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『資本論』の翻訳問題
  使用価値の「無関心」
『資本論』とヘーゲルの「無関心」について
大内兵衛著『経済学』「価値 と使用価値」
 
   要約  ・・作業中・・
  使用価値の「無関心」と大内兵衛『経済学』
 

「特定の」の英語と独語
specific/particular
 besondre
→D.小論理学§163_2021.01.28
→D.ヘーゲル小論理学概念論161-163~165節
■specific
make no specific preparations
→keine besonderen Vorbereitungen treffen

■particular 特定の > besonder


『資本論』のヘーゲル論理学研究 (1)
http://www.marx2016.com/ht_yougo_mukansin.html
 『資本論』とヘーゲルの「無関心」について

「この市民たる表現の無限の序列の中にあるから、商品価値は、* 使用価値が、どんな形態であろうと、その特別な形態にたいして、 gegen die besondre Form des Gebrauchswerts, *無関心でgleichgültig(*注1)あることにもなるわけである。」(同第3p115)」

Zugleich liegt in der endlosen Reihe seiner Ausdrücke, daß der Warenwert gleichgültig ist gegen die besondre Form des Gebrauchswerts, worin er erscheint.

■*「使用価値一般」にたいして「無関心」ではなく、その「特別な/特定の形態」にたいして「無関心」ということ

*「特別な形態」にたいして、*無関心である
*besondre Form / besonderen Bestimmungen
§163補遺p.130 *特殊規定
 普遍的意志とはすなわち意志の概念であり、もろもろの法律はこの概念にもとづいている意志の特殊規定besonderen Bestimmungenである。
Der allgemeine Wille ist der Begriff des Willens, und die Gesetze sind die in diesem Begriff begründeten besonderen Bestimmungen des Willens.
「特殊な普遍」p.135ー§166 概念論
*D.小論理学§163_2021.01.28
 Bestimmtheiten der Allgemeinheit und Besonderheit, welche negative Einheit mit sich das an ・・・

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大内兵衛著 『経済学』
http://www.marx2016.com/oouti_keizaigaku_01.html
第2編 社会経済の基礎概念 (抄録)
 第4章 商品、その価値
  【1】  商品は経済社会の細胞である

 われわれの分析しようとする資本主義社会においても、われわれの生活にはいろいろの財貨を必要とするが、われわれ自身は、この一物をも生産しない。すべてそれを市場からお金を支払って買って来る。米でも、洋服でも、その他何でも同じことである。しからばそういうものは、市場になぜあるのか。誰かがそれを生産してお金に対して売るためにそこに提供してあるからだ。すべての財貨は、ここでは商品(commodity)である。こういう商品がないと一切の消費がなく、一切の生活がない。そこで、いったい商品とは何だろう。ここで注意せよ。商品は昔からあったものではないということを。昔の人は自ら井戸を掘って飲み、自ら耕して食ったようである。それならば、商品は現代資本主義社会に限ってあるものか、そうでもない。たしかにそれ以前からあった。すでに資本主義は商品の売買から発生したことをわれわれは知っている。あの場合、私有と分業とがあった。そしてたくさんの独立した生産者があった。そういう生産者はその生産物を交換した。それが商品であった。そこで、われわれは、そういう資本主義以前の社会で商品はどうして発生するか、商品はどういう社会的性質をもつか。話をそこから始めよう。
   【2】  商品における 使用価値 と 価値

 米は白いデン粉であり、洋服は羊毛でこしらえた布地でできている。米は人間が食うものであり、洋服は着るものである。そして、この両者が商品となったとき、米は1石25円であり、洋服は1着50円である。そこで、商品は、一見したところ、使用価値(value in use)と交換価値(value in exchange)とを同時にもっているものと思われる。果たしてそうだろうか。これは大いに論争のあるところであるが、私は、商品をして商品たらしめるもの、すなわち、交換される財貨たらしめるものは、財貨のもつところのいろいろな使用価値ではなく、その財貨の生産に費やされた労働であると思うものである。労働を費やしたことが価値の原因であって、その価値が、財貨の交換において交換価値となって現われるのだと思う。右において、25円、50円または2石イクオール1着、1着イクオール2石〔 米2石=洋服1着 〕というのは、いずれもこの価値の現われである。この主張を、次にもう少しくわしく説こう。
.......................................

1.>
いま2石の米が1着の洋服と交換されるとしよう。これによって米の所有者は洋服の所有者となり、洋服の所有者は米の所有者となる。そしてそれにより、双方ともに各々の欲望を満足しうる。洋服を出したものは米が食える。米を出したものは洋服が着られる。これらすべては財貨の使用消費に関する事実である。使用または消費の際におこる財貨の価値評価がこの内にあることは明らかである。けれどもそれらの価値または評価は交換のうちには存しない。というのは、米および洋服のもとの所有者(生産者にして売手)は、それらを交換に出す前にそれらについての使用を断念している。また、米および洋服の新しい所有者(消費者にして買手)がそれらの物を使用するのは、交換がすんでからのことだ。だから交換において成立する洋服1着イクオール米2石、米2石イクオール洋服1着、米2石50円、洋服1着50円という事実は、右のような当事者の使用価値とは関係なくでき上るものでなくてはならぬ。

2.>
 さて、洋服も米もその生産に一定の費用( cost )がかかった。その費用は結局は人間の労働である。洋服屋も農夫もその所有の財貨を他人に与える場合、このことを考えないわけにはいかない。双方ともその交換する財貨についての自分の労働のことをも考え、相手の労働のことをも考える。そして双方ともそれを交換した方が自分の欲しいものを自分で生産するよりもよいと思うときにのみ交換が成立する。して見みれば交換において評価される価値、交換される財貨の実態は、その財貨の生産に投じられたところの労働であるといってよい。前にあげた50円、米2石、洋服1着というようないろいろの表現は、いずれも、交換される財貨のもつ価値をそれと交換されるもので現わしたものである。それらは、そういう財貨の価値の交換の場における名前である。その名前は、それらがもっている労働の量を、交換する相手の財貨で現わしたものである。

3.>
 以上の説明をもう一度要約しよう。
商品は財貨としては使用価値をもち、また財貨としては価値をもっているが、交換において、商品の交換価値としてわれわれの見ているもの、洋服1着は米2石、また両者ともに50円という事実は、あくまでもその価値、それの生産に必要であった労働のであって、その使用価値の面ではない。すべての使用価値は交換が行われる原因にはなるが、交換はそれ〔使用価値〕の交換ではない。従って商品の売買というのも、使用価値と貨幣との交換ではない、価値物と貨幣との交換である。

4.>【3】  交換される価値は何故に等質か
 商品の実体が価値であること、価値はその生産に投じられた労働であること、その大小は労働の量の大小であるということ、商品はそれの相互計量によって交換されるのだという、右のような主張のうちには、異った商品の生産に投ぜられた異った種類の労働が、みな同質のものだ、同質のものとして計られるものだという主張が含まれている。それはおかしいという人があろうと考える。農夫の米を作る労働が価値の実体であるとして、どうしてそれで洋服を作る労働の大きさが計られるか?洋服を作る労働と米を作る労働とは異質でないか。彼の汗とアブラは農夫のそれとは違うではないか。しかし、その点は社会的に考えてもらいたい。社会的事実は次のごとくである。すなわち人間は他人に対しては非人情である。交換する人は一々その他人のことは考えない。そしてことに交換する相手が無限に多数であれば、一々の相手の個性は社会的平均的な標準のうちに消えてしまい、誰が生産したかわからぬ商品のうちにふくまれている人間の労働は、普通人の普通の労働として計り、ただその量の大きさをもって考えることになるのである。なぜなれば、彼らは同様の商品ならば誰から買ってもよいのである。それは、誰の作品でもよいということであるからである。いいかえれば、交換という事実は、商品からそれの所有者の使用価値を切りすてると同時に、それに投じられている労働の個人性を切りすてるのである。その意味で、交換は社会的な尺度で実現するのである。むろん個々の交換には人情が伴うこともあるが、それは商品の本質ではない。商品の商品としての社会的な多数の交換では、人情は全く切りすてられて、商品は商品自身の実体の大きさだけによって評価されるのである。かくして交換社会が発達してしまえば、全社会の全商品は、たとえどんな労働が分担してそれを作ったものであっても、共通の尺度で計られてしまうのである。交換がそういう事実を、社会的に作り出すのである。そしてそういう事実の存する社会ではすべての商品は、そこに存在するところの交換価値を前提として生産されるが、そのとき、その生産のコストとしての労働はすでに等質な価値なのである。

5.>  【4】 高級な労働も単純な労働も商品のうちでは同質の価値である

 右のようにいうと、それでは車夫の労働も学者の労働も同じ価値なのかといって、大いにいぶかる人があろう。まさにその通りなのだから仕方がない。どんな熟練労働もどんな不熟練労働も、商品のうちに体現されて売買されるときには同質のものとして、社会的平均的労働で計られ、その単位価値の何倍という風に計算されるのである。その証拠には、今日の世の生産社会では、すべての種類の労働を、日給、週給、月給により、すなわち時間で計量して売買しているではないか。それは商品を作る労働であるからであり、商品の価値となる労働であるからである。こんなことが合理的なのは、今日の世の中では、商品の種類は何であれ、米でも洋服でも靴墨でもバイブルでも、金何円として同一尺度により計られているという事実があるからである。これは、すべての商品を作っているすべての労働が価値としてはすでに等質になっているという事実にもとづいているのである。こういっても、梅原、安井の絵の労働が例えば1時間何千円であるというのではない。それはお金では買えないものをもっているであろうと、私も信じている。しかし、彼らの作品がそれだけで売買されているならば、彼らの労働でさえ、価値として社会的平均的な労働によって計られているといって少しもさしつかえがないのである。

6.> 【5】 価値が交換価値となるから、商品は多数の商品の価値を表現する

商品の価値は交換において交換価値となることによってはじめて社会的に現実のものたることを証明し主張する。2石の米の価値は洋服1着のそれであることは交換によってはじめてわかる。これは一つの物々交換での話であるが、実際には一つの商品は多くの商品と交換される。2石の米は、洋服1着の外、靴2足、ノート・ブック100冊等々と交換される。これはそれぞれの商品の価値は米の価値に等しいということである。商品・米は多くの商品の等価物であるということである。多くの商品は米の価値の現象的な形態である。こうなると次のようなことが起りうる。交換が発達すると、どんな商品でも多くの他の商品の価値を現わすことになる。しかし、それは商品の実体は価値であり、その点ですべての商品は同じだということを考えれば、むしろ当然のことである。
******以下省略*********