貨幣に転化しうるのである。価値尺度としての貨幣は、商品の内在的な価値尺度である労働時間の必然的な現象形態である(50)。



 (50) なぜ貨幣が直接に労働時間そのものを代表しないか、したがって、例えば一紙幣がX労働時間を表わすというようにならぬのかという問題は、きわめて簡単に、なぜ商品生産の基礎の上においては、労働生産物が商品として表示されねばならぬか、という問題に帰着するのである。なぜかというに、商品の表示は、この商品が商品と貨幣商品に二重化するということを含んでいるからである。あるいはなぜ私的労働は直接に社会的労働として、すなわち、その反対物として、取り扱われることができないかの問題に帰着する。私は商品生産を基礎とする「労働貨幣」ということが浅薄な空想であるわけを、他の個所で詳しく論じておいた(カール・マルクス『批判』61ページ以下〔邦訳、岩波文庫版103ページ以下。新潮社版106ページ〕



 ある商品の金における価値表現―A商品x量=貨幣商品y量―は、その商品の貨幣形態であり、またはその価格である。こうなると、鉄1トン=金2オンスというような個々の方程式は、鉄価値を社会的に通用するように表示するために、充分なものとなる。方程式は、これ以上、他の諸商品の価値方程式と隊伍を組んで行進する必要がない。というのは、等価商品である金は、すでに貨幣の性質をもっているからである。したがって、商品の一般的な相対的価値形態は、いまや再びその本源的な、単純な、または個々的な相対的価値形態の姿をとるにいたっている。他方において、拡大された相対的価値表現、または相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の特殊的に相対的な価値形態となっている。しかしながら、この列は、いまやすでに商品価格で社会的に与えられている。物価表を逆に読めばいいのだ。そうすれば、可能な、ありとあらゆる商品における貨幣の価値の大いさが、表示されていることを知るのである。これに反して、貨幣は価格をもっていない。このような他の諸商品の統一的な相対的価値形態に参加するためには、貨幣は自分自身にたいして、自分自身の等価として、関係しなければなるまい。



 商品の価格または貨幣形態は、その価値形態一般と同じく、手でつかみうるような、その実在的の物体形態とちがった、したがって理念的または観念化された形態にすぎない。鉄、亜麻布、小麦等々の価値は、見ることはできないが、これらの物そのものの中に存在している。それはこれらの物の金との等一性によって、すなわち、金にたいするいわばその頭脳の中に棲んでいる連結によって、表示される。したがって、商品番人は商品の代弁をしてやるか、商品に紙片をはりつけてやるかして、その価格を外界に知らせねばならない。金における商品価値の表現は、観念的なものであるから、この表現を実際に行なうためには、また観念的の、または理念としての金が用いられればいいのである。どんな商品番人も、自分が商品の価値に価格の形態を、または観念となった金形態を与えても、まだ決して彼の商品を金に化しているのではないということ、そして金で幾百万の商品価値を評価するためには、一片の現実の金をも必要としないということを、知っている。したがって貨幣は、その価値尺度の機能においては、―ただ観念となった貨幣、または理念的の貨幣としてのみ用いられる。この事情は、きわめて馬鹿げた理論を考え出させるにいたった。観念となった貨幣のみが価値尺度の機能に用いられるとしても、価格は全く実在的な貨幣材料に依存しているのである。価値、すなわち、例えば1トンの鉄の中に含まれている人間労働の一定量は、同一量の労働を含んでいる一定の観念化された貨幣商品の量の中に表現される。したがって、金、銀または銅が、価値尺度として用いられるにしたがって、それぞれ1トンの鉄の価値は、全くちがった価格表現を受ける。いいかえれば、全くちがった量の金、銀または銅で表わされる。


 
 したがって、例えば金および銀なる二つのちがった商品が、同時に価値尺度として用いられるとすれば、すべての商品は二つのちがった価格表現をもつことになる。金価格と銀価格であって、銀の金にたいする価値比率が不変であつて、例えば1対15であるかぎり、これは悠々と並んで行なわれる。だが、この価値比率が少しでも変化すると、商品の金価格と銀価格の比率は撹乱される。このようにして価値尺度の二重化が、その機能に矛盾することは、事実の上で立証される。

 価格のさだまった商品は、すべてA商品a量=金x量、B商品b量=金z量、C商品c量=金y量 等々の形態で表示される。このばあい、a、b、cは商品種A、B、Cの一定量を、x、z、yは金の一定量を表わすのである。したがって、商品価値は各種の大いさの観念化された金量に転化される。だから、商品体の種類は雑多であるが、同一名目の大いさ、すなわち、金の大いさに表わされる。それらの商品価値は、このような各種の金量として、相互に比較され、測定される。そして技術的に、これらの価値を、尺度単位としての一つの固定した量目の金にたいして、関係させようとする必然性が展開してくる。この尺度単位自身は、さらに各可除部分に分割されて、尺度標準に発展する。金や銀や銅は、貨幣となる以前に、すでにその金属重量で、このような尺度標準をもっている。こうして、例えば1ポンドが尺度単位として用いられ、一方には、さらに小分されてオンス等になり、他方では加算されてツェッントネル等になるのである。したがって、すべての金属流通においては、既存の重量尺度標準の名称が、貨幣尺度標準、すなわち、価格の尺度標準の最初の名称ともなっている。


  (第3章_第1節-第8段落=3s_1-8)
  価値の尺度として、また価格の尺度標準として、貨幣は二つの全くちがった機能を行なう。貨幣は、人間労働の社会的化身として、価値の尺度である。確定した金属重量としては、価格の尺度標準である。貨幣は、価値尺度としては、雑多にちがっている商品の価値を価格に、すなわち、観念化された金量に転化するために用いられる。価格の尺度標準としては、貨幣はこの金量を測るのである。価値の尺度において、商品は価値として測られ、これに反して、価格の尺度標準は、金量を一定の金量で測るのであって、ある金量の価値を他のそれの重量で測るのではない。価格の尺度標準にとっては、一定の金の重量が尺度単位として固定されなければならない。ここでは、他のすべての同名目の大いさの尺度を定める場合のように、尺度比率の固定ということが必ずなされなければならぬものになる。したがって、価格の尺度標準は、同一量の金が、尺度単位として変わることなく用いられるほど、その機能をよりよく充たす。価値の尺度として金が用いられうるのは、ひとえに金そのものが、労働生産物であり、したがって、可能性の上から、可変的な価値であるからである。

  ・・・中略・・・

 

 (第3章_第1節-第13段落=3s_1-13)

 さてわれわれは価格形態の考察に帰ろう。・・・

 (第3章_第1節-第13段落=3s_1-16~21)

 価格、または商品の価値が観念的に転化している金定量は、このようにしていまや貨幣名、または法的に通用する金尺度標準の計算名で表現される。したがって、1クォーターの小麦は、1オンスの金に等しいというかわりに、イギリスでは、それは3ポンド・スターリング17シリング10ペンス1/2に等しいと言われるであろう。商品は、このようにしてその貨幣名をもって、どれだけの価値があるかということを示すのである。そして、ある物財が価値として、したがって貨幣形態で一定されるということが必要となるごとに、貨幣は計算貨幣として用いられる。

 一物財の名称は、その性質にとっては全く外的のものである。私は、かりにある人がヤコブスということを知っても、その人間についてなんら知ることにはならない。これと同様に、ポンド、ターレル、フラン、ドゥカート等々の貨幣名において、価値関係のあらゆる痕跡は消えている。このような秘教的な標章の秘義にかんする混乱は、貨幣名が商品の価値を、そして同時に、ある金属重量の、すなわち、貨幣尺度標準の可除部分を表現するだけに、ますます大きくなっている。他方において、価値が商品世界の雑多な物体から区別されて、このような分りにくい物財的な、しかしまた単純に社会的な形態に発展するということは、必然的である。

 価格は商品に対象化されている労働の貨幣名である。商品と、みずからの名を商品の価格としている貨幣定量とが、等価であるということは、したがって、同じ言葉の反復である。ちょうどそれは一般に1商品の相対的価値表現が、つねに2商品の等価たることの表現であるというのと同様である。しかしながら、価格が商品の価値の大いさの指数として、その貨幣との交換比率の指数であるとしても、逆に、商品の貨幣との交換比率の指数は、必然的にその価値の大いさの指数であるという結論にはならない。同一大いさの社会的に必要な労働は、1クォーターの小麦や2ポンド・スターリング(約1/2オンス金)に表示されるとしよう。そこで2ポンド・スターリングは1クォーターの小麦の価値の大いさの貨幣表現であり、すなわちその価格である。事情がこの価格を、3ポンド・スターリングに引き上げることを許し、またはこれをIポンド・スターリングに引き下げざるを得ざらしめるとすれば、1ポンド・スターリングと3ポンド・スターリングは、小麦の価値の大いさの表現としては、小にすぎまたは大にすぎる。しかし、それらはたしかに小麦の価格である。なぜかというに、第一にそれは小麦の価値形態で、貨幣である。そして第二にその貨幣との交換比率の指数であるからである。労働の生産諸条件が同一であり、労働の生産力に変化がなければ、依然として1クォーターの小麦の再生産には、同一量の社会的労働時間が支出されなければならない。この事態は、小麦生産者の意志にも他の商品所有者の意志にも、よるものではない。したがって、商品の価値の大いさは、一つの必然的な、その形成過程に内在している社会的労働時間にたいする関係を、表現している。価値の大いさが価格に転化するとともに、この必然的な関係は、一商品の、その外部にある貨幣商品との交換比率として現われる。しかし、この比率では、商品の価値の大いさも、商品が与えられた事情のもとで手ばなされる大小も、表現せられうる。価格と価値の大いさとの量的な不一致の可能性、すなわち価値の大いさに対する価格偏差の可能性は、かくて、価格形態そのものの中にある。このことは少しもこの形態の欠陥ではなく、逆にこれを一生産様式によく当てはまる形態にするのである。この生産様式では、規律は、もっぱら無規律性の盲目的に作用する平均法則としてのみ、貫かれうるのである。

 だが、価格形態は、価値の大いさと価格との、すなわち、価値の大いさとそれ自身の貨幣表現との間の、量的不一致の可能性をもたらすのみならず、一つの質的矛盾をも生ぜしめうるのである。つまり、そのために、貨幣は商品の価値形態であるにほかならないのに、価格が一般に価値表現たることをやめることにもなる。それ自体としてなんら商品でない物、例えば良心、名誉等々も、その所有者は貨幣にたいして売ることができるし、かくてまた、これらのものがその価格によって、商品形態を得ることができる。したがって、ある物は価値をもたないでも、形式的に一つの価格をもつことができる。価格表現はここでは、ちょうど数学におけるある量〔虚数:die imaginäre Zahl〕のように、想像的のものとなる。他方において、例えば、すこしの人間労働もその中に対象化されていたいために、なんら価値をもたない未耕地の価格のような想像的な価格形態も、現実的な価値関係、またはそれから派生した結びつきを隠していることがある。〔Der Preisausdruck wird hier imaginär wie gewisse Größen der Mathematik. Andrerseits kann auch die imaginäre Preisform, wie z.B. der Preis des unkultivierten Bodens, der keinen Wert hat, weil keine menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht ist, ein wirkliches Wertverhältnis oder von ihm abgeleitete Beziehung verbergen.〕

 相対的な価値形態一般と同じように、価格は一商品、例えばIトンの鉄の価値を、次のようにして表現する、すなわち、一定量の等価、例えば1オンスの金が、直接に鉄と交換されうるということによってである。しかし、決して逆に、鉄の方が直接に金と交換されうるということによって、表現するのではない。したがって、実際に一つの交換価値の作用をなしうるために、商品はその自然的な肉体をぬぎ去らなければならない。すなわち、観念的な金であるにすぎないものから、現実の金に転化されなければならない。もちろん、商品にとってこのような化体は、へーゲルの「概念」にとって、必然から自由への移行や、ざりがににとって、その甲殻の破壊や、あるいは教父ヒエロニムスにとって、おのれの罪を脱ぎ捨てることよりも、少し「骨の折れる」ことかも知れない。例えば、鉄というその実在的な姿のほかに、商品は価格という観念的な価値の姿、または観念化された金の姿をもつことができる。しかし、商品は同時に現実的に鉄であって、また現実的に金であるということはできない。その価格を提示するには、観念化された金をこれに等しいと置けば足りる。その所有者にたいして、一般的等価の役目を果たすためには、商品は、金によって代置されなければならない。鉄の所有者が、例えば、現世快楽的商品の所有者に相対するとすれば、そして貨幣形態であるところの鉄価格を指して、これで貨幣になったと言ったとすれば、この現世快楽者は、天国でペテロが、自分の前に信仰個条を読唱したダンテにたいして答えたように答えるであろう。
  「究めつくされたり、これら鋳貨の品位と重さは。 だが、語れ、汝がこれを汝の財布の中にもっているかを」 〔ダンテ『神曲』第3篇、第24歌、83―85。カウツキー版による。……訳者〕。

 価格形態は、諸商品の貨幣にたいする売り渡し可能性と、かかる売り渡しの必然性を包含している。他方において金は、すでに交換過程で貨幣商品として歩き廻っているからこそ、観念的価値尺度として機能するのである。したがって、価値の観念的な尺度の中に、硬い貨幣が待ち伏せているのである。


  ・・・以上、第3章貨幣または商品流通 第1節価値の尺度 終わり・・・

・・・以下、省略・・・


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 『資本論』 商品の変態


 第3章 貨幣または商品流通

 第2節 流通手段 a 商品の変態


  a 商品の変態


1. 商品の交換過程は、矛盾したお互いに排除し合う関係を含んでいることを知った。商品の発達は、これらの矛盾を止揚しないで、それが運勤しうる形態を作り出している。これがとりもなおさず、一般に現実の矛盾が解決される方法である。例えば、ある物体が不断に他の物体に落下しながら、同じく不断にこれから飛び去るというのは、一つの矛盾である。楕円は、その中でこの矛盾が解決され、また実現されてもいる運動形態の一つである。
2. 交換過程は、諸商品を、それが非使用価値である持ち手から、使用価値となる持ち手に移すかぎり、社会的な物質代謝である。ある有用な労働様式の生産物が、他のそれとかわる。商品はひとたび使用価値として用いられる個所に達すると、商品交換の部面から消費の部面にはいる。ここでわれわれの関心事となるのは、前の方の部面のみである。したがって、われわれは全過程を、その形式的側面から、したがって、ただ商品の形態変化または社会的物質代謝を媒介する、その変態をのみ、考察しなければならぬ。


3. この形態変化を、きわめて不充分にしか理解しないのは、価値概念そのものにかんしてはっきりしていないのを別とすれば、次の事情によるのである。すなわち、ある商品の形態変化は、すべて二つの商品、すなわち、普通の商品と貨幣商品の交換において行なわれるということである。この素材的要素である商品と金との交換をのみ固執すると、人は、まさに見なければならぬもの、すなわち、形態について起こることを看過する。金は単なる商品としては貨幣でないということ、そして他の諸商品自身がその価格を金で表わすことによって、金は商品そのものの貨幣態容となっているということ、人はこれを見のがしている。

4. 商品は、まず最初は金メッキもされないで、砂糖もふりかけられないで、あるがままの姿で交換過程にはいる。交換過程は、諸?商品の商品と貨幣とへの二重化を生ぜしめる。すなわち、一つの外的な対立を生ぜしめる。この対立の中に、商品は、使用価値と価値の内在的対立を示しているのである。この対立において、諸商品は使用価値として、交換価値としての貨幣に相対する。他方において、対立の両側は商品である。したがって、使用価値と価値の統一である。しかしながら、この差別の統一は、両極のおのおのにおいて逆に表示されている。そしてこのことによって、同時に、両極の相互関係が示されているのである。商品は現実に使用価値である。その価値たることは、ただ観念的に価格に現われる。価格は、商品を、その実在的な価値態容として対立する金に、関係せしめる。逆に、金材料は価値体化物として、貨幣としてのみ働いている。したがって、貨幣は現実に交換価値である。その使用価値は、ただ観念的に相対的な価値表現の序列の中に現われるにすぎない。この表現において貨幣は、相対する諸商品に、これをその現実的な使用態容の全範囲として関係する。商品のこれらの対立的な形態は、その交換過程の現実的な運動形態である。


5. われわれはいま、誰か一人の商品所有者、例えばわれわれの旧いなじみの亜麻布織職について、交換過程の場面、すなわち商品市場に行って見よう。その商品である20エレの亜麻布は、価格が定められている。その価格は2ポンド・スターリングである。彼はこの商品を2ポンド・スターリングと交換する。昔気質のこの男は、この2ポンド・スターリングをもって、再び同一価格の家庭用聖書と交換する。亜麻布は、彼にとって商品、すなわち価値の担い手であるにすぎないが、金、すなわち、その価値態容にたいして売り渡される。そして、この態容からまた他の商品、すなわち、聖書にたいして売り渡される。この聖書は、こうして、使用対象として織職の家にやってきて、ここで教化欲望を充足させるわけである。したがって、この商品の交換過程は、二つの対立した、そして相互に補足し合う変態―商品の貨幣への転化と貨幣から商品への反転 ― となって遂行される(65)。商品変態の契機は、同時に商品所有者の取引―売り、すなわち商品の貨幣との交換、買い、すなわち貨幣の商品との交換、さらにまた買うために売るというこの両行為の統一 ― である。

 (65) 「ヘラクレイトスはこう言った、だが、すべてのものが火……から成り、そして火は一切から成る。それはあたかも金から財貨が、財貨から金が成るようなものである、と」(F・ラッサール『暗き人ヘラクレイトスの哲学』ベルリン、1858年、第1巻、222ページ)。この個所にたいするラッサールの注(224ページ、注3)は、貨幣を単なる価値標章と説いているが、謬りである。

6. そこで亜麻布織職にとって大事なことは、その取引の最終結果であるが、彼は亜麻布のかわりに聖書を、すなわち彼の最初の商品のかわりに、同一価値の、しかし有用性をことにする他の商品をもっている。同様にして、彼は、その他の生活手段と生産手段とを獲得する。彼の立場からすれば、この全過程は、ただ彼の労働生産物を他の人の労働生産物と交換すること、すなわち生産物交換を媒介するだけである。

7. 商品の交換過程は、こうしてつぎのような形態変化をなして遂行される。
   商品―貨幣―商品
    W - G - W


8. W-Wなる運動、商品の商品にたいする交換は、その素材的内容からいえば、社会的労働の物質代謝であって、その結果としてこの過程自身が消滅する。

9. W―Gすなわち、商品の第一の変態または売り。商品価値の商品体から金体への飛躍は、私が他のところで名づけたように〔『経済学批判』岩波文庫版、110ページ〕、商品の salto mortale (生命がけの飛躍)である。この飛躍が失敗すれば、商品は別に困ることもないが、商品所有者は恐らく苦しむ。社会的分業は、彼の労働を一方的に偏せしめると同時に、彼の欲望を多方面にする。まさにこのゆえに、彼の生産物が彼にとって用をなすのは、交換価値としてだけであることになる。しかしその生産物が一般的な社会的に通用する等価形態を得るのは、貨幣としてだけである。そして貨幣は、他人のポケットの中にあるのである。これを引き出すためには、商品は、とくに貨幣所有者にたいして使用価値でなければならない。すなわち、この商品にたいして支出された労働は、かくて社会的に有用なる形態で支出されていなければならない。あるいは社会的分業の一環たることを立証しなければならない。しかしながら、分業は、自然発生的生産有機体をなしているのであって、その繊維は商品生産者の背後で織られたのであり、またつづいて織られているのである。商品は、ある新しい労働様式の生産物であって、これは新しく現われた欲望をまず充足させるためになされたものであるかもしれないし、あるいは自分の力で、欲望をまず呼び起こそうとするものであるかもしれない。昨日なお同一商品生産者の多くの機能の中の一機能であっても、ある特別の労働操作が、今日はおそらくこの関連から脱して、独立化し、まさにこのゆえに、その部分生産物を、独立の商品として市場におくる。事情は、この分離過程にとって熟しているかもしれず、熟していないかもしれない。生産物は今日は社会の欲望を充足させる。おそらく明日は、これは、全くまたは部分的に、他の類似の生産物種によって、その地位から追われるかもしれない。わが亜麻布織職のそれのように、労働は社会的分業の特許つきの一環であっても、彼のこの20エレの亜麻布の使用価値は、これでは確保されはしない。もし亜麻布にたいする社会的の欲望が、そしてこれは他の一切のものと同じく、限界をもっているのであるが、すでに競争者である亜麻布織職によって充たされているならば、わが友人の生産物は過剰となり、無用となり、したがってまた、有用性のないものとなる。もらい物のあらさがしをするな、という諺もあるが、彼は贈り物するために市場に出てきたのではない。しかし、がりに彼の生産物の使用価値が立証され、したがって貨幣がこの商品によって引き寄せられると仮定しよう。だが、さてどれだけの貨幣が?という問題がある。答えは、もちろんすでに商品の価格、その価値の大いさの指数によって先廻りして与えられている。われわれは、商品所有者が、純粋に主観的な、いって見れば、計算の誤りをする、というようなことを無視しよう。これは、市揚でただちに客観的に訂正される。彼は、その生産物にたいして、社会的に必要な労働時間の平均だけを支出したであろう。したがって、商品の価格は、その中に対象化されている社会的労働の定量の貨幣名であるにすぎない。しかし、わが亜麻布織職の許しなく、または彼の知らないうちに、亜麻布織職の古くから行なわれている生産諸条件が、はげしく動いていたかもしれない。昨日疑いもなく1エレの亜麻布の生産にたいして、社会的に必要な労働時間であったものが、今日では、そうでなくなっているかもしれない。このことを、貨幣所有者が熱心に、わが友人のいろいろな競争者の値段づけから、明らかにしてくるのである。彼にとって不幸なことには、世の中には多くの織職がいる。最後に、市場にあるすべての亜麻布が、社会的に必要な労働時間のみを含んでいると仮定しよう。それにもかかわらず、これら各布片の総額は、不用に支出された労働時間を含んでいることもありうる。市場の胃の俯が、亜麻布の総量を、1エレ当り2シリングの正常価格で吸収しえないとすれば、このことは、亜麻布機織の形態で、社会的総労働時間の過大なる部分が、支出されたことを証明する。結果は、各個々の亜麻布織職が、彼の個人的生産物にたいして、社会的に必要なる労働時間より多くのものを投じたのと同様である。このばあい、ともに捕われともに絞首にされるとでも言うべきである。市場にあるすべての亜麻布は、ただ一つの取引品目として作用し、各布片は、ただその可除部分であるにすぎない。そして実際において、個々別々の布各エレの価値もまた、同一種の人間労働の同一なる社会的に一定した分量を、体化しているものであるにすぎない。


10. 商品は貨幣を愛する。が、「まことの恋がおだやかに実を結んだためしはない」〔シェイクスピア『夏の夜の夢』第1幕、第1場、邦訳、土井光知訳、岩波文庫版、38ページ〕ことを、われわれは知っている。

11. 分業体制の中に、その肢体(membra disjecta)が八方に分岐していることを示している社会的生産有機体の量的構成は、 質的なそれと同じように、自然発生的で偶然的である。したがって、わが商品所有者は、彼らを独立の私的生産者となす同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの関係を、彼ら自身から独立のものとしていること、人々相互の独立性が、全般的な物的依存の体制となって補足されているということを、発見するのである。

12. 分業は、労働生産物を商品に転化する。そしてこのことによって、労働生産物の貨幣への転化を必然的にする。この分業は同時に、この化体が成就するかどうかを、偶然的のものにする。だが、ここでは現象が純粋に考察さるべきである。したがって、その正常な進行が前提さるべきである。そこで、ことは、ともかく滑かに進行し、したがって、商品は売れ残るようなことがないとすれば、その形態変化がつねに行なわれているということになる。むろん、この形態変化が正常に行なわれないことになれば、実体―価値の大いさ―が失われたりするかもしれない。

13. 一方の商品所有者には、金がその商品にかわり、他方の商品所有者には商品が金にかわる。目立つ現象は商品と金との、20エレの亜麻布と2ポンド・スターリングとの持ち于変更、または場所変更、すなわちその交換である。だが、商品は何と交換されるか? 自分自身の一般的価値態容と。そして金は何と交換されるか? その使用価値の特別な態容と。なぜ金は亜麻布にたいして貨幣として相対するか? 亜麻布の2ポンド・スターリングという価格、またはその貨幣名が、亜麻布をすでに貨幣としての金に関係せしめているからである。本来の商品形態を脱することは、商品の売渡しによって、すなわち、その使用価値が、その価格の中において観念としてのみ存している金を、現実に引きつける瞬間に、行なわれるのである。価格の実現、または商品の観念的に存するにすぎない価値形態の実現は、したがって、同時に逆に観念的にのみ存する貨幣の使用価値の実現である。すなわち、商品の貨幣への転化は、同時に貨幣の商品への転化である。この一つの過程が、商品所有者の極からは売りであり、貨幣所有者の反対の極からは、買いであるという二面の過程である。言葉を換えていうと、売りは買いである。W-G は同時に G-W である(66)。

 (66) 「あらゆる売りは買いである」(ドクトル・ケネー『商業と手工業者の労働にかんする対話』、『重農学派』第1部、パリ、1846年、170ページ)。あるいはケネーが彼の『一農業国における経済政策の一般原理』で言っているように「売ることは買うことである」。

14. われわれは、これまで人間の経済関係を、ただ商品所有者の関係としてだけ見てきた。これは、商品所有者たちが、もっぱら自己の労働生産物を手離して、他人の労働生産物を取得する関係である。したがって、一方の商品所有者にたいして、他方の商品所有者は、ただ貨幣所有者としてのみ、相対することができる。それができるのは、彼の労働生産物がほんらい貨幣形態をとっており、したがって貨幣材料であり、金等々であるからであるか、あるいは彼自身の商品がすでに脱皮して、その最初の使用形態を脱ぎ去ったからであるかである。貨幣として機能するためには、金はもちろんいずれかの点で、商品市場にはいり込まねばならない。この点は、その生産源にある。ここで金は直接の労働生産物として、同一価値の他の労働生産物と交換される。しかしながら、この瞬間から、たえず、金は実現された商品価格を表わしている(67)。商品と金のその生産源における交換を別とすれば、金はすべての商品所有者の手中で、彼の売渡した商品の脱皮した姿となっている。すなわち、売りの生産物、または W-G なる最初の商品変態の生産物である(68)。金が観念的の貨幣、または価値尺度となったのは、すべての商品がその価値を金で測り、かくてこれをその使用態容の観念化された反対物、すなわち、その価値態容となしたからである。金が実在的な貨幣となるのは、諸商品がその全面的な売渡しによって、金を諸商品の現実に脱皮した、または転化した使用態容となし、したがって、諸商品の現実の価値態容となすからである。その価値態容においては、商品は、その自然発生的にもっている使用価値、そしてその成立を負っている特別な有用労働の、あらゆる痕跡をはらい落としている。こうして、無差別な人間労働の一様な社会的な体化物に蛹化していくのである。したがって、人は貨幣にたいしては、貨幣に転化された商品がどんな種類のものかということを、少しも顧みない。どんな商品もその貨幣形態においては、他のそれと寸分たがわぬ顔つきをしている。だから、もちろん糞尿は貨幣ではないが、貨幣は糞尿であることもある。わが亜麻布織職が、その商品を売り渡した2個の金貨は、1クウォーターの小麦の転化した姿であると想定しよう。亜麻布の売り、W-G は、同時にその買い G-W である。しかしながら、亜麻布の売りとしては、この過程は一つの運動を始めている。この運動は、その反対物、すなわち聖書の買いで終わる。亜麻布の買いとしては、この過程は、一つの運動を終えている。それは、この過程の反対物、すなわち、小麦の売りをもって始まったのである。W―G(亜麻布-貨幣)という W-G-W (亜麻布-貨幣-聖書)の第一段階は、同時にG-W(貨幣-亜麻布)で、他の運動W-G-W(小麦―貨幣-亜麻布)の最後の段階である。ある商品の最初の変態、その商品形態から貨幣への転化は、つねに同時に、他の商品の第二の相対立した変態、すなわちその貨幣形態から商品への再転化である(69)。

(67) 「ある商品の価格は、ただ他の商品の価格をもってのみ、支払うことができる」(メルシェ・ドゥ・リヴィエール『政治社会の自然的本質的秩序』、『重農学派』テール版、第2部、554ページ)。
(68) 「この貨幣を得るためには、人は売っているはずである」(同上、543ページ)。
(69) 先に述べたように、例外をなすのは、金または銀生産者であって、彼はその生産物を、あらかじめ売っておかないで交換する。

15. G-W 商品の第二、または終局変態、すなわち、買い。―貨幣は、すべての他の商品の脱皮した姿、またはその一般的な売渡しの産物であるから、それは、絶対的に売渡しうる商品である。貨幣は、すべての価格を逆読みにする。そしてこのようにして、貨幣は、彼自身が商品となるための献身的な材料であるすべての商品体に、反映されている。同時に、諸商品が彼にウィンクする愛のまなざし、つまり価格は、彼の転化能力の限界、すなわち彼自身の量を示している。商品は、貨幣となることによって消滅するのであるから、人が貨幣について見るところは、貨幣がその所有者の手中にどうして達したか、または何が貨幣に転化したかということではない。どんな生まれであろうと、お金はくさくないものだ(„non olet“)。貨幣は、一方で売られた商品を代表するとすれば、他方で買いうべき商品を代表する(70)。

  (70) 「貨幣は、われわれの手中で、われわれが買いたいと思う物を示すのであるが、またわれわれがこの貨幣のために売った物をも示している」(メルシェ・ドゥ・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的本質的秩序』586ページ)。

16. G-W 買いは同時に売り W-G である。したがって、ある商品の最後の変態は、同時に他の商品の最初の変態である。われわれの亜麻布織職にとっては、彼の商品の生涯は、聖書をもって閉じられる。この聖書に、彼は、その2ポンド・スターリングを再転化させたのである。しかしながら、聖書販売者は、亜麻布織職から得た2ポンド・スターリングを、ウィスキーに転化する。G-WというW-G-W(亜麻布-貨幣―聖書)の終局段階は、同時にW-GなるW-G-W(聖書-貨幣-ウィスキー)の第一段階である。商品生産者は、一方的な生産物を供給するにすぎないのであるから、彼はこれを比較的大量に頻繁に売る。他方、彼は、その多方面な欲望のために、実現した価格を、または売上げて得た貨幣量を、つねに多数の買いに分散させなければならない事情にある。したがって、一つの売りは、各種の商品の多くの買いに流れこむ。ある商品の終局変態は、このようにして、他の商品の最初の変態の総和をなしている。

17. いまある商品の、例えば亜麻布の総変態を考察するとすれば、われわれは、まず第一に、それが二つの相対立した、そして相互に補足する運動W-G-WおよびG-Wからなることを見るのである。商品のこの二つの相対立した変転は、商品所有者の二つの相対立した社会的過程として行なわれ、その二つの相対立した経済的役柄に反映される。彼は、売りの担い手としては売り手であり、買いの担い手としては買い手である。しかし、商品のあらゆる変転の中に、その両形態、すなわち商品形態と貨幣形態が、同時に、しかしただ相対立した極に存するように、同一商品所有者が売り手である場合には、他の買い手が、買い手であるときは他の売り手が、彼に相対している。同一商品が、二つの逆の変転をひきつづいて経過して、商品から貨幣が、また貨幣から商品が生ずるように、同じ商品所有者は、売り手と買い手の役割を交代して演ずる。したがって、売り手や買い手になることは、決して固定した役柄なのではなくて、商品流通の内部で、絶えず人を交代させる役柄である。

18. 一商品の総変態には、その最も単純な形態において、四つの極と三人の登揚人物が想定される。最初に、商品に、たいして貨幣が、その価値態容として相対する。それは彼方に、他人の懐の中に、物的に硬い実在性をもっている。こうして、商品所有者に、貨幣所有者が相対する。商品がいま貨幣に転化されるやいなや、貨幣は商品の消過的な等価形態となる。貨幣のがわからいうと、その使用価値または内容は、他のいろいろの商品体の中にある。第一の商品変転の終局点として、貨幣は、同時に第二のそれの出発点である。このようにして、第一幕の売り手は第二幕の買い手となる。第二幕ではこの買い手に、第三の商品所有者が、売り手として相対する(71)。

  (71)「これによれば、4つの終局点と3人の契約当事者がある。このうち一人は2度関与する」(ル・トゥローヌ『社会的利益について』908ページ)。

19. 商品変態の二つの逆の運動段階が、一つの循環をつくり上げている。すなわち、商品形態-商品形態の脱却-商品形態への帰還である。もちろん、商品自身は、ここでは対立的な性質を示している。出発点では商品は、その所有者にとって非使用価値であり、終局点では使用価値である。このようにして、貨幣は、まず商品の転化した堅い価値結晶として現われ、後にはその単なる等価形態として消え去る。

20. 一商品の循環をなす二つの変態は、同時に、二つの他の商品の逆の部分変態をなす。この同じ一つの商品(亜麻布)は、それ自身の変態の序列を開始し、他の一商品(小麦)の総変態を閉ざす。第一の変転、売りの間に、この商品は、身一つでこの二つの役割を演ずる。これに反して、それ自身死という万物の運命をたどるはかない金の蛹として、商品は、同時に第三の商品の第一の変態を終結させることになる。各商品の変態序列が描く循環は、こうして他の商品の循環と入りまじっていて解けない。総過程は商品流通として表われる。

21. 商品流通は、形式だけでなく、本質的にも、直接的な生産物交換とはちがっている。その進行過程を、ちょっと見てみればわかる。亜麻布織職は、無条件に亜麻布を聖書と、自分の商品を他人のそれと交換した。しかし、この現象は、彼にとって真実であるだけである。冷いものより熱いものを選んだ聖書販売人は、亜麻布を聖書に代えようとは考えてもみなかった。ちょうど亜麻布織職は、小麦がその亜麻布と交換されたというようなことを、少しも知らないように。等々。Bの商品は、Aの商品に代わる。しかし、AとBとは、お互いにその商品を交換することはない。実際上AとBとが、お互いの間で交互に買い合うということも起こりうる。しかし、このような特別の結びつきは、決して商品流通の一般的関係から必ず生ずるわけではない。むしろ一方において、ここに示されているのは、商品交換が、直接的な生産物交換のもつ個人的地方的の限界を、どうして突き破り、人間労働の物質代謝を発展させるかということである。他方において、行動する各個人の手ではどうにもしがたい社会的な自然関連の大きな範囲が、発展してくる。織職が亜麻布を売りうるのは、ひとえに農民が小麦を売ったからであり、短慮者が聖書を売りうるのは、ひとえに織職が亜麻布を売ったからであり、火酒製造者が熱い水を売りうるのは、ひとえに他の者が永遠の生命の水を、すでに売ったからである、等々。

22. 流通過程は、それゆえに、直接の生産物交換のように、使用価値の場所変更、または持ち手変更で、消滅することはない。貨幣は消失することはない、というのは、それは結局ある商品の変態序列から、脱げて出てくるものであるからである。貨幣は、つねに商品が席をあけた流通個所に沈澱する。例えば、亜麻布の総変態、亜麻布―貨幣―聖書において、はじめに亜麻布が流通から脱落し、貨幣がその個所に進み、次に聖書が流通から脱し、貨幣がそのあとに進む。商品が商品によっておき代えられると、同時に、貨幣商品は第三の手にとどまる(72)。流通は絶えず貨幣を発汗している。

  (72) 第二版への注。この現象は、このように明瞭なるにもかかわらず、しかも経済学者によって、とくに俗流自由貿易論者によって、多くは看過されている。

23. あらゆる売りが買いであり、またその逆であるのであるから、商品流通は、売りと買いの必然的な均衡を含んでいるものであるというドグマほど、とんまな考えはあるまい。もしこのことが、現実に行なわれた売りの数は買いの同じ数に等しいと、いおうとするのだとすれば、これはなんの内容もない空しい言葉である。だが、問題は、売り手が自分自身の買い手を市場につれてくるということを、証明することにある。売買は、二人の対極的に対立している人、すなわち、商品所有者と貨幣所有者の間の相互関係としては、同一の行動である。それは同一人の行為としては、二つの対極的に対立した行動をなしている。したがって、売りと買いの一致は次のことを含んでいる、商品は、もし流通の錬金術的レトルトの中に投ぜられて、貨幣として出てこないとすれば、すなわち、商品所有者によって売られず、したがって貨幣所有者によって買われないとすれば。無用となるということである。さらに、先の一致は次のことを含んでいる、すなわち、この過程は、もしそれが成功すれば、商品の一つの静止点を、すなわち、長くあるいは短くつづきうる商品の生涯のくぎりをなしているのである。商品の第一の変態は、同時に売りと買いであるから、この部分過程は同時に独立の過程である。買い手は商品を、売り手は貨幣、すなわち、遅かれ早かれ再び市場に現われる流通能力ある形態を保持する一商品を、もっている。何びとも、他人が買うことなくしては、売ることはできない。しかし何びとも、彼自身が売ったから、直接に買わなければならぬということはない。流通は、生産物交換の時間的、場所的および個人的な限界をうち破るのであるが、それはこうしてである、すなわち、流通そのものが、自分の労働生産物を交換に出し、他人のそれと交換してくるという生産物交換に存する直接の一致を、売りと買いの対立に分裂させることによってである。独立的に相互に相対する過程が、内的統一をなすということは、同じくその内的統一が、外的の対立をなして運動するということを意味する。相互に補足し合うのであるから、内的には非独立的である者が、外的に独立している。この独立が一定の点まで進展すると、統一は強力的に一つの ―
恐慌によって貫かれる。商品に内在している対立、使用価値と価値、同時に直接的に社会的なる労働を表わさなければならない私的労働、同時にただ抽象的に一般的な労働となされる特別な具体的労働、物の人格化と人の物化 〔 Personifizierung der Sache und Versachlichung der Personen 〕。― というようなこの内在的矛盾は、商品変態の対立の中に、その発展した運動形態を保持している。したがって、これらの形態は、恐慌の可能性を、だがまたその可能性のみを、含んでいる。この可能性の現実性への発展は、単純な商品流通の立場からは、まだ少しも存在していない諸関係の全範囲を、必要とするのである(73)。

  (73) 『批判』74-76ページ〔邦訳、岩波文庫版、121一122ぺ-ジ。新潮社版『選集』第七巻、117ページ〕におけるジェイムズ・ミルにかんする、私の叙述を参照されよ。経済学的弁護論の方法の特徴的な点は二つある。第一に、商品流通と直接の生産物交換とを、それらの区別から単純に抽象することによって、  同一視するということである。第二に、資本主義的生産過程の矛盾をば、その生産代理者の諸関係を、商品流通から生ずる単純な諸関係に解消することによって、否定し去ろうという試みである。しかしながら、商品生産と商品流通とは、その範囲と深さとを異にしてではあるが、きわめて多種類の生産様式に属する現象である。したがって、これらに共通な抽象的な商品流通の範疇を識っただけでは、これらの生産様式のもつ differentia specifica (種差)について、すこしも知ることにならない。したがってまた、これを判断することはできない。経済学以外のいかなる科学においても、初歩的な陳腐なことを、このようにもったいぶって語ることは、行なわれていない。例えばJ・B・セイは、彼が商品は生産物であるということを知っているから、恐慌について権威ぶることができると思い上がっている。

24. 商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段の機能を得る。

 ・・・・以上、a 商品の変態 終わり・・・・

 第3章 貨幣または商品流通 第3節 貨幣
Erstes Buch
Der Produktionsprozeß des Kapitals
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Erster Abschnitt
Ware und Geld
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ERSTES KAPITEL
Die Ware
1. Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgröße)
1. <49> Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine "ungeheure Warensammlung"(1), die einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware.
2. Die Ware ist zunächst ein äußerer Gegenstand, ein Ding, das durch seine Eigenschaften menschliche Bedürfnisse irgendeiner Art befriedigt. Die Natur dieser Bedürfnisse, ob sie z.B. dem Magen oder der Phantasie entspringen, ändert nichts an der Sache (2). Es handelt sich hier auch nicht darum, wie die Sache das menschliche Bedürfnis befriedigt, ob unmittelbar als Lebensmittel, d.h. als Gegenstand des Genusses, oder auf einem Umweg, als Produktionsmittel.
Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist unter doppelten Gesichtspunkt zu betrachten, nach Qualität und Quantität. Jedes solches Ding ist ein Ganzes vieler Eigenschaften und kann daher nach verschiedenen Seiten nützlich sein. Diese verschiedenen Seiten und daher die mannigfachen <50> Gebrauchsweisen der Dinge zu entdecken ist geschichtliche Tat (3). So die Findung gesellschaftlicher Maße für die Quantität der nützlichen Dinge. Die Verschiedenheit der Warenmaße entspringt teils aus der verschiedenen Natur der zu messenden Gegenstände, teils aus Konvention.
3. Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert (4). Aber diese Nützlichkeit schwebt nicht in der Luft. Durch die Eigenschaften des Warenkörpers bedingt, existiert sie nicht ohne denselben. Der Warenkörper selbst, wie Eisen, Weizen, Diamant usw., ist daher ein Gebrauchswert oder Gut. Dieser sein Charakter hängt nicht davon ab, ob die Aneignung seiner Gebrauchseigenschaften dem Menschen viel oder wenig Arbeit kostet. Bei Betrachtung der Gebrauchswerte wird stets ihre quantitative Bestimmtheit vorausgesetzt, wie Dutzend Uhren, Elle Leinwand, Tonne Eisen usw. Die Gebrauchswerte der Waren liefern das Material einer eignen Disziplin, der Warenkunde (5). Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des - Tauschwerts.
4. Der Tauschwert erscheint zunächst als das quantitative Verhältnis, die Proportion, worin sich Gebrauchswerte einer Art gegen Gebrauchswerte anderer Art austauschen (6), ein Verhältnis, das beständig mit Zeit und Ort wechselt. Der Tauschwert scheint daher etwas Zufälliges und rein Rela- <51> tives, ein der Ware innerlicher, immanenter Tauschwert (valeur intrinsèque) also eine contradictio in adjecto (7). Betrachten wir die Sache näher.
5. Eine gewisse Ware, ein Quarter Weizen z.B. tauscht, sich mit x Stiefelwichse oder mit y Seide oder mit z Gold usw., kurz mit andern Waren in den verschiedensten Proportionen. Mannigfache Tauschwerte also hat der Weizen statt eines einzigen. Aber da x Stiefelwichse, ebenso y Seide, ebenso z Gold usw. der Tauschwert von einem Quarter Weizen ist, müssen y Stiefelwichse, y Seide, z Gold usw. durch einander ersetzbare oder einander gleich große Tauschwerte sein. Es folgt daher erstens: Die gültigen Tauschwerte derselben Ware drücken ein Gleiches aus. Zweitens aber: Der Tauschwert kann überhaupt nur die Ausdrucksweise, die "Erscheinungsform" eines von ihm unterscheidbaren Gehalts sein.
6. Nehmen wir ferner zwei Waren, z.B. Weizen und Eisen. Welches immer ihr Austauschverhältnis, es ist stets darstellbar in einer Gleichung, worin ein gegebenes Quantum Weizen irgendeinem Quantum Eisen gleichgesetzt wird, z.B. 1 Quarter Weizen = a Ztr. Eisen. Was besagt diese Gleichung? daß ein Gemeinsames von derselben Größe in zwei verschiednen Dingen existiert, in 1 Quarter Weizen und ebenfalls in a Ztr. Eisen. Beide sind also gleich einem Dritten, das an und für sich weder das eine noch das andere ist. Jedes der beiden, soweit es Tauschwert, muß also auf dies Dritte reduzierbar sein.
7. Ein einfaches geometrisches Beispiel veranschauliche dies. Um den Flächeninhalt aller gradlinigen Figuren zu bestimmen und zu vergleichen, löst man sie in Dreiecke auf. Das Dreieck selbst reduziert man auf einen von seiner sichtbaren Figur ganz verschiednen Ausdruck - das halbe Produkt seiner Grundlinie mit seiner Höhe. Ebenso sind die Tauschwerte der Waren zu reduzieren auf ein Gemeinsames, wovon sie ein Mehr oder Minder darstellen.
8. Dies Gemeinsame kann nicht eine geometrische, physikalische, chemische oder sonstige natürliche Eigenschaft der Waren sein. Ihre körperlichen Eigenschaften kommen überhaupt nur in Betracht, soweit selbe sie nutzbar machen, also zu Gebrauchswerten. Andererseits aber ist es grade die Abstraktion von ihren Gebrauchswerten, was das Austauschverhältnis <52> der Waren augenscheinlich charakterisiert. Innerhalb desselben gilt ein Gebrauchswert grade so viel wie jeder andre, wenn er nur in gehöriger Proportion vorhanden ist. Oder, wie der alte Barbon sagt:
"Die eine Warensorte ist so gut wie die andre, wenn ihr Tauschwert gleich groß ist. Da existiert keine Verschiedenheit oder Unterscheidbarkeit zwischen Dingen von gleich großem Tauschwert."(8)
9. Als Gebrauchswerte sind die Waren vor allem verschiedner Qualität, als Tauschwerte können sie nur verschiedner Quantität sein, enthalten also kein Atom Gebrauchswert.
10. Sieht man nun vom Gebrauchswert der Warenkörper ab, so bleibt ihnen nur noch eine Eigenschaft, die von Arbeitsprodukten. Jedoch ist uns auch das Arbeitsprodukt bereits in der Hand verwandelt. Abstrahieren wir von seinem Gebrauchswert, so abstrahieren wir auch von den körperlichen Bestandteilen und Formen, die es zum Gebrauchswert machen. Es ist nicht länger Tisch oder Haus oder Garn oder sonst ein nützlich. Alle seine sinnlichen Beschaffenheiten sind ausgelöscht. Es ist auch nicht länger das Produkt der Tischlerarbeit oder der Bauarbeit oder der Spinnarbeit oder sonst einer bestimmten produktiven Arbeit. Mit dem nützlichen Charakter der Arbeitsprodukte verschwindet der nützlicher Charakter der in ihnen dargestellten Arbeiten, es verschwinden also auch die verschiedenen konkreten Formen dieser Arbeiten, sie unterscheiden sich nicht länger, sondern sind allzusamt reduziert auf gleiche menschliche Arbeit, abstrakt menschliche Arbeit.
11. Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. Es ist nichts von ihnen übriggeblieben als dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine bloße Gallerte unerschiedsloser menschlicher Arbeit, d.h. der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Rücksicht auf die Form ihrer Verausgabung. Diese Dinge stellen nur noch dar, daß in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen Substanz sind sie Werte - Warenwerte.
12. <53> Im Austauschverhältnis der Waren selbst erschien uns ihr Tauschwert als etwas von ihren Gebrauchswerten durchaus Unabhängiges. Abstrahiert man nun wirklich vom Gebrauchswert der Arbeitsprodukte, so erhält man ihren Wert, wie er eben bestimmt ward. Das Gemeinsame, was sich im Austauschverhältnis oder Tauschwert der Ware darstellt, ist also ihr Wert. Der Fortgang der Untersuchung wird uns zurückführen zum Tauschwert als der notwendigen Ausdrucksweise oder Erscheinungsform des Werts, welcher zunächst jedoch unabhängig von dieser Form zu betrachten ist.
13. Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, weil abstrakt menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht oder materialisiert ist. Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen "wertbildenden Substanz", der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.
14. Es könnte scheinen, daß, wenn der Wert einer Ware durch das während ihrer Produktion verausgabte Arbeitsquantum bestimmt ist, je fauler oder ungeschickter ein Mann, desto wertvoller seine Ware, weil er desto mehr Zeit zu ihrer Verfertigung braucht. Die Arbeit jedoch, welche die Substanz der Werte bildet, ist gleiche menschliche Arbeit, Verausgabung derselben menschlichen Arbeitskraft. Die gesamte Arbeitskraft der Gesellschaft, die sich in den Werten der Warenwelt darstellt, gilt hier als eine und dieselbe menschliche Arbeitskraft, obgleich sie aus zahllosen individuellen Arbeitskräften besteht. Jede dieser individuellen Arbeitskräfte ist dieselbe menschliche Arbeitskraft wie die andere, soweit sie den Charakter einer gesellschaftlichen Durchschnitts-Arbeitskraft besitzt und als solche gesellschaftliche Durchschnitts-Arbeitskraft wirkt, also in der Produktion einer Ware auch nur die im Durchschnitt notwendige oder gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit braucht. Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Produktionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Durchschnittsgrad von Geschick und Intensität der Arbeit darzustellen. Nach der Einführung des Dampfwebstuhls in England z.B. genügte vielleicht halb so viel Arbeit als vorher, um ein gegebenes Quantum Garn in Gewebe zu verwandeln. Der englische Handweber brauchte zu dieser Verwandlung in der Tat nach wie vor dieselbe Arbeitszeit, aber das Produkt seiner individuellen Arbeitsstunde stellte jetzt nur noch eine halbe gesellschaftliche Arbeitsstunde dar und fiel daher auf die Hälfte seines frühern Werts.
15. <54> Es ist also nur das Quantum gesellschaftlich notwendiger Arbeit oder die zur Herstellung eines Gebrauchswerts gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit, welche seine Wertgröße bestimmt (9). Die einzelne Ware gilt hier überhaupt als Durchschnittsexemplar ihrer Art (10). Waren, worin gleich große Arbeitsquanta enthalten sind oder die in derselben Arbeitszeit hergestellt werden können, haben daher dieselbe Wertgröße. Der Wert einer Ware verhält sich zum Wert jeder andren Ware wie die zur Produktion der einen notwendige Arbeitszeit zu der für die Produktion der andren notwendigen Arbeitszeit. "Als Werte sind alle Waren nur bestimmte Maße festgeronnener Arbeitszeit."(11)
16. Die Wertgröße einer Ware bliebe daher konstant, wäre die zu ihrer Produktion erheischte Arbeitszeit konstant. Letztere wechselt aber mit jedem Wechsel in der Produktivkraft der Arbeit. Die Produktivkraft der Arbeit ist durch mannigfache Umstände bestimmt, unter anderen durch den Durchschnittsgrad des Geschickes der Arbeiter, die Entwicklungsstufe der Wissenschaft und ihrer technologischen Anwendbarkeit, die gesellschaftliche Kombination des Produktionsprozesses, den Umfang und die Wirkungsfähigkeit der Produktionsprozesses, und durch Naturverhältnisse. Dasselbe Quantum Arbeit stellt sich z.B. mit günstiger Jahreszeit in 8 Bushel Weizen dar, mit ungünstiger in nur 4. Dasselbe Quantum Arbeit liefert mehr Metalle in reichhaltigen als in armen Minen usw. Diamanten kommen selten in der Erdrinde vor, und ihre Findung kostet daher im Durchschnitt viel Arbeitszeit. Folglich stellen sie in wenig Volumen viel Arbeit dar. Jacob bezweifelt, daß Gold jemals seinen vollen Wert bezahlt <55> hat. Noch mehr gilt dies vom Diamant. Nach Eschwege hatte 1823 die achtzigjährige Gesamtausbeute der brasilischen Diamantgruben noch nicht den Preis des 11/2jährigen Durchschnittsprodukts der brasilischen Zucker oder Kaffeepflanzungen erreicht, obgleich sie viel mehr Arbeit darstellte, also mehr Wert. Mit reichhaltigeren Gruben würde dasselbe Arbeitsquantum sich in mehr Diamanten darstellen und ihr Wert sinken. Gelingt es, mit wenig Arbeit Kohle in Diamant zu verwandeln, so kann sein Wert unter den von Ziegelsteinen fallen. Allgemein: Je größer die Produktivkraft der Arbeit, desto kleiner die zur Herstellung eines Artikels erheischte Arbeitszeit, desto kleiner die in ihm kristallisierte Arbeitsmasse, desto kleiner sein Wert. Umgekehrt, je kleiner die Produktivkraft der Arbeit, desto größer die zur Herstellung eines Artikels notwendige Arbeitszeit, desto größer sein Wert. Die Wertgröße einer Ware wechselt also direkt wie das Quantum und umgekehrt wie die Produktivkraft der sich in ihr verwirklichenden Arbeit. <1. Auflage folgt: Wir kennen jetzt die Substanz des Werts. Es ist die Arbeit. Wir kennen sein Größenmaß. Es ist die Arbeitszeit. Seine Form, die den Wert eben zum Tausch-Wert stempelt, bleibt zu analysieren. Vorher jedoch sind die bereits gefundenen Bestimmungen etwas näher zu entwickeln.>
17. Ein Ding kann Gebrauchswert sein, ohne Wert zu sein. Es ist dies der Fall, wenn sein Nutzen für den Menschen nicht durch Arbeit vermittelt ist. So Luft, jungfräulicher Boden, natürliche Wiesen, wildwachsendes Holz usw. Ein Ding kann nützlich und Produkt menschlicher Arbeit sein, ohne Ware zu sein. Wer durch sein Produkt sein eignes Bedürfnis befriedigt, schafft zwar Gebrauchswert, aber nicht Ware. Um Ware zu produzieren, muß er nicht nur Gebrauchswert produzieren, sondern Gebrauchswert für andre, gesellschaftliche Gebrauchswert. {Und nicht nur für andre schlechthin. Der mittelalterlichen Bauer produzierte das Zinskorn für den Feudalherrn, das Zehntkorn für den Pfaffen. Aber weder Zinskorn noch Zehnkorn wurden dadurch Ware, daß sie für andre produziert waren. Um Ware zu werden, muß das Produkt dem andern, dem es als Gebrauchswert dient, durch den Austausch übertragen werden.}(11a) Endlich kann kein Ding Wert sein, ohne Gebrauchsgegenstand zu sein. Ist es nutzlos, so ist auch die in ihm enthaltene Arbeit nutzlos, zählt nicht als Arbeit und bildet daher keinen Wert.

Fußnoten
(1) Karl Marx, "Zur Kritik der Politischen Ökonomie", Berlin 1859, pag. 3. <Siehe Band 13, S. 15> <=
(2) "Verlangen schließt Bedürfnis ein; es ist der Appetit des Geistes, und so natürlich wie Hunger für den Körper ... die meisten (Dinge) haben ihren Wert daher, daß sie Bedürfnisse des Geistes befriedigen." (Nicholas Barbon, "A Discourse on coining the new money lighter. In answer to Mr. Locke's Considerations etc.", London 1696, p. 2, 3.) <=
(3) "Dinge haben einen intrinsick vertue" (dies bei Barbon die spezifische Bezeichnung für Gebrauchswert), "der überall gleich ist, so wie der des Magnets, Eisen anzuziehen" (l.c.p. 6). Die Eigenschaft des Magnets, Eisen anzuziehn, wurde erst nützlich, sobald man vermittelst derselben die magnetische Polarität entdeckt hatte. <=
(4) "Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befriedigen oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen." (John Locke, "Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest", 1691, in "Works", edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.) Im 17. Jahrhundert finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellen "Worth" für Gebrauchswert und "Value" für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudrücken. <=
(5) In der bürgerlichen Gesellschaft herrscht die fictio juris, daß jeder Mensch als Warenkäufer eine enzyklopädische Warenkenntnis besitzt. <=
(6) "Der Wert besteht in dem Tauschverhältnis, das zwischen einem Ding und einem anderen, zwischen der Menge eines Erzeugnisses und der eines anderen besteht." (Le Trosne, "De l'Intérêt Social", [in] "Physiocrates", éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) <=
(7) "Nichts kann einen inneren Tauschwert haben" (N. Barbon, l.c.p. 6), oder wie Butler sagt:
"Der Wert eines Dings
ist grade so viel, wie es einbringen wird." <=
(8) "One sort of wares are as good as another, if the value be equal. There is no difference or distinction in things of equal value ... One hundred pounds worth of lead or iron, is of as great a value as one hundred pounds worth of silver and gold." <" ... Blei oder Eisen im Werte von einhundert Pfund Sterling haben gleich großen Tauschwert wie Silber und Gold im Werte von einhundert Pfund Sterling."> (N. Barbon, l.c.p. 53 u. 7.) <=
(9) Note zur 2. Ausg. "The value of them (the necessaries of life) when they are exchagend the one for another, is regulated by the quantity of labour necessarily required, and commonly taken in producing them." "Der Wert von Gebrauchsgegenständen, sobald sie gegeneinander ausgetauscht werden, ist bestimmt durch das Quantum der zu ihrer Produktion notwendig erheischten und gewöhnlich angewandten Arbeit." ("Some Thoughts on the Interest of Money in general, and particularly in the Public funds etc.", London, p. 36, 37.) Diese merkwürdige anonyme Schrift des vorigen Jahrhunderts trägt kein Datum. Es geht jedoch aus ihrem Inhalt hervor, daß sie unter Georg II., etwa 1739 oder 1740, erschienen ist. <=
(10) "Alle Erzeugnisse der gleichen Art bilden eigentlich nur eine Masse, deren Preis allgemein und ohne Rücksicht auf die besonderen Umstände bestimmt wird." <=
(11) K. Marx, l.c.p.6. <Siehe Band 13, S. 18> <=
(11a) Note zur 4. Aufl. - Ich schiebe das Eingeklammerte ein, weil durch dessen Weglassung sehr häufig das Mißverständnis entstanden, jedes Produkt, das von einem andern als dem Produzenten konsumiert wird, gelte bei Marx als Ware. - F. E. <=
(12) l.c.p. 12, 13 und passim. <Siehe Band 13, S. 22, 23 und passim> <=
(13) "Alle Erscheinungen des Weltalls, seien sie hervorgerufen von der Hand des Menschen oder durch die allgemeinen Gesetze der Physik, sind nicht tatsächliche Neuschöpfungen, sondern lediglich eine Umformung des Stoffes. Zusammensetzen und Trennen sind die einzigen Elemente, die der menschliche Geist immer wieder bei der Analyse der Verstellung der Reproduktion findet; und ebenso verhält es sich mit der Reproduktion des Wertes" (Gebrauchswert, obgleich Verri hier in seiner Polemik gegen die Physiokraten selbst nicht recht weiß, von welcher Sorte Wert er spricht) "und des Reichtums, wenn Erde, Luft und Wasser auf den Feldern sich in Korn verwandeln, oder auch wenn sich durch die Hand des Menschen die Abscheidung eines Insekts in Seide verwandelt, oder einige Metallteilchen sich anordnen, um eine Repetieruhr zu bilden." (Pietro Verri, "Meditazioni sulla Economia Politica" - zuerst gedruckt 1771 - in der Ausgabe der italienischen Ökonomen von Custodi, Parte Moderna, t. XV, p. 21, 22.) <=
(14) Vgl. Hegel, "Philosophie des Rechts", Berlin 1840, p. 250, § 190. <=
(15) Der Leser muß aufmerken, daß hier nicht vom Lohn oder Wert die Rede ist, den der Arbeiter für etwa einen Arbeitstag erhält, sondern vom Warenwert, worin sich sein Arbeitstag vergegenständlicht. Die Kategorie des Arbeitslohns existiert überhaupt noch nicht auf dieser Stufe unsrer Darstellung. <=
(16) Note zur 2. Ausg. Um zu beweisen, "daß die Arbeit allein das endgültige und reale Maß ist, woran der Wert aller Waren zu allen Zeiten geschätzt und verglichen werden kann", sagt A. Smith: "Gleiche Quantitäten Arbeit müssen zu allen Zeiten und an allen Orten für den Arbeiter selbst denselben Wert haben. In seinem normalen Zustand von Gesundheit, Kraft und Tätigkeit und mit dem Durchschnittsgrad von Geschicklichkeit, die er besitzen mag, muß er immer die nämliche Portion seiner Ruhe, seiner Freiheit und seines Glücks hingeben." ("Wealth of Nations", b. I, ch. V, [p.104/105].) Einerseits verwechselt A. Smith hier (nicht überall) die Bestimmung des Werts durch das in der Produktion der Ware verausgabte Arbeitsquantum mit der Bestimmung der Warenwerte durch den Wert der Arbeit und sucht daher nachzuweisen, daß gleiche Quantitäten Arbeit stets denselben Wert haben. Andrerseits ahnt er, daß die Arbeit, soweit sie sich im Wert der Waren darstellt, nur als Verausgabung von Arbeitskraft gilt, faßt diese Verausgabung aber wieder bloß als Opfer von Ruhe, Freiheit und Glück, nicht auch als normale Lebensbetätigung. Allerdings hat er den modernen Lohnarbeiter vor Augen. - Viel treffender sagt der Note 9 zitierte anonyme Vorgänger von A. Smith: "Ein Mann hat eine Woche auf Herstellung dieses Bedarfsgegenstands verwandt ... und der, welcher ihm einen anderen Gegenstand im Austausch gibt, kann nicht richtiger abschätzen, was wirklich gleichwertig ist, als durch die Berechnung, was ihm ebensoviel labour und Zeit kostet. Das bedeutet in der Tat den Austausch der labour, die ein Mensch in einer bestimmten Zeit auf einen Gegenstand verwandt hat, gegen die labour eines andren, in der gleichen Zeit auf einen anderen Gegenstand verwandt." ("Some Thoughts on the Interest of Money in general etc.", p. 39.) - {Zur 4. Auflage: Die englische Sprache hat den Vorzug, zwei verschiedne Worte für diese zwei verschiednen Aspekte der Arbeit zu haben. Die Arbeit, die Gebrauchswerte schafft und qualitativ bestimmt ist, heißt work, im Gegensatz zu labour; Die Arbeit, die Wert schafft und nur quantitativ gemessen wird, heißt labour im Gegensatz zu work. Siehe Note zu engl. Übersetzung, p. 14. - F. E.} <=
(17) Die wenigen Ökonomen, die sich, wie S. Bailey, mit der Analyse der Wertform beschäftigt haben, konnten zu keinem Resultat kommen, einmal, weil sie Wertform und Wert verwechseln, zweitens, weil sie, unter dem rohen Einfluß des praktischen Bürgers, von vornherein ausschließlich die quantitative Bestimmtheit ins Auge fassen. "Die Verfügung über die Quantität ... macht den Wert." ("Money and its Vicissitudes", Lond. 1837, p.11.) Verfasser S. Bailey. <=
(17a) Note zur 2. Ausgabe. Einer der ersten Ökonomen, der nach William Petty die Natur des Werts durchschaut hat, der berühmte Franklin, sagt: "Da der Handel überhaupt nichts ist als der Austausch einer Arbeit gegen andre Arbeit, wird der Wert aller Dinge am richtigsten geschätzt in Arbeit." ("The Works of B. Franklin etc.", edited by Sparks, Boston 1836, v. II, p .267.) Franklin ist sich nicht bewußt, daß, indem er den Wert aller Dinge "in Arbeit" schätzt, er von der Verschiedenheit der ausgetauschten Arbeiten abstrahiert - und sie so auf gleiche menschliche Arbeit reduziert. Was er nicht weiß, sagt er jedoch. Er spricht erst von "der einen Arbeit", dann "von der andren Arbeit", schließlich von "Arbeit" ohne weitere Bezeichnung als Substanz des Werts aller Dinge. <=
(18) In gewisser Art geht's dem Menschen wie der Ware. Da er weder mit einem Spiegel auf die Welt kommt noch als Fichtescher Philosoph: Ich bin ich, bespiegelt sich der Mensch zuerst in einem andren Menschen. Erst durch die Beziehung auf den Menschen Paul als seinesgleichen bezieht sich der Mensch Peter auf sich selbst als Mensch. Damit gilt ihm aber auch der Paul mit Haut und Haaren, in seiner paulinischen Leiblichkeit, als Erscheinungsform des Genus Mensch. <=
(19) Der Ausdruck "Wert" wird hier, wie beiläufig schon früher stellenweis geschah, für quantitativ bestimmten Wert, also für Wertgröße gebraucht. <=
(20) Note zur 2. Ausg. Diese Inkongruenz zwischen der Wertgröße und ihrem relativen Ausdruck ist von der Vulgärökonomie mit gewohntem Scharfsinn ausgebeutet worden. z.B.: "Gebt einmal zu, daß A fällt, weil B, womit es ausgetauscht wird, steigt, obgleich unterdessen nicht weniger Arbeit auf A verausgabt wird, und euer allgemeines Wertprinzip fällt zu Boden ...Wenn zugegeben wird, daß, weil der Wert von A relativ zu B steigt, der Wert von B relativ zu A fällt, ist der Grund unter den Füßen weggeschnitten, worauf Ricardo seinen großen Satz aufstellt, daß der Wert einer Ware stets bestimmt ist durch das Quantum der ihr einverleibten Arbeit; denn wenn ein Wechsel in den Kosten von A nicht nur seinen eignen Wert im Verhältnis zu B, womit es ausgetauscht wird, verändert, sondern auch den Wert von B relativ zu dem von A, obgleich kein Wechsel stattgefunden hat in dem zur Produktion von B erheischten Arbeitsquantum, dann fällt nicht nur die Doktrin zu Boden, die versichert, daß die auf einen Artikel verausgabte Quantität Arbeit seinen Wert reguliert, sondern auch die Doktrin, daß die Produktionskosten eines Artikel seinen Wert regulieren." (J. Broadhurst, "Political Economy", London 1842, p. 11, 14.)
Herr Broadhurst konnte ebensogut sagen: Man sehe sich einmal die Zahlenverhältnisse 10/20, 10/50, 10/100 usw. an. Die Zahl 10 bleibt unverändert, und dennoch nimmt ihre proportionelle Größe, ihre Größe relativ zu den Nennern 20, 50, 100, beständig ab. Also fällt das große Prinzip zu Boden, daß die Größe einer ganzen Zahl wie 10 z.B. durch die Anzahl der in ihr enthaltenen Einer "reguliert" ist. <=
(21) Es ist mit solchen Reflexionsbestimmungen überhaupt ein eigenes Ding. Dieser Mensch ist z.B. nur König, weil sich andre Menschen als Untertanen zu ihm verhalten. Sie glauben umgekehrt Untertanen zu sein, weil er König ist. <=
(22) Note zur 2. Ausg. F. L. A. Ferrier (sous-inspecteur des douanes <Unterinspekteur des Zollwesens>), "Du Gouvernement considéré dans ses rapports avec le commerce", Paris 1805, und Charles Ganilh, "Des Systèmes d'Économie Politique", 2ème éd., Paris 1821. <=
(22a) Note zur 2. Aufl. Z.B. bei Homer wird der Wert eines Dings in einer Reihe verschiedner Dings ausgedrückt. <=
(23) Man spricht deshalb vom Rockwert der Leinwand, wenn man ihren Wert in Röcken, von ihrem Kornwert, wenn man ihn in Korn darstellt etc. Jeder solche Ausdruck besagt, daß es ihr Wert ist, der in den Gebrauchswerten Rock, Korn usw. erscheint. "Das der Wert jeder Waren ihr Verhältnis im Austausch bezeichnet, können wir ihn bezeichnen als ... Kornwert, Tuchwert, je nach der Ware, mit der sie verglichen wird; und daher gibt es tausend verschiedene Arten von Werten, so viele, wie Waren vorhanden sind, und alle sind gleich real und gleich nominell." ("A Critical Dissertation on the Nature, Measures, and Causes of Value; chiefly in reference to the writings of Mr. Ricardo and his followers. By the Author of Essays on the Formation etc. of Opinions", London 1825, p. 39.) S. Bailey, der Verfasser dieser anonymen Schrift, die ihrer Zeit viel Lärm in England machte, wähnt durch diesen Hinweis auf die kunterbunten relativen Ausdrücke desselben Warenwerts alle Begriffsbestimmung des Werts vernichtet zu haben. Daß er übrigens, trotz eigner Borniertheit, wunde Flecken der Ricardoschen Theorie sondiert hatte, bewies die Gereiztheit, womit die Ricardosche Schule ihn angriff, z.B. in der "Westminster Review". <=
(24) Man sieht es der Form allgemeiner unmittelbarer Austauschbarkeit in der Tat keineswegs an, daß sie eine gegensätzliche Warenform ist, von den Form nicht unmittelbarer Austauschbarkeit ebenso unzertrennlich wie die Positivität eines Magnetpols von der Negativität des andren. Man mag sich daher einbilden, man könne allen Waren zugleich den Stempel unmittelbarer Austauschbarkeit aufdrücken, wie man sich einbilden mag, man könne alle Katholiken zu Päpsten mache. Für den Kleinbürger, der in der Warenproduktion das nec plus ultra <den Gipfel> menschlicher Freiheit und individueller Unabhängigkeit erblickt, wäre es natürlich sehr wünschenswert, der mit dieser Form verbundnen Mißstände überhoben zu sein, namentlich auch der nicht unmittelbaren Austauschbarkeit der Waren. Die Ausmalung dieser Philisterutopie bildet Proudhons Sozialismus, der, wie ich anderswo gezeigt <Karl Marx, "Misère de la philosophie. Réponse à la philosophie de la misère de M. Proudhon", Paris, Bruxelles 1874, Kap. 1 (siehe Bd. 4, S, 67-124)>, nicht einmal das Verdienst der Originalität besitzt, vielmehr lange vor ihm von Gray, Bray und andern weit besser entwickelt wurde. Dies verhindert solche Weisheit nicht, heutzutage, in gewissen Kreisen, unter dem Namen der "science" <"Wissenschaft"> zu grassieren. Nie hat eine Schule mehr als die Proudhonsche mit dem Wort "sceince" um sich geworfen, denn
"wo Begriffe fehlen,
da stellt zur rechten Zeit ein Wort sich ein". <=
(25) Man erinnert sich, daß China und die Tische zu tanzen anfingen, als alle übrige Welt still zu stehn schien - pour encourager les autres <um die andern zu ermutigen>. <=
(26) Note zur 2. Ausg. Bei den alten Germanen wurde die Größe eines Morgens Land nach der Arbeit eines Tages berechnet und daher der Morgen Tagwerk (auch Tagwanne) (jurnale oder jurnalis, terra jurnalis, jornalis oder diurnalis), Mannwerk, Mannskraft, Mannsmaad, Mannshauet usf. benannt. Sieh Georg Ludwig von Maurer, "Einleitung zur Geschichte der Mark-, Hof-, usw. Verfassung", München 1854, p. 129 sq. <=
(27) Note zur 2. Ausg. Wenn daher Galiani sagt: Der Wert ist ein Verhältnis zwischen Personen - "La Ricchezza è una ragione tra due persone" - , so hätte er hinzusetzen müssen: unter dinglicher Hülle verstecktes Verhältnis. (Galiani, "Della Moneta", p. 221, t. III von Custodis Sammlung der "Scrittori Classici Italiani di Economia Politica", Parte Moderna, Milano 1803.) <=
(28) "Was soll man von einem Gesetze denken, das sich nur durch periodische Revolutionen durchsetzten kann?" (Friedrich Engels, "Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie" in "Deutsch-Französische Jahrbücher", herausg. von Arnold Ruge und Karl Marx, Paris 1844.) <Siehe Band 1, S. 515> <=
(29) Note zur 2. Ausgabe. Auch Ricardo ist nicht ohne seine Robinsonade. "Den Urfischer und den Urjäger läßt er sofort als Warenbesitzer Fisch und Wild austauschen, im Verhältnis der in diesen Tauschwerten vergegenständlichten Arbeitszeit. Bei dieser Gelegenheit fällt er in den Anachronismus, daß Urfischer und Urjäger zur Berechnung ihrer Arbeitsinstrumente die 1817 auf der Londoner Börse gangbaren Annuitätentabellen zu Rate ziehn. Die 'Parallelogramme des Herrn Owen' scheinen die einzige Gesellschaftsform, die er außer der bürgerlichen kannte." (Karl Marx, "Zur Kritik etc.", p.38, 39. <Siehe Band 13, S.46>) <=
(30) Note zur 2. Ausgabe. "Es ist ein lächerliches Vorurteil in neuester Zeit verbreitet, daß die Form des naturwüchsigen Gemeineigentums spezifische, sogar ausschließlich russische Form sei. Sie ist die Urform, die wir bei Römern, Germanen, Kelten nachweisen können, von der aber eine ganze Musterkarte mit mannigfachen Proben sich noch immer, wenn auch zum Teil ruinenweise, bei den Indiern vorfindet. Ein genaueres Studium der asiatischen, speziell der indischen Gemeineigentumsformen würde nachweisen, wie aus den verschiednen Formen des naturwüchsigen Gemeineigentums sich verschiedne Formen seiner Auflösung ergeben. So lassen sich z.B. die verschiednen Originaltypen von römischem und germanischem Privateigentum aus verschiednen Formen des indischen Gemeineigentums ableiten."(Karl Marx, "Zur Kritik etc.", p. 10. <Siehe Band 13 unserer Ausgabe, S.21>) <=
(31) Das Unzulängliche in Ricardos Analyse der Wertgröße - und es ist die beste - wird man aus dem dritten und vierten Buch dieser Schrift ersehn. Was aber den Wert überhaupt betrifft, so unterscheidet die klassische politische Ökonomie nirgendwo ausdrücklich und mit klarem Bewußtsein die Arbeit, wie sie sich im Wert, von derselben Arbeit, soweit sie sich im Gebrauchswert ihres Produkts darstellt. Sie macht natürlich den Unterschied tatsächlich, da sie die Arbeit das einemal quantitativ, da andremal qualitativ betrachtet. Aber es fällt ihr nicht ein, daß bloß quantitativer Unterschied der Arbeiten ihre qualitative Einheit oder Gleichheit voraussetzt, also ihre Reduktion auf abstrakt menschliche Arbeit. Ricardo z.B. erklärt sich einverstanden mit Destutt de Tracy, wenn dieser sagt: "Da es sicher ist, daß unsere körperlichen und geistigen Fähigkeiten allein unser ursprünglicher Reichtum sind, ist der Gebrauch dieser Fähigkeiten, eine gewisse Art Arbeit, unser ursprünglicher Schatz; es ist immer dieser Gebrauch, welcher alle jene Dinge schafft, die wir Reichtum nennen ... Zudem ist es gewiß, daß alle jene Dinge nur die Arbeit darstellen, die sie geschaffen hat, und wenn sie einen Wert haben, oder sogar zwei unterschiedliche Werte, so können sie dies doch nur haben aus dem" (dem Wert) "der Arbeit, der sie entspringen." (Ricardo, "The principles of Pol. Econ.", 3. ed., Lond. 1821, p. 334. <Vgl. Destutt de Tracy, "Elemens d'ideologie." IVe et Ve parties, Paris 1826, p.35, 36>) Wir deuten nur an, daß Ricardo dem Destutt seinen eignen tieferen Sinn unterschiebt. Destutt sagt in der Tat zwar einerseits, daß alle Dinge, die den Reichtum bilden, "die Arbeit repräsentieren, die sie geschaffen hat", aber andrerseits, daß sie ihre "zwei verschiedenen Werte" (Gebrauchswert und Tauschwert) vom "Wert der Arbeit" erhalten. Er fällt damit in die Flachheit der Vulgärökonomie, die den Wert einer Ware (hier der Arbeit) voraussetzt, um dadurch hinterher den Wert der andren Waren zu bestimmen. Ricardo liest ihn so, daß sowohl im Gebrauchswert als Tauschwert sich Arbeit (nicht Wert der Arbeit) darstellt. Er selbst aber scheidet so wenig den zwieschlächtigen Charakter der Arbeit, die doppelt dargestellt ist, daß er in dem ganzen Kapitel: "Value and Riches, their Distinctive Properties" <"Wert und Reichtum, ihre unterscheidenden Eigenschaften"> sich mühselig mit den Trivialitäten eines J. B. Say herumschlagen muß. Am Ende ist er daher auch ganz erstaunt, daß Destutt zwar mit ihm selbst über Arbeit als Wertquelle und dennoch andrerseits mit Say über den Wertbegriff harmoniere. <=
(32) Es ist einer der Grundmängel der klassischen politischen Ökonomie, daß es ihr nie gelang, aus der Analyse der Ware und spezieller des Warenwerts die Form des Werts, die ihn eben zum Tauschwert macht, herauszufinden. Grade in ihren besten Repräsentanten, wie A. Smith und Ricardo, behandelt sie die Wertform als etwas ganz Gleichgültiges oder der Natur der Ware selbst Äußerliches. Der Grund ist nicht allein, daß die Analyse der Wertgröße ihre Aufmerksamkeit ganz absorbiert. Er liegt tiefer. Die Wertform des Arbeitsprodukts ist die abstrakteste, aber auch allgemeinste Form der bürgerlichen Produktionsweise, die hierdurch als eine besondere Art gesellschaftlicher Produktion und damit zugleich historisch charakterisiert wird. Versieht man sie daher für die ewige Naturform gesellschaftlicher Produktion, so übersieht man notwendig auch das Spezifische der Wertform, also der Warenform, weiter entwickelt der Geldform, Kapitalform usw. Man findet daher bei Ökonomen, welche über das Maß der Wertgröße durch Arbeitszeit durchaus übereinstimmen, die kunterbuntesten und widersprechendsten Vorstellungen von Geld, d.h. der fertigen Gestalt des allgemeinen Äquivalents. Dies tritt schlagend hervor z.B. bei der Behandlung des Bankwesens, wo mit den gemeinplätzlichen Definitionen des Geldes nicht mehr ausgereicht wird. Im Gegensatz entsprang daher ein restauriertes Merkantilsystem (Ganilh usw.), welches im Wert nur die gesellschaftliche Form sieht oder vielmehr nur ihren substanzlosen Schein. - Um es ein für allemal zu bemerken, verstehe ich unter klassischer politischer Ökonomie alle Ökonomie seit W. Petty, die den innern Zusammenhang der bürgerlichen Produktionsverhältnisse erforscht im Gegensatz zur Vulgärökonomie, die sich nur innerhalb des scheinbaren Zusammenhangs herumtreibt, für eine plausible Verständlichmachung der sozusagen gröbsten Phänomene und den bürgerlichen Hausbedarf das von der wissenschaftlichen Ökonomie längst gelieferte Material stets von neuem wiederkaut, im übrigen aber sich darauf beschränkt, die banalen und selbstgefälligen Vorstellungen der bürgerlichen Produktionsagenten von ihrer eignen besten Welt zu systematisieren, pedantisieren und als ewige Wahrheiten zu proklamieren. <=
(33) "Die Ökonomen verfahren auf eine sonderbare Art. Es gibt für sie nur zwei Arten von Institutionen, künstliche und natürliche. Die Institutionen des Feudalismus sind künstliche Institutionen, die der Bourgeoisie natürliche. Sie gleichen darin den Theologen, die auch zwei Arten von Religionen unterscheiden. Jede Religion, die nicht die ihre ist, ist eine Erfindung der Menschen, während ihre eigene Religion eine Offenbarung Gottes ist. - Somit hat es eine Geschichte gegeben, aber es gibt keine mehr." (Karl Marx, "Misère de la Philosophie. Réponse à la Philosophie de la Misère de M. Proudhon", 1847, p. 113. <Siehe Band 4, S 139>) Wahrhaft drollig ist Herr Bastiat, der sich einbildet, die alten Griechen und Römer hätten nur von Raub gelebt. Wenn man aber viele Jahrhunderte durch von Raub lebt, muß doch beständig etwas zu rauben da sein oder der Gegenstand des Raubes sich fortwährend reproduzieren. Es scheint daher, daß auch Griechen und Römer einen Produktionsprozeß hatten, also eine Ökonomie, welche ganz so die materielle Grundlage ihrer Welt bildete wie die bürgerliche Ökonomie die der heutigen Welt. Oder meint Bastiat etwa, daß eine Produktionsweise, die auf der Sklavenarbeit beruht, auf einem Raubsystem ruht? Er stellt sich dann auf gefährlichen Boden. Wenn ein Denkriese wie Aristoteles in seiner Würdigung der Sklavenarbeit irrte, warum sollte ein Zwergökonom, wie Bastiat, in seiner Würdigung der Lohnarbeit richtig gehn? - Ich ergreife diese Gelegenheit, um einen Einwand, der mir beim Erscheinen meiner Schrift "Zur Kritik der Pol. Oekonomie", 1859, von einem deutsch-amerikanischen Blatte gemacht wurde, kurz abzuweisen. Es sagte, meine Ansicht, daß die bestimmte Produktionsweise und die ihr jedesmal entsprechenden Produktionsverhältnisse, kurz "die ökonomische Struktur der Gesellschaft die reale Basis sei, worauf sich ein juristischer und politischer Überbau erhebe und welcher bestimmte gesellschaftliche Bewußtseinsformen entsprächen", daß "die Produktionsweise des materiellen Lebens den sozialen, politischen und geistigen Lebensprozeß überhaupt bedinge" <siehe Band 13, S. 8/9>, - alles dies sei zwar richtig für die heutige Welt, wo die materiellen Interessen, aber weder für das Mittelalter, wo der Katholizismus, noch für Athen und Rom, wo die Politik herrschte. Zunächst ist es befremdlich, daß jemand vorauszusetzen beliebt, diese weltbekannten Redensarten über Mittelalter und antike Welt seien irgend jemand unbekannt geblieben. Soviel ist klar, daß das Mittelalter nicht vom Katholizismus und die antike Welt nicht von der Politik leben konnte. Die Art und Weise, wie sie ihr Leben gewannen, erklärt umgekehrt, warum dort die Politik, hier der Katholizismus die Hauptrolle spielte. Es gehört übrigens wenig Bekanntschaft z.B. mit der Geschichte der römischen Republik dazu, um zu wissen, daß die Geschichte des Grundeigentums ihre Geheimgeschichte bildet. Andrerseits hat schon Don Quixote den Irrtum gebüßt, daß er die fahrende Ritterschaft mit allen ökonomischen Formen der Gesellschaft gleich verträglich wähnte. <=
(34) "Value is a property of things, riches of man. Value, in this sense, necessarily implies exchange, riches do not." ("Observations on some verbal disputes in Pol. Econ., particularly relating to value, and to supply and demand", Lond. 1821, p. 16.) <=
(35) "Riches are the attribute of man, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable ... A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond." (S. Bailey, l.c.p. 165 sq.) <=
(36) Der Verfasser der "Observations" und S. Bailey beschuldigen Ricardo, er habe den Tauschwert aus einem nur Relativen in etwas Absolutes verwandelt. Umgekehrt. Er hat die Scheinrelativität, die diese Dinge, Diamant und Perlen z.B., als Tauschwerte besitzen, auf das hinter dem Schein verborgene wahre Verhältnis reduziert, auf ihre Relativität als bloße Ausdrücke menschlicher Arbeit. Wenn die Ricardianer dem Bailey grob, aber nicht schlagend antworten, so nur, weil sie bei Ricardo selbst keinen Aufschluß über den inneren Zusammenhang zwischen Wert und Wertform oder Tauschwert fanden. <=

D.『資本論』1-1-2
2. Doppelcharakter der in den Waren dargestellten Arbeit
1. <56> Ursprünglich erschien uns die Ware als ein Zwieschlächtiges, Gebrauchswert und Tauschwert. Später zeigte sich, daß auch die Arbeit, soweit sie im Wert ausgedrückt ist, nicht mehr dieselben Merkmale besitzt, die ihr als Erzeugerin von Gebrauchswerten zukommen. Diese zwieschlächtige Natur der in der Ware enthaltenen Arbeit ist zuerst von mir kritisch nachgewiesen worden.(12) Da dieser Punkt der Springpunkt ist, um den sich das Verständnis der politischen Ökonomie dreht, soll er hier näher beleuchtet werden.
2. Nehmen wir zwei Waren, etwa einen Rock und 10 Ellen Leinwand. Der erster habe den zweifachen Wert der letzteren, so daß, wenn 10 Ellen Leinwand = W, der Rock = 2 W.
3. Der Rock ist ein Gebrauchswert, der ein besonderes Bedürfnis befriedigt. Um ihn hervorzubringen, bedarf es einer bestimmten Art produktiver Tätigkeit. Sie ist bestimmt durch ihren Zweck, Operationsweise, Gegenstand, Mittel und Resultat. Die Arbeit, deren Nützlichkeit sich so im Gebrauchswert ihres Produkts oder darin darstellt, daß ihr Produkt ein Gebrauchswert ist, nennen wir kurzweg nützliche Arbeit. Unter diesem Gesichtspunkt wird sie stets betrachtet mit Bezug auf ihren Nutzeffekt.
4. Wie Rock und Leinwand qualitativ verschiedne Gebrauchswerte, so sind die ihr Dasein vermittelnden Arbeiten qualitativ verschieden - Schneiderei und Weberei. Wären jene Dinge nicht qualitativ verschiedne Gebrauchswerte und daher Produkte qualitativ verschiedner nützlicher Arbeiten, so könnten sie sich überhaupt nicht als Waren gegenübertreten. Rock tauscht sich nicht aus gegen Rock, derselbe Gebrauchswert nicht gegen denselben Gebrauchswert.
5. In der Gesamtheit der verschiedenartigen Gebrauchswerte oder Warenkörper erscheint eine Gesamtheit ebenso mannigfaltiger, nach Gattung, Art, Familie, Unterart, Varietät verschiedner nützlicher Arbeiten - eine gesellschaftliche Teilung der Arbeit. Sie ist Existenzbedingung der Warenproduktion, obgleich Warenproduktion nicht umgekehrt die Existenzbedingung gesellschaftlicher Arbeitsteilung. In der altindischen Gemeinde ist die Arbeit gesellschaftlich geteilt, ohne daß die Produkte zu Waren werden. Oder, ein näher liegendes Beispiel, in jeder Fabrik ist die Arbeit syste- <57> matisch geteilt, aber diese Teilung nicht dadurch vermittelt, daß die Arbeiter ihre individuellen Produkte austauschen. Nur Produkte selbständiger und voneinander unabhängiger Privatarbeiten treten einander als Waren gegenüber.
6. Man hat also gesehn: in dem Gebrauchswert jeder Ware steckt eine bestimmte zweckmäßig produktive Tätigkeit oder nützliche Arbeit. Gebrauchswerte können sich nicht als Waren gegenübertreten, wenn nicht qualitativ verschiedne nützliche Arbeiten in ihnen stecken. In einer Gesellschaft, deren Produkte allgemein die Form der Ware annehmen, d.h. in einer Gesellschaft von Warenproduzenten, entwickelt sich dieser qualitative Unterschied der nützlichen Arbeiten, welche unabhängig voneinander als Privatgeschäfte selbständiger Produzenten betrieben werden, zu einem vielgliedrigen System, zu einer gesellschaftlichen Teilung der Arbeit.
7. Dem Rock ist es übrigens gleichgültig, ob er vom Schneider oder vom Kunden des Schneiders getragen wird. In beiden Fällen wirkt er als Gebrauchswert. Ebensowenig ist das Verhältnis zwischen dem Rock und der ihn produzierenden Arbeit an und für sich dadurch verändert, daß die Schneiderei besondre Profession wird, selbständiges Glied der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit. Wo ihn das Kleidungsbedürfnis zwang, hat der Mensch jahrtausendelang geschneidert, bevor aus einem Menschen ein Schneider ward. Aber das Dasein von Rock, Leinwand, jedem nicht von Natur vorhandnen Element des stofflichen Reichtums, mußte immer vermittelt sein durch eine spezielle, zweckmäßig produktive Tätigkeit, die besondere Naturstoffe besondren menschlichen Bedürfnissen assimiliert. Als Bildnerin von Gebrauchswerten, als nützliche Arbeit, ist die Arbeit daher eine von allen Gesellschaftsformen unabhängige Existenzbedingung des Menschen, ewige Naturnotwendigkeit, um den Stoffwechsel zwischen Mensch und Natur, also das menschliche Leben zu vermitteln.
8. Die Gebrauchswerte Rock, Leinwand usw., kurz die Warenkörper, sind Verbindungen von zwei Elementen, Naturstoff und Arbeit. Zieht man die Gesamtsumme aller verschiednen nützlichen Arbeiten ab, die in Rock, Leinwand usw. stecken, so bleibt stets ein materielles Substrat zurück, das ohne Zutun des Menschen von Natur vorhanden ist. Der Mensch kann in seiner Produktion nur verfahren, wie die Natur selbst, d.h. nur die Formen der Stoffe ändern.(13) Noch mehr. In dieser Arbeit der Formung <58> selbst wird er beständig unterstützt von Naturkräften. Arbeit ist also nicht der einzige Quelle der von ihr produzierten Gebrauchswerte, des stofflichen Reichtums. Die Arbeit ist sein Vater, wie William Petty sagt, und die Erde seine Mutter.
9. Gehen wir nun von der Ware, soweit sie Gebrauchsgegenstand, über zum Waren-Wert.
Nach unsrer Unterstellung hat der Rock den doppelten Wert der Leinwand. Dies ist aber nur ein quantitativer Unterschied, der uns zunächst noch nicht interessiert. Wir erinnern daher, daß, wenn der Wert eines Rockes doppelt so groß als der von 10 Ellen Leinwand, 20 Ellen Leinwand dieselbe Wertgröße haben wie ein Rock. Als Werte sind Rock und Leinwand Dinge von gleicher Substanz, objektive Ausdrücke gleichartiger Arbeit. Aber Schneiderei und Weberei sind qualitativ verschiedne Arbeiten. Es gibt jedoch Gesellschaftszustände, worin derselbe Mensch abwechselnd schneidert und webt, diese beiden verschiednen Arbeitsweisen daher nur Modifikationen der Arbeit desselben Individuums und noch nicht besondre feste Funktionen verschiedner Individuen sind, ganz wie der Rock, den unser Schneider heute, und die Hosen, die er morgen macht, nur Variationen derselben individuellen Arbeit voraussetzen. Der Augenschein lehrt ferner, daß in unsrer kapitalistischen Gesellschaft, je nach der wechselnden Richtung der Arbeitsnachfrage, eine gegebene Portion menschlicher Arbeit abwechselnd in der Form von Schneiderei oder in der Form von Weberei zugeführt wird. Dieser Formwechsel der Arbeit mag nicht ohne Friktion abgehn, aber er muß gehn. Sieht man ab von der Bestimmtheit der produktiven Tätigkeit und daher vom nützlichen Charakter der Arbeit, so bleibt das an ihr, daß sie eine Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ist. Schneiderei und Weberei, obgleich qualitativ verschiedne produktive Tätigkeiten, sind beide produktive Verausgabung von menschlichem Hirn, Muskel, Nerv, Hand usw., und in diesem Sinn beide mensch- <59> liche Arbeit. Es sind nur zwei verschiedne Formen, menschliche Arbeitskraft zu verausgaben. Allerdings muß die menschliche Arbeitskraft selbst mehr oder minder entwickelt sein, um in dieser oder jener Form verausgabt zu werden. Der Wert der Ware aber stellt menschliche Arbeit schlechthin dar, Verausgabung menschlicher Arbeit überhaupt. Wie nun in der bürgerlichen Gesellschaft ein General oder Bankier eine große, der Mensch schlechthin dagegen eine sehr schäbige Rolle spielt (14), so steht es auch hier mit der menschlichen Arbeit. Sie ist Verausgabung einfacher Arbeitskraft, die im Durchschnitt jeder gewöhnliche Mensch, ohne besondere Entwicklung, in seinem leiblichen Organismus besitzt. Die einfache Durchschnittsarbeit selbst wechselt zwar in verschiednen Ländern und Kulturepochen ihren Charakter, ist aber in einer vorhandnen Gesellschaft gegeben. Kompliziertere Arbeit gilt nur als potenzierte oder vielmehr multiplizierte einfache Arbeit, so daß ein kleineres Quantum komplizierter Arbeit gleich einem größeren Quantum einfacher Arbeit. Daß diese Reduktion beständig vorgeht, zeigt die Erfahrung. Eine Ware mag das Produkt der kompliziertesten Arbeit sein, ihr Wert setzt sie dem Produkt einfacher Arbeit gleich und stellt daher selbst nur ein bestimmtes Quantum einfacher Arbeit dar.(15) Die verschiednen Proportionen, worin verschiedne Arbeitsarten auf einfache Arbeit als ihre Maßeinheit reduziert sind, werden durch einen gesellschaftlichen Prozeß hinter dem Rücken der Produzenten festgesetzt und scheinen ihnen daher durch das Herkommen gegeben. Der Vereinfachung halber gilt uns im Folgenden jede Art Arbeitskraft unmittelbar für einfache Arbeitskraft, wodurch nur die Mühe der Reduktion erspart wird.
10. Wie also in den Werten Rock und Leinwand von dem Unterschied ihrer Gebrauchswerte abstrahiert ist, so in den Arbeiten, die sich in diesen Werten darstellen, von dem Unterschied ihrer nützlichen Formen, der Schneiderei und Weberei. Wie die Gebrauchswerte Rock und Leinwand Verbindungen zweckbestimmter, produktiver Tätigkeiten mit Tuch und Garn sind, die Werte Rock und Leinwand dagegen bloße gleichartige Arbeitsgallerten, so gelten auch die in diesen Werten enthaltenen Arbeiten nicht durch ihr produktives Verhalten zu Tuch und Garn, sondern nur als Verausgabungen menschlicher Arbeitskraft. Bildungselemente der Gebrauchs- <60> werte Rock und Leinwand sind Schneiderei und Weberei eben durch ihre verschiednen Qualitäten; Substanz des Rockwerts und Leinwandwerts sind sie nur, soweit von ihrer besondren Qualität abstrahiert und beide gleiche Qualität besitzen, die Qualität menschlicher Arbeit.
11. Rock und Leinwand sind aber nicht nur Werte überhaupt, sondern Werte von bestimmter Größe, und nach unsrer Unterstellung ist der Rock doppelt soviel wert als 10 Ellen Leinwand. Woher diese Verschiedenheit ihre Wertgrößen? Daher, daß die Leinwand nur halb soviel Arbeit enthält als der Rock, so daß zur Produktion des letzteren die Arbeitskraft während doppelt soviel Zeit verausgabt werden muß als zur Produktion der erstern.
12. Wenn also mit Bezug auf den Gebrauchswert die in der Ware enthaltene Arbeit nur qualitativ gilt, gilt sie mit Bezug auf die Wertgröße nur quantitativ, nachdem sie bereits auf menschliche Arbeit ohne weitere Qualität reduziert ist. Dort handelt es sich um das Wie und Was der Arbeit, hier um ihr Wieviel, ihre Zeitdauer. Da die Wertgröße einer Ware nur das Quantum der in ihr enthaltenen Arbeit darstellt, müssen Waren in gewisser Proportion stets gleich große Werte sein.
13. Bleibt die Produktivkraft, sage aller zur Produktion eines Rocks erheischten nützlichen Arbeiten unverändert, so steigt die Wertgröße der Röcke mit ihrer eignen Quantität. Wenn 1 Rock x, stellen 2 Röcke 2 x Arbeitstage dar usw. Nimm aber an, die zur Produktion eines Rocks notwendige Arbeit steige auf das Doppelte oder falle um die Hälfte. Im ersten Fall hat ein Rock soviel Wert als vorher zwei Röcke, im letztern Fall haben zwei Röcke nur soviel Wert als vorher einer, obgleich in beiden Fällen ein Rock nach wie vor dieselben Dienste leistet und die in ihm enthaltene nützliche Arbeit nach wie vor von derselben Güte bleibt. Aber das in seiner Produktion verausgabte Arbeitsquantum hat sich verändert.
14. Ein größres Quantum Gebrauchswert bildet an und für sich größren stofflichen Reichtum, zwei Röcke mehr als einer. Mit zwei Röcken kann man zwei Menschen kleiden, mit einem Rock nur einen Menschen usw. Dennoch kann der steigenden Masse des stofflichen Reichtums ein gleichzeitiger Fall seiner Wertgröße entsprechen. Diese gegensätzliche Bewegung entspringt aus dem zwieschlächtigen Charakter der Arbeit. Produktivkraft ist natürlich stets Produktivkraft nützlicher, konkreter Arbeit und bestimmt in der Tat nur den Wirkungsgrad zweckmäßiger produktiver Tätigkeit in gegebnem Zeitraum. Die nützliche Arbeit wird daher reichere oder dürftigere Produktenquelle im direkten Verhältnis zum Steigen oder Fallen ihrer Produktivkraft. Dagegen trifft ein Wechsel der Produktivkraft die im <61> Wert dargestellte Arbeit an und für sich gar nicht. Da die Produktivkraft der konkreten nützlichen Form der Arbeit angehört, kann sie natürlich die Arbeit nicht mehr berühren, sobald von ihrer konkreten nützlichen Form abstrahiert wird. Dieselbe Arbeit ergibt daher in denselben Zeiträumen stets dieselbe Wertgröße, wie immer die Produktivkraft wechsle. Aber sie liefert in demselben Zeitraum verschiedene Quanta Gebrauchswerte, mehr, wenn die Produktivkraft steigt, weniger, wenn sie sinkt. Derselbe Wechsel der Produktivkraft, der die Fruchtbarkeit der Arbeit und daher die Masse der von ihr gelieferten Gebrauchswerte vermehrt, vermindert also die Wertgröße dieser vermehrten Gesamtmasse, wenn er die Summe der zu ihrer Produktion notwendigen Arbeitszeit abkürzt. Ebenso umgekehrt.
15. Alle Arbeit ist einerseits Verausgabung menschlicher Arbeitskraft im physiologischen Sinn, und in dieser Eigenschaft gleicher menschlicher oder abstrakt menschlicher Arbeit bildet sie den Warenwert. Alle Arbeit ist andrerseits Verausgabung menschlicher Arbeitskraft in besondrer zweckbestimmter Form, und in dieser Eigenschaft konkreter nützlicher Arbeit produziert sie Gebrauchswerte.(16)


Fußnoten
(1) Karl Marx, "Zur Kritik der Politischen Ökonomie", Berlin 1859, pag. 3. <Siehe Band 13, S. 15> <=
(2) "Verlangen schließt Bedürfnis ein; es ist der Appetit des Geistes, und so natürlich wie Hunger für den Körper ... die meisten (Dinge) haben ihren Wert daher, daß sie Bedürfnisse des Geistes befriedigen." (Nicholas Barbon, "A Discourse on coining the new money lighter. In answer to Mr. Locke's Considerations etc.", London 1696, p. 2, 3.) <=
(3) "Dinge haben einen intrinsick vertue" (dies bei Barbon die spezifische Bezeichnung für Gebrauchswert), "der überall gleich ist, so wie der des Magnets, Eisen anzuziehen" (l.c.p. 6). Die Eigenschaft des Magnets, Eisen anzuziehn, wurde erst nützlich, sobald man vermittelst derselben die magnetische Polarität entdeckt hatte. <=
(4) "Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befriedigen oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen." (John Locke, "Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest", 1691, in "Works", edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.) Im 17. Jahrhundert finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellen "Worth" für Gebrauchswert und "Value" für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudrücken. <=
(5) In der bürgerlichen Gesellschaft herrscht die fictio juris, daß jeder Mensch als Warenkäufer eine enzyklopädische Warenkenntnis besitzt. <=
(6) "Der Wert besteht in dem Tauschverhältnis, das zwischen einem Ding und einem anderen, zwischen der Menge eines Erzeugnisses und der eines anderen besteht." (Le Trosne, "De l'Intérêt Social", [in] "Physiocrates", éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) <=
(7) "Nichts kann einen inneren Tauschwert haben" (N. Barbon, l.c.p. 6), oder wie Butler sagt:
"Der Wert eines Dings
ist grade so viel, wie es einbringen wird." <=
(8) "One sort of wares are as good as another, if the value be equal. There is no difference or distinction in things of equal value ... One hundred pounds worth of lead or iron, is of as great a value as one hundred pounds worth of silver and gold." <" ... Blei oder Eisen im Werte von einhundert Pfund Sterling haben gleich großen Tauschwert wie Silber und Gold im Werte von einhundert Pfund Sterling."> (N. Barbon, l.c.p. 53 u. 7.) <=
(9) Note zur 2. Ausg. "The value of them (the necessaries of life) when they are exchagend the one for another, is regulated by the quantity of labour necessarily required, and commonly taken in producing them." "Der Wert von Gebrauchsgegenständen, sobald sie gegeneinander ausgetauscht werden, ist bestimmt durch das Quantum der zu ihrer Produktion notwendig erheischten und gewöhnlich angewandten Arbeit." ("Some Thoughts on the Interest of Money in general, and particularly in the Public funds etc.", London, p. 36, 37.) Diese merkwürdige anonyme Schrift des vorigen Jahrhunderts trägt kein Datum. Es geht jedoch aus ihrem Inhalt hervor, daß sie unter Georg II., etwa 1739 oder 1740, erschienen ist. <=
(10) "Alle Erzeugnisse der gleichen Art bilden eigentlich nur eine Masse, deren Preis allgemein und ohne Rücksicht auf die besonderen Umstände bestimmt wird." <=
(11) K. Marx, l.c.p.6. <Siehe Band 13, S. 18> <=
(11a) Note zur 4. Aufl. - Ich schiebe das Eingeklammerte ein, weil durch dessen Weglassung sehr häufig das Mißverständnis entstanden, jedes Produkt, das von einem andern als dem Produzenten konsumiert wird, gelte bei Marx als Ware. - F. E. <=
(12) l.c.p. 12, 13 und passim. <Siehe Band 13, S. 22, 23 und passim> <=
(13) "Alle Erscheinungen des Weltalls, seien sie hervorgerufen von der Hand des Menschen oder durch die allgemeinen Gesetze der Physik, sind nicht tatsächliche Neuschöpfungen, sondern lediglich eine Umformung des Stoffes. Zusammensetzen und Trennen sind die einzigen Elemente, die der menschliche Geist immer wieder bei der Analyse der Verstellung der Reproduktion findet; und ebenso verhält es sich mit der Reproduktion des Wertes" (Gebrauchswert, obgleich Verri hier in seiner Polemik gegen die Physiokraten selbst nicht recht weiß, von welcher Sorte Wert er spricht) "und des Reichtums, wenn Erde, Luft und Wasser auf den Feldern sich in Korn verwandeln, oder auch wenn sich durch die Hand des Menschen die Abscheidung eines Insekts in Seide verwandelt, oder einige Metallteilchen sich anordnen, um eine Repetieruhr zu bilden." (Pietro Verri, "Meditazioni sulla Economia Politica" - zuerst gedruckt 1771 - in der Ausgabe der italienischen Ökonomen von Custodi, Parte Moderna, t. XV, p. 21, 22.) <=
(14) Vgl. Hegel, "Philosophie des Rechts", Berlin 1840, p. 250, § 190. <=
(15) Der Leser muß aufmerken, daß hier nicht vom Lohn oder Wert die Rede ist, den der Arbeiter für etwa einen Arbeitstag erhält, sondern vom Warenwert, worin sich sein Arbeitstag vergegenständlicht. Die Kategorie des Arbeitslohns existiert überhaupt noch nicht auf dieser Stufe unsrer Darstellung. <=
(16) Note zur 2. Ausg. Um zu beweisen, "daß die Arbeit allein das endgültige und reale Maß ist, woran der Wert aller Waren zu allen Zeiten geschätzt und verglichen werden kann", sagt A. Smith: "Gleiche Quantitäten Arbeit müssen zu allen Zeiten und an allen Orten für den Arbeiter selbst denselben Wert haben. In seinem normalen Zustand von Gesundheit, Kraft und Tätigkeit und mit dem Durchschnittsgrad von Geschicklichkeit, die er besitzen mag, muß er immer die nämliche Portion seiner Ruhe, seiner Freiheit und seines Glücks hingeben." ("Wealth of Nations", b. I, ch. V, [p.104/105].) Einerseits verwechselt A. Smith hier (nicht überall) die Bestimmung des Werts durch das in der Produktion der Ware verausgabte Arbeitsquantum mit der Bestimmung der Warenwerte durch den Wert der Arbeit und sucht daher nachzuweisen, daß gleiche Quantitäten Arbeit stets denselben Wert haben. Andrerseits ahnt er, daß die Arbeit, soweit sie sich im Wert der Waren darstellt, nur als Verausgabung von Arbeitskraft gilt, faßt diese Verausgabung aber wieder bloß als Opfer von Ruhe, Freiheit und Glück, nicht auch als normale Lebensbetätigung. Allerdings hat er den modernen Lohnarbeiter vor Augen. - Viel treffender sagt der Note 9 zitierte anonyme Vorgänger von A. Smith: "Ein Mann hat eine Woche auf Herstellung dieses Bedarfsgegenstands verwandt ... und der, welcher ihm einen anderen Gegenstand im Austausch gibt, kann nicht richtiger abschätzen, was wirklich gleichwertig ist, als durch die Berechnung, was ihm ebensoviel labour und Zeit kostet. Das bedeutet in der Tat den Austausch der labour, die ein Mensch in einer bestimmten Zeit auf einen Gegenstand verwandt hat, gegen die labour eines andren, in der gleichen Zeit auf einen anderen Gegenstand verwandt." ("Some Thoughts on the Interest of Money in general etc.", p. 39.) - {Zur 4. Auflage: Die englische Sprache hat den Vorzug, zwei verschiedne Worte für diese zwei verschiednen Aspekte der Arbeit zu haben. Die Arbeit, die Gebrauchswerte schafft und qualitativ bestimmt ist, heißt work, im Gegensatz zu labour; Die Arbeit, die Wert schafft und nur quantitativ gemessen wird, heißt labour im Gegensatz zu work. Siehe Note zu engl. Übersetzung, p. 14. - F. E.} <=
(17) Die wenigen Ökonomen, die sich, wie S. Bailey, mit der Analyse der Wertform beschäftigt haben, konnten zu keinem Resultat kommen, einmal, weil sie Wertform und Wert verwechseln, zweitens, weil sie, unter dem rohen Einfluß des praktischen Bürgers, von vornherein ausschließlich die quantitative Bestimmtheit ins Auge fassen. "Die Verfügung über die Quantität ... macht den Wert." ("Money and its Vicissitudes", Lond. 1837, p.11.) Verfasser S. Bailey. <=
(17a) Note zur 2. Ausgabe. Einer der ersten Ökonomen, der nach William Petty die Natur des Werts durchschaut hat, der berühmte Franklin, sagt: "Da der Handel überhaupt nichts ist als der Austausch einer Arbeit gegen andre Arbeit, wird der Wert aller Dinge am richtigsten geschätzt in Arbeit." ("The Works of B. Franklin etc.", edited by Sparks, Boston 1836, v. II, p .267.) Franklin ist sich nicht bewußt, daß, indem er den Wert aller Dinge "in Arbeit" schätzt, er von der Verschiedenheit der ausgetauschten Arbeiten abstrahiert - und sie so auf gleiche menschliche Arbeit reduziert. Was er nicht weiß, sagt er jedoch. Er spricht erst von "der einen Arbeit", dann "von der andren Arbeit", schließlich von "Arbeit" ohne weitere Bezeichnung als Substanz des Werts aller Dinge. <=
(18) In gewisser Art geht's dem Menschen wie der Ware. Da er weder mit einem Spiegel auf die Welt kommt noch als Fichtescher Philosoph: Ich bin ich, bespiegelt sich der Mensch zuerst in einem andren Menschen. Erst durch die Beziehung auf den Menschen Paul als seinesgleichen bezieht sich der Mensch Peter auf sich selbst als Mensch. Damit gilt ihm aber auch der Paul mit Haut und Haaren, in seiner paulinischen Leiblichkeit, als Erscheinungsform des Genus Mensch. <=
(19) Der Ausdruck "Wert" wird hier, wie beiläufig schon früher stellenweis geschah, für quantitativ bestimmten Wert, also für Wertgröße gebraucht. <=
(20) Note zur 2. Ausg. Diese Inkongruenz zwischen der Wertgröße und ihrem relativen Ausdruck ist von der Vulgärökonomie mit gewohntem Scharfsinn ausgebeutet worden. z.B.: "Gebt einmal zu, daß A fällt, weil B, womit es ausgetauscht wird, steigt, obgleich unterdessen nicht weniger Arbeit auf A verausgabt wird, und euer allgemeines Wertprinzip fällt zu Boden ...Wenn zugegeben wird, daß, weil der Wert von A relativ zu B steigt, der Wert von B relativ zu A fällt, ist der Grund unter den Füßen weggeschnitten, worauf Ricardo seinen großen Satz aufstellt, daß der Wert einer Ware stets bestimmt ist durch das Quantum der ihr einverleibten Arbeit; denn wenn ein Wechsel in den Kosten von A nicht nur seinen eignen Wert im Verhältnis zu B, womit es ausgetauscht wird, verändert, sondern auch den Wert von B relativ zu dem von A, obgleich kein Wechsel stattgefunden hat in dem zur Produktion von B erheischten Arbeitsquantum, dann fällt nicht nur die Doktrin zu Boden, die versichert, daß die auf einen Artikel verausgabte Quantität Arbeit seinen Wert reguliert, sondern auch die Doktrin, daß die Produktionskosten eines Artikel seinen Wert regulieren." (J. Broadhurst, "Political Economy", London 1842, p. 11, 14.)
Herr Broadhurst konnte ebensogut sagen: Man sehe sich einmal die Zahlenverhältnisse 10/20, 10/50, 10/100 usw. an. Die Zahl 10 bleibt unverändert, und dennoch nimmt ihre proportionelle Größe, ihre Größe relativ zu den Nennern 20, 50, 100, beständig ab. Also fällt das große Prinzip zu Boden, daß die Größe einer ganzen Zahl wie 10 z.B. durch die Anzahl der in ihr enthaltenen Einer "reguliert" ist. <=
(21) Es ist mit solchen Reflexionsbestimmungen überhaupt ein eigenes Ding. Dieser Mensch ist z.B. nur König, weil sich andre Menschen als Untertanen zu ihm verhalten. Sie glauben umgekehrt Untertanen zu sein, weil er König ist. <=
(22) Note zur 2. Ausg. F. L. A. Ferrier (sous-inspecteur des douanes <Unterinspekteur des Zollwesens>), "Du Gouvernement considéré dans ses rapports avec le commerce", Paris 1805, und Charles Ganilh, "Des Systèmes d'Économie Politique", 2ème éd., Paris 1821. <=
(22a) Note zur 2. Aufl. Z.B. bei Homer wird der Wert eines Dings in einer Reihe verschiedner Dings ausgedrückt. <=
(23) Man spricht deshalb vom Rockwert der Leinwand, wenn man ihren Wert in Röcken, von ihrem Kornwert, wenn man ihn in Korn darstellt etc. Jeder solche Ausdruck besagt, daß es ihr Wert ist, der in den Gebrauchswerten Rock, Korn usw. erscheint. "Das der Wert jeder Waren ihr Verhältnis im Austausch bezeichnet, können wir ihn bezeichnen als ... Kornwert, Tuchwert, je nach der Ware, mit der sie verglichen wird; und daher gibt es tausend verschiedene Arten von Werten, so viele, wie Waren vorhanden sind, und alle sind gleich real und gleich nominell." ("A Critical Dissertation on the Nature, Measures, and Causes of Value; chiefly in reference to the writings of Mr. Ricardo and his followers. By the Author of Essays on the Formation etc. of Opinions", London 1825, p. 39.) S. Bailey, der Verfasser dieser anonymen Schrift, die ihrer Zeit viel Lärm in England machte, wähnt durch diesen Hinweis auf die kunterbunten relativen Ausdrücke desselben Warenwerts alle Begriffsbestimmung des Werts vernichtet zu haben. Daß er übrigens, trotz eigner Borniertheit, wunde Flecken der Ricardoschen Theorie sondiert hatte, bewies die Gereiztheit, womit die Ricardosche Schule ihn angriff, z.B. in der "Westminster Review". <=
(24) Man sieht es der Form allgemeiner unmittelbarer Austauschbarkeit in der Tat keineswegs an, daß sie eine gegensätzliche Warenform ist, von den Form nicht unmittelbarer Austauschbarkeit ebenso unzertrennlich wie die Positivität eines Magnetpols von der Negativität des andren. Man mag sich daher einbilden, man könne allen Waren zugleich den Stempel unmittelbarer Austauschbarkeit aufdrücken, wie man sich einbilden mag, man könne alle Katholiken zu Päpsten mache. Für den Kleinbürger, der in der Warenproduktion das nec plus ultra <den Gipfel> menschlicher Freiheit und individueller Unabhängigkeit erblickt, wäre es natürlich sehr wünschenswert, der mit dieser Form verbundnen Mißstände überhoben zu sein, namentlich auch der nicht unmittelbaren Austauschbarkeit der Waren. Die Ausmalung dieser Philisterutopie bildet Proudhons Sozialismus, der, wie ich anderswo gezeigt <Karl Marx, "Misère de la philosophie. Réponse à la philosophie de la misère de M. Proudhon", Paris, Bruxelles 1874, Kap. 1 (siehe Bd. 4, S, 67-124)>, nicht einmal das Verdienst der Originalität besitzt, vielmehr lange vor ihm von Gray, Bray und andern weit besser entwickelt wurde. Dies verhindert solche Weisheit nicht, heutzutage, in gewissen Kreisen, unter dem Namen der "science" <"Wissenschaft"> zu grassieren. Nie hat eine Schule mehr als die Proudhonsche mit dem Wort "sceince" um sich geworfen, denn
"wo Begriffe fehlen,
da stellt zur rechten Zeit ein Wort sich ein". <=
(25) Man erinnert sich, daß China und die Tische zu tanzen anfingen, als alle übrige Welt still zu stehn schien - pour encourager les autres <um die andern zu ermutigen>. <=
(26) Note zur 2. Ausg. Bei den alten Germanen wurde die Größe eines Morgens Land nach der Arbeit eines Tages berechnet und daher der Morgen Tagwerk (auch Tagwanne) (jurnale oder jurnalis, terra jurnalis, jornalis oder diurnalis), Mannwerk, Mannskraft, Mannsmaad, Mannshauet usf. benannt. Sieh Georg Ludwig von Maurer, "Einleitung zur Geschichte der Mark-, Hof-, usw. Verfassung", München 1854, p. 129 sq. <=
(27) Note zur 2. Ausg. Wenn daher Galiani sagt: Der Wert ist ein Verhältnis zwischen Personen - "La Ricchezza è una ragione tra due persone" - , so hätte er hinzusetzen müssen: unter dinglicher Hülle verstecktes Verhältnis. (Galiani, "Della Moneta", p. 221, t. III von Custodis Sammlung der "Scrittori Classici Italiani di Economia Politica", Parte Moderna, Milano 1803.) <=
(28) "Was soll man von einem Gesetze denken, das sich nur durch periodische Revolutionen durchsetzten kann?" (Friedrich Engels, "Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie" in "Deutsch-Französische Jahrbücher", herausg. von Arnold Ruge und Karl Marx, Paris 1844.) <Siehe Band 1, S. 515> <=
(29) Note zur 2. Ausgabe. Auch Ricardo ist nicht ohne seine Robinsonade. "Den Urfischer und den Urjäger läßt er sofort als Warenbesitzer Fisch und Wild austauschen, im Verhältnis der in diesen Tauschwerten vergegenständlichten Arbeitszeit. Bei dieser Gelegenheit fällt er in den Anachronismus, daß Urfischer und Urjäger zur Berechnung ihrer Arbeitsinstrumente die 1817 auf der Londoner Börse gangbaren Annuitätentabellen zu Rate ziehn. Die 'Parallelogramme des Herrn Owen' scheinen die einzige Gesellschaftsform, die er außer der bürgerlichen kannte." (Karl Marx, "Zur Kritik etc.", p.38, 39. <Siehe Band 13, S.46>) <=
(30) Note zur 2. Ausgabe. "Es ist ein lächerliches Vorurteil in neuester Zeit verbreitet, daß die Form des naturwüchsigen Gemeineigentums spezifische, sogar ausschließlich russische Form sei. Sie ist die Urform, die wir bei Römern, Germanen, Kelten nachweisen können, von der aber eine ganze Musterkarte mit mannigfachen Proben sich noch immer, wenn auch zum Teil ruinenweise, bei den Indiern vorfindet. Ein genaueres Studium der asiatischen, speziell der indischen Gemeineigentumsformen würde nachweisen, wie aus den verschiednen Formen des naturwüchsigen Gemeineigentums sich verschiedne Formen seiner Auflösung ergeben. So lassen sich z.B. die verschiednen Originaltypen von römischem und germanischem Privateigentum aus verschiednen Formen des indischen Gemeineigentums ableiten."(Karl Marx, "Zur Kritik etc.", p. 10. <Siehe Band 13 unserer Ausgabe, S.21>) <=
(31) Das Unzulängliche in Ricardos Analyse der Wertgröße - und es ist die beste - wird man aus dem dritten und vierten Buch dieser Schrift ersehn. Was aber den Wert überhaupt betrifft, so unterscheidet die klassische politische Ökonomie nirgendwo ausdrücklich und mit klarem Bewußtsein die Arbeit, wie sie sich im Wert, von derselben Arbeit, soweit sie sich im Gebrauchswert ihres Produkts darstellt. Sie macht natürlich den Unterschied tatsächlich, da sie die Arbeit das einemal quantitativ, da andremal qualitativ betrachtet. Aber es fällt ihr nicht ein, daß bloß quantitativer Unterschied der Arbeiten ihre qualitative Einheit oder Gleichheit voraussetzt, also ihre Reduktion auf abstrakt menschliche Arbeit. Ricardo z.B. erklärt sich einverstanden mit Destutt de Tracy, wenn dieser sagt: "Da es sicher ist, daß unsere körperlichen und geistigen Fähigkeiten allein unser ursprünglicher Reichtum sind, ist der Gebrauch dieser Fähigkeiten, eine gewisse Art Arbeit, unser ursprünglicher Schatz; es ist immer dieser Gebrauch, welcher alle jene Dinge schafft, die wir Reichtum nennen ... Zudem ist es gewiß, daß alle jene Dinge nur die Arbeit darstellen, die sie geschaffen hat, und wenn sie einen Wert haben, oder sogar zwei unterschiedliche Werte, so können sie dies doch nur haben aus dem" (dem Wert) "der Arbeit, der sie entspringen." (Ricardo, "The principles of Pol. Econ.", 3. ed., Lond. 1821, p. 334. <Vgl. Destutt de Tracy, "Elemens d'ideologie." IVe et Ve parties, Paris 1826, p.35, 36>) Wir deuten nur an, daß Ricardo dem Destutt seinen eignen tieferen Sinn unterschiebt. Destutt sagt in der Tat zwar einerseits, daß alle Dinge, die den Reichtum bilden, "die Arbeit repräsentieren, die sie geschaffen hat", aber andrerseits, daß sie ihre "zwei verschiedenen Werte" (Gebrauchswert und Tauschwert) vom "Wert der Arbeit" erhalten. Er fällt damit in die Flachheit der Vulgärökonomie, die den Wert einer Ware (hier der Arbeit) voraussetzt, um dadurch hinterher den Wert der andren Waren zu bestimmen. Ricardo liest ihn so, daß sowohl im Gebrauchswert als Tauschwert sich Arbeit (nicht Wert der Arbeit) darstellt. Er selbst aber scheidet so wenig den zwieschlächtigen Charakter der Arbeit, die doppelt dargestellt ist, daß er in dem ganzen Kapitel: "Value and Riches, their Distinctive Properties" <"Wert und Reichtum, ihre unterscheidenden Eigenschaften"> sich mühselig mit den Trivialitäten eines J. B. Say herumschlagen muß. Am Ende ist er daher auch ganz erstaunt, daß Destutt zwar mit ihm selbst über Arbeit als Wertquelle und dennoch andrerseits mit Say über den Wertbegriff harmoniere. <=
(32) Es ist einer der Grundmängel der klassischen politischen Ökonomie, daß es ihr nie gelang, aus der Analyse der Ware und spezieller des Warenwerts die Form des Werts, die ihn eben zum Tauschwert macht, herauszufinden. Grade in ihren besten Repräsentanten, wie A. Smith und Ricardo, behandelt sie die Wertform als etwas ganz Gleichgültiges oder der Natur der Ware selbst Äußerliches. Der Grund ist nicht allein, daß die Analyse der Wertgröße ihre Aufmerksamkeit ganz absorbiert. Er liegt tiefer. Die Wertform des Arbeitsprodukts ist die abstrakteste, aber auch allgemeinste Form der bürgerlichen Produktionsweise, die hierdurch als eine besondere Art gesellschaftlicher Produktion und damit zugleich historisch charakterisiert wird. Versieht man sie daher für die ewige Naturform gesellschaftlicher Produktion, so übersieht man notwendig auch das Spezifische der Wertform, also der Warenform, weiter entwickelt der Geldform, Kapitalform usw. Man findet daher bei Ökonomen, welche über das Maß der Wertgröße durch Arbeitszeit durchaus übereinstimmen, die kunterbuntesten und widersprechendsten Vorstellungen von Geld, d.h. der fertigen Gestalt des allgemeinen Äquivalents. Dies tritt schlagend hervor z.B. bei der Behandlung des Bankwesens, wo mit den gemeinplätzlichen Definitionen des Geldes nicht mehr ausgereicht wird. Im Gegensatz entsprang daher ein restauriertes Merkantilsystem (Ganilh usw.), welches im Wert nur die gesellschaftliche Form sieht oder vielmehr nur ihren substanzlosen Schein. - Um es ein für allemal zu bemerken, verstehe ich unter klassischer politischer Ökonomie alle Ökonomie seit W. Petty, die den innern Zusammenhang der bürgerlichen Produktionsverhältnisse erforscht im Gegensatz zur Vulgärökonomie, die sich nur innerhalb des scheinbaren Zusammenhangs herumtreibt, für eine plausible Verständlichmachung der sozusagen gröbsten Phänomene und den bürgerlichen Hausbedarf das von der wissenschaftlichen Ökonomie längst gelieferte Material stets von neuem wiederkaut, im übrigen aber sich darauf beschränkt, die banalen und selbstgefälligen Vorstellungen der bürgerlichen Produktionsagenten von ihrer eignen besten Welt zu systematisieren, pedantisieren und als ewige Wahrheiten zu proklamieren. <=
(33) "Die Ökonomen verfahren auf eine sonderbare Art. Es gibt für sie nur zwei Arten von Institutionen, künstliche und natürliche. Die Institutionen des Feudalismus sind künstliche Institutionen, die der Bourgeoisie natürliche. Sie gleichen darin den Theologen, die auch zwei Arten von Religionen unterscheiden. Jede Religion, die nicht die ihre ist, ist eine Erfindung der Menschen, während ihre eigene Religion eine Offenbarung Gottes ist. - Somit hat es eine Geschichte gegeben, aber es gibt keine mehr." (Karl Marx, "Misère de la Philosophie. Réponse à la Philosophie de la Misère de M. Proudhon", 1847, p. 113. <Siehe Band 4, S 139>) Wahrhaft drollig ist Herr Bastiat, der sich einbildet, die alten Griechen und Römer hätten nur von Raub gelebt. Wenn man aber viele Jahrhunderte durch von Raub lebt, muß doch beständig etwas zu rauben da sein oder der Gegenstand des Raubes sich fortwährend reproduzieren. Es scheint daher, daß auch Griechen und Römer einen Produktionsprozeß hatten, also eine Ökonomie, welche ganz so die materielle Grundlage ihrer Welt bildete wie die bürgerliche Ökonomie die der heutigen Welt. Oder meint Bastiat etwa, daß eine Produktionsweise, die auf der Sklavenarbeit beruht, auf einem Raubsystem ruht? Er stellt sich dann auf gefährlichen Boden. Wenn ein Denkriese wie Aristoteles in seiner Würdigung der Sklavenarbeit irrte, warum sollte ein Zwergökonom, wie Bastiat, in seiner Würdigung der Lohnarbeit richtig gehn? - Ich ergreife diese Gelegenheit, um einen Einwand, der mir beim Erscheinen meiner Schrift "Zur Kritik der Pol. Oekonomie", 1859, von einem deutsch-amerikanischen Blatte gemacht wurde, kurz abzuweisen. Es sagte, meine Ansicht, daß die bestimmte Produktionsweise und die ihr jedesmal entsprechenden Produktionsverhältnisse, kurz "die ökonomische Struktur der Gesellschaft die reale Basis sei, worauf sich ein juristischer und politischer Überbau erhebe und welcher bestimmte gesellschaftliche Bewußtseinsformen entsprächen", daß "die Produktionsweise des materiellen Lebens den sozialen, politischen und geistigen Lebensprozeß überhaupt bedinge" <siehe Band 13, S. 8/9>, - alles dies sei zwar richtig für die heutige Welt, wo die materiellen Interessen, aber weder für das Mittelalter, wo der Katholizismus, noch für Athen und Rom, wo die Politik herrschte. Zunächst ist es befremdlich, daß jemand vorauszusetzen beliebt, diese weltbekannten Redensarten über Mittelalter und antike Welt seien irgend jemand unbekannt geblieben. Soviel ist klar, daß das Mittelalter nicht vom Katholizismus und die antike Welt nicht von der Politik leben konnte. Die Art und Weise, wie sie ihr Leben gewannen, erklärt umgekehrt, warum dort die Politik, hier der Katholizismus die Hauptrolle spielte. Es gehört übrigens wenig Bekanntschaft z.B. mit der Geschichte der römischen Republik dazu, um zu wissen, daß die Geschichte des Grundeigentums ihre Geheimgeschichte bildet. Andrerseits hat schon Don Quixote den Irrtum gebüßt, daß er die fahrende Ritterschaft mit allen ökonomischen Formen der Gesellschaft gleich verträglich wähnte. <=
(34) "Value is a property of things, riches of man. Value, in this sense, necessarily implies exchange, riches do not." ("Observations on some verbal disputes in Pol. Econ., particularly relating to value, and to supply and demand", Lond. 1821, p. 16.) <=
(35) "Riches are the attribute of man, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable ... A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond." (S. Bailey, l.c.p. 165 sq.) <=
(36) Der Verfasser der "Observations" und S. Bailey beschuldigen Ricardo, er habe den Tauschwert aus einem nur Relativen in etwas Absolutes verwandelt. Umgekehrt. Er hat die Scheinrelativität, die diese Dinge, Diamant und Perlen z.B., als Tauschwerte besitzen, auf das hinter dem Schein verborgene wahre Verhältnis reduziert, auf ihre Relativität als bloße Ausdrücke menschlicher Arbeit. Wenn die Ricardianer dem Bailey grob, aber nicht schlagend antworten, so nur, weil sie bei Ricardo selbst keinen Aufschluß über den inneren Zusammenhang zwischen Wert und Wertform oder Tauschwert fanden. <=


D.『資本論』1-1-3

3. Die Wertform oder der Tauschwert
1. <62> Waren kommen zur Welt in der Form von Gebrauchswerten oder Warenkörpern, als Eisen, Leinwand, Weizen usw. Es ist dies ihre hausbackene Naturalform. Sie sind jedoch nur Waren, weil Doppeltes, Gebrauchsgegenstände und zugleich Wertträger. Sie erscheinen daher nur als Waren oder besitzen nur die Form von Waren, sofern sie Doppelform besitzen, Naturalform und Wertform.
2. Die Wertgegenständlichkeit der Waren unterscheidet sich dadurch von der Wittib Hurtig, daß man nicht weiß, wo sie zu haben ist. Im graden Gegenteil zur sinnlich groben Gegenständlichkeit der Warenkörper geht kein Atom Naturstoff in ihre Wertgegenständlichkeit ein. Man mag daher eine einzelne Ware drehen und wenden, wie man will, sie bleibt unfaßbar als Wertding. Erinnern wir uns jedoch, daß die Waren nur Wertgegenständlichkeit besitzen, sofern sie Ausdrücke derselben gesellschaftlichen Einheit, menschlicher Arbeit, sind, daß ihre Wertgegenständlichkeit also rein gesellschaftlich ist, so versteht sich auch von selbst, daß sie nur im gesellschaftlichen Verhältnis von Ware zu Ware erscheinen kann. Wir gingen in der Tat vom Tauschwert oder Austauschverhältnis der Waren aus, um ihrem darin versteckten Wert auf die Spur zu kommen. Wir müssen jetzt zu dieser Erscheinungsform des Wertes zurückkehren.
3. Jedermann weiß, wenn er auch sonst nichts weiß, daß die Waren eine mit den bunten Naturalformen ihrer Gebrauchswerte höchst frappant kontrastierende, gemeinsame Wertform besitzen - die Geldform. Hier gilt es jedoch zu leisten, was von der bürgerlichen Ökonomie nicht einmal versucht ward, nämlich die Genesis dieser Geldform nachzuweisen, also die Entwicklung des im Wertverhältnis der Waren enthaltenen Wertausdrucks von seiner einfachsten unscheinbarsten Gestalt bis zur blendenden Geldform zu verfolgen. Damit verschwindet zugleich das Geldrätsel.
4. Das einfachste Wertverhältnis ist offenbar das Wertverhältnis einer Ware zu einzigen verschiedenartigen Ware, gleichgültig welcher. Das Wertverhältnis zweier Waren liefert daher den einfachsten Wertausdruck für eine Ware.

<63> A) Einfache, einzelne oder zufällige Wertform
x Ware A = y Ware B oder: x Ware A ist y Ware B wert.
(20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder: 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert.)
1. Die beiden Pole des Wertausdrucks: Relative Wertform und Äquivalentform
1. Das Geheimnis aller Wertform steckt in dieser einfachen Wertform. Ihre Analyse bietet daher die eigentliche Schwierigkeit.
2. Es spielen hier zwei verschiedenartige Waren A und B, in unsrem Beispiel Leinwand und Rock, offenbar zwei verschiedene Rollen. Die Leinwand drückt ihren Wert aus im Rock, der Rock dient zum Material dieses Wertausdrucks. Die erste Ware spielt eine aktive, die zweite eine passive Rolle. Der Wert der ersten Ware ist als relativer Wert dargestellt, oder sie befindet sich in relativer Wertform. Die zweite Ware funktioniert als Äquivalent oder befindet sich in Äquivalentform.
3. Relative Wertform und Äquivalentform sind zueinander gehörige, sich wechselseitig bedingende, unzertrennliche Momente, aber zugleich einander ausschließende oder entgegengesetzte Extreme, d.h. Pole desselben Wertausdrucks; sie verteilen sich stets auf die verschiedenen Waren, die der Wertausdruck aufeinander bezieht. Ich kann z.B. den Wert der Leinwand nicht in Leinwand ausdrücken. 20 Ellen Leinwand = 20 Ellen Leinwand ist kein Wertausdruck. Die Gleichung sagt vielmehr umgekehrt: 20 Ellen Leinwand sind nichts andres als 20 Ellen Leinwand, ein bestimmtes Quantum des Gebrauchsgegenstandes Leinwand. Der Wert der Leinwand kann also nur relativ ausgedrückt werden, d.h. in andrer Ware. Die relative Wertform der Leinwand unterstellt daher, daß irgendeine andre Ware sich ihr gegenüber in der Äquivalentform befindet. Andrerseits, diese andre Ware, die als Äquivalent figuriert, kann sich nicht gleichzeitig in relativer Wertform befinden. Nicht sie drückt ihren Wert aus. Sie liefert nur dem Wertausdruck andrer Ware das Material.
4. Allerdings schließt der Ausdruck: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert, auch die Rückbeziehungen ein: 1 Rock = 20 Ellen Leinwand oder 1 Rock ist 20 Ellen Leinwand wert. Aber so muß ich doch die Gleichung umkehren, um den Wert des Rocks relativ ausdrücken, und sobald ich das tue, wird die Leinwand Äquivalent statt des Rockes. Dieselbe Ware kann also in demselben Wertausdruck nicht gleichzeitig in beiden Formen auftreten. Diese schließen sich vielmehr polarisch aus.
5. <64> Ob eine Ware sich nun in relativer Wertform befindet oder in der entgegengesetzten Äquivalentform, hängt ausschließlich ab von ihrer jedesmaligen Stelle im Wertausdruck, d.h. davon, ob sie die Ware ist, deren Wert, oder aber die Ware, worin Wert ausgedrückt wird.

2. Die relative Wertform
a) Gehalt der relativen Wertform
1. Um herauszufinden, wie der einfache Wertausdruck einer Ware im Wertverhältnis zweier Waren steckt, muß man letzteres zunächst ganz unabhängig von seiner quantitativen Seite betrachten. Man verfährt meist grade umgekehrt und sieht im Wertverhältnis nur die Proportion, worin bestimmte Quanta zweier Warensorten einander gleichgelten. Man übersieht, daß die Größen verschiedner Dinge erst quantitativ vergleichbar werden nach ihrer Reduktion auf dieselbe Einheit. Nur als Ausdrücke derselben Einheit sind sie gleichnamige, daher kommensurable Größen.(17)
2. Ob 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 20 oder = x Röcke, d.h., ob ein gegebenes Quantum Leinwand viele oder wenige Röcke wert ist, jede solche Proportion schließt stets ein, daß Leinwand und Röcke als Wertgrößen Ausdrücke derselben Einheit, Dinge von derselben Natur sind. Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung.
3. Aber die zwei qualitativ gleichgesetzten Waren spielen nicht dieselbe Rolle. Nur der Wert der Leinwand wird ausgedrückt. Und wie? Durch ihre Beziehung auf den Rock als ihr "Äquivalent" oder mit ihr "Austauschbares". In diesem Verhältnis gilt der Rock als Existenzform von Wert, als Wertding, denn nur als solches ist er dasselbe wie die Leinwand. Andrerseits kommt das eigne Wertsein der Leinwand zum Vorschein oder erhält einen selbständigen Ausdruck, denn nur als Wert ist sie auf den Rock als Gleichwertiges oder mit ihr Austauschbares bezüglich. So ist die Buttersäure ein vom Propylformat verschiedner Körper. Beide bestehn jedoch aus denselben chemischen Substanzen - Kohlenstoff (C), Wasserstoff (H) und Sauerstoff (O), und zwar in gleicher prozentiger Zusammensetzung, <65> nämlich C4H8O2. Würde nun der Buttersäure das Propylformat gleichgesetzt, so gälte in diesem Verhältnis erstens das Propylformat bloß als Existenzform von C4H8O2 und zweitens wäre gesagt, daß auch die Buttersäure aus C4H8O2 besteht. Durch die Gleichsetzung des Propylformats mit der Buttersäure wäre also ihre chemische Substanz im Unterschied von ihrer Körperform ausgedrückt.
4. Sagen wir: als Werte sind die Waren bloße Gallerten menschlicher Arbeit, so reduziert unsre Analyse dieselben auf die Wertabstraktion, gibt ihnen aber keine von ihren Naturalformen verschiedne Wertform. Anders im Wertverhältnis einer Ware zur andern. Ihr Wertcharakter tritt hier hervor durch ihre eigne Beziehung zu der andern Ware.
5. Indem z.B. der Rock als Wertding der Leinwand gleichgesetzt wird, wird die in ihm steckende Arbeit der in ihr steckenden Arbeit gleichgesetzt. Nun ist zwar die Schneiderei, die den Rock macht, eine von der Weberei, die die Leinwand macht, verschiedenartiger konkrete Arbeit. Aber die Gleichsetzung mit der Weberei reduziert die Schneiderei tatsächlich auf das in beiden Arbeiten wirklich Gleiche, auf ihren gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit. Auf diesem Umweg ist dann gesagt, daß auch die Weberei, sofern sie Wert webt, keine Unterscheindungsmerkmale von der Schneiderei besitzt, also abstrakt menschliche Arbeit ist. Nur der Äquivalenzausdruck verschiedenartiger Waren bringt den spezifischen Charakter der wertbildenden Arbeit zum Vorschein, indem er die in den verschiedenartigen Waren steckenden, verschiedenartigen Arbeiten tatsächlich auf ihr Gemeinsames reduziert, auf menschliche Arbeit überhaupt (17a).
6. Es genügt indes nicht, den spezifische Charakter der Arbeit auszudrücken, woraus der Wert der Leinwand besteht. Menschliche Arbeitskraft im flüssigen Zustand oder menschliche Arbeit bildet Wert, aber ist nicht Wert. Sie wird Wert in geronnenem Zustand, in gegenständlicher Form. Um den Leinwandwert als Gallerte menschlicher Arbeit auszudrük- <66> ken, muß er als eine "Gegenständlichkeit" ausgedrückt werden, welche von der Leinwand selbst dinglich verschieden und ihr zugleich mit andrer Ware gemeinsam ist. Die Aufgabe ist bereits gelöst.
7. Im Wertverhältnis der Leinwand gilt der Rock als ihr qualitativ Gleiches, als Ding von derselben Natur, weil er ein Wert ist. Er gilt hier daher als ein Ding, worin Wert erscheint oder welches in seiner handgreiflichen Naturalform Wert darstellt. Nun ist zwar der Rock, der Körper der Rockware, ein bloßer Gebrauchswert. Ein Rock drückt ebensowenig Wert aus als das erste beste Stück Leinwand. Dies beweist nur, daß er innerhalb des Wertverhältnisses zur Leinwand mehr bedeutet als außerhalb desselben, wie so mancher Mensch innerhalb eines galonierten Rockes mehr bedeutet als außerhalb desselben.
8. In der Produktion des Rockes ist tatsächlich, unter der Form der Schneiderei, menschliche Arbeitskraft verausgabt worden. Es ist also menschliche Arbeit in ihm aufgehäuft. Nach dieser Seite hin ist der Rock "Träger von Wert", obgleich diese seine Eigenschaft selbst durch seine größte Fadenscheinigkeit nicht durchblickt. Und im Wertverhältnis der Leinwand gilt er nur nach dieser Seite, daher als verkörperter Wert, als Wertkörper. Trotz seiner zugeknöpften Erscheinung hat die Leinwand in ihm die stammverwandte schöne Wertseele erkannt. Der Rock kann ihr gegenüber jedoch nicht Wert darstellen, ohne daß für sie gleichzeitig der Wert die Form eines Rockes annimmt. So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majestät verhalten, ohne daß für A die Majestät zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtszüge, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.
9. Im Wertverhältnis, worin der Rock das Äquivalent der Leinwand bildet, gilt also die Rockform als Wertform. Der Wert der Ware Leinwand wird daher ausgedrückt im Körper der Ware Rock, der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren. Als Gebrauchswert ist die Leinwand ein vom Rock sinnlich verschiednes Ding, als Wert ist sie "Rockgleiches" und sieht daher aus wie ein Rock. So erhält sie eine von ihrer Naturalform verschiedne Wertform. Ihr Wertsein erscheint in ihrer Gleichheit mit dem Rock wie die Schafsnatur des Christen in seiner Gleichheit mit dem Lamm Gottes.
10. Man sieht, alles, was uns die Analyse des Warenwerts vorher sagte, sagt die Leinwand selbst, sobald sie in Umgang mit andrer Ware, dem Rock, tritt. Nur verrät sie ihre Gedanken in der ihr allein geläufigen Sprache, der Warensprache. Um zu sagen, daß die Arbeit in der abstrakten Eigenschaft menschlicher Arbeit ihren eignen Wert bildet, sagt sie, daß der Rock, soweit er ihr gleichgilt, also Wert ist, aus derselben Arbeit be- <67> steht wie die Leinwand. Um zu sagen, daß ihre sublime Wertgegenständlichkeit von ihrem steifleinenen Körper verschieden ist, sagt sie, daß Wert aussieht wie ein Rock und daher sie selbst als Wertding dem Rock gleicht wie ein Ei dem andern. Nebenbei bemerkt, hat auch die Warensprache, außer dem Hebräischen, noch viele andre mehr oder minder korrekte Mundarten. Das deutsche "Wertsein" drückt z.B. minder schlagend aus als das romanische Zeitwort valere, valer, valoir, daß Gleichsetzung der Ware B mit der Ware der eigne Wertausdruck der Ware A ist. Paris vaut bien une messe! <Paris ist eine Messe wert!>
11. Vermittelst des Wertverhältnisses wird also die Naturalform der Ware B zur Wertform der Ware A oder der Körper der Ware B zum Wertspiegel der Ware A.(18) Indem sich die Ware A auf die Ware B als Wertkörper bezieht, als Materiatur menschlicher Arbeit, macht sie den Gebrauchswert B zum Material ihres eignen Wertausdrucks. Der Wert der Ware A, so ausgedrückt im Gebrauchswert der Ware B, besitzt die Form des relativen Werts.

b) Quantitative Bestimmtheit der relativen Wertform
1. Jede Ware, deren Wert ausgedrückt werden soll, ist ein Gebrauchsgegenstand von gegebnem Quantum, 15 Scheffel Weizen, 100 Pfd. Kaffee usw. Dieses gegebne Warenquantum enthält ein bestimmtes Quantum menschlicher Arbeit. Die Wertform hat also nicht nur Wert überhaupt, sondern quantitativ bestimmten Wert oder Wertgröße auszudrücken. Im Wertverhältnis der Ware A zur Ware B, der Leinwand zum Rocke, wird daher die Warenart Rock nicht nur als Wertkörper überhaupt der Leinwand qualitativ gleichgesetzt, sondern einem bestimmten Leinwandquantum, z.B. 20 Ellen Leinwand, ein bestimmtes Quantum des Wertkörpers oder Äquivalents, z.B. 1 Rock.
2. Die Gleichung: "20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder: 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wert" setzt voraus, daß in 1 Rock gerade so viel Wertsubstanz steckt als in 20 Ellen Leinwand, daß beide Warenquanta also gleich viel Arbeit kosten oder gleich große Arbeitszeit. Die zur Produktion <68> von 20 Ellen Leinwand oder 1 Rock notwendiger Arbeitszeit wechselt aber mit jedem Wechsel in der Produktivkraft der Weberei oder der Schneiderei. Der Einfluß solcher Wechsel auf den relativen Ausdruck der Wertgröße soll nun näher untersucht werden.
3. I. Der Wert der Leinwand wechsle (19), während der Rockwert konstant bleibt. Verdoppelt sich die zur Produktion der Leinwand notwendige Arbeitszeit, etwa infolge zunehmender Unfruchtbarkeit des flachstragenden Bodens, so verdoppelt sich ihr Wert. Statt 20 Ellen Leinwand = 1 Rock hätten wir 20 Ellen Leinwand = 2 Röcke, da 1 Rock jetzt nur halb so viel Arbeitszeit enthält als 20 Ellen Leinwand. Nimmt dagegen die zur Produktion der Leinwand notwendige Arbeitszeit um die Hälfte ab, etwa infolge verbesserter Webstühle, so sinkt der Leinwandwert um die Hälfte. Demgemäß jetzt: 20 Ellen Leinwand = 1/2 Rock. Der relative Wert der Ware A, d.h. ihr Wert ausgedrückt in der Ware B, steigt und fällt also direkt wie der Wert der Ware A, bei gleichbleibenden Wert der Ware B.
4. II. Der Wert der Leinwand bleibe konstant, während der Rockwert wechsle. Verdoppelt sich unter diesen Umständen die zur Produktion des Rockes notwendige Arbeitszeit, etwa infolge ungünstiger Wollschur, so haben wir statt 20 Ellen Leinwand = 1 Rock jetzt: 20 Ellen Leinwand = 1/2 Rock. Fällt dagegen der Wert des Rockes um die Hälfte, so 20 Ellen Leinwand = 2 Röcke. Bei gleichbleibendem Wert der Ware A fällt oder steigt daher ihr relativer, in der Ware B ausgedrücker Wert im umgekehrten Verhältnis zum Wertwechsel von B.
5. Vergleicht man die verschiednen Fälle sub I und II, so ergibt sich, daß derselbe Größenwechsel des relativen Werts aus ganz entgegengesetzten Ursachen entspringen kann. So wird aus 20 Ellen Leinwand = 1 Rock: 1. die Gleichung 20 Ellen Leinwand = 2 Röcke, entweder weil der Wert der Leinwand sich verdoppelt oder der Wert der Röcke um die Hälfte fällt, und 2. die Gleichung 20 Ellen Leinwand = 1/2 Rock, entweder weil der Wert der Leinwand um die Hälfte sinkt oder der Wert des Rockes auf das Doppelte steigt.
6. III. Die zur Produktion von Leinwand und Rock notwendigen Arbeitsquanta mögen gleichzeitig, in derselben Richtung und derselben Proportion wechseln. In diesem Falle nach wie vor 20 Ellen Leinwand = 1 Rock, wie immer ihre Werte verändert seien. Man entdeckt ihren Wertwechsel, so- <69> bald man sie mit einer dritten Ware vergleicht, deren Wert konstant blieb. Stiegen oder fielen die Werte aller Waren gleichzeitig und in derselben Proportion, so würden ihre relativen Werte unverändert bleiben. Ihren wirklichen Wertwechsel ersähe man daraus, daß in derselben Arbeitszeit nun allgemein ein größeres oder kleineres Warenquantum als vorher geliefert würde.
7. IV. Die zur Produktion von Leinwand und Rock resp. notwendigen Arbeitszeiten, und daher ihre Werte, mögen gleichzeitig in derselben Richtung wechseln, aber in ungleichem Grad, oder in entgegengesetzter Richtung usw. Der Einfluß aller möglichen derartigen Kombinationen auf den relativen Wert einer Ware ergibt sich einfach durch Anwendung der Fälle I, II und III.
8. Wirkliche Wechsel der Wertgröße spiegeln sich also weder unzweideutig noch erschöpfend wider in ihrem relativen Ausdruck oder in der Größe des relativen Werts. Der relative Wert einer Ware kann wechseln, obgleich ihr Wert konstant bleibt. Ihr relativer Wert kann konstant bleiben, obgleich ihr Wert wechselt, und endlich brauchen gleichzeitige Wechsel in ihrer Wertgröße und im relativen Ausdruck dieser Wertgröße sich keineswegs zu decken.(20)

3. Die Äquivalentform
1. <70> Man hat gesehn: Indem eine Ware A (die Leinwand) ihren Wert im Gebrauchswert einer verschiedenartigen Ware B (dem Rock) ausdrückt, drückt sie letzterer selbst eine eigentümliche Wertform auf, die des Äquivalents. Die Leinwandware bringt ihr eignes Wertsein dadurch zum Vorschein, daß ihr der Rock, ohne Annahme einer von seiner Körperform verschiednen Wertform, gleichgilt. Die Leinwand drückt also in der Tat ihr eignes Wertsein dadurch aus, daß der Rock unmittelbar mit ihr austauschbar ist. Die Äquivalentform einer Ware ist folglich die Form ihrer unmittelbaren Austauschbarkeit mit anderer Ware.
2. Wenn eine Warenart, wie Röcke, einer andren Warenart, wie Leinwand, zum Äquivalent dient, Röcke daher die charakteristische Eigenschaft erhalten, sich in unmittelbar austauschbarer Form mit Leinwand zu befinden, so ist damit in keiner Weise die Proportion gegeben, worin Röcke und Leinwand austauschbar sind. Sie hängt, da die Wertgröße der Leinwand gegeben ist, von der Wertgröße der Röcke ab. Ob der Rock als Äquivalent und die Leinwand als relativer Wert oder umgekehrt die Leinwand als Äquivalent und der Rock als relativer Wert ausgedrückt sei, seine Wertgröße bleibt nach wie vor durch die zu seiner Produktion notwendige Arbeitszeit, also unabhängig von seiner Wertform bestimmt. Aber sobald die Warenart Rock im Wertausdruck die Stelle des Äquivalents einnimmt, erhält ihre Wertgröße keinen Ausdruck als Wertgröße. Sie figuriert in der Wertgleichung vielmehr nur als bestimmtes Quantum einer Sache.
3. Z.B.: 40 Ellen Leinwand sind "wert" - was? 2 Röcke. Weil die Warenart Rock hier die Rolle des Äquivalents spielt, der Gebrauchswert Rock der Leinwand gegenüber als Wertkörper gilt, genügt auch ein bestimmtes Quantum Röcke, um ein bestimmtes Wertquantum Leinwand auszudrücken. Zwei Röcke können daher die Wertgröße von 40 Ellen Leinwand, aber sie können nie ihre eigne Wertgröße, die Wertgröße von Röcken, ausdrücken. Die oberflächliche Auffassung dieser Tatsache, daß das Äquivalent in der Wertgleichung stets nur die Form eines einfachen Quantums einer Sache, eines Gebrauchswertes, besitzt, hat Bailey, wie viele seiner Vorgänger und Nachfolger, verleitet, im Wertausdruck ein nur quantitatives Verhältnis zu sehn. Die Äquivalentform einer Ware enthält vielmehr keine quantitative Wertbestimmung.
4. Die erste Eigentümlichkeit, die bei Betrachtung der Äquivalentform auffällt, ist diese: Gebrauchswert wird zur Erscheinungsform seines Gegenteils, des Werts.
5. <71> Die Naturalform der Ware wird zur Wertform. Aber, notabene, dies Quidproquo ereignet sich für eine Ware B (Rock oder Weizen oder Eisen usw.) nur innerhalb des Wertverhältnisses, worin eine beliebige andre Ware A (Leinwand etc.) zu ihr tritt, nur innerhalb dieser Beziehung. Da keine Ware sich auf sich selbst als Äquivalent beziehn, also auch nicht ihre eigne Naturalhaut zum Ausdruck ihres eignen Werts machen kann, muß sie sich auf andre Ware als Äquivalent beziehn oder die Naturalhaut einer andren Ware zu ihrer eignen Wertform machen.
6. Dies veranschauliche uns das Beispiel eines Maßes, welches den Warenkörpern als Warenkörpern zukommt, d.h. als Gebrauchswerten. Ein Zuckerhut, weil Körper, ist schwer und hat daher Gewicht, aber man kann keinem Zuckerhut sein Gewicht ansehn oder anfühlen. Wir nehmen nun verschiedne Stücke Eisen, deren Gewicht vorher bestimmt ist. Die Körperform des Eisens, für sich betrachtet, ist ebensowenig Erscheinungsform der Schwere als die des Zuckerhuts. Dennoch, um den Zuckerhut als Schwere auszudrücken, setzen wir ihn in ein Gewichtsverhältnis zum Eisen. In diesem Verhältnis gilt das Eisen als ein Körper, der nichts darstellt außer Schwere. Eisenquanta dienen daher zum Gewichtsmaß des Zuckers und repräsentieren dem Zuckerkörper gegenüber bloße Schwergestalt, Erscheinungsform von Schwere. Diese Rolle spielt das Eisen nur innerhalb dieses Verhältnisses, worin der Zucker oder irgendein anderer Körper, dessen Gewicht gefunden werden soll, zu ihm tritt. Wären beide Dinge nicht schwer, so könnten sie nicht in dieses Verhältnis treten und das eine daher nicht zum Ausdruck der Schwere des andren dienen. Werfen wir beide auf die Waagschale, so sehn wir in der Tat, daß sie als Schwere dasselbe, und daher in bestimmter Proportion auch von demselben Gewicht sind. Wie der Eisenkörper als Gewichtsmaß dem Zuckerhut gegenüber nur Schwere, so vertritt in unsrem Wertausdruck der Rockkörper der Leinwand gegenüber nur Wert.
7. Hier hört jedoch die Analogie auf. Das Eisen vertritt im Gewichtsausdruck des Zuckerhuts eine beiden Körpern gemeinsame Natureigenschaft, ihre Schwere, während der Rock im Wertausdruck der Leinwand eine übernatürliche Eigenschaft beider Dinge vertritt: ihren Wert, etwas rein Gesellschaftliches.
8. Indem die relative Wertform einer Ware, z.B. der Leinwand, ihr Wertsein als etwas von ihrem Körper und seinen Eigenschaften durchaus Unterschiedenes ausdrückt, z.B. als Rockgleiches, deutet dieser Ausdruck selbst an, daß er ein gesellschaftliches Verhältnis verbirgt. Umgekehrt mit der Äquivalentform. Sie besteht ja gerade darin, daß ein Warenkörper, wie der <72> Rock, dies Ding wie es geht und steht, Wert ausdrückt, also von Natur Wertform besitzt. Zwar gilt dies nur innerhalb des Wertverhältnisses, worin die Leinwandware auf die Rockware als Äquivalent bezogen ist.(21) Da aber Eigenschaften eines Dings nicht aus seinem Verhältnis zu andern Dingen entspringen, sich vielmehr in solchem Verhältnis nur betätigen, scheint auch der Rock seine Äquivalentform, seine Eigenschaft unmittelbarer Austauschbarkeit, ebensosehr von Natur zu besitzen wie seine Eigenschaft, schwer zu sein oder warm zu halten. Daher das Rätselhafte der Äquivalentform, das den bürgerlich rohen Blick des politischen Ökonomen erst schlägt, sobald diese Form ihm fertig gegenübertritt im Geld. Dann sucht er den mystischen Charakter von Gold und Silber wegzuklären, indem er ihnen minder blendende Waren unterschiebt und mit stets erneutem Vergnügen den Katalog all des Warepöbels ableiert, der seinerzeit die Rolle des Warenäquivalents gespielt hat. Er ahnt nicht, daß schon der einfachste Wertausdruck, wie 20 Ellen Leinwand = 1 Rock, das Rätsel der Äquivalentform zu lösen gibt.
9. Der Körper der Ware, die zum Äquivalent dient, gilt stets als Verkörperung abstrakt menschlicher Arbeit und ist stets das Produkt einer bestimmten nützlichen, konkreten Arbeit. Diese konkrete Arbeit wird also zum Ausdruck abstrakt menschlicher Arbeit. Gilt der Rock z.B. als bloße Verwirklichung, so die Schneiderei, die sich tatsächlich in ihm verwirklicht, als bloße Verwirklichungsform abstrakt menschlicher Arbeit. Im Wertausdruck der Leinwand besteht die Nützlichkeit der Schneiderei nicht darin, daß sie Kleider, also auch Leute, sondern daß sie einen Körper macht, dem man es ansieht, daß er Wert ist, also Gallerte von Arbeit, die sich durchaus nicht unterscheidet von der im Leinwandwert vergegenständlichten Arbeit. Um solch einen Wertspiegel zu machen, muß die Schneiderei selbst nichts widerspiegeln außer ihrer abstrakten Eigenschaft, menschliche Arbeit zu sein.
10. In der Form der Schneiderei wie in der Form der Weberei wird menschliche Arbeitskraft verausgabt. Beide besitzen daher die allgemeine Eigenschaft menschlicher Arbeit und mögen daher in bestimmten Fällen, z.B. bei der Wertproduktion, nur unter diesem Gesichtspunkt in Betracht kommen. All das ist nicht mysteriös. Aber im Wertausdruck der Ware wird die Sache verdreht. Um z.B. auszudrücken, daß das Weben nicht in seiner <73> konkreten Form als Weben, sondern in seiner allgemeinen Eigenschaft als menschliche Arbeit den Leinwandwert bildet, wird ihm die Schneiderei, die konkrete Arbeit, die das Leinwand-Äquivalent produziert, gegenübergestellt als die handgreifliche Verwirklichungsform abstrakt menschlicher Arbeit.
11. Es ist also eine zweite Eigentümlichkeit der Äquivalentform, daß konkrete Arbeit zur Erscheinungsform ihres Gegenteils, abstrakt menschlicher Arbeit wird.
12. Indem aber diese konkrete Arbeit, die Schneiderei, als bloßer Ausdruck unterschiedsloser menschlicher Arbeit gilt, besitzt sie die Form der Gleichheit mit andrer Arbeit, der in der Leinwand steckenden Arbeit, und ist daher, obgleich Privatarbeit, wie alle andre, Waren produzierende Arbeit, dennoch Arbeit in unmittelbar gesellschaftlicher Form. Ebendeshalb stellt sie sich dar in einem Produkt, das unmittelbar austauschbar mit andrer Ware ist. Es ist also eine dritte Eigentümlichkeit der Äquivalentform, daß Privatarbeit zur Form ihres Gegenteils wird, zu Arbeit in unmittelbar gesellschaftlicher Form.
13. Die beiden zuletzt entwickelten Eigentümlichkeiten der Äquivalentform werden noch faßbarer, wenn wir zu dem großen Forscher zurückgehn, der die Wertform, wie so viele Denkformen, Gesellschaftsformen und Naturformen zuerst analysiert hat. Es ist dies Aristoteles.
14. Zunächst spricht Aristoteles klar aus, daß die Geldform der Ware nur die weiter entwickelte Gestalt der einfachen Wertform ist, d.h. des Ausdrucks des Werts einer Ware in irgendeiner beliebigen andren Ware, denn er sagt:
"5 Polster = 1 Haus"
  
< Griechisch: Clinai pente anti oicias>
"unterscheidet sich nicht" von:
"5 Polster = soundso viel Geld"
   ...     
< Griechisch: clinai pente anti ... odson ai pente clinai>
15. Er sieht ferner ein, daß das Wertverhältnis, worin dieser Wertausdruck steckt, seinerseits bedingt, daß das Haus dem Polster qualitativ gleichgesetzt wird und daß diese sinnlich verschiednen Dinge ohne solche Wesensgleichheit nicht als kommensurable Größen aufeinander beziehbar wären. "Der Austausch", sagt er," kann nicht sein ohne die Gleichheit, die <74> Gleichheit aber nicht ohne die Kommensurabilität" ("    "). Hier aber stutzt er und gibt die weitere Analyse der Wertform auf. "Es ist aber in Wahrheit unmöglich (    ), daß so verschiedenartige Dinge kommensurabel", d.h. qualitativ gleich seien. Diese Gleichsetzung kann nur etwas der wahren Natur der Dinge Fremdes sein, also nur "Notbehelf für das praktische Bedürfnis".
16. Aristoteles sagt uns also selbst, woran seine weitere Analyse scheitert, nämlich am Mangel des Wertbegriffs. Was ist das Gleiche, d.h. die gemeinschaftliche Substanz, die das Haus für den Polster im Wertausdruck des Polsters vorstellt? So etwas kann "in Wahrheit nicht existieren", sagt Aristoteles. Warum? Das Haus stellt dem Polster gegenüber ein Gleiches vor, soweit es das in beiden, dem Polster und dem Haus, wirklich Gleiche vorstellt. Und das ist - menschliche Arbeit.
17. Daß aber in der Form der Warenwerte alle Arbeiten als gleiche menschliche Arbeit und daher als gleichgeltend ausgedrückt sind, konnte Aristoteles nicht aus der Wertform selbst herauslesen, weil die griechische Gesellschaft auf der Sklavenarbeit beruhte, daher die Ungleichheit der Menschen und ihrer Arbeitskräfte zur Naturbasis hatte. Das Geheimnis des Wertausdrucks, die Gleichheit und gleiche Gültigkeit aller Arbeiten, weil und insofern sie menschliche Arbeit überhaupt sind, kann nur entziffert werden, sobald der Begriff der menschlichen Gleichheit bereits die Festigkeit eines Volksvorurteils besitzt. Das ist aber erst möglich in einer Gesellschaft, worin die Warenform die allgemeine Form des Arbeitsprodukts, also auch das Verhältnis der Menschen zueinander als Warenbesitzer das herrschende gesellschaftliche Verhältnis ist. Das Genie des Aristoteles glänzt grade darin, daß er im Wertausdruck der Waren ein Gleichheitsverhältnis entdeckt. Nur die historische Schranke der Gesellschaft, worin er lebte, verhindert ihn herauszufinden, worin denn "in Wahrheit" dies Gleichheitsverhältnis besteht.

4. Das Ganze der einfache Wertform
1. Die einfache Wertform einer Ware ist enthalten in ihrem Wertverhältnis zu einer verschiedenartigen Ware oder im Austauschverhältnis mit derselben. Der Wert der Ware A wird qualitativ ausgedrückt durch die unmittelbare Austauschbarkeit der Ware B mit der Ware A. Er wird quantitativ ausgedrückt durch die Austauschbarkeit eines bestimmten Quantums der Ware B mit dem gegebenen Quantum der Ware A. In andren Worten: <75> Der Wert einer Ware ist selbständig ausgedrückt durch seine Darstellung als "Tauschwert". Wenn es im Eingang dieses Kapitels in der gang und gäben Manier hieß: Die Ware ist Gebrauchswert und Tauschwert, so war dies, genau gesprochen, falsch. Die Ware ist Gebrauchswert oder Gebrauchsgegenstand und "Wert". Sie stellt sich dar als dies Doppelte, was sie ist, sobald ihr Wert eine eigne, von ihrer Naturalform verschiedene Erscheinungsform besitzt, die des Tauschwerts, und sie besitzt diese Form niemals isoliert betrachtet, sondern stets nur im Wert- oder Austauschverhältnis zu einer zweiten, verschiedenartigen Ware. Weiß man das jedoch einmal, so tut jene Sprechweise keinen Harm, sondern dient zur Abkürzung.
2. Unsere Analyse bewies, daß die Wertform oder der Wertausdruck der Ware aus der Natur des Warenwerts entspringt, nicht umgekehrt Wert und Wertgröße aus ihrer Ausdrucksweise als Tauschwert. Dies ist jedoch der Wahn sowohl der Merkantilisten und ihrer modernen Aufwärmer, wie Ferrier, Ganilh usw. (22), als auch ihrer Antipoden, der modernen Freihandels-Commis-Voyageurs, wie Bastiat und Konsorten. Die Merkantilisten legen das Hauptgewicht auf die qualitative Seite des Wertausdrucks, daher auf die Äquivalentform der Ware, die im Geld ihre fertige Gestalt besitzt - die modernen Freihandelshausierer dagegen, die ihre Ware um jeden Preis losschlagen müssen, auf die quantitative Seite der relativen Wertform. Für sie existiert folglich weder Wert noch Wertgröße der Ware außer in dem Ausdruck durch das Austauschverhältnis, daher nur im Zettel des täglichen Preiskurants. Der Schotte Macleod, in seiner Funktion, die kreuzverwirrten Vorstellungen von Lombardstreet möglichst gelehrt herauszuputzen, bildet die gelungene Synthese zwischen den abergläubigen Merkantilisten und den aufgeklärten Freihandelshausierern.
3. Die nähere Betrachtung des im Wertverhältnis zur Ware B enthaltenen Wertausdrucks der Ware A hat gezeigt, daß innerhalb desselben die Naturalform der Ware A nur als Gestalt von Gebrauchswert, die Naturalform der Ware B nur als Wertform oder Wertgestalt gilt. Der in der Ware eingehüllte innere Gegensatz von Gebrauchswert und Wert wird also dargestellt durch einen äußeren Gegensatz, d.h. durch das Verhältnis zweier Waren, worin <76> die eine Ware, deren Wert ausgedrückt werden soll, unmittelbar nur als Gebrauchswert, die andre Ware hingegen, worin Wert ausgedrückt wird, unmittelbar nur als Tauschwert gilt. Die einfache Wertform einer Ware ist also die einfache Erscheinungsform des in ihr enthaltenen Gegensatzes von Gebrauchswert und Wert.
4. Das Arbeitsprodukt ist in allen gesellschaftlichen Zuständen Gebrauchsgegenstand, aber nur eine historisch bestimmte Entwicklungsepoche, welche die in der Produktion eines Gebrauchsdings verausgabte Arbeit als seine "gegenständliche" Eigenschaft darstellt, d.h. als seinen Wert, verwandelt das Arbeitsprodukt in Ware. Es folgt daher, daß die einfache Wertform der Ware zugleich die einfache Warenform des Arbeitsprodukts ist, daß also auch die Entwicklung der Warenform mit der Entwicklung der Wertform zusammenfällt.

5. Der erste Blick zeigt das Unzulängliche der einfachen Wertform, dieser Keimform, die erst durch eine Reihe von Metamorphosen zur Preisform heranreift.
6. Der Ausdruck in irgendwelcher Ware B unterscheidet den Wert der Ware A nur von ihrem eignen Gebrauchswert und setzt sie daher auch nur in ein Austauschverhältnis zu irgendeiner einzelnen von ihr selbst verschiednen Warenart, statt ihre qualitative Gleichheit und quantitative Proportionalität mit allen andren Waren darzustellen. Der einfachen relativen Wertform einer Ware entspricht die einzelne Äquivalentform einer andren Ware. So besitzt der Rock, im relativen Wertausdruck der Leinwand, nur Äquivalentform oder Form unmittelbarer Austauschbarkeit mit Bezug auf diese einzelne Warenart Leinwand.
7. Indes geht die einzelne Wertform von selbst in eine vollständigere Form über. Vermittelst derselben wird der Wert einer Ware A zwar in nur einer Ware von andrer Art ausgedrückt. Welcher Art aber diese zweite Ware, ob Rock, ob Eisen, ob Weizen usw., ist durchaus gleichgültig. Je nachdem sie also zu dieser oder jener andren Warenart in ein Wertverhältnis tritt, entstehn verschiedne einfache Wertausdrücke einer und derselben Ware.(22a) Die Anzahl ihrer möglichen Wertausdrücke ist nur beschränkt durch die Anzahl von ihr verschiedner Warenarten. Ihr vereinzelter Wertausdruck verwandelt sich daher in die stets verlängerbare Reihe ihrer verschiednen einfachen Wertausdrücke.




B) Totale oder entfaltete Wertform
1. <77> z Ware A = u Ware B oder = v Ware C oder = w Ware D oder = x Ware E oder = etc.
(20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 10 Pfd. Tee oder = 40 Pfd. Kaffee oder = 1 Quarter Weizen oder = 2 Unzen Gold oder = 1/2 Tonne Eisen oder = etc. )

1. Die entfaltete relative Wertform
1. Die Wert einer Ware, der Leinwand z.B., ist jetzt ausgedrückt in zahllosen andren Elementen der Warenwelt. Jeder andre Warenkörper wird zum Spiegel des Leinwandwerts.(23) So erscheint dieser Wert selbst erst wahrhaft als Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit. Denn die ihn bildende Arbeit ist nun ausdrücklich als Arbeit dargestellt, der jede andre menschliche Arbeit gleichgilt, welche Naturalform sie immer besitze und ob sie sich daher in Rock oder Weizen oder Eisen oder Gold usw. vergegenständliche. Durch ihre Wertform steht die Leinwand daher jetzt auch in gesellschaftlichem Verhältnis nicht mehr zu nur einer einzelnen andren Warenart, sondern zur Warenwelt. Als Ware ist sie Bürger dieser Welt. Zugleich liegt in der endlosen Reihe seiner Ausdrücke, daß der Warenwert gleichgültig ist gegen die besondre Form des Gebrauchswerts, worin er erscheint.
2. <78> In der ersten Form: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock kann es zufällige Tatsache sein, daß diese zwei Waren in einem bestimmten quantitativen Verhältnisse austauschbar sind. In der zweiten Form leuchtet dagegen sofort ein von der zufälligen Erscheinung wesentlich unterschiedner und sie bestimmender Hintergrund durch. Der Wert der Leinwand bleibt gleich groß, ob in Rock oder Kaffee oder Eisen etc. dargestellt, in zahllos verschiednen Waren, den verschiedensten Besitzern angehörig. Das zufällige Verhältnis zweier individueller Warenbesitzer fällt fort. Es wird offenbar, daß nicht der Austausch die Wertgröße der Ware, sondern umgekehrt die Wertgröße der Ware ihre Austauschverhältnisse reguliert.

2. Die besondre Äquivalentform
1. Jede Ware, Rock, Tee, Weizen, Eisen usw., gilt im Wertausdruck der Leinwand als Äquivalent und daher als Wertkörper. Die bestimmte Naturalform jeder dieser Waren ist jetzt eine besondre Äquivalentform neben vielen andren. Ebenso gelten die mannigfaltigen in den verschiedenen Warenkörpern enthaltenen bestimmten, konkreten, nützlichen Arbeitsarten jetzt als ebenso viele besondre Verwirklichungs- oder Erscheinungsformen menschlicher Arbeit schlechthin.

3. Mängel der totalen oder entfalteten Wertform
1. Erstens ist der relative Wertausdruck der Ware unfertig, weil seine Darstellungsreihe nie abschließt. Die Kette, worin eine Wertgleichung sich zur andern fügt, bleibt fortwährend verlängerbar durch jede neu auftretende Warenart, welche das Material eines neuen Wertausdrucks liefert. Zweitens bildet sie eine bunte Mosaik auseinanderfallender und verschiedenartiger Wertausdrücke. Wird endlich, wie dies geschehn muß, der relative Wert jeder Ware in dieser entfalteten Form ausgedrückt, so ist die relative Wertform jeder Ware eine von der relativen Wertform jeder andren Ware verschiedne endlose Reihe von Wertausdrücken. - Die Mängel der entfalteten relativen Wertform spiegeln sich wider in der ihr entsprechenden Äquivalentform. Da die Naturalform jeder einzelnen Warenart hier eine besondre Äquivalentform neben unzähligen andren besondren Äquivalentformen ist, existieren überhaupt nur beschränkte Äquivalentformen, von denen jede die andre ausschließt. Ebenso ist die in jedem besondren Warenäquivalent enthaltene bestimmte, konkrete, nützliche Arbeitsart nur be- <79> sondre, also nicht erschöpfende Erscheinungsform der menschlichen Arbeit. Diese besitzt ihre vollständige oder totale Erscheinungsform zwar in dem Gesamtumkreis jener besondren Erscheinungsformen. Aber so besitzt sie keine einheitliche Erscheinungsform.

2. Die entfaltete relative Wertform besteht jedoch nur aus einer Summe einfacher relativer Wertausdrücke oder Gleichungen der ersten Form, wie:
20 Ellen Leinwand = 1 Rock
20 Ellen Leinwand = 10 Pfd. Tee usw.
3. Jede dieser Gleichungen enthält aber rückbezüglich auch die identische Gleichung:
1 Rock = 20 Ellen Leinwand
10 Pfd. Tee = 20 Ellen Leinwand usw.
4. In der Tat: Wenn ein Mann seine Leinwand mit vielen andren Waren austauscht und daher ihren Wert in einer Reihe von andren Waren ausdrückt, so müssen notwendig auch die vielen andren Warenbesitzer ihre Waren mit Leinwand austauschen und daher die Werte ihrer verschiednen Waren in derselben dritten Ware ausdrücken, in Leinwand. - Kehren wir also die Reihe: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 10 Pfd. Tee oder = usw. um, d.h., drücken wir die der Sache nach schon in der Reihe enthaltene Rückbeziehung aus, so erhalten wir:
C) Allgemeine Wertform
1 Rock = }20 Ellen Leinwand

10 Pfd. Tee =
40 Pfd. Kaffee =
1 Qrtr. Weizen =
2 Unzen Gold =
1/2 Tonne Eisen =
x Ware A =
usw. Ware =
1. Veränderter Charakter der Wertform
1. Die Waren stellen ihre Werte jetzt 1. einfach dar, weil in einer einzigen Ware und 2. einheitlich, weil in derselben Ware. Ihre Wertform ist einfach und gemeinschaftlich, daher allgemein.

2. <80> Die Formen I und II kamen beide nur dazu, den Wert einer Ware als etwas von ihrem eigne Gebrauchswert oder ihrem Warenkörper Unterschiedenes auszudrücken.
3. Die erste Form ergab Wertgleichungen wie: 1 Rock = 20 Ellen Leinwand, 10 Pfd. Tee = 1/2 Tonne Eisen usw. Der Rockwert wird als Leinwandgleiches, der Teewert als Eisengleiches usw. ausgedrückt, aber Leinwandgleiches und Eisengleiches, diese Wertausdrücke von Rock und Tee, sind ebenso verschieden wie Leinwand und Eisen. Diese Form kommt offenbar praktisch nur vor in den ersten Anfängen, wo Arbeitsprodukte durch zufälligen und gelegentlichen Austausch in Waren verwandelt werden.
4. Die zweite Form unterscheidet vollständiger als die erste den Wert einer Ware von ihrem eignen Gebrauchswert, denn der Wert des Rocks z.B. tritt jetzt seiner Naturalform in allen möglichen Formen gegenüber, als Leinwandgleiches, Eisengleiches, Teegleiches usw., alles andre, nur nicht Rockgleiches. Andrerseits ist hier jeder gemeinsame Wertausdruck der Waren direkt ausgeschlossen, denn im Wertausdruck je einer Ware erscheinen jetzt alle andren Waren nur in der Form von Äquivalenten. Die entfaltete Wertform kommt zuerst tatsächlich vor, sobald ein Arbeitsprodukt, Vieh z.B., nicht mehr ausnahmsweise, sondern schon gewohnheitsmäßig mit verschiednen andren Waren ausgetauscht wird.
5. Die neugewonnene Form drückt die Werte der Warenwelt in einer und derselben von ihr abgesonderten Warenart aus, z.B. in Leinwand, und stellt so die Werte aller Waren dar durch ihre Gleichheit mit Leinwand. Als Leinwandgleiches ist der Wert jetzt nicht nur von ihrem eignen Gebrauchswert unterschieden, sondern von allem Gebrauchswert, und ebendadurch als das ihr mit allen Waren Gemeinsame ausgedrückt. Erst diese Form bezieht daher wirklich die Waren aufeinander als Werte oder läßt sie einander als Tauschwerte erscheinen.
6. Die beiden früheren Formen drücken den Wert je einer Ware, sei es in einer einzigen verschiedenartigen Ware, sei es in einer Reihe vieler von ihr verschiednen Waren aus. Beidemal ist es sozusagen das Privatgeschäft der einzelnen Ware, sich eine Wertform zu geben, und sie vollbringt es ohne Zutun der andren Waren. Diese spielen ihr gegenüber die bloß passive Rolle des Äquivalents. Die allgemeine Wertform entsteht dagegen nur als gemeinsames Werk der Warenwelt. Eine Ware gewinnt nur allgemeinen Wertausdruck, weil gleichzeitig alle andren Waren ihren Wert in demselben Äquivalent ausdrücken, und jede neu auftretende Warenart muß das nachmachen. Es kommt damit zum Vorschein, daß die Wertgegenständlichkeit der Waren, weil sie das bloß "gesellschaftliche Dasein" dieser Dinge ist, <81> auch nur durch ihre allseitige gesellschaftliche Beziehung ausgedrückt werden kann, ihre Wertform daher gesellschaftlich gültige Form sein muß.
7. In der Form von Leinwandgleichen erscheinen jetzt alle Waren nicht nur als qualitativ Gleiche, Werte überhaupt, sondern zugleich als quantitativ vergleichbare Wertgrößen. Weil sie ihre Wertgrößen in einem und demselben Material, in Leinwand bespiegeln, spiegeln sich diese Wertgrößen wechselseitig wider. Z.B. 10 Pfd. Tee = 20 Ellen Leinwand, und 40 Pfd. Kaffee = 20 Ellen Leinwand. Also 10 Pfd. Tee = 40 Pfd. Kaffee. Oder in 1 Pfd. Kaffee steckt nur 1/4 soviel Wertsubstanz, Arbeit, als in 1 Pfd. Tee.
8. Die allgemeine relative Wertform der Warenwelt drückt der von ihr ausgeschlossenen Äquivalentware, der Leinwand, den Charakter des allgemeinen Äquivalents auf. Ihre eigne Naturalform ist die gemeinsame Wertgestalt dieser Welt, die Leinwand daher mit allen andren Waren unmittelbar austauschbar. Ihre Körperform gilt als die sichtbare Inkarnation, die allgemeine gesellschaftliche Verpuppung aller menschlichen Arbeit. Die Weberei, die Privatarbeit, welche Leinwand produziert, befindet sich zugleich in allgemein gesellschaftlicher Form, der Form der Gleichheit mit allen andren Arbeiten. Die zahllosen Gleichungen, woraus die allgemeine Wertform besteht, setzen der Reihe nach die in der Leinwand verwirklichte Arbeit jeder in andrer Ware enthaltenen Arbeit gleich und machen dadurch die Weberei zur allgemeinen Erscheinungsform menschlicher Arbeit überhaupt. So ist die im Warenwert vergegenständlichte Arbeit nicht nur negativ dargestellt als Arbeit, worin von allen konkreten Formen und nützlichen Eigenschaften der wirklichen Arbeiten abstrahiert wird. Ihre eigne positive Natur tritt ausdrücklich hervor. Sie ist die Reduktion aller wirkliche Arbeiten auf den ihnen gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit, auf die Verausgabung menschlicher Arbeitskraft.
9. Die allgemeine Wertform, welche die Arbeitsprodukte als bloße Gallerten unterschiedsloser menschlicher Arbeit darstellt, zeigt durch ihr eignes Gerüste, daß sie der gesellschaftliche Ausdruck der Warenwelt ist. So offenbart sie, daß innerhalb dieser Welt der allgemein menschliche Charakter der Arbeit ihren spezifisch gesellschaftlichen Charakter bildet.

2. Entwicklungsverhältnis von relativer Wertform und Äquivalentform
1. Dem Entwicklungsgrad der relativen Wertform entspricht der Entwicklungsgrad der Äquivalentform. Aber, und dies ist wohl zu merken, die Entwicklung der Äquivalentform ist nur Ausdruck und Resultat der Entwicklung der relativen Wertform.
2. <82> Die einfache oder vereinzelte relative Wertform einer Ware macht eine andre Ware zum einzelnen Äquivalent. Die entfaltete Form des relativen Werts, dieser Ausdruck des Werts einer Ware in allen andren Waren, prägt ihnen die Form verschiedenartiger besonderer Äquivalente auf. Endlich erhält eine besondre Warenart die allgemeine Äquivalentform, weil alle andren Waren sie zum Material ihrer einheitlichen, allgemeinen Wertform machen.

3. In demselben Grad aber, worin sich die Wertform überhaupt entwickelt, entwickelt sich auch der Gegensatz zwischen ihren beiden Polen, der relativen Wertform und Äquivalentform.
4. Schon die erste Form - 20 Ellen Leinwand = 1 Rock - enthält diesen Gegensatz, fixiert ihn aber nicht. Je nachdem dieselbe Gleichung vorwärts oder rückwärts gelesen wird, befindet sich jedes der beiden Warenextreme, wie Leinwand und Rock, gleichmäßig bald in der relativen Wertform, bald in der Äquivalentform. Es kostet hier noch Mühe, den polarischen Gegensatz festzuhalten.
5. In den Form II kann immer nur je eine Warenart ihren relativen Wert total entfalten oder besitzt sie selbst nur entfaltete relative Wertform, weil und sofern alle andren Waren sich ihr gegenüber in der Äquivalentform befinden. Hier kann man nicht mehr die zwei Seiten der Wertgleichung - wie 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 10 Pfd. Tee oder = 1 Qrtr. Weizen etc. - umsetzen, ohne ihren Gesamtcharakter zu verändern und sie aus der totalen in die allgemeine Wertform zu verwandeln.
6. Die letztere Form, Form III, endlich gibt der Warenwelt allgemeingesellschaftliche relative Wertform, weil und sofern, mit einer einzigen Ausnahme, alle ihr angehörigen Waren von der allgemeinen Äquivalentform ausgeschlossen sind. Eine Ware, die Leinwand, befindet sich daher in der Form unmittelbarer Austauschbarkeit mit allen andren Waren oder in unmittelbar gesellschaftlicher Form, weil und sofern alle andren Waren sich nicht darin befinden.(24)
7. <83> Umgekehrt ist die Ware, die als allgemeines Äquivalent figuriert, von der einheitlichen und daher allgemeinen relativen Wertform der Warenwelt ausgeschlossen. Sollte die Leinwand, d.h. irgendeine in allgemeiner Äquivalentform befindliche Ware, auch zugleich an der allgemeinen relativen Wertform teilnehmen, so müßte sie sich selbst zum Äquivalent dienen. Wir erhielten dann: 20 Ellen Leinwand = 20 Ellen Leinwand, eine Tautologie, worin weder Wert noch Wertgröße ausgedrückt ist. Um den relativen Wert des allgemeinen Äquivalents auszudrücken, müssen wir vielmehr die Form III umkehren. Es besitzt keine mit den andren Waren gemeinschaftliche relative Wertform, sondern sein Wert drückt sich relativ aus in der endlosen Reihe aller andren Warenkörper. So erscheint jetzt die entfaltete relative Wertform oder Form II als die spezifische relative Wertform der Äquivalentware.

3. Übergang aus der allgemeinen Wertform zur Geldform
1. Die allgemeine Äquivalentform ist eine Form des Werts überhaupt. Sie kann also jeder Ware zukommen. Andrerseits befindet sich eine Ware nur in allgemeiner Äquivalentform (Form III), weil und sofern sie durch alle andren Waren als Äquivalent ausgeschlossen wird. Und erst vom Augenblick, wo diese Ausschließung sich endgültig auf eine spezifische Warenart beschränkt, hat die einheitliche relative Wertform der Warenwelt objektive Festigkeit und allgemein gesellschaftliche Gültigkeit gewonnen.
2. Die spezifische Warenart nun, mit deren Naturalform die Äquivalentform gesellschaftlich verwächst, wird zur Geldware oder funktioniert als Geld. Es wird ihre spezifisch gesellschaftliche Funktion, und daher ihr gesellschaftliches Monopol, innerhalb der Warenwelt die Rolle des allgemeinen Äquivalents zu spielen. Diesen bevorzugten Platz hat unter den <84> Waren, welche in Form II als besondre Äquivalente der Leinwand figurieren und in Form III ihren relativen Wert gemeinsam in Leinwand ausdrücken eine bestimmte Ware historisch erobert, das Gold. Setzen wir daher in Form III die Ware Gold an die Stelle der Ware Leinwand, so erhalten wir:





D) Geldform
20 Ellen Leinwand = }2 Unzen Gold
1 Rock =
10 Pfd. Tee =
40 Pfd. Kaffee =
1 Qrtr. Weizen =
1/2 Tonne Eisen =
x Ware A =
1. Es finden wesentliche Veränderungen statt beim Übergang von Form I zu Form II, von Form II zu Form III. Dagegen unterscheidet Form IV sich durch nichts von Form III, außer daß jetzt statt Leinwand Gold die allgemeine Äquivalentform besitzt. Gold bleibt in Form IV, was die Leinwand in Form III war - allgemeines Äquivalent. Der Fortschritt besteht nur darin , daß die Form unmittelbarer allgemeiner Austauschbarkeit oder die allgemeine Äquivalentform jetzt durch gesellschaftliche Gewohnheit endgültig mit der spezifischen Naturalform der Ware Gold verwachsen ist.
2. Gold tritt den andren Waren nur als Geld gegenüber, weil es ihnen bereits zuvor als Ware gegenüberstand. Gleich allen andren Waren funktionierte es auch als Äquivalent, sei es als einzelnes Äquivalent in vereinzelten Austauschakten, sei es als besondres Äquivalent neben andren Warenäquivalenten. Nach und nach funktionierte es in engeren oder weiteren Kreisen als allgemeines Äquivalent. Sobald es das Monopol dieser Stelle im Wertausdruck der Warenwelt erobert hat, wird es Geldware, und erst von dem Augenblick, wo es bereits Geldware geworden ist, unterscheidet sich Form IV von Form III, oder ist die allgemeine Wertform verwandelt in die Geldform.
3. Die einfache relative Wertausdruck einer Ware, z.B. der Leinwand, in der bereits als Geldware funktionierenden Ware, z.B. dem Gold, ist Preisform. Die "Preisform" der Leinwand daher:
20 Ellen Leinwand = 2 Unzen Gold
oder, wenn 2 Pfd.St. der Münzname von 2 Unzen Gold,
20 Ellen Leinwand = 2 Pfd.St.
4. <85> Die Schwierigkeit im Begriff der Geldform beschränkt sich auf das Begreifen der allgemeinen Äquivalentform, also der allgemeinen Wertform überhaupt, der Form III. Form III löst sich rückbezüglich auf in Form II, die entfaltete Wertform, und ihr konstituierendes Element ist Form I: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder x Ware A = y Ware B. Die einfache Warenform ist daher der Keim der Geldform.


Fußnoten
(1) Karl Marx, "Zur Kritik der Politischen Ökonomie", Berlin 1859, pag. 3. <Siehe Band 13, S. 15> <=
(2) "Verlangen schließt Bedürfnis ein; es ist der Appetit des Geistes, und so natürlich wie Hunger für den Körper ... die meisten (Dinge) haben ihren Wert daher, daß sie Bedürfnisse des Geistes befriedigen." (Nicholas Barbon, "A Discourse on coining the new money lighter. In answer to Mr. Locke's Considerations etc.", London 1696, p. 2, 3.) <=
(3) "Dinge haben einen intrinsick vertue" (dies bei Barbon die spezifische Bezeichnung für Gebrauchswert), "der überall gleich ist, so wie der des Magnets, Eisen anzuziehen" (l.c.p. 6). Die Eigenschaft des Magnets, Eisen anzuziehn, wurde erst nützlich, sobald man vermittelst derselben die magnetische Polarität entdeckt hatte. <=
(4) "Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befriedigen oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen." (John Locke, "Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest", 1691, in "Works", edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.) Im 17. Jahrhundert finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellen "Worth" für Gebrauchswert und "Value" für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudrücken. <=
(5) In der bürgerlichen Gesellschaft herrscht die fictio juris, daß jeder Mensch als Warenkäufer eine enzyklopädische Warenkenntnis besitzt. <=
(6) "Der Wert besteht in dem Tauschverhältnis, das zwischen einem Ding und einem anderen, zwischen der Menge eines Erzeugnisses und der eines anderen besteht." (Le Trosne, "De l'Intérêt Social", [in] "Physiocrates", éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) <=
(7) "Nichts kann einen inneren Tauschwert haben" (N. Barbon, l.c.p. 6), oder wie Butler sagt:
"Der Wert eines Dings
ist grade so viel, wie es einbringen wird." <=
(8) "One sort of wares are as good as another, if the value be equal. There is no difference or distinction in things of equal value ... One hundred pounds worth of lead or iron, is of as great a value as one hundred pounds worth of silver and gold." <" ... Blei oder Eisen im Werte von einhundert Pfund Sterling haben gleich großen Tauschwert wie Silber und Gold im Werte von einhundert Pfund Sterling."> (N. Barbon, l.c.p. 53 u. 7.) <=
(9) Note zur 2. Ausg. "The value of them (the necessaries of life) when they are exchagend the one for another, is regulated by the quantity of labour necessarily required, and commonly taken in producing them." "Der Wert von Gebrauchsgegenständen, sobald sie gegeneinander ausgetauscht werden, ist bestimmt durch das Quantum der zu ihrer Produktion notwendig erheischten und gewöhnlich angewandten Arbeit." ("Some Thoughts on the Interest of Money in general, and particularly in the Public funds etc.", London, p. 36, 37.) Diese merkwürdige anonyme Schrift des vorigen Jahrhunderts trägt kein Datum. Es geht jedoch aus ihrem Inhalt hervor, daß sie unter Georg II., etwa 1739 oder 1740, erschienen ist. <=
(10) "Alle Erzeugnisse der gleichen Art bilden eigentlich nur eine Masse, deren Preis allgemein und ohne Rücksicht auf die besonderen Umstände bestimmt wird." <=
(11) K. Marx, l.c.p.6. <Siehe Band 13, S. 18> <=
(11a) Note zur 4. Aufl. - Ich schiebe das Eingeklammerte ein, weil durch dessen Weglassung sehr häufig das Mißverständnis entstanden, jedes Produkt, das von einem andern als dem Produzenten konsumiert wird, gelte bei Marx als Ware. - F. E. <=
(12) l.c.p. 12, 13 und passim. <Siehe Band 13, S. 22, 23 und passim> <=
(13) "Alle Erscheinungen des Weltalls, seien sie hervorgerufen von der Hand des Menschen oder durch die allgemeinen Gesetze der Physik, sind nicht tatsächliche Neuschöpfungen, sondern lediglich eine Umformung des Stoffes. Zusammensetzen und Trennen sind die einzigen Elemente, die der menschliche Geist immer wieder bei der Analyse der Verstellung der Reproduktion findet; und ebenso verhält es sich mit der Reproduktion des Wertes" (Gebrauchswert, obgleich Verri hier in seiner Polemik gegen die Physiokraten selbst nicht recht weiß, von welcher Sorte Wert er spricht) "und des Reichtums, wenn Erde, Luft und Wasser auf den Feldern sich in Korn verwandeln, oder auch wenn sich durch die Hand des Menschen die Abscheidung eines Insekts in Seide verwandelt, oder einige Metallteilchen sich anordnen, um eine Repetieruhr zu bilden." (Pietro Verri, "Meditazioni sulla Economia Politica" - zuerst gedruckt 1771 - in der Ausgabe der italienischen Ökonomen von Custodi, Parte Moderna, t. XV, p. 21, 22.) <=
(14) Vgl. Hegel, "Philosophie des Rechts", Berlin 1840, p. 250, § 190. <=
(15) Der Leser muß aufmerken, daß hier nicht vom Lohn oder Wert die Rede ist, den der Arbeiter für etwa einen Arbeitstag erhält, sondern vom Warenwert, worin sich sein Arbeitstag vergegenständlicht. Die Kategorie des Arbeitslohns existiert überhaupt noch nicht auf dieser Stufe unsrer Darstellung. <=
(16) Note zur 2. Ausg. Um zu beweisen, "daß die Arbeit allein das endgültige und reale Maß ist, woran der Wert aller Waren zu allen Zeiten geschätzt und verglichen werden kann", sagt A. Smith: "Gleiche Quantitäten Arbeit müssen zu allen Zeiten und an allen Orten für den Arbeiter selbst denselben Wert haben. In seinem normalen Zustand von Gesundheit, Kraft und Tätigkeit und mit dem Durchschnittsgrad von Geschicklichkeit, die er besitzen mag, muß er immer die nämliche Portion seiner Ruhe, seiner Freiheit und seines Glücks hingeben." ("Wealth of Nations", b. I, ch. V, [p.104/105].) Einerseits verwechselt A. Smith hier (nicht überall) die Bestimmung des Werts durch das in der Produktion der Ware verausgabte Arbeitsquantum mit der Bestimmung der Warenwerte durch den Wert der Arbeit und sucht daher nachzuweisen, daß gleiche Quantitäten Arbeit stets denselben Wert haben. Andrerseits ahnt er, daß die Arbeit, soweit sie sich im Wert der Waren darstellt, nur als Verausgabung von Arbeitskraft gilt, faßt diese Verausgabung aber wieder bloß als Opfer von Ruhe, Freiheit und Glück, nicht auch als normale Lebensbetätigung. Allerdings hat er den modernen Lohnarbeiter vor Augen. - Viel treffender sagt der Note 9 zitierte anonyme Vorgänger von A. Smith: "Ein Mann hat eine Woche auf Herstellung dieses Bedarfsgegenstands verwandt ... und der, welcher ihm einen anderen Gegenstand im Austausch gibt, kann nicht richtiger abschätzen, was wirklich gleichwertig ist, als durch die Berechnung, was ihm ebensoviel labour und Zeit kostet. Das bedeutet in der Tat den Austausch der labour, die ein Mensch in einer bestimmten Zeit auf einen Gegenstand verwandt hat, gegen die labour eines andren, in der gleichen Zeit auf einen anderen Gegenstand verwandt." ("Some Thoughts on the Interest of Money in general etc.", p. 39.) - {Zur 4. Auflage: Die englische Sprache hat den Vorzug, zwei verschiedne Worte für diese zwei verschiednen Aspekte der Arbeit zu haben. Die Arbeit, die Gebrauchswerte schafft und qualitativ bestimmt ist, heißt work, im Gegensatz zu labour; Die Arbeit, die Wert schafft und nur quantitativ gemessen wird, heißt labour im Gegensatz zu work. Siehe Note zu engl. Übersetzung, p. 14. - F. E.} <=
(17) Die wenigen Ökonomen, die sich, wie S. Bailey, mit der Analyse der Wertform beschäftigt haben, konnten zu keinem Resultat kommen, einmal, weil sie Wertform und Wert verwechseln, zweitens, weil sie, unter dem rohen Einfluß des praktischen Bürgers, von vornherein ausschließlich die quantitative Bestimmtheit ins Auge fassen. "Die Verfügung über die Quantität ... macht den Wert." ("Money and its Vicissitudes", Lond. 1837, p.11.) Verfasser S. Bailey. <=
(17a) Note zur 2. Ausgabe. Einer der ersten Ökonomen, der nach William Petty die Natur des Werts durchschaut hat, der berühmte Franklin, sagt: "Da der Handel überhaupt nichts ist als der Austausch einer Arbeit gegen andre Arbeit, wird der Wert aller Dinge am richtigsten geschätzt in Arbeit." ("The Works of B. Franklin etc.", edited by Sparks, Boston 1836, v. II, p .267.) Franklin ist sich nicht bewußt, daß, indem er den Wert aller Dinge "in Arbeit" schätzt, er von der Verschiedenheit der ausgetauschten Arbeiten abstrahiert - und sie so auf gleiche menschliche Arbeit reduziert. Was er nicht weiß, sagt er jedoch. Er spricht erst von "der einen Arbeit", dann "von der andren Arbeit", schließlich von "Arbeit" ohne weitere Bezeichnung als Substanz des Werts aller Dinge. <=
(18) In gewisser Art geht's dem Menschen wie der Ware. Da er weder mit einem Spiegel auf die Welt kommt noch als Fichtescher Philosoph: Ich bin ich, bespiegelt sich der Mensch zuerst in einem andren Menschen. Erst durch die Beziehung auf den Menschen Paul als seinesgleichen bezieht sich der Mensch Peter auf sich selbst als Mensch. Damit gilt ihm aber auch der Paul mit Haut und Haaren, in seiner paulinischen Leiblichkeit, als Erscheinungsform des Genus Mensch. <=
(19) Der Ausdruck "Wert" wird hier, wie beiläufig schon früher stellenweis geschah, für quantitativ bestimmten Wert, also für Wertgröße gebraucht. <=
(20) Note zur 2. Ausg. Diese Inkongruenz zwischen der Wertgröße und ihrem relativen Ausdruck ist von der Vulgärökonomie mit gewohntem Scharfsinn ausgebeutet worden. z.B.: "Gebt einmal zu, daß A fällt, weil B, womit es ausgetauscht wird, steigt, obgleich unterdessen nicht weniger Arbeit auf A verausgabt wird, und euer allgemeines Wertprinzip fällt zu Boden ...Wenn zugegeben wird, daß, weil der Wert von A relativ zu B steigt, der Wert von B relativ zu A fällt, ist der Grund unter den Füßen weggeschnitten, worauf Ricardo seinen großen Satz aufstellt, daß der Wert einer Ware stets bestimmt ist durch das Quantum der ihr einverleibten Arbeit; denn wenn ein Wechsel in den Kosten von A nicht nur seinen eignen Wert im Verhältnis zu B, womit es ausgetauscht wird, verändert, sondern auch den Wert von B relativ zu dem von A, obgleich kein Wechsel stattgefunden hat in dem zur Produktion von B erheischten Arbeitsquantum, dann fällt nicht nur die Doktrin zu Boden, die versichert, daß die auf einen Artikel verausgabte Quantität Arbeit seinen Wert reguliert, sondern auch die Doktrin, daß die Produktionskosten eines Artikel seinen Wert regulieren." (J. Broadhurst, "Political Economy", London 1842, p. 11, 14.)
Herr Broadhurst konnte ebensogut sagen: Man sehe sich einmal die Zahlenverhältnisse 10/20, 10/50, 10/100 usw. an. Die Zahl 10 bleibt unverändert, und dennoch nimmt ihre proportionelle Größe, ihre Größe relativ zu den Nennern 20, 50, 100, beständig ab. Also fällt das große Prinzip zu Boden, daß die Größe einer ganzen Zahl wie 10 z.B. durch die Anzahl der in ihr enthaltenen Einer "reguliert" ist. <=
(21) Es ist mit solchen Reflexionsbestimmungen überhaupt ein eigenes Ding. Dieser Mensch ist z.B. nur König, weil sich andre Menschen als Untertanen zu ihm verhalten. Sie glauben umgekehrt Untertanen zu sein, weil er König ist. <=
(22) Note zur 2. Ausg. F. L. A. Ferrier (sous-inspecteur des douanes <Unterinspekteur des Zollwesens>), "Du Gouvernement considéré dans ses rapports avec le commerce", Paris 1805, und Charles Ganilh, "Des Systèmes d'Économie Politique", 2ème éd., Paris 1821. <=
(22a) Note zur 2. Aufl. Z.B. bei Homer wird der Wert eines Dings in einer Reihe verschiedner Dings ausgedrückt. <=
(23) Man spricht deshalb vom Rockwert der Leinwand, wenn man ihren Wert in Röcken, von ihrem Kornwert, wenn man ihn in Korn darstellt etc. Jeder solche Ausdruck besagt, daß es ihr Wert ist, der in den Gebrauchswerten Rock, Korn usw. erscheint. "Das der Wert jeder Waren ihr Verhältnis im Austausch bezeichnet, können wir ihn bezeichnen als ... Kornwert, Tuchwert, je nach der Ware, mit der sie verglichen wird; und daher gibt es tausend verschiedene Arten von Werten, so viele, wie Waren vorhanden sind, und alle sind gleich real und gleich nominell." ("A Critical Dissertation on the Nature, Measures, and Causes of Value; chiefly in reference to the writings of Mr. Ricardo and his followers. By the Author of Essays on the Formation etc. of Opinions", London 1825, p. 39.) S. Bailey, der Verfasser dieser anonymen Schrift, die ihrer Zeit viel Lärm in England machte, wähnt durch diesen Hinweis auf die kunterbunten relativen Ausdrücke desselben Warenwerts alle Begriffsbestimmung des Werts vernichtet zu haben. Daß er übrigens, trotz eigner Borniertheit, wunde Flecken der Ricardoschen Theorie sondiert hatte, bewies die Gereiztheit, womit die Ricardosche Schule ihn angriff, z.B. in der "Westminster Review". <=
(24) Man sieht es der Form allgemeiner unmittelbarer Austauschbarkeit in der Tat keineswegs an, daß sie eine gegensätzliche Warenform ist, von den Form nicht unmittelbarer Austauschbarkeit ebenso unzertrennlich wie die Positivität eines Magnetpols von der Negativität des andren. Man mag sich daher einbilden, man könne allen Waren zugleich den Stempel unmittelbarer Austauschbarkeit aufdrücken, wie man sich einbilden mag, man könne alle Katholiken zu Päpsten mache. Für den Kleinbürger, der in der Warenproduktion das nec plus ultra <den Gipfel> menschlicher Freiheit und individueller Unabhängigkeit erblickt, wäre es natürlich sehr wünschenswert, der mit dieser Form verbundnen Mißstände überhoben zu sein, namentlich auch der nicht unmittelbaren Austauschbarkeit der Waren. Die Ausmalung dieser Philisterutopie bildet Proudhons Sozialismus, der, wie ich anderswo gezeigt <Karl Marx, "Misère de la philosophie. Réponse à la philosophie de la misère de M. Proudhon", Paris, Bruxelles 1874, Kap. 1 (siehe Bd. 4, S, 67-124)>, nicht einmal das Verdienst der Originalität besitzt, vielmehr lange vor ihm von Gray, Bray und andern weit besser entwickelt wurde. Dies verhindert solche Weisheit nicht, heutzutage, in gewissen Kreisen, unter dem Namen der "science" <"Wissenschaft"> zu grassieren. Nie hat eine Schule mehr als die Proudhonsche mit dem Wort "sceince" um sich geworfen, denn
"wo Begriffe fehlen,
da stellt zur rechten Zeit ein Wort sich ein". <=
(25) Man erinnert sich, daß China und die Tische zu tanzen anfingen, als alle übrige Welt still zu stehn schien - pour encourager les autres <um die andern zu ermutigen>. <=
(26) Note zur 2. Ausg. Bei den alten Germanen wurde die Größe eines Morgens Land nach der Arbeit eines Tages berechnet und daher der Morgen Tagwerk (auch Tagwanne) (jurnale oder jurnalis, terra jurnalis, jornalis oder diurnalis), Mannwerk, Mannskraft, Mannsmaad, Mannshauet usf. benannt. Sieh Georg Ludwig von Maurer, "Einleitung zur Geschichte der Mark-, Hof-, usw. Verfassung", München 1854, p. 129 sq. <=
(27) Note zur 2. Ausg. Wenn daher Galiani sagt: Der Wert ist ein Verhältnis zwischen Personen - "La Ricchezza è una ragione tra due persone" - , so hätte er hinzusetzen müssen: unter dinglicher Hülle verstecktes Verhältnis. (Galiani, "Della Moneta", p. 221, t. III von Custodis Sammlung der "Scrittori Classici Italiani di Economia Politica", Parte Moderna, Milano 1803.) <=
(28) "Was soll man von einem Gesetze denken, das sich nur durch periodische Revolutionen durchsetzten kann?" (Friedrich Engels, "Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie" in "Deutsch-Französische Jahrbücher", herausg. von Arnold Ruge und Karl Marx, Paris 1844.) <Siehe Band 1, S. 515> <=
(29) Note zur 2. Ausgabe. Auch Ricardo ist nicht ohne seine Robinsonade. "Den Urfischer und den Urjäger läßt er sofort als Warenbesitzer Fisch und Wild austauschen, im Verhältnis der in diesen Tauschwerten vergegenständlichten Arbeitszeit. Bei dieser Gelegenheit fällt er in den Anachronismus, daß Urfischer und Urjäger zur Berechnung ihrer Arbeitsinstrumente die 1817 auf der Londoner Börse gangbaren Annuitätentabellen zu Rate ziehn. Die 'Parallelogramme des Herrn Owen' scheinen die einzige Gesellschaftsform, die er außer der bürgerlichen kannte." (Karl Marx, "Zur Kritik etc.", p.38, 39. <Siehe Band 13, S.46>) <=
(30) Note zur 2. Ausgabe. "Es ist ein lächerliches Vorurteil in neuester Zeit verbreitet, daß die Form des naturwüchsigen Gemeineigentums spezifische, sogar ausschließlich russische Form sei. Sie ist die Urform, die wir bei Römern, Germanen, Kelten nachweisen können, von der aber eine ganze Musterkarte mit mannigfachen Proben sich noch immer, wenn auch zum Teil ruinenweise, bei den Indiern vorfindet. Ein genaueres Studium der asiatischen, speziell der indischen Gemeineigentumsformen würde nachweisen, wie aus den verschiednen Formen des naturwüchsigen Gemeineigentums sich verschiedne Formen seiner Auflösung ergeben. So lassen sich z.B. die verschiednen Originaltypen von römischem und germanischem Privateigentum aus verschiednen Formen des indischen Gemeineigentums ableiten."(Karl Marx, "Zur Kritik etc.", p. 10. <Siehe Band 13 unserer Ausgabe, S.21>) <=
(31) Das Unzulängliche in Ricardos Analyse der Wertgröße - und es ist die beste - wird man aus dem dritten und vierten Buch dieser Schrift ersehn. Was aber den Wert überhaupt betrifft, so unterscheidet die klassische politische Ökonomie nirgendwo ausdrücklich und mit klarem Bewußtsein die Arbeit, wie sie sich im Wert, von derselben Arbeit, soweit sie sich im Gebrauchswert ihres Produkts darstellt. Sie macht natürlich den Unterschied tatsächlich, da sie die Arbeit das einemal quantitativ, da andremal qualitativ betrachtet. Aber es fällt ihr nicht ein, daß bloß quantitativer Unterschied der Arbeiten ihre qualitative Einheit oder Gleichheit voraussetzt, also ihre Reduktion auf abstrakt menschliche Arbeit. Ricardo z.B. erklärt sich einverstanden mit Destutt de Tracy, wenn dieser sagt: "Da es sicher ist, daß unsere körperlichen und geistigen Fähigkeiten allein unser ursprünglicher Reichtum sind, ist der Gebrauch dieser Fähigkeiten, eine gewisse Art Arbeit, unser ursprünglicher Schatz; es ist immer dieser Gebrauch, welcher alle jene Dinge schafft, die wir Reichtum nennen ... Zudem ist es gewiß, daß alle jene Dinge nur die Arbeit darstellen, die sie geschaffen hat, und wenn sie einen Wert haben, oder sogar zwei unterschiedliche Werte, so können sie dies doch nur haben aus dem" (dem Wert) "der Arbeit, der sie entspringen." (Ricardo, "The principles of Pol. Econ.", 3. ed., Lond. 1821, p. 334. <Vgl. Destutt de Tracy, "Elemens d'ideologie." IVe et Ve parties, Paris 1826, p.35, 36>) Wir deuten nur an, daß Ricardo dem Destutt seinen eignen tieferen Sinn unterschiebt. Destutt sagt in der Tat zwar einerseits, daß alle Dinge, die den Reichtum bilden, "die Arbeit repräsentieren, die sie geschaffen hat", aber andrerseits, daß sie ihre "zwei verschiedenen Werte" (Gebrauchswert und Tauschwert) vom "Wert der Arbeit" erhalten. Er fällt damit in die Flachheit der Vulgärökonomie, die den Wert einer Ware (hier der Arbeit) voraussetzt, um dadurch hinterher den Wert der andren Waren zu bestimmen. Ricardo liest ihn so, daß sowohl im Gebrauchswert als Tauschwert sich Arbeit (nicht Wert der Arbeit) darstellt. Er selbst aber scheidet so wenig den zwieschlächtigen Charakter der Arbeit, die doppelt dargestellt ist, daß er in dem ganzen Kapitel: "Value and Riches, their Distinctive Properties" <"Wert und Reichtum, ihre unterscheidenden Eigenschaften"> sich mühselig mit den Trivialitäten eines J. B. Say herumschlagen muß. Am Ende ist er daher auch ganz erstaunt, daß Destutt zwar mit ihm selbst über Arbeit als Wertquelle und dennoch andrerseits mit Say über den Wertbegriff harmoniere. <=
(32) Es ist einer der Grundmängel der klassischen politischen Ökonomie, daß es ihr nie gelang, aus der Analyse der Ware und spezieller des Warenwerts die Form des Werts, die ihn eben zum Tauschwert macht, herauszufinden. Grade in ihren besten Repräsentanten, wie A. Smith und Ricardo, behandelt sie die Wertform als etwas ganz Gleichgültiges oder der Natur der Ware selbst Äußerliches. Der Grund ist nicht allein, daß die Analyse der Wertgröße ihre Aufmerksamkeit ganz absorbiert. Er liegt tiefer. Die Wertform des Arbeitsprodukts ist die abstrakteste, aber auch allgemeinste Form der bürgerlichen Produktionsweise, die hierdurch als eine besondere Art gesellschaftlicher Produktion und damit zugleich historisch charakterisiert wird. Versieht man sie daher für die ewige Naturform gesellschaftlicher Produktion, so übersieht man notwendig auch das Spezifische der Wertform, also der Warenform, weiter entwickelt der Geldform, Kapitalform usw. Man findet daher bei Ökonomen, welche über das Maß der Wertgröße durch Arbeitszeit durchaus übereinstimmen, die kunterbuntesten und widersprechendsten Vorstellungen von Geld, d.h. der fertigen Gestalt des allgemeinen Äquivalents. Dies tritt schlagend hervor z.B. bei der Behandlung des Bankwesens, wo mit den gemeinplätzlichen Definitionen des Geldes nicht mehr ausgereicht wird. Im Gegensatz entsprang daher ein restauriertes Merkantilsystem (Ganilh usw.), welches im Wert nur die gesellschaftliche Form sieht oder vielmehr nur ihren substanzlosen Schein. - Um es ein für allemal zu bemerken, verstehe ich unter klassischer politischer Ökonomie alle Ökonomie seit W. Petty, die den innern Zusammenhang der bürgerlichen Produktionsverhältnisse erforscht im Gegensatz zur Vulgärökonomie, die sich nur innerhalb des scheinbaren Zusammenhangs herumtreibt, für eine plausible Verständlichmachung der sozusagen gröbsten Phänomene und den bürgerlichen Hausbedarf das von der wissenschaftlichen Ökonomie längst gelieferte Material stets von neuem wiederkaut, im übrigen aber sich darauf beschränkt, die banalen und selbstgefälligen Vorstellungen der bürgerlichen Produktionsagenten von ihrer eignen besten Welt zu systematisieren, pedantisieren und als ewige Wahrheiten zu proklamieren. <=
(33) "Die Ökonomen verfahren auf eine sonderbare Art. Es gibt für sie nur zwei Arten von Institutionen, künstliche und natürliche. Die Institutionen des Feudalismus sind künstliche Institutionen, die der Bourgeoisie natürliche. Sie gleichen darin den Theologen, die auch zwei Arten von Religionen unterscheiden. Jede Religion, die nicht die ihre ist, ist eine Erfindung der Menschen, während ihre eigene Religion eine Offenbarung Gottes ist. - Somit hat es eine Geschichte gegeben, aber es gibt keine mehr." (Karl Marx, "Misère de la Philosophie. Réponse à la Philosophie de la Misère de M. Proudhon", 1847, p. 113. <Siehe Band 4, S 139>) Wahrhaft drollig ist Herr Bastiat, der sich einbildet, die alten Griechen und Römer hätten nur von Raub gelebt. Wenn man aber viele Jahrhunderte durch von Raub lebt, muß doch beständig etwas zu rauben da sein oder der Gegenstand des Raubes sich fortwährend reproduzieren. Es scheint daher, daß auch Griechen und Römer einen Produktionsprozeß hatten, also eine Ökonomie, welche ganz so die materielle Grundlage ihrer Welt bildete wie die bürgerliche Ökonomie die der heutigen Welt. Oder meint Bastiat etwa, daß eine Produktionsweise, die auf der Sklavenarbeit beruht, auf einem Raubsystem ruht? Er stellt sich dann auf gefährlichen Boden. Wenn ein Denkriese wie Aristoteles in seiner Würdigung der Sklavenarbeit irrte, warum sollte ein Zwergökonom, wie Bastiat, in seiner Würdigung der Lohnarbeit richtig gehn? - Ich ergreife diese Gelegenheit, um einen Einwand, der mir beim Erscheinen meiner Schrift "Zur Kritik der Pol. Oekonomie", 1859, von einem deutsch-amerikanischen Blatte gemacht wurde, kurz abzuweisen. Es sagte, meine Ansicht, daß die bestimmte Produktionsweise und die ihr jedesmal entsprechenden Produktionsverhältnisse, kurz "die ökonomische Struktur der Gesellschaft die reale Basis sei, worauf sich ein juristischer und politischer Überbau erhebe und welcher bestimmte gesellschaftliche Bewußtseinsformen entsprächen", daß "die Produktionsweise des materiellen Lebens den sozialen, politischen und geistigen Lebensprozeß überhaupt bedinge" <siehe Band 13, S. 8/9>, - alles dies sei zwar richtig für die heutige Welt, wo die materiellen Interessen, aber weder für das Mittelalter, wo der Katholizismus, noch für Athen und Rom, wo die Politik herrschte. Zunächst ist es befremdlich, daß jemand vorauszusetzen beliebt, diese weltbekannten Redensarten über Mittelalter und antike Welt seien irgend jemand unbekannt geblieben. Soviel ist klar, daß das Mittelalter nicht vom Katholizismus und die antike Welt nicht von der Politik leben konnte. Die Art und Weise, wie sie ihr Leben gewannen, erklärt umgekehrt, warum dort die Politik, hier der Katholizismus die Hauptrolle spielte. Es gehört übrigens wenig Bekanntschaft z.B. mit der Geschichte der römischen Republik dazu, um zu wissen, daß die Geschichte des Grundeigentums ihre Geheimgeschichte bildet. Andrerseits hat schon Don Quixote den Irrtum gebüßt, daß er die fahrende Ritterschaft mit allen ökonomischen Formen der Gesellschaft gleich verträglich wähnte. <=
(34) "Value is a property of things, riches of man. Value, in this sense, necessarily implies exchange, riches do not." ("Observations on some verbal disputes in Pol. Econ., particularly relating to value, and to supply and demand", Lond. 1821, p. 16.) <=
(35) "Riches are the attribute of man, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable ... A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond." (S. Bailey, l.c.p. 165 sq.) <=
(36) Der Verfasser der "Observations" und S. Bailey beschuldigen Ricardo, er habe den Tauschwert aus einem nur Relativen in etwas Absolutes verwandelt. Umgekehrt. Er hat die Scheinrelativität, die diese Dinge, Diamant und Perlen z.B., als Tauschwerte besitzen, auf das hinter dem Schein verborgene wahre Verhältnis reduziert, auf ihre Relativität als bloße Ausdrücke menschlicher Arbeit. Wenn die Ricardianer dem Bailey grob, aber nicht schlagend antworten, so nur, weil sie bei Ricardo selbst keinen Aufschluß über den inneren Zusammenhang zwischen Wert und Wertform oder Tauschwert fanden. <=


D.『資本論』1-1-4

4. Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis
1. Eine Ware scheint auf den ersten Blick ein selbstverständliches, triviales Ding. Ihre Analyse ergibt, daß sie ein sehr vertracktes Ding ist, voll metaphysischer Spitzfindigkeit und theologischer Mucken. Soweit sie Gebrauchswert, ist nichts Mysteriöses an ihr, ob ich sie nun unter dem Gesichtspunkt betrachte, daß sie durch ihre Eigenschaften menschliche Bedürfnisse befriedigt oder diese Eigenschaften erst als Produkt menschlicher Arbeit erhält. Es ist sinnenklar, daß der Mensch durch seine Tätigkeit die Formen der Naturstoffe in einer ihm nützliche Weise verändert. Die Form des Holzes z.B. wird verändert, wenn man aus ihm einen Tisch macht. Nichtsdestoweniger bleibt der Tisch Holz, ein ordinäres sinnliches Ding. Aber sobald er als Ware auftritt, verwandelt er sich in ein sinnlich übersinnliches Ding. Er steht nicht nur mit seinen Füßen auf dem Boden, sondern er stellt sich allen andren Waren gegenüber auf den Kopf und entwickelt aus seinem Holzkopf Grillen, viel wunderlicher, als wenn er aus freien Stücken zu tanzen begänne.(25)
2. Der mystische Charakter der Ware entspringt also nicht aus ihrem Gebrauchswert. Er entspringt ebensowenig aus dem Inhalt der Wertbestimmungen. Denn erstens, wie verschieden die nützlichen Arbeiten oder produktiven Tätigkeiten sein mögen, es ist eine physiologische Wahrheit, daß sie Funktionen des menschlichen Organismus sind und daß jede solche Funktion, welches immer ihr Inhalt und ihre Form, wesentlich Verausgabung von menschlichem Hirn, Nerv, Muskel, Sinnesorgan usw. ist. Was zweitens der Bestimmung der Wertgröße zugrunde liegt, die Zeitdauer jener Verausgabung oder die Quantität der Arbeit, so ist die Quantität sogar sinnfällig von der Qualität der Arbeit unterscheidbar. In allen Zuständen mußte die Arbeitszeit, welche die Produktion der Lebensmittel kostet, den Men- <86> schen interessieren, obgleich nicht gleichmäßig auf verschiedenen Entwicklungsstufen.(26) Endlich, sobald die Menschen in irgendeiner Weise füreinander arbeiten, erhält ihre Arbeit auch eine gesellschaftliche Form.
3. Woher entspringt also der rätselhafte Charakter des Arbeitsprodukts, sobald es Warenform annimmt? Offenbar aus dieser Form selbst. Die Gleichheit der menschlichen Arbeiten erhält die sachliche Form der gleichen Wertgegenständlichkeit der Arbeitsprodukte, das Maß der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft durch ihre Zeitdauer erhält die Form der Wertgröße der Arbeitsprodukte, endlich die Verhältnisse der Produzenten, worin jene gesellschaftlichen Bestimmungen ihrer Arbeiten betätigt werden, erhalten die Form eines gesellschaftlichen Verhältnisses der Arbeitsprodukte.
4. Das Geheimnisvolle der Warenform besteht also einfach darin, daß sie den Menschen die gesellschaftlichen Charaktere ihrer eignen Arbeit als gegenständliche Charaktere der Arbeitsprodukte selbst, als gesellschaftliche Natureigenschaften dieser Dinge zurückspiegelt, daher auch das gesellschaftliche Verhältnis der Produzenten zur Gesamtarbeit als ein außer ihnen existierendes gesellschaftliches Verhältnis von Gegenständen. Durch dies Quidproquo werden die Arbeitsprodukte Waren, sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge. So stellt sich der Lichteindruck eines Dings auf den Sehnerv nicht als subjektiver Reiz des Sehnervs selbst, sondern als gegenständliche Form eines Dings außerhalb des Auges dar. Aber beim Sehen wird wirklich Licht von einem Ding, dem äußeren Gegenstand, auf ein andres Ding, das Auge, geworfen. Es ist ein physisches Verhältnis zwischen physischen Dingen. Dagegen hat die Warenform und das Wertverhältnis der Arbeitsprodukte, worin sie sich darstellt, mit ihrer physischen Natur und den daraus entspringenden dinglichen Beziehungen absolut nichts zu schaffen. Es ist nur das bestimmte gesellschaftliche Verhältnis der Menschen selbst, welches hier für sie die phantasmagorische Form eines Verhältnisses von Dingen annimmt. Um daher eine Analogie zu finden, müssen wir in die Nebelregion der religiösen Welt flüchten. Hier scheinen die Produkte des menschlichen Kopfes mit eignem Leben begabte, untereinander und mit den Menschen in Verhältnis stehende selbständige Gestalten. So in der Warenwelt die Produkte der menschlichen Hand. Dies <87> nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.
5. Dieser Fetischcharakter der Warenwelt entspringt, wie die vorhergehende Analyse bereits gezeigt hat, aus dem eigentümlichen gesellschaftlichen Charakter der Arbeit, welche Waren produziert.
6. Gebrauchsgegenstände werden überhaupt nur Waren, weil sie Produkte voneinander unabhängig betriebner Privatarbeiten sind. Der Komplex dieser Privatarbeiten bildet die gesellschaftliche Gesamtarbeit. Da die Produzenten erst in gesellschaftlichen Kontakt treten durch den Austausch ihrer Arbeitsprodukte, erscheinen auch die spezifisch gesellschaftlichen Charaktere ihrer Privatarbeiten erst innerhalb dieses Austausches. Oder die Privatarbeiten betätigen sich in der Tat erst als Glieder der gesellschaftlichen Gesamtarbeit durch die Beziehungen, worin der Austausch die Arbeitsprodukte und vermittelst derselben die Produzenten versetzt. Den letzteren erscheinen daher die gesellschaftlichen Beziehungen ihrer Privatarbeiten als das, was sie sind, d.h. nicht als unmittelbar gesellschaftliche Verhältnisse der Personen in ihren Arbeiten selbst, sondern vielmehr als sachliche Verhältnisse der Personen und gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen.
7. Erst innerhalb ihres Austauschs erhalten die Arbeitsprodukte eine von ihrer sinnlich verschiednen Gebrauchsgegenständlichkeit getrennte, gesellschaftlich gleiche Wertgegenständlichkeit. Diese Spaltung des Arbeitsprodukts in nützliches Ding und Wertding betätigt sich nur praktisch, sobald der Austausch bereits hinreichende Ausdehnung und Wichtigkeit gewonnen hat, damit nützliche Dinge für den Austausch produziert werden, der Wertcharakter der Sachen also schon bei ihrer Produktion selbst in Betracht kommt. Von diesem Augenblick erhalten die Privatarbeiten der Produzenten tatsächlich einen doppelten gesellschaftlichen Charakter. Sie müssen einerseits als bestimmte nützliche Arbeiten ein bestimmtes gesellschaftliches Bedürfnis befriedigen und sich so als Glieder der Gesamtarbeit, des naturwüchsigen Systems der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit, bewähren. Sie befriedigen andrerseits nur die mannigfache Bedürfnisse ihrer eignen Produzenten, sofern jede besondre nützliche Privatarbeit mit jeder andren nützlichen Art Privatarbeit austauschbar ist, also ihr gleichgilt. Die Gleichheit toto coelo <völlig> verschiedner Arbeiten kann nur in einer Abstraktion von ihrer wirklichen Ungleichheit bestehn, in der Reduktion auf den <88> gemeinsamen Charakter, den sie als Verausgabung menschlicher Arbeitskraft, abstrakt menschliche Arbeit, besitzen. Das Gehirn der Privatproduzenten spiegelt diesen doppelten gesellschaftlichen Charakter ihrer Privatarbeiten nur wider in den Formen, welche im praktischen Verkehr, im Produktenaustausch erscheinen - den gesellschaftlich nützlichen Charakter ihrer Privatarbeiten also in der Form, daß das Arbeitsprodukt nützlich sein muß, und zwar für andre - den gesellschaftlichen Charakter der Gleichheit der verschiedenartigen Arbeiten in der Form des gemeinsamen Wertcharakters dieser materiell verschiednen Dinge, der Arbeitsprodukte.
8. Die Menschen beziehen also ihre Arbeitsprodukte nicht aufeinander als Werte, weil diese Sachen ihnen als bloß sachliche Hüllen gleichartig menschlicher Arbeit gelten. Umgekehrt. Indem sie ihre verschiedenartigen Produkte einander im Austausch als Werte gleichsetzen, setzen sie ihre verschiednen Arbeiten einander als menschliche Arbeit gleich. Sie wissen das nicht, aber sie tun es.(27) Es steht daher dem Werte nicht auf der Stirn geschrieben, was er ist. Der Wert verwandelt vielmehr jedes Arbeitsprodukt in eine gesellschaftliche Hieroglyphe. Später suchen die Menschen den Sinn der Hieroglyphe zu entziffern, hinter das Geheimnis ihres eignen gesellschaftlichen Produkts zu kommen, denn die Bestimmung der Gebrauchsgegenstände als Werte ist ihr gesellschaftliches Produkt so gut wie die Sprache. Die späte wissenschaftliche Entdeckung, daß die Arbeitsprodukte, soweit sie Werte, bloß sachliche Ausdrücke der in ihrer Produktion verausgabten menschlichen Arbeit sind, macht Epoche in der Entwicklungsgeschichte der Menschheit, aber verscheucht keineswegs den gegenständlichen Schein der gesellschaftlichen Charakter der Arbeit. Was nur für diese besondre Produktionsform, die Warenproduktion, gültig ist, daß nämlich der spezifisch gesellschaftliche Charakter der voneinander unabhängigen Privatarbeiten in ihrer Gleichheit als menschliche Arbeit besteht und die Form des Wertcharakters der Arbeitsprodukte annimmt, erscheint, vor wie nach jener Entdeckung, den in den Verhältnissen der Warenproduktion Befangenen ebenso endgültig, als daß die wissenschaftliche Zersetzung der Luft in ihre Elemente die Luftform als eine physikalische Körperform fortbestehn läßt.
9. <89> Was die Produktenaustauscher zunächst praktisch interessiert, ist die Frage, wieviel fremde Produkte sie für das eigne Produkt erhalten, in welchen Proportionen sich also die Produkte austauschen. Sobald diese Proportionen zu einer gewissen gewohnheitsmäßigen Festigkeit herangereift sind, scheinen sie aus der Natur der Arbeitsprodukte zu entspringen, so daß z.B. eine Tonne Eisen und 2 Unzen Gold gleichwertig, wie ein Pfund Gold und ein Pfund Eisen trotz ihrer verschiednen physikalischen und chemischen Eigenschaften gleich schwer sind. In der Tat befestigt sich der Wertcharakter der Arbeitsprodukte erst durch ihre Betätigung als Wertgrößen. Die letzteren wechseln beständig, unabhängig vom Willen, Vorwissen und Tun der Austauschenden. Ihre eigne gesellschaftliche Bewegung besitzt für sie die Form einer Bewegung von Sachen, unter deren Kontrolle sie stehen, statt sie zu kontrollieren. Es bedarf vollständig entwickelter Warenproduktion, bevor aus der Erfahrung selbst die wissenschaftliche Einsicht herauswächst, daß die unabhängig voneinander betriebenen, aber als naturwüchsige Glieder der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit allseitig voneinander abhängigen Privatarbeiten fortwährend auf ihr gesellschaftlich proportionelles Maß reduziert werden, weil sich in den zufälligen und stets schwankenden Austauschverhältnissen ihrer Produkte die zu deren Produktion gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit als regelndes Naturgesetz gewaltsam durchsetzt, wie etwas das Gesetz der Schwere, wenn einem das Haus über dem Kopf zusammenpurzelt.(28) Die Bestimmung der Wertgröße durch die Arbeitszeit ist daher ein unter den erscheinenden Bewegungen der relativen Warenwerte verstecktes Geheimnis. Seine Entdeckung hebt den Schein der bloß zufälligen Bestimmung der Wertgrößen den Arbeitsprodukte auf, aber keineswegs ihre sachliche Form.
10. Das Nachdenken über die Formen des menschlichen Lebens, also auch ihre wissenschaftliche Analyse, schlägt überhaupt einen der wirklichen Entwicklung entgegengesetzten Weg ein. Es beginnt post festum und daher mit den fertigen Resultaten des Entwicklungsprozesses. Die Formen, welche Arbeitsprodukte zu Waren stempeln und daher der Warenzirkulation vor- <90> ausgesetzt sind, besitzen bereits die Festigkeit von Naturformen des gesellschaftlichen Lebens, bevor die Menschen sich Rechenschaft zu geben suchen nicht über den historischen Charakter dieser Formen, die ihnen vielmehr bereits als unwandelbar gelten, sondern über deren Gehalt. So war es nur die Analyse der Warenpreise, die zur Bestimmung der Wertgröße, nur der gemeinschaftliche Geldausdruck der Waren, der zur Fixierung ihres Wertcharakters führte. Es ist aber ebendiese fertige Form - die Geldform - der Warenwelt, welche den gesellschaftlichen Charakter der Privatarbeiten und daher die gesellschaftlichen Verhältnissen der Privatarbeiter sachlich verschleiert, statt sie zu offenbaren. Wenn ich sage, Rock, Stiefel usw. beziehen sich auf Leinwand als die allgemeine Verkörperung abstrakter menschlicher Arbeit, so springt die Verrücktheit dieses Ausdrucks ins Auge. Aber wenn die Produzenten von Rock, Stiefel usw. diese Waren auf Leinwand - oder auf Gold und Silber, was nichts an der Sache ändert - als allgemeines Äquivalent beziehn, erscheint ihnen die Beziehung ihrer Privatarbeiten zu der gesellschaftlichen Gesamtarbeit genau in dieser verrückten Form.
11. Derartige Formen bilden eben die Kategorien der bürgerlichen Ökonomie. Es sind gesellschaftlich gültige, also objektive Gedankenformen für die Produktionsverhältnisse dieser historisch bestimmten gesellschaftlichen Produktionsweise, der Warenproduktion. Aller Mystizismus der Warenwelt, all der Zauber und Spuk, welcher Arbeitsprodukte auf Grundlage der Warenproduktion umnebelt, verschwindet daher sofort, sobald wir zu andren Produktionsformen flüchten.
12. Da die politische Ökonomie Robinsonaden liebt (29), erscheine zuerst Robinson auf seiner Insel. Bescheiden, wie er von Haus aus ist, hat er doch verschiedenartige Bedürfnisse zu befriedigen und muß daher nützliche Arbeiten verschiedner Art verrichten, Werkzeuge machen, Möbel fabri- <91> zieren, Lama zähmen, fischen, jagen usw. Vom Beten u. dgl. sprechen wir hier nicht, da unser Robinson daran sein Vergnügen findet und derartige Tätigkeit als Erholung betrachtet. Trotz der Verschiedenheit seiner produktiven Funktionen weiß er, daß sie nur verschiedne Betätigungsformen desselben Robinson, also nur verschiedne Weisen menschlicher Arbeit sind. Die Not selbst zwingt ihn, seine Zeit genau zwischen seinen verschiednen Funktionen zu verteilen. Ob die eine mehr, die andre weniger Raum in seiner Gesamttätigkeit einnimmt, hängt ab von der größeren oder geringeren Schwierigkeit, die zur Erzielung des bezweckten Nutzeffekts zu überwinden ist. Die Erfahrung lehrt ihn das, und unser Robinson, der Uhr, Hauptbuch, Tinte und Feder aus dem Schiffbruch gerettet, beginnt als guter Engländer bald Buch über sich selbst zu führen. Sein Inventarium enthält ein Verzeichnis der Gebrauchsgegenstände, die er besitzt, der verschiednen Verrichtungen, die zu ihrer Produktion erheischt sind, endlich der Arbeitszeit, die ihm bestimmte Quanta dieser verschiednen Produkte im Durchschnitt kosten. Alle Beziehungen zwischen Robinson und den Dingen, die seinen selbstgeschaffnen Reichtum bilden, sind hier so einfach und durchsichtig, daß selbst Herr M. Wirth sie ohne besondre Geistesanstrengung verstehn dürfte. Und dennoch sind darin alle wesentlichen Bestimmungen des Werts enthalten.
13. Versetzen wir uns nun von Robinsons lichter Insel in das finstre europäische Mittelalter. Statt des unabhängigen Mannes finden wir hier jedermann abhängig - Leibeigne und Grundherrn, Vasallen und Lehnsgeber, Laien und Pfaffen. Persönliche Abhängigkeit charakterisiert ebensosehr die gesellschaftlichen Verhältnisse der materiellen Produktion als die auf ihr aufgebauten Lebenssphären. Aber eben weil persönliche Abhängigkeitsverhältnisse die gegebne gesellschaftliche Grundlage bilden, brauchen Arbeiten und Produkte nicht eine von ihrer Realität verschiedne phantastische Gestalt anzunehmen. Sie gehn als Naturaldienste und Naturalleistungen in das gesellschaftliche Getriebe ein. Die Naturalform der Arbeit, ihre Besonderheit, und nicht, wie auf Grundlage der Warenproduktion, ihre Allgemeinheit, ist hier ihre unmittelbar gesellschaftliche Form. Die Fronarbeit ist ebensogut durch die Zeit gemessen wie die Waren produzierende Arbeit, aber jeder Leibeigne weiß, daß es ein bestimmtes Quantum seiner persönlichen Arbeitskraft ist, die er im Dienst seines Herrn verausgabt. Der dem Pfaffen zu leistende Zehnten ist klarer als der Segen des Pfaffen. Wie man daher immer die Charaktermasken beurteilen mag, worin sich die Menschen hier gegenübertreten, die gesellschaftlichen Verhältnisse der Personen in ihren Arbeiten erscheinen jedenfalls als ihre eignen persönlichen <92> Verhältnisse und sind nicht verkleidet in gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen, der Arbeitsprodukte.
14. Für die Betrachtung gemeinsamer, d.h. unmittelbar vergesellschafteter Arbeit brauchen wir nicht zurückzugehn zu der naturwüchsigen Form derselben, welche uns an der Geschichtsschwelle aller Kulturvölker begegnet.(30) Ein näherliegendes Beispiel bildet die ländlich patriarchalische Industrie einer Bauernfamilie, die für den eignen Bedarf Korn, Vieh, Garn, Leinwand, Kleidungsstücke usw. produziert. Diese verschiednen Dinge treten der Familie als verschiedne Produkte ihrer Familienarbeit gegenüber, aber nicht sich selbst wechselseitig als Waren. Die verschiednen Arbeiten, welche diese Produkte erzeugen, Ackerbau, Viehzucht, Spinnen, Weben, Schneiderei usw. sind in ihrer Naturalform gesellschaftliche Funktionen, weil Funktionen der Familie, die ihre eigne, naturwüchsige Teilung der Arbeit besitzt so gut wie die Warenproduktion. Geschlechts- und Altersunterschiede wie die mit dem Wechsel der Jahreszeit wechselnden Naturbedingungen der Arbeit regeln ihre Verteilung unter die Familie und die Arbeitszeit der einzelnen Familienglieder. Die durch die Zeitdauer gemeßne Verausgabung der individuellen Arbeitskräfte erscheint hier aber von Haus aus als gesellschaftliche Bestimmung der Arbeiten selbst, weil die individuellen Arbeitskräfte von Haus aus nur als Organe der gemeinsamen Arbeitskraft der Familie wirken.
15. Stellen wir uns endlich, zur Abwechslung, einen Verein freier Menschen vor, die mit gemeinschaftlichen Produktionsmitteln arbeiten als eine gesellschaftliche Arbeitskraft verausgaben. Alle Bestimmungen von Robinsons Arbeit wiederholen sich hier, nur gesellschaftlich statt individuell. Alle Produkte Robinsons <93> waren sein ausschließlich persönliches Produkt und daher unmittelbar Gebrauchsgegenstände für ihn. Das Gesamtprodukt des Vereins ist ein gesellschaftliches Produkt. Ein Teil dieses Produkts dient wieder als Produktionsmittel. Er bleibt gesellschaftlich. Aber ein anderer Teil wird als Lebensmittel von den Vereinsgliedern verzehrt. Er muß daher unter sie verteilt werden. Die Art dieser Verteilung wird wechseln mit der besondren Art des gesellschaftlichen Produktionsorganismus selbst und der entsprechenden geschichtlichen Entwicklungshöhe der Produzenten. Nur zur Parallele mit der Warenproduktion setzen wir voraus, der Anteil jedes Produzenten an den Lebensmitteln sei bestimmt durch seine Arbeitszeit. Die Arbeitszeit würde also eine doppelte Rolle spielen. Ihre gesellschaftlich planmäßige Verteilung regelt die richtige Proportion der verschiednen Arbeitsfunktionen zu den verschiednen Bedürfnissen. Andrerseits dient die Arbeitszeit zugleich als Maß des individuellen Anteils des Produzenten an der Gemeinarbeit und daher auch an dem individuell verzehrbaren Teil des Gemeinprodukts. Die gesellschaftlichen Beziehungen der Menschen zu ihren Arbeiten und ihren Arbeitsprodukten bleiben hier durchsicht ig einfach in der Produktion sowohl als in der Distribution.
16. Für eine Gesellschaft von Warenproduzenten, deren allgemein gesellschaftliches Produktionsverhältnis darin besteht, sich zu ihren Produkten als Waren, also als Werten, zu verhalten und in dieser sachlichen Form ihre Privatarbeiten aufeinander zu beziehn als gleiche menschliche Arbeit, ist das Christentum mit seinem Kultus des abstrakten Menschen, namentlich in seiner bürgerlichen Entwicklung, dem Protestantismus, Deismus usw., die entsprechendste Religionsform. In den altasiatischen, antiken usw. Produktionsweisen spielt die Verwandlung des Produkts in Ware, und daher das Dasein der Menschen als Warenproduzenten, eine untergeordnete Rolle, die jedoch um so bedeutender wird, je mehr die Gemeinwesen in das Stadium ihres Untergangs treten. Eigentliche Handelsvölker existieren nur in den Intermundien der alten Welt, wie Epikurs Götter oder wie Juden in den Poren der polnischen Gesellschaft. Jene alten gesellschaftlichen Produktionsorganismen sind außerordentlich viel einfacher und durchsichtiger als der bürgerliche, aber sie beruhen entweder auf der Unreife des individuellen Menschen, der sich von der Nabelschnur des natürlichen Gattungszusammenhangs mit andren noch nicht losgerissen hat, oder auf unmittelbaren Herrschafts- und Knechtschaftsverhältnissen. Sie sind bedingt durch eine niedrige Entwicklungsstufe der Produktivkräfte der Arbeit und entsprechend befangene Verhältnisse der Menschen innerhalb ihres materiellen Lebenserzeugungsprozesses, daher zueinander und zur Natur.
17. <94> Diese wirkliche Befangenheit spiegelt sich ideell wider in den alten Natur- und Volksreligionen. Der religiöse Widerschein der wirklichen Welt kann überhaupt nur verschwinden, sobald die Verhältnisse des praktischen Werkeltagslebens den Menschen tagtäglich durchsichtig vernünftige Beziehungen zueinander und zur Natur darstellen. Die Gestalt des gesellschaftlichen Lebensprozesses, d.h. des materiellen Produktionsprozesses, streift nur ihren mystischen Nebelschleier ab, sobald sie als Produkt frei vergesellschafteter Menschen unter deren bewußter planmäßiger Kontrolle steht. Dazu ist jedoch eine materielle Grundlage der Gesellschaft erheischt oder eine Reihe materieller Existenzbedingungen, welch selbst wieder das naturwüchsige Produkt einer langen und qualvollen Entwicklungsgeschichte sind.
18. Die politische Ökonomie hat nun zwar, wenn auch unvollkommen (31) Wert und Wertgröße analysiert und den in diesen Formen versteckten In- <95> halt entdeckt. Sie hat niemals auch nur die Frage gestellt, warum dieser Inhalt jene Form annimmt, warum sich also die Arbeit im Wert und das Maß der Arbeit durch ihre Zeitdauer in der Wertgröße des Arbeitsprodukts darstellt?(32) Formen, denen es auf der Stirn geschrieben steht, daß sie einer Gesellschaftsformation angehören, worin der Produktionsprozeß die Menschen, der Mensch noch nicht den Produktionsprozeß bemeistert, gelten ihrem bürgerlichen Bewußtsein für ebenso selbstverständliche Naturnot- <96> wendigkeit als die produktive Arbeit selbst. Vorbürgerliche Formen des gesellschaftlichen Produktionsorganismus werden daher von ihr behandelt wie etwa von den Kirchenvätern vorchristliche Religionen.(33)
19. <97> Wie sehr ein Teil der Ökonomen von dem der Warenwelt anklebenden Fetischismus oder dem gegenständlichen Schein der gesellschaftlichen Arbeitsbestimmungen getäuscht wird, beweist u.a. der langweilig abgeschmackte Zank über die Rolle der Natur in der Bildung des Tauschwerts. Da Tauschwert eine bestimmte gesellschaftliche Manier ist, die auf ein Ding verwandte Arbeit auszudrücken, kann er nicht mehr Naturstoff enthalten als etwa der Wechselkurs.
20. Da die Warenform die allgemeinste und unentwickeltste Form der bürgerlichen Produktion ist, weswegen sie früh auftritt, obgleich nicht in derselben herrschenden, also charakteristischen Weise wie heutzutag, scheint ihr Fetischcharakter noch relativ leicht zu durchschauen. Bei konkreteren Formen verschwindet selbst dieser Schein der Einfachheit. Woher die Illusionen des Monetarsystems? Es sah dem Gold und Silber nicht an, daß sie als Geld ein gesellschaftliches Produktionsverhältnis darstellen, aber in der Form von Naturdingen mit sonderbar gesellschaftlichen Eigenschaften. Und die moderne Ökonomie, die vornehm auf das Monetarsystem herabgrinst, wird ihr Fetischismus nicht handgreiflich, sobald sie das Kapital behandelt? Seit wie lange ist die physiokratische Illusion verschwunden, daß die Grundrente aus der Erde wächst, nicht aus der Gesellschaft?
21. Um jedoch nicht vorzugreifen, genüge hier noch ein Beispiel bezüglich der Warenform selbst. Könnten die Waren sprechen, so würden sie sagen, unser Gebrauchswert mag den Menschen interessieren. Er kommt uns nicht als Dingen zu. Was uns aber dinglich zukommt, ist unser Wert. Unser eigner Verkehr als Warendinge beweist das. Wir beziehn uns nur als Tauschwerte aufeinander. Man höre nun, wie der Ökonom aus der Warenseele heraus spricht:
"Wert" (Tauschwert) "ist Eigenschaft der Dinge, Reichtum" (Gebrauchswert) "des Menschen. Wert in diesem Sinn schließt notwendig Austausch ein, Reichtum nicht."(34) "Reichtum" (Gebrauchswert) "ist ein Attribut des Menschen, Wert ein Attribut der Waren. Ein Mensch oder ein Gemeinwesen ist reich; eine Perle oder ein Diamant ist wertvoll ... Eine Perle oder ein Diamant hat Wert als Perle oder Diamant."(35)
22. <98> Bisher hat noch kein Chemiker Tauschwert in Perle oder Diamant entdeckt. Die ökonomischen Entdecker dieser chemischen Substanz, die besondren Anspruch auf kritische Tiefe machen, finden aber, daß der Gebrauchswert der Sachen unabhängig von ihren sachlichen Eigenschaften, dagegen ihr Wert ihnen als Sachen zukommt. Was sie hierin bestätigt, ist der sonderbare Umstand, daß der Gebrauchswert der Dinge sich für den Menschen ohne Austausch realisiert, also im unmittelbaren Verhältnis zwischen Ding und Mensch, ihr Wert umgekehrt nur im Austausch, d.h. in einem gesellschaftlichen Prozeß. Wer erinnert sich hier nicht des guten Dogberry, der den Nachtwächter Seacoal belehrt:
"Ein gut aussehender Mann zu sein ist eine Gabe der Umstände, aber lesen und schreiben zu können kommt von Natur."(36)
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Fußnoten
(1) Karl Marx, "Zur Kritik der Politischen Ökonomie", Berlin 1859, pag. 3. <Siehe Band 13, S. 15> <=
(2) "Verlangen schließt Bedürfnis ein; es ist der Appetit des Geistes, und so natürlich wie Hunger für den Körper ... die meisten (Dinge) haben ihren Wert daher, daß sie Bedürfnisse des Geistes befriedigen." (Nicholas Barbon, "A Discourse on coining the new money lighter. In answer to Mr. Locke's Considerations etc.", London 1696, p. 2, 3.) <=
(3) "Dinge haben einen intrinsick vertue" (dies bei Barbon die spezifische Bezeichnung für Gebrauchswert), "der überall gleich ist, so wie der des Magnets, Eisen anzuziehen" (l.c.p. 6). Die Eigenschaft des Magnets, Eisen anzuziehn, wurde erst nützlich, sobald man vermittelst derselben die magnetische Polarität entdeckt hatte. <=
(4) "Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befriedigen oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen." (John Locke, "Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest", 1691, in "Works", edit. Lond. 1777, v. II, p. 28.) Im 17. Jahrhundert finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellen "Worth" für Gebrauchswert und "Value" für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudrücken. <=
(5) In der bürgerlichen Gesellschaft herrscht die fictio juris, daß jeder Mensch als Warenkäufer eine enzyklopädische Warenkenntnis besitzt. <=
(6) "Der Wert besteht in dem Tauschverhältnis, das zwischen einem Ding und einem anderen, zwischen der Menge eines Erzeugnisses und der eines anderen besteht." (Le Trosne, "De l'Intérêt Social", [in] "Physiocrates", éd. Daire, Paris 1846, p. 889.) <=
(7) "Nichts kann einen inneren Tauschwert haben" (N. Barbon, l.c.p. 6), oder wie Butler sagt:
"Der Wert eines Dings
ist grade so viel, wie es einbringen wird." <=
(8) "One sort of wares are as good as another, if the value be equal. There is no difference or distinction in things of equal value ... One hundred pounds worth of lead or iron, is of as great a value as one hundred pounds worth of silver and gold." <" ... Blei oder Eisen im Werte von einhundert Pfund Sterling haben gleich großen Tauschwert wie Silber und Gold im Werte von einhundert Pfund Sterling."> (N. Barbon, l.c.p. 53 u. 7.) <=
(9) Note zur 2. Ausg. "The value of them (the necessaries of life) when they are exchagend the one for another, is regulated by the quantity of labour necessarily required, and commonly taken in producing them." "Der Wert von Gebrauchsgegenständen, sobald sie gegeneinander ausgetauscht werden, ist bestimmt durch das Quantum der zu ihrer Produktion notwendig erheischten und gewöhnlich angewandten Arbeit." ("Some Thoughts on the Interest of Money in general, and particularly in the Public funds etc.", London, p. 36, 37.) Diese merkwürdige anonyme Schrift des vorigen Jahrhunderts trägt kein Datum. Es geht jedoch aus ihrem Inhalt hervor, daß sie unter Georg II., etwa 1739 oder 1740, erschienen ist. <=
(10) "Alle Erzeugnisse der gleichen Art bilden eigentlich nur eine Masse, deren Preis allgemein und ohne Rücksicht auf die besonderen Umstände bestimmt wird." <=
(11) K. Marx, l.c.p.6. <Siehe Band 13, S. 18> <=
(11a) Note zur 4. Aufl. - Ich schiebe das Eingeklammerte ein, weil durch dessen Weglassung sehr häufig das Mißverständnis entstanden, jedes Produkt, das von einem andern als dem Produzenten konsumiert wird, gelte bei Marx als Ware. - F. E. <=
(12) l.c.p. 12, 13 und passim. <Siehe Band 13, S. 22, 23 und passim> <=
(13) "Alle Erscheinungen des Weltalls, seien sie hervorgerufen von der Hand des Menschen oder durch die allgemeinen Gesetze der Physik, sind nicht tatsächliche Neuschöpfungen, sondern lediglich eine Umformung des Stoffes. Zusammensetzen und Trennen sind die einzigen Elemente, die der menschliche Geist immer wieder bei der Analyse der Verstellung der Reproduktion findet; und ebenso verhält es sich mit der Reproduktion des Wertes" (Gebrauchswert, obgleich Verri hier in seiner Polemik gegen die Physiokraten selbst nicht recht weiß, von welcher Sorte Wert er spricht) "und des Reichtums, wenn Erde, Luft und Wasser auf den Feldern sich in Korn verwandeln, oder auch wenn sich durch die Hand des Menschen die Abscheidung eines Insekts in Seide verwandelt, oder einige Metallteilchen sich anordnen, um eine Repetieruhr zu bilden." (Pietro Verri, "Meditazioni sulla Economia Politica" - zuerst gedruckt 1771 - in der Ausgabe der italienischen Ökonomen von Custodi, Parte Moderna, t. XV, p. 21, 22.) <=
(14) Vgl. Hegel, "Philosophie des Rechts", Berlin 1840, p. 250, § 190. <=
(15) Der Leser muß aufmerken, daß hier nicht vom Lohn oder Wert die Rede ist, den der Arbeiter für etwa einen Arbeitstag erhält, sondern vom Warenwert, worin sich sein Arbeitstag vergegenständlicht. Die Kategorie des Arbeitslohns existiert überhaupt noch nicht auf dieser Stufe unsrer Darstellung. <=
(16) Note zur 2. Ausg. Um zu beweisen, "daß die Arbeit allein das endgültige und reale Maß ist, woran der Wert aller Waren zu allen Zeiten geschätzt und verglichen werden kann", sagt A. Smith: "Gleiche Quantitäten Arbeit müssen zu allen Zeiten und an allen Orten für den Arbeiter selbst denselben Wert haben. In seinem normalen Zustand von Gesundheit, Kraft und Tätigkeit und mit dem Durchschnittsgrad von Geschicklichkeit, die er besitzen mag, muß er immer die nämliche Portion seiner Ruhe, seiner Freiheit und seines Glücks hingeben." ("Wealth of Nations", b. I, ch. V, [p.104/105].) Einerseits verwechselt A. Smith hier (nicht überall) die Bestimmung des Werts durch das in der Produktion der Ware verausgabte Arbeitsquantum mit der Bestimmung der Warenwerte durch den Wert der Arbeit und sucht daher nachzuweisen, daß gleiche Quantitäten Arbeit stets denselben Wert haben. Andrerseits ahnt er, daß die Arbeit, soweit sie sich im Wert der Waren darstellt, nur als Verausgabung von Arbeitskraft gilt, faßt diese Verausgabung aber wieder bloß als Opfer von Ruhe, Freiheit und Glück, nicht auch als normale Lebensbetätigung. Allerdings hat er den modernen Lohnarbeiter vor Augen. - Viel treffender sagt der Note 9 zitierte anonyme Vorgänger von A. Smith: "Ein Mann hat eine Woche auf Herstellung dieses Bedarfsgegenstands verwandt ... und der, welcher ihm einen anderen Gegenstand im Austausch gibt, kann nicht richtiger abschätzen, was wirklich gleichwertig ist, als durch die Berechnung, was ihm ebensoviel labour und Zeit kostet. Das bedeutet in der Tat den Austausch der labour, die ein Mensch in einer bestimmten Zeit auf einen Gegenstand verwandt hat, gegen die labour eines andren, in der gleichen Zeit auf einen anderen Gegenstand verwandt." ("Some Thoughts on the Interest of Money in general etc.", p. 39.) - {Zur 4. Auflage: Die englische Sprache hat den Vorzug, zwei verschiedne Worte für diese zwei verschiednen Aspekte der Arbeit zu haben. Die Arbeit, die Gebrauchswerte schafft und qualitativ bestimmt ist, heißt work, im Gegensatz zu labour; Die Arbeit, die Wert schafft und nur quantitativ gemessen wird, heißt labour im Gegensatz zu work. Siehe Note zu engl. Übersetzung, p. 14. - F. E.} <=
(17) Die wenigen Ökonomen, die sich, wie S. Bailey, mit der Analyse der Wertform beschäftigt haben, konnten zu keinem Resultat kommen, einmal, weil sie Wertform und Wert verwechseln, zweitens, weil sie, unter dem rohen Einfluß des praktischen Bürgers, von vornherein ausschließlich die quantitative Bestimmtheit ins Auge fassen. "Die Verfügung über die Quantität ... macht den Wert." ("Money and its Vicissitudes", Lond. 1837, p.11.) Verfasser S. Bailey. <=
(17a) Note zur 2. Ausgabe. Einer der ersten Ökonomen, der nach William Petty die Natur des Werts durchschaut hat, der berühmte Franklin, sagt: "Da der Handel überhaupt nichts ist als der Austausch einer Arbeit gegen andre Arbeit, wird der Wert aller Dinge am richtigsten geschätzt in Arbeit." ("The Works of B. Franklin etc.", edited by Sparks, Boston 1836, v. II, p .267.) Franklin ist sich nicht bewußt, daß, indem er den Wert aller Dinge "in Arbeit" schätzt, er von der Verschiedenheit der ausgetauschten Arbeiten abstrahiert - und sie so auf gleiche menschliche Arbeit reduziert. Was er nicht weiß, sagt er jedoch. Er spricht erst von "der einen Arbeit", dann "von der andren Arbeit", schließlich von "Arbeit" ohne weitere Bezeichnung als Substanz des Werts aller Dinge. <=
(18) In gewisser Art geht's dem Menschen wie der Ware. Da er weder mit einem Spiegel auf die Welt kommt noch als Fichtescher Philosoph: Ich bin ich, bespiegelt sich der Mensch zuerst in einem andren Menschen. Erst durch die Beziehung auf den Menschen Paul als seinesgleichen bezieht sich der Mensch Peter auf sich selbst als Mensch. Damit gilt ihm aber auch der Paul mit Haut und Haaren, in seiner paulinischen Leiblichkeit, als Erscheinungsform des Genus Mensch. <=
(19) Der Ausdruck "Wert" wird hier, wie beiläufig schon früher stellenweis geschah, für quantitativ bestimmten Wert, also für Wertgröße gebraucht. <=
(20) Note zur 2. Ausg. Diese Inkongruenz zwischen der Wertgröße und ihrem relativen Ausdruck ist von der Vulgärökonomie mit gewohntem Scharfsinn ausgebeutet worden. z.B.: "Gebt einmal zu, daß A fällt, weil B, womit es ausgetauscht wird, steigt, obgleich unterdessen nicht weniger Arbeit auf A verausgabt wird, und euer allgemeines Wertprinzip fällt zu Boden ...Wenn zugegeben wird, daß, weil der Wert von A relativ zu B steigt, der Wert von B relativ zu A fällt, ist der Grund unter den Füßen weggeschnitten, worauf Ricardo seinen großen Satz aufstellt, daß der Wert einer Ware stets bestimmt ist durch das Quantum der ihr einverleibten Arbeit; denn wenn ein Wechsel in den Kosten von A nicht nur seinen eignen Wert im Verhältnis zu B, womit es ausgetauscht wird, verändert, sondern auch den Wert von B relativ zu dem von A, obgleich kein Wechsel stattgefunden hat in dem zur Produktion von B erheischten Arbeitsquantum, dann fällt nicht nur die Doktrin zu Boden, die versichert, daß die auf einen Artikel verausgabte Quantität Arbeit seinen Wert reguliert, sondern auch die Doktrin, daß die Produktionskosten eines Artikel seinen Wert regulieren." (J. Broadhurst, "Political Economy", London 1842, p. 11, 14.)
Herr Broadhurst konnte ebensogut sagen: Man sehe sich einmal die Zahlenverhältnisse 10/20, 10/50, 10/100 usw. an. Die Zahl 10 bleibt unverändert, und dennoch nimmt ihre proportionelle Größe, ihre Größe relativ zu den Nennern 20, 50, 100, beständig ab. Also fällt das große Prinzip zu Boden, daß die Größe einer ganzen Zahl wie 10 z.B. durch die Anzahl der in ihr enthaltenen Einer "reguliert" ist. <=
(21) Es ist mit solchen Reflexionsbestimmungen überhaupt ein eigenes Ding. Dieser Mensch ist z.B. nur König, weil sich andre Menschen als Untertanen zu ihm verhalten. Sie glauben umgekehrt Untertanen zu sein, weil er König ist. <=
(22) Note zur 2. Ausg. F. L. A. Ferrier (sous-inspecteur des douanes <Unterinspekteur des Zollwesens>), "Du Gouvernement considéré dans ses rapports avec le commerce", Paris 1805, und Charles Ganilh, "Des Systèmes d'Économie Politique", 2ème éd., Paris 1821. <=
(22a) Note zur 2. Aufl. Z.B. bei Homer wird der Wert eines Dings in einer Reihe verschiedner Dings ausgedrückt. <=
(23) Man spricht deshalb vom Rockwert der Leinwand, wenn man ihren Wert in Röcken, von ihrem Kornwert, wenn man ihn in Korn darstellt etc. Jeder solche Ausdruck besagt, daß es ihr Wert ist, der in den Gebrauchswerten Rock, Korn usw. erscheint. "Das der Wert jeder Waren ihr Verhältnis im Austausch bezeichnet, können wir ihn bezeichnen als ... Kornwert, Tuchwert, je nach der Ware, mit der sie verglichen wird; und daher gibt es tausend verschiedene Arten von Werten, so viele, wie Waren vorhanden sind, und alle sind gleich real und gleich nominell." ("A Critical Dissertation on the Nature, Measures, and Causes of Value; chiefly in reference to the writings of Mr. Ricardo and his followers. By the Author of Essays on the Formation etc. of Opinions", London 1825, p. 39.) S. Bailey, der Verfasser dieser anonymen Schrift, die ihrer Zeit viel Lärm in England machte, wähnt durch diesen Hinweis auf die kunterbunten relativen Ausdrücke desselben Warenwerts alle Begriffsbestimmung des Werts vernichtet zu haben. Daß er übrigens, trotz eigner Borniertheit, wunde Flecken der Ricardoschen Theorie sondiert hatte, bewies die Gereiztheit, womit die Ricardosche Schule ihn angriff, z.B. in der "Westminster Review". <=
(24) Man sieht es der Form allgemeiner unmittelbarer Austauschbarkeit in der Tat keineswegs an, daß sie eine gegensätzliche Warenform ist, von den Form nicht unmittelbarer Austauschbarkeit ebenso unzertrennlich wie die Positivität eines Magnetpols von der Negativität des andren. Man mag sich daher einbilden, man könne allen Waren zugleich den Stempel unmittelbarer Austauschbarkeit aufdrücken, wie man sich einbilden mag, man könne alle Katholiken zu Päpsten mache. Für den Kleinbürger, der in der Warenproduktion das nec plus ultra <den Gipfel> menschlicher Freiheit und individueller Unabhängigkeit erblickt, wäre es natürlich sehr wünschenswert, der mit dieser Form verbundnen Mißstände überhoben zu sein, namentlich auch der nicht unmittelbaren Austauschbarkeit der Waren. Die Ausmalung dieser Philisterutopie bildet Proudhons Sozialismus, der, wie ich anderswo gezeigt <Karl Marx, "Misère de la philosophie. Réponse à la philosophie de la misère de M. Proudhon", Paris, Bruxelles 1874, Kap. 1 (siehe Bd. 4, S, 67-124)>, nicht einmal das Verdienst der Originalität besitzt, vielmehr lange vor ihm von Gray, Bray und andern weit besser entwickelt wurde. Dies verhindert solche Weisheit nicht, heutzutage, in gewissen Kreisen, unter dem Namen der "science" <"Wissenschaft"> zu grassieren. Nie hat eine Schule mehr als die Proudhonsche mit dem Wort "sceince" um sich geworfen, denn
"wo Begriffe fehlen,
da stellt zur rechten Zeit ein Wort sich ein". <=
(25) Man erinnert sich, daß China und die Tische zu tanzen anfingen, als alle übrige Welt still zu stehn schien - pour encourager les autres <um die andern zu ermutigen>. <=
(26) Note zur 2. Ausg. Bei den alten Germanen wurde die Größe eines Morgens Land nach der Arbeit eines Tages berechnet und daher der Morgen Tagwerk (auch Tagwanne) (jurnale oder jurnalis, terra jurnalis, jornalis oder diurnalis), Mannwerk, Mannskraft, Mannsmaad, Mannshauet usf. benannt. Sieh Georg Ludwig von Maurer, "Einleitung zur Geschichte der Mark-, Hof-, usw. Verfassung", München 1854, p. 129 sq. <=
(27) Note zur 2. Ausg. Wenn daher Galiani sagt: Der Wert ist ein Verhältnis zwischen Personen - "La Ricchezza è una ragione tra due persone" - , so hätte er hinzusetzen müssen: unter dinglicher Hülle verstecktes Verhältnis. (Galiani, "Della Moneta", p. 221, t. III von Custodis Sammlung der "Scrittori Classici Italiani di Economia Politica", Parte Moderna, Milano 1803.) <=
(28) "Was soll man von einem Gesetze denken, das sich nur durch periodische Revolutionen durchsetzten kann?" (Friedrich Engels, "Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie" in "Deutsch-Französische Jahrbücher", herausg. von Arnold Ruge und Karl Marx, Paris 1844.) <Siehe Band 1, S. 515> <=
(29) Note zur 2. Ausgabe. Auch Ricardo ist nicht ohne seine Robinsonade. "Den Urfischer und den Urjäger läßt er sofort als Warenbesitzer Fisch und Wild austauschen, im Verhältnis der in diesen Tauschwerten vergegenständlichten Arbeitszeit. Bei dieser Gelegenheit fällt er in den Anachronismus, daß Urfischer und Urjäger zur Berechnung ihrer Arbeitsinstrumente die 1817 auf der Londoner Börse gangbaren Annuitätentabellen zu Rate ziehn. Die 'Parallelogramme des Herrn Owen' scheinen die einzige Gesellschaftsform, die er außer der bürgerlichen kannte." (Karl Marx, "Zur Kritik etc.", p.38, 39. <Siehe Band 13, S.46>) <=
(30) Note zur 2. Ausgabe. "Es ist ein lächerliches Vorurteil in neuester Zeit verbreitet, daß die Form des naturwüchsigen Gemeineigentums spezifische, sogar ausschließlich russische Form sei. Sie ist die Urform, die wir bei Römern, Germanen, Kelten nachweisen können, von der aber eine ganze Musterkarte mit mannigfachen Proben sich noch immer, wenn auch zum Teil ruinenweise, bei den Indiern vorfindet. Ein genaueres Studium der asiatischen, speziell der indischen Gemeineigentumsformen würde nachweisen, wie aus den verschiednen Formen des naturwüchsigen Gemeineigentums sich verschiedne Formen seiner Auflösung ergeben. So lassen sich z.B. die verschiednen Originaltypen von römischem und germanischem Privateigentum aus verschiednen Formen des indischen Gemeineigentums ableiten."(Karl Marx, "Zur Kritik etc.", p. 10. <Siehe Band 13 unserer Ausgabe, S.21>) <=
(31) Das Unzulängliche in Ricardos Analyse der Wertgröße - und es ist die beste - wird man aus dem dritten und vierten Buch dieser Schrift ersehn. Was aber den Wert überhaupt betrifft, so unterscheidet die klassische politische Ökonomie nirgendwo ausdrücklich und mit klarem Bewußtsein die Arbeit, wie sie sich im Wert, von derselben Arbeit, soweit sie sich im Gebrauchswert ihres Produkts darstellt. Sie macht natürlich den Unterschied tatsächlich, da sie die Arbeit das einemal quantitativ, da andremal qualitativ betrachtet. Aber es fällt ihr nicht ein, daß bloß quantitativer Unterschied der Arbeiten ihre qualitative Einheit oder Gleichheit voraussetzt, also ihre Reduktion auf abstrakt menschliche Arbeit. Ricardo z.B. erklärt sich einverstanden mit Destutt de Tracy, wenn dieser sagt: "Da es sicher ist, daß unsere körperlichen und geistigen Fähigkeiten allein unser ursprünglicher Reichtum sind, ist der Gebrauch dieser Fähigkeiten, eine gewisse Art Arbeit, unser ursprünglicher Schatz; es ist immer dieser Gebrauch, welcher alle jene Dinge schafft, die wir Reichtum nennen ... Zudem ist es gewiß, daß alle jene Dinge nur die Arbeit darstellen, die sie geschaffen hat, und wenn sie einen Wert haben, oder sogar zwei unterschiedliche Werte, so können sie dies doch nur haben aus dem" (dem Wert) "der Arbeit, der sie entspringen." (Ricardo, "The principles of Pol. Econ.", 3. ed., Lond. 1821, p. 334. <Vgl. Destutt de Tracy, "Elemens d'ideologie." IVe et Ve parties, Paris 1826, p.35, 36>) Wir deuten nur an, daß Ricardo dem Destutt seinen eignen tieferen Sinn unterschiebt. Destutt sagt in der Tat zwar einerseits, daß alle Dinge, die den Reichtum bilden, "die Arbeit repräsentieren, die sie geschaffen hat", aber andrerseits, daß sie ihre "zwei verschiedenen Werte" (Gebrauchswert und Tauschwert) vom "Wert der Arbeit" erhalten. Er fällt damit in die Flachheit der Vulgärökonomie, die den Wert einer Ware (hier der Arbeit) voraussetzt, um dadurch hinterher den Wert der andren Waren zu bestimmen. Ricardo liest ihn so, daß sowohl im Gebrauchswert als Tauschwert sich Arbeit (nicht Wert der Arbeit) darstellt. Er selbst aber scheidet so wenig den zwieschlächtigen Charakter der Arbeit, die doppelt dargestellt ist, daß er in dem ganzen Kapitel: "Value and Riches, their Distinctive Properties" <"Wert und Reichtum, ihre unterscheidenden Eigenschaften"> sich mühselig mit den Trivialitäten eines J. B. Say herumschlagen muß. Am Ende ist er daher auch ganz erstaunt, daß Destutt zwar mit ihm selbst über Arbeit als Wertquelle und dennoch andrerseits mit Say über den Wertbegriff harmoniere. <=
(32) Es ist einer der Grundmängel der klassischen politischen Ökonomie, daß es ihr nie gelang, aus der Analyse der Ware und spezieller des Warenwerts die Form des Werts, die ihn eben zum Tauschwert macht, herauszufinden. Grade in ihren besten Repräsentanten, wie A. Smith und Ricardo, behandelt sie die Wertform als etwas ganz Gleichgültiges oder der Natur der Ware selbst Äußerliches. Der Grund ist nicht allein, daß die Analyse der Wertgröße ihre Aufmerksamkeit ganz absorbiert. Er liegt tiefer. Die Wertform des Arbeitsprodukts ist die abstrakteste, aber auch allgemeinste Form der bürgerlichen Produktionsweise, die hierdurch als eine besondere Art gesellschaftlicher Produktion und damit zugleich historisch charakterisiert wird. Versieht man sie daher für die ewige Naturform gesellschaftlicher Produktion, so übersieht man notwendig auch das Spezifische der Wertform, also der Warenform, weiter entwickelt der Geldform, Kapitalform usw. Man findet daher bei Ökonomen, welche über das Maß der Wertgröße durch Arbeitszeit durchaus übereinstimmen, die kunterbuntesten und widersprechendsten Vorstellungen von Geld, d.h. der fertigen Gestalt des allgemeinen Äquivalents. Dies tritt schlagend hervor z.B. bei der Behandlung des Bankwesens, wo mit den gemeinplätzlichen Definitionen des Geldes nicht mehr ausgereicht wird. Im Gegensatz entsprang daher ein restauriertes Merkantilsystem (Ganilh usw.), welches im Wert nur die gesellschaftliche Form sieht oder vielmehr nur ihren substanzlosen Schein. - Um es ein für allemal zu bemerken, verstehe ich unter klassischer politischer Ökonomie alle Ökonomie seit W. Petty, die den innern Zusammenhang der bürgerlichen Produktionsverhältnisse erforscht im Gegensatz zur Vulgärökonomie, die sich nur innerhalb des scheinbaren Zusammenhangs herumtreibt, für eine plausible Verständlichmachung der sozusagen gröbsten Phänomene und den bürgerlichen Hausbedarf das von der wissenschaftlichen Ökonomie längst gelieferte Material stets von neuem wiederkaut, im übrigen aber sich darauf beschränkt, die banalen und selbstgefälligen Vorstellungen der bürgerlichen Produktionsagenten von ihrer eignen besten Welt zu systematisieren, pedantisieren und als ewige Wahrheiten zu proklamieren. <=
(33) "Die Ökonomen verfahren auf eine sonderbare Art. Es gibt für sie nur zwei Arten von Institutionen, künstliche und natürliche. Die Institutionen des Feudalismus sind künstliche Institutionen, die der Bourgeoisie natürliche. Sie gleichen darin den Theologen, die auch zwei Arten von Religionen unterscheiden. Jede Religion, die nicht die ihre ist, ist eine Erfindung der Menschen, während ihre eigene Religion eine Offenbarung Gottes ist. - Somit hat es eine Geschichte gegeben, aber es gibt keine mehr." (Karl Marx, "Misère de la Philosophie. Réponse à la Philosophie de la Misère de M. Proudhon", 1847, p. 113. <Siehe Band 4, S 139>) Wahrhaft drollig ist Herr Bastiat, der sich einbildet, die alten Griechen und Römer hätten nur von Raub gelebt. Wenn man aber viele Jahrhunderte durch von Raub lebt, muß doch beständig etwas zu rauben da sein oder der Gegenstand des Raubes sich fortwährend reproduzieren. Es scheint daher, daß auch Griechen und Römer einen Produktionsprozeß hatten, also eine Ökonomie, welche ganz so die materielle Grundlage ihrer Welt bildete wie die bürgerliche Ökonomie die der heutigen Welt. Oder meint Bastiat etwa, daß eine Produktionsweise, die auf der Sklavenarbeit beruht, auf einem Raubsystem ruht? Er stellt sich dann auf gefährlichen Boden. Wenn ein Denkriese wie Aristoteles in seiner Würdigung der Sklavenarbeit irrte, warum sollte ein Zwergökonom, wie Bastiat, in seiner Würdigung der Lohnarbeit richtig gehn? - Ich ergreife diese Gelegenheit, um einen Einwand, der mir beim Erscheinen meiner Schrift "Zur Kritik der Pol. Oekonomie", 1859, von einem deutsch-amerikanischen Blatte gemacht wurde, kurz abzuweisen. Es sagte, meine Ansicht, daß die bestimmte Produktionsweise und die ihr jedesmal entsprechenden Produktionsverhältnisse, kurz "die ökonomische Struktur der Gesellschaft die reale Basis sei, worauf sich ein juristischer und politischer Überbau erhebe und welcher bestimmte gesellschaftliche Bewußtseinsformen entsprächen", daß "die Produktionsweise des materiellen Lebens den sozialen, politischen und geistigen Lebensprozeß überhaupt bedinge" <siehe Band 13, S. 8/9>, - alles dies sei zwar richtig für die heutige Welt, wo die materiellen Interessen, aber weder für das Mittelalter, wo der Katholizismus, noch für Athen und Rom, wo die Politik herrschte. Zunächst ist es befremdlich, daß jemand vorauszusetzen beliebt, diese weltbekannten Redensarten über Mittelalter und antike Welt seien irgend jemand unbekannt geblieben. Soviel ist klar, daß das Mittelalter nicht vom Katholizismus und die antike Welt nicht von der Politik leben konnte. Die Art und Weise, wie sie ihr Leben gewannen, erklärt umgekehrt, warum dort die Politik, hier der Katholizismus die Hauptrolle spielte. Es gehört übrigens wenig Bekanntschaft z.B. mit der Geschichte der römischen Republik dazu, um zu wissen, daß die Geschichte des Grundeigentums ihre Geheimgeschichte bildet. Andrerseits hat schon Don Quixote den Irrtum gebüßt, daß er die fahrende Ritterschaft mit allen ökonomischen Formen der Gesellschaft gleich verträglich wähnte. <=
(34) "Value is a property of things, riches of man. Value, in this sense, necessarily implies exchange, riches do not." ("Observations on some verbal disputes in Pol. Econ., particularly relating to value, and to supply and demand", Lond. 1821, p. 16.) <=
(35) "Riches are the attribute of man, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable ... A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond." (S. Bailey, l.c.p. 165 sq.) <=
(36) Der Verfasser der "Observations" und S. Bailey beschuldigen Ricardo, er habe den Tauschwert aus einem nur Relativen in etwas Absolutes verwandelt. Umgekehrt. Er hat die Scheinrelativität, die diese Dinge, Diamant und Perlen z.B., als Tauschwerte besitzen, auf das hinter dem Schein verborgene wahre Verhältnis reduziert, auf ihre Relativität als bloße Ausdrücke menschlicher Arbeit. Wenn die Ricardianer dem Bailey grob, aber nicht schlagend antworten, so nur, weil sie bei Ricardo selbst keinen Aufschluß über den inneren Zusammenhang zwischen Wert und Wertform oder Tauschwert fanden. <=