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 文献資料1. ヘーゲル「小論理学」
 文献資料2. ヘーゲル「大論理学」第1巻 有論(存在論)比例論研究
 文献資料3. ヘーゲル「大論理学」第2巻 本質論 第1章 仮象
 文献資料4. ヘーゲル「小論理学」第2巻 本質論 A §112-§123 (ドイツ語)
        Zweite Abteilung der Logik. Die Lehre vom Wesen



 ヘーゲル「小論理学」目次

    ヘーゲル「小論理学」
 第1部 有 論 (86-98)  第3部 概念論 (160-244)
 A 質 (86-98)  A 主観的概念(163-193)
a 有 (86-88) a 概念そのもの (163-165)
b 定有 (89-95) b 判 断 (172-173)
c 向自有 (96-98)  イ 質的判断 (172-173)
 B 量 (99-100)  ロ 反省の判断 (174-176)
a 純量 (99-100)  ハ 必然性の判断(177)
b 定量 (101-106)  ニ 概念の判断 (178-180)
c 度  (103-106) c 推 理 (181-193)
 C 限 度 (107-111)  イ 質的推理 (183-189)
 ロ 反省の推理 (190)
 ハ 必然性の推理 (191-193)
 第2部 本質論 §112 ― §156  B 客 観(194-212)
 第2部 本質 Wesen 論
   (112-159)Die Lehre vom Wesen
a 機械的関係 (195-199)
A 現存在の根拠とっしての本質 (115-122) b 化学的関係 (200-203)
a 純粋な反省規定 (115-122)
  a. Die reinen Reflexionsbestimmungen
c 目的的関係 (204-212)
 イ 同一性 (115) α. Identität  C 理 念 (213-244)
 ロ 区別 (116-120) β. Der Unterschied a 生命(216-222)
 ハ 根拠 (121-122) γ. Der Grund b 認識(223-235)
b 現存在 (123-124) b. Die Existenz  イ 認識(226-232)
c 物 (125-130) c. Das Ding  ロ 意志(233-235)
B 現象 (131-141) B. Die Erscheinung c 絶対的理念(236-244)
a 現象の世界 (131)
    a. Die Welt der Erscheinung
b 内容と形式 (133-134)
    b. Inhalt und Form
c 相関 (135-141) c. Das Verhältnis
C 現実性 (142-149) C. Die Wirklichkeit
a 実体性の相関 (150-152)
    a Substantialitätsverhältnis
b 因果性の相関 (153-154)
    b Kausalitätsverhältnis
c 交互作用 (155-159)
    c Die Wechselwirkung


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仮象 (Schein) 反照 (Scheinen) 相等性 (Gleichheit) 質料 (Materie) 実体 (Substanz) 事柄 (Sache)
形式 (Form) 形式規定 (Form) 転化 概念 (Begriff) 肢体 統一 (Einheit)
比 (Verhlätnis) 活動 (Tätigkeit) 極・分極性 (Polarität) 人格 媒介 (Vermittlung) 直接性 (unmittelbares)
個 (個別) (Einzelnheit) 特殊性 (Besonderheit) 普遍 (Allgemeinheit)
商品 物神的性格 変態 資本物神 資本物神




『小論理学』(下) 村松一人訳 岩波書店 1952年発行

  
 ■資本論ワールドによる編集注意事項
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第2部 本 質 論

§112


§112 本質(Wesen)は媒介的に定立された概念( gesetzter Begriff )としての概念である。その諸規定は本質においては相関的であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ反省したものとして存在していない。したがって概念はまだ向自(Fürsich)として存在していない。本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、定立され媒介されたものとして存在している。-有は消失していない。本質はまず、単純な自己関係として有である。しかし他方では、有は、直接的なものであるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち、仮象(Schein)へひきさげられている。―したがって本質は、自分自身のうちでの反照(Scheinen)としての有である。
  絶対者は本質である。―この定義は、有も同じく単純な自己関係であるかぎり、絶対者は有であるという定義と同じである。しかしそれは同時により高い定義である。というのは、本質とは、自己のうちへはいっていった有であるからである。言いかえれば、本質の単純な自己関係は、否定的なものの否定、自己のうちでの自己媒介として定立された自己関係であるからである。しかし、絶対者を本質と定義するとき、人々はしばしば否定性をあらゆる特定の述語の捨象という意味にとる。すると、この捨象という否定的行為は、本質に無関係なものとなり、本質そのものは特定の諸述語という前提を持たぬ成果、捨象のかすとして存在するにすぎなくなる。しかしこの否定性*注は、有に外的なものではなくて、有自身の弁証法なのであるから、有の真理である本質は、自己のうちへはいっていった有、あるいは自己のうちにある有である。本質と直接的な有との相違をなすものは、先に述べた反省、すなわち、本質が自分自身のうちへ反照するということであって、これが本質そのものに特有の規定である。

(*注:否定性Negativität は、有自身の弁証法。§116参照。なお弁証法の「止揚、揚棄」の類語: aufheben, アウフヘーベン。「あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと。」「矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。」(止揚はウィキペディアより)。
 訳者註。gesetztという言葉は、即自にたいしては、顕現の意味をもって使われるが、ここでは、他のものによってsetzen〔設定
〕される、すなわち媒介されるという意味である。

§112 補遺


§112 ▼補遺 本質と言う場合、われわれはそれを直接的なものとしての有から区別し、有を本質との関係においては単なる仮象とみる。しかしこの仮象は全く無いもの、無ではなく、揚棄されたもの〔aufheben〕としての有である。―本質の立場は一般にReflexion(反省)も立場である(訳者注)。Reflexionという言葉はまず、光が直進して鏡面にあたり、そしてそこから投げ返される場合、光にかんしては用いられる(*注-DSKの反射)。したがってここには二つのものがある。すなわち、一つは直接なもの、有的なものであり、もう一つは媒介されたもの、あるいは定立されたものである。このことは、われわれが或る対象をreflektieren(反省)する、あるいは、普通言われているようにnachdenken(反省〔熟考〕)する場合でも同じである。というのは、その場合われわれは対象を直接態においてでなく、媒介されたものとして知ろうとするからである。普通、人々は哲学の課題あるいは目的は、事物の本質を認識することにあると考えている。そして人々の理解するところによれば、このことはまさに、事物はその直接態のままに放置さるべきではなく、他のものによって媒介あるいは基礎づけられたものとして示されなければならないことを意味するにすぎない。ここでは事物の直接的存在は、言わばその背後に本質がかくされている外皮あるいは幕als eine Rinde oder als ein Vorhangと考えられているのである。--さらに、あらゆる事物は一つの本質を持つと言われるならば、それは、事物の真の姿は直接にあらわれているとおりのものではないことを意味する。単に一つの質から他の質への変転や、また単に質的なものから量的なものへの進展Fortgehen、およびその逆やですべてが終ったのではなく、事物のうちには不変なものがある。そしてこの不変なものがまず本質なのである。

Wesen(本質)というカテゴリーのその他の意味および用法について言えば、まず次のことを指摘することができる。われわれドイツ人は助動詞 sein において、過ぎ去った有を gewesen と呼ぶことによって、その過去を示すに Wesen (本質)という表現を用いる。この不規則な用法には、有と本質との関係にかんする正しい観念が含まれている。というのは、本質は過ぎ去った有とみることができるからである。この場合なお注意すべきことは、過ぎ去ったものはそのために全く否定されているのではなく、揚棄されているにすぎず、したがって同時に保存されてもいるのだ、ということである。
・・・以下、省略・・・

(訳者注) 
 Reflexion, reflektieren という言葉は、ヘーゲルでは独自な意味に使われている。もともと、ラテン語のrflexio は、まがりもどることを意味する。ここから、光については、反射の意味となる。自己をかえりみるという場合の反省も、原意と無関係ではない。しかし、ヘーゲルは相関関係のうちにある二つのものを、その一方から出発して考察するとき、Reflexion という言葉を使う。例えば、支配者というものは、支配される者なしには存在せず、考えられず、自分自身のみからは理解できないものである。このような相関は、そこに存在しているのであるが、われわれが今支配者というものを理解しようとすれば、支配されるものへいき、そして再び支配者へ帰ってこなければならない。相関においては、かくして相関する互の側から、このようReflexion が行われるわけである。これがReflexion の全体的な意味である。しかし、他者へのReflexion というように、この言葉が使われるとき、それは、とりあえず関係という意味しか表面に持っていない。ヘーゲルにおいては、概念が自覚する形をも持つから、反省と訳すが、十分ではない。エンチクロペディーの初版では、ヘーゲルは、「本質の領域では、相関性が支配的な規定をなしている」と言っている。マルクスは、『資本論』で、相対的価値形態を述べたところの、註のうちで Reflexionsbestimmung に言及し、次のように言っている。「Reflexionsbestimmung というものは、一般に、独特なものである。例えば、特定の人間が王であるのは、ただ他の人々が臣下としてかれにたいするからである。ところが、この人々は、かれが王であるからこそ、自分たちは臣下なのだと思っている。」なお、主観的思惟に Reflexion という言葉をヘーゲルが使うとき、それは、すでにこれまでの訳者註に述べたように、関係的、相関的思惟である。

§113


§113  本質における自己関係( Beziehung‐auf‐sich)は、同一性( Identität )、自己内反省( Reflexioninsich )という形式である。これは有の直接性( Unmittelbarkeit ))に代ってあらわれたものであって、両者はいずれも自己関係という抽象である。
  制限され有限なもののすべてを有るものとみる感性の無思想は、それを自己と同一なもの、自己のうちで自己と矛盾しないものと解する悟性の固執へ移っていくのである。

§114


§114  この同一性は、有から由来するものであるから、最初はただ有の特性にのみまとわれてあらわれ、外的なものと関係するように有と関係するにすぎない。有がこのように、本質から切りはなされて理解されるとき、有は非本質的なもの(das Unwesentliche )と呼ばれる。しかし本質は内在性であって、それは自分自身のうちに自己の否定、他者への関係、媒介を持つかぎりにおいてのみ、本質的である。したがって本質は、非本質的なものを自分自身の反照(Scheinen)として自己のうちに持っている。しかし反照あるいは媒介の作用には区別の作用が含まれており、区別されたものは、自分がそこから由来しながらそのうちに自分が存在しないところの、すなわち仮象として存在しているところの、同一性との区別のうちで、それ自身同一性の形式を持つようになるから、自己へ関係する直接性あるいは有として存在する。

これによって本質の領域は、直接性と媒介性とのまだ完全でない結合となる。ここではすべてが、自己に関係しながら同時に自己から出ているというように定立されている。それは反省の有( ein Sein der Reflexion )であり、自己のうちに他者が反照するとともに、他者のうちに反照する有である。― 本質の領域はしたがって、有の領域では即自的にのみ存在していた矛盾の定立された領域である。    

一つの概念があらゆるものの根抵にあるのであるから、本質の発展のうちには、反省的形式においてではあるが、有の発展におけると同じ諸規定があらわれてくる。したがって、有と無との代りに今や肯定的なもの( das Positive )と否定的なもの( das Negative )とがあらわれ、前者はまず同一性として対立なき有に対応し、後者は区別として展開される(自己のうちで反照することによって)。さらに成は定有の根拠(Grund)であり、定有は、根拠へ反省したものとしては、現存在(Existenz)である。等々。―論理学の(最も難解な)この部分は、主として形而上学および科学一般の諸カテゴリーを含んでいる。これらは反省的悟性の産物であって、この悟性は区別された二つのものを独立的なものとみると同時に、またその相関性を定立し、しかも、この独立性と相関性とを並列的あるいは継起的に「また」によって結合するにすぎず、これら二つの思想を綜合し、概念に統一することはしないのである。


 A 現存在の根拠としての本質 (115-122)
 (Das Wesen als Grund der Existenz)
 
 a 純粋な反省規定 (115-122)
  (Die reinen Reflexionsbestimmungen)
イ 同一性 (Identität)


§115 
 本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性(ldentität mit sich)である。
  この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。
 同一性を、命題の主語としての絶対者と結合すると、絶対者は自己同一なものであるという命題がえられる。―この命題はきわめて真実ではあるが、しかしそれがその真理において言われているかどうかは疑問であり、したがってそれは、少くとも表現において不完全である。なぜなら、ここで意味されているのが抽象的な悟性的同一性、すなわち本質のその他の諸規定と対立しているような同一性であるか、それとも自己内で具体的な同一性であるか、はっきりしないからである。後者の場合には、後でわかるように、それはまず根拠であり、より高い真理においては概念である。―絶対的という言葉さえ、抽象的という意味しか持たないことが多い。絶対的空間、絶対的時間というような言葉は、抽象的な空間、抽象的な時間を意味するにすぎない。
  ・・・以下、省略・・・

§115 補遺


§115 ▼補遺 同一性はまず、われわれが先に有として持っていたものと同じものであるが、しかしそれは直接的な規定性の揚棄によって生成したものであるから、観念性としての有である― 同一性の本当の意味を正しく理解することは、非常に重要である。そのためにはまず第一に、それを単に抽象的な同一性として、すなわち、区別を排除した同一性として解さないことが必要である。これが、あらゆるつまらない哲学と本当に哲学の名に値する哲学とが分れる点である。本当の意味における同一性は、直接的に存在するものの観念性として、宗教的意識にたいしても、その他すべての思惟および意識にたいしても、高い意義を持つカテゴリーである。神にかんする真の知識は、神を同一性、絶対の同一性として知ることからはじまる、と言うことができる。そしてこのことは同時に、世界のあらゆる力と光栄とは神の前に崩れ去り、ただ神の力および光栄の映現としてのみ存在しうることを意味する。――人間を自然一般および動物から区別するものも、自己意識という同一性である。動物は、自分が自我であること、すなわち自己のうちにおける純粋な統一であることを理解する点まで達していないのである。
―思惟にたいして同一性が持っている意義について言えば、何よりも大切なことは、有およびその諸規定を揚棄されたものとして内に含んでいる本当の同一性と、抽象的な、単に形式的な同一性とを混同しないことである。思惟は一面的であるとか、融通がきかないとか、内容がないとかというような、特に感情および直観の立場から非常にしばしば思惟に加えられる非難は、思惟の働きがただ抽象的な同一性の定立にのみあるとする、誤った前提にもとづいているのである。そして本節で述べたような、いわゆる最高思惟法則を掲げることによって、こうした誤った前提を確認するものは、ほかならぬ形式論理学である。もし思惟が抽象的同一性を出ないとすれば、われわれはそれをこの上もなく無用で退屈な仕事と言わなければならないであろう。概念、より進んでは、理念は、確かに自己同一なものではある。しかしそれらは、同時に自己のうちに区別を含んでいるかぎりにおいてのみ、そうなのである。

 

口 区 別 (Der Unterschied)


§116


§116 本質は、それが自己に関係する否定性、したがって自己から自己を反撥するものであるときのみ、純粋な同一性であり、自分自身のうちにおける反照である。したがって本質は、本質的に区別(Unterschied)の規定を含んでいる。
  ここでは他在はもはや質的なもの、規定性、限界ではない。今や否定は、自己へ関係するものである本質のうちにあるのであるから、同時に関係として存在する。すなわちそれは区別であり、定立されて有るもの(Gesetztsein)であり、媒介されて有るもの(Vermitteltsein)である。


§116 ▼補遺


§116  ▼補遺 同一はいかにして区別となるかというような質問をする人があるとすれば、こうした質問のうちには、同一性は、単なる同一性すなわち抽象的な同一性として、単独に存在するものであり、区別も同様に単独に存在する或る別なものである、という前提が含まれている。このような前提をしていては、呈出された質問にたいする答は不可能である。同一を区別と別なものとみれば、そこにわれわれが持つのは区別だけである。進展の径路を問う者にとって、進展の出発点が全く存在しないのであるから、区別への進展を示そうにも、示しようがないわけである。したがってこうした質問は、よく考えてみると、全く無意味である。こんな質問をする人があったら、われわれはまず、かれは同一性という言葉のもとに何を考えているのかときいてみるといい。すると、その人が何も考えていないこと、その人にとって同一性とは空虚な名称にすぎないことがわかるであろう。なお、すでに考察したように、同一性は否定的なものではあるが、しかし抽象的な、空虚な無ではなく、有およびその諸規定の否定である。したがって同一性は同時に関係であり、しかも否定的な自己関係、言いかえれぼ、自分自身から自己を区別するものである。


§117 〔差別 Verschiedenheit と 相等性 Gleichheit


§117 (1) 区別は、第一に、直接的な区別、すなわち差別(Verschiedenheit)である。差別のうちにあるとき、区別されたものは各々そ
れ自身だけでそうしたものであり、それと他のものとの関係には無関心である。したがってその関係はそれにたいして外的な関係である。差別のうちにあるものは、区別にたいして無関心であるから、区別は差別されたもの以外の第三者、比較するもののうちにおかれることになる。こうした外的な区別は、関係させられるものの同一性としては、相等性(Gleichheit)であり、それらの不同一性としては、不等性(Ungleichheit)である。

 比較というものは、相等性および不等性にたいして同一の基体を持ち、それらは同じ基体の異った側面および見地でなければならない。にもかかわらず悟性は、これら二つの規定を全く切りはなし、相等性はそれ自身ひたすら同一性であり、不等性はそれ自身ひたすら区別であると考えている。
 差別も同じく一つの命題に変えられている。「すべてのものは異っている」とか、「互に全く等しい二つのものは存在しない」という命題がそれである。ここではすべてという主語に、最初の命題において与えられていた同一性という述語とは反対の述語が与えられている。したがって、最初の命題に矛盾する法則が与えられているわけである。しかし差別は外的な比較に属するにすぎないから、或るものは、それ自身としては、ひたすら自己と同一であり、この第二の命題は第一の命題と矛盾しない、という弁解も成立する。そうするとしかし、差別は、或るものすなわちすべてのものに属さず、このような主語の本質的な規定をなさないことになり、第二の命題は全く語ることのできないものとなる。―或るもの自身が、第二の命題に言われているように、異っているとすれば、それは或るもの自身の規定性によってそうなのである。これがライプエッツの命題の意味でもある。

 ▼補遺 ・・・省略・・・


§118


§118  相等性とは、同じでないもの、互に同一でないものの同一性であり、不等性とは、等しくないものの関係である。したがってこの二つのものは、無関係で別々の側面あるいは見地ではなく、互に反照しあうものである。かくして差別は反省の区別、あるいは、それ自身に即した区別、特定の区別となる。
  ▼補遺 単に差別されたものは互に無関係であるが、相等性と不等性とは、これに反して、あくまで関係しあい、一方は他方なしには考えられないような一対の規定である。単なる差別から対立へのこうした進展は、すでに普通の意識のうちにも見出される。というのは、相等を見出すということは、区別の現存を前提してのみ意味を持ち、逆に、区別するということは、相等性の現存を前提してのみ意味を持つ、ということをわれわれは認めているからである。区別を指摘するという課題が与えられている場合、その区別が一見して明かなような対象(例えばペンと駱駝のように)しか区別しえないような人に、われわれは大した慧眼を認めないし、他方、よく似ているもの(例えば「ぶな」と「かし」、寺院と教会)にしか相等性を見出しえないような人を、われわれは相等性を見出す勝れた能力を持っている人とは言わない。つまりわれわれは、区別の際には同一性を、同一性の際には区別を要求するものである。にもかかわらず、経験科学の領域では、人々はこれら二つの規定の一方のために他方を忘れることが非常に多く、或るときは学問的関心がひたすら現存する区別を同一性へ還元することに向けられ、また或るときは、同じく一面的に、ひたすら新しい区別の発見に向けられている。こうしたことは特に自然科学において行われている。人々はそこで、一方では新しい、ますます多くの新しい物質、力、類、種、等々を発見しようとしており、これまでは単純と考えられていた物体が複合物であることを示そうとしている。そして近代の物理学者や化学者は、たった四つの、しかも単純でさえない元素で満足していた古代人をわらっている。他方ではしかしかれらは、今度はまた単なる同一性をのみ眼中におき、例えば電気と化学的過程とを本質において同じものとみるにとどまらず、消化や同化作用のような有機的過程をも単なる化学的過程とみるのである。すでに103節の ▼補遺で述べたように、人々はしばしば現代の哲学を嘲笑的に同一哲学と呼んでいるが、哲学特に思弁的論理学こそまさに、もちろん単なる差別には満足せず、現存するすべてのものの内的同一性の認識を要求しはするけれども、区別を看過する単なる悟性的同一性の無価値を示すものなのである。


§119


§119 (2) 自己に即した区別は本質的な区別、肯定的なものと否定的なものである。肯定的なものは、否定的なものでないという仕方で自己との同一関係であり、否定的なものは、肯定的なものでないという仕方でそれ自身区別されたものである。両者の各々は、それが他者でない程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者のうちに反照し、他者があるかぎりにおいてのみ存在する。したがって本質の区別は対立(Entgegensetzung)であり、区別されたものは自己にたいして他者一般をではなく、自己に固有の他者(sein Anderes)を持っている。言いかえれば、一方は他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち、他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に固有の他者である。

  本質的な区別は、「すべてのものは本質的に区別されたものである」、あるいは別な言い方によれば、「二つの対立した述語のうち、一方のみが或るものに属し、第三のものは存在しない」という命題を与える。――この対立の命題は、きわめて明白に同一の命題に矛盾している。というのは、後者によれば或るものは自己関係にすぎないのに、前者によればそれは対立したもの、自己に固有の他者へ関係するものと考えられているからである。このような矛盾した二つの命題を、くらべることさえしないで、法則として並べておくということは、抽象に固有な無思想である。―排中の原理は、矛盾を避けようとし、しかもそうすることによって矛盾を犯す、有限な悟性の命題である。Aは+Aか-Aでなければならない、とそれは言う。しかしこれに・・・中略・・・
 ・・・・・・・・・
 物理学で大きな意義を持っている分極性(Polarität)〔*注〕という表象は、対立に関する正しい規定を含んでいる。にもかかわらず物理学は、思想にかんしては、普通の論理学に頼っている。もし分極性という表象を発展させて、そのうちに含まれている思想に達したら、物理学はおどろくであろう。

〔*注〕分極性(Polarität) 『資本論』1-1節 
1-3 〔磁極性〕
「鉄・紙等々のような一切の有用なる物は、質と量にしたがって二重の観点から考察され るべきものである。このようなすべての物は、多くの属性の全体をなすのであって、したが って、いろいろな方面に役に立つことができる。物のこのようないろいろの側面と、したがってその多様な使用方法を発見することは、歴史的行動(注3)である。有用なる物の量をはかる社会的尺度を見出すこともまたそうである 。商品尺度の相違は、あるばあいには測定さるべき対象の性質の相違から、あるばあいには 伝習から生ずる。」(注3)バーボンの磁極性参照
http://www.marx2016.com/ss_001.html#1-3_jikyokusei


§119 ▼補遺 1


§119 ▼補遺 1 肯定的なものは再び同一性であるが、しかしより高い真理における同一性であって、それは自分自身への同一関係であると同時に、否定的なものでないものである。否定的なものは、それ自身としては、区別そのものにほかならない。同一そのものは、まず無規定のものである。これに反して肯定的なものは、自己同一なものではあるが、他のものにたいするものとして規定されているものであり、否定的なものは、同一性でないという規定のうちにある区別そのものである。すなわち、否定的なものは自分自身のうちにおける区別の区別である。―人々は肯定的なものと否定的なものとを絶対の区別と考えている。しかし両者は本来同じものであり、したがってわれわれは、肯定的なものをまた否定的なものと呼ぶこともできるし、逆に否定的なものを肯定的なものと呼ぶこともできる。

例えば、財産と負債とは、特殊の、独立に存在する二種の財産ではない。一方の人、すなわち債務者にとって否定的なものは、他方の人、すなわち債権者にとっては肯定的なものである。東への道程の場合でも同じことであって、それは同時に西への道程である。肯定的なものと否定的なものとは、したがって、本質的に制約しあっているもの、相互関係においてのみ存在するものである。
磁石Magnetの北極Nordpolは南極Südpolなしには存在しえず、南極Sdpolは北極Nordpolなしには存在しえない。磁石を切断すれば、一片には北極が、他方には南極があるというようなことはない。同様に電気Elektrizitätにおいても、陽電気と陰電気とは独立に存続する別々の流動体ではない。

一般に対立においては、区別されたものは自己にたいして単に或る他物を持つのでなく、自己に固有の他者を持つのである。普通の意識は、区別されたものは相互に無関係であると考えている。例えば、われわれは、私は人間であり、私の周囲には空気、水、動物、および他者一般がある、と言う。ここではすべてのものが別々になっている。哲学の目的は、これに反して、このような無関係を排して諸事物の必然性を認識することにあり、他者をそれに固有の他者に対立するものとみることにある。例えば、われわれは無機的自然を単に有機的なものとは別なものとのみみるべきではなく、有機的なものに必然な他者とみなければならない。両者は本質的な相互関係のうちにあり、その一方は、それが他方を自分から排除し、しかもまさにそのことによって他方に関係するかぎりにおいてのみ、存在するのである。同様に自然もまた精神なしには存在せず、精神は自然なしには存在しない。物を考える場合、「なお別なことも可能だ」と言う段階を脱するのは、一般に重要な一歩前進である。こういう言い方をする場合、われわれはまだ偶然的なものから脱していないのであって、これに反して、先に述べたように、真の思惟は必然的なものの思惟である。―現代の自然科学は、まず磁気において極(Polaritat)として知られた対立を、全自然をつらぬいているもの、普遍的な自然法則と認めるにいたっているが、これは疑もなく学問上本質的な進歩である。ただこの場合大切なことは、折角それまで進みながら、またしても無造作に単なる差別を対立と同等なものと認めないことである。しかし人々は、よくそうしたことを行っている。例えば、人々は一方では正当にも色を二つの極のように対立するもの(いわゆる補色)とみながら、他方ではまた、赤、黄、緑、等々を、互に無関係な、また単に量的な区別とみている。


§119 ▼補遺2


§119 ▼補遺2 われわれは、抽象的悟性の命題である排中の原理にしたがって語るかわりに、むしろ「すべてのものは対立している」と言うべきであろう。悟性が主張するような抽象的な「あれか、これか」は実際どこにも、天にも地にも、精神界にも自然界にも存在しない。あるものはすべて具体的なもの、したがって自分自身のうちに区別および対立を含むものである。事物の有限性は、その直接的定有が、それが即自的にあるところのものに適合していないことにある。例えば無機的自然において酸は即自的には同時に塩基である。すなわち、それに固有の他者に関係しているということのみが、その有をなしているのである。だから酸はまた対立のうちに静かにとどまっているものではなく、常に自己の即自を実現しようと努めているものである。一般に、世界を動かすものは矛盾である。矛盾というものは考えられないと言うのは、わらうべきことである。このような主張において正しい点はただ、矛盾は最後のものではなく、自分自身によって自己を揚棄するということである。揚棄された矛盾は、しかし、抽象的な同一性ではない。同一性はそれ自身対立の一項にすぎないからである。矛盾として定立された対立の最初の結果は根拠(Grund)であって、それはそのうちに同一性ならびに区別を、揚棄され単なる観念的モメントヘおとされたものとして、含んでいるものである。


§120


§120  肯定的なものとは、向自的であると同時に自己の他者へ無関係であってはならないような、差別されたものである。否定的なものも同様に独立的で、否定的とはいえ自己へ関係し、向自的でなければならない。しかしそれは同時に、否定的なものとして、こうした自己関係、すなわち自己の肯定的なものを、他のもののうちにのみ持たなければならない。両者はしたがって定立された矛盾であり、両者は潜在的に同じものである。また、両者はそれぞれ他方の否定であるとともに自分自身の否定であるから、両者は顕在的にも同じものである。両者はかくして根拠へ帰っていく。―あるいは、直接的に言えば、本質的な区別は即自かつ対自的な区別であるから、それはただ自分自身から自己を区別するのであり、したがって同一的なものを含んでいる。したがって、区別の全体、即自かつ対立的にある区別には、区別自身のみならず同一性も属するのである。―自分自身へ関係する区別と言えば、それはすでに、この区別が自己同一的なものであることを言いあらわしているのであり、対立したものは一般に、或るものとその他者、自己と自己に対
立したものとを自己のうちに含んでいるものである。本質の内在性がこのように規定されるとき、それは根拠である。


ハ 根 拠 (Der Grund)


§121


§121  根拠(理由)は同一と区別との統一、区別および同一の成果の真理、自己へ反省すると同じ程度に他者へ反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己へ反省するものである。それは統体性として定立された本質である。
  すべてのものはその十分な根拠を持っているというのが、根拠の原理である。これはすなわち、次のことを意味する。或るものの真の本質は、或るものを自己同一なものとして規定することによっても、異ったものとして規定することによっても、これをつかむことができず、また或るものを単に肯定的なものと規定しても、単に否定的なものとして規定することによっても、つかむことができない。或るものは、他のもののうちに自己の存在を持っているが、この他のものは、或るものの自己同一性をなすものとして、或るものの本質であるようなものである。そしてこの場合、この他者もまた同じく、単に自己のうちへ反省するものではなく、他者のうちへ反省する。根拠とは、自己のうちにある本質であり、そしてこのような本質は、本質的に根拠である。そして根拠は、それが或るものの根拠、すなわち或る他のものの根拠であるかぎりにおいてのみ、根拠である。


§121  ▼補遺


§121  ▼補遺 根拠は同一と区別との統一であると言う場合、われわれはこの統一を抽象的な同一と考えてはならない。・・・・・・以下、省略・・・


§122


§122 本質はまず自己のうちで反照し媒介されているものである。しかし媒介が完成されたからには、本質の自己統一は今や区別の揚棄、したがって媒介の揚棄として定立されている。したがってこれは直接態あるいは有の復活である。が、この有は媒介の揚棄によって媒介されている有、すなわち現存在(Existenz)である。
根拠は絶対的に規定された内容を持たず、また目的でもない。したがってそれは活動的でも産出的でもなく、現存在は根拠から単にあらわれ出るにすぎない。したがって特定の根拠と言ってもやはりそれは形式的なものである。言いかえれば、それはどんな規定性でもいいのであって、ただそれと連関している直接的な現存在との関係において、自己関係的なもの、肯定的なものとして定立されているものであればいいのである。それは根拠でありさえすれば、同時にしかるべき根拠でもある。というのは、しかるべきという言葉は、全く抽象的には、肯定的ということを意味するにすぎず、われわれがなんらかの仕方で明白に肯定的なものとして言いあらわしうる規定性は、すべてしかるべきものであるからである。だから、われわれは、あらゆるものにたいして、なんらかの根拠を見出し挙げることができ、しかるべき根拠(例えば行動のしかるべき動機)なるものは、何事かをひきおこすかもしれないし、またひきおこさないかもしれない、結果を持つかもしれないし、また持たないかもしれない。例をもって示せば、しかるべき理由は、意志のうちへ取り入れられてはじめて何事かをひきおこす動機となるのであり、意志がはじめてそれを活動的なもの、原因とするのである。


b 現 存 在 (Die Existenz)


§123


§123 現存在は、自己のうちへの反省と他者のうちへの反省との直接的な統一である。したがってそれは、自己のうちへ反省すると同時に他者のうちへ反照し、相関的であり、根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界を形成する、無数の現存在である。ここでは根拠はそれ自身現存在であり、現存在も同じく、多くの方面に向って、根拠でもあれば根拠づけられたものでもある。
  ▼補遺 Existenz〔現存在〕という言葉は、ラテン語のexistere〔出現する〕という動詞から作られたものであって、出現している有(Hervorgegangensein)を示す。すなわち現存在とは、根拠から出現し、媒介を揚棄することによって回復された有である。本質は揚棄された有であるから、まず自己のうちにおける反照であり、そしてこの反照の諸規定は同一、区別、および根拠であった。根拠は同一と区別との統一であり、したがって同時に自己を自分自身から区別するものである。

ところで、根拠から区別されたものは、根拠そのものが単なる同一性でないように、単なる区別ではない。根拠は自己を揚棄するものである。そして根拠が自己を揚棄して移っていくもの、すなわち根拠の否定の結果が、現存在である。これは根拠から出現したものであるから、根拠をその内に含んでおり、そして根拠は現存在の背後にとどまっているものではなく、自己を揚棄して現存在へ移っていくものである。こうした関係は、普通の意識のうちにも見出される。われわれが或るものの根拠を考察する場合、この根拠は単に内面的なものではなく、それ自身再び一つの現存在である。例えば、われわれは火事の根拠として或る建物に点火した電光を考え、同様にまた或る民族の政体の根拠としてその民族の風習および生活関係を考える。これが一般に、現存在する世界が最初にわれわれの反省の前にあらわれる姿である。それは、自己へ反省すると同時に他者へ反省し、互に根拠および根拠づけられたものとして関係しあっている無数の現存在である。現存在するものの総括としての世界のうちに行われている、このような種々様々の関係のうちには、まずどこにも確かな拠りどころが見出されない。すべては、他のものに制約されるとともに、他のものを制約する相対的なものとしてのみあらわれている。反省的悟性はこれらの全面的関係を探り追求することを仕事としているのであるが、それでは、究極目的は何かという問題は解決されないままに残る。したがって概念をとらえようとする理性は、論理的理念の一層の発展とともに、このような単なる相対性の立場を越えて進んで行くのである。


§124


§124  しかし、現存在するものの他者への反省は、自己への反省と不可分である。なぜなら、根拠は両者の統一であって、現存在はこの統一からあらわれ出たものだからである。したがって、現存在するものは、相関性、すなわち諸他の現存在と自分とのさまざまな連関を、自分自身のうちに含み、根拠としての自己のうちへ反省している。かくして、現存在するものは物(Ding)である。
  カント哲学においてあんなに有名になった物自体(Ding-an-sich)は、ここでその発生において示される。すなわちそれは、他者への反省および一般に異った諸規定が排除されて、そうした諸規定の空虚な基礎である抽象的な自己内反省が固執されているものである。


§124 ▼補遺


§124 ▼補遺 物自体は認識できないものであるという主張は、次のような意味でのみ正しい。すなわち、認識するとは、対象を具体的な規定性においてとらえることを意味するのに、物自体は、全く抽象的で無規定の物一般にすぎないのである。のみならず、もし物自体というようなことが言えるとすれば、同じ権利をもってわれわれは、質自体とか量自体とか言うこともできるであろうし、さらにその他のすべてのカテゴリーについても同様のことが言えるであろう。そしてわれわれはこうした言葉のもとに、単なる直接性における、言いかえれば、展開および内的規定性が捨象されているこれらのカテゴリーを理解するであろう。したがって、ただ物だけを特に自体のうちに固定するのは、悟性の気まぐれの一つと言わなければならない。さらに人々は、自体という言葉を自然および精神の世界の内容にも適用して、例えば電気自体とか植物自体とか、また人間自体とか国家自体とかいうような言葉を用い、自体という言葉によってこれらの対象の正しい本来の姿を意味させている。こうした言葉についても、物自体一般についてと全く同じことが言える。すなわち、われわれが対象の単なる自体にとどまっているならば、われわれはこれらの対象をその真の姿においてではなく、単なる抽象という一面的な姿においてとらえるのである。例えば、人間自体は子供であるが、子供はその抽象的で未発展の自体にとどまっているべきものではなく、それがまず即自的にのみあるもの、すなわち自由で理性的な存在に、対自的にもならなければならない。同様に、国家自体とはまだ発達しない族長的国家であって、そこではまだ国家の概念のうちに含まれているさまざまな政治的機能が、概念に適合した構成にまで達していない。同じ意味でまた、胚を植物自体と言うことができる。これらの例からわかるように、物の自体あるいは物自体がわれわれの認識の達しがたいものと考えるのは、甚しい誤りである。すべての事物は最初は即自的にある。しかしそれはそこにとどまっているものではなく、あたかも植物自体である胚が本質的に発展するものであるように、物一般もまた抽象的な自己内反省である単なる自体を越えて進み、更に他者への反省として自己を示すにいたる。かく考えられるとき、物は諸性質を持つのである。


c 物(Das Ding)


§125


§125 物Dingは根拠Grundと現存在Existenzという二つの規定が発展Entwicklung
して一つのもののうちで定立されているものとして、統体〔Totalität; 全体性、総体性〕である。それは、そのモメントの一つである他者内反省〔Reflexion-in-Anderes; 他者への反照〕からすれば、それに即してさまざまの区別を持ち、これによってそれは規定された、具体的な物konkretes Dingである。 
(イ) これらの諸規定は相互に異っており、それら自身のうちにではなく、物のうちにその自己内反省を持っている。それらは物の諸性質(Eigenschaften)であり、それらと物との関係は、持つという関係である。
  今や“ある”の代りに、持つという関係があらわれる。“或るもの”も自己に即してさまざまの質を持ってはいるが、このように持つという言葉を有的なものへ転用するのは正確ではない。なぜなら、質としての規定性は、或るものと直接に一体であって、或るものがその質を失うとき、或るものは存在しなくなるからである。しかし物は自己内反省であり、区別から、すなわち自己の諸規定から区別されてもいるところの同一性である。―Haben〔持つ〕という言葉は、多くの言語において過去をあらわすに用いられているが、これは当然である。というのは、過去とは揚棄された有であるからである。精神は過去の自己内反省であって、過去は精神のうちでのみなお存立を持っているが、しかし精神はまたこの自己のうちで揚棄された有を自己から区別してもいる。


§125 ▼補遺


§125 ▼補遺 物において、すべての反省規定が、現存在するものとして再びあらわれてくる。かくして物は、まず物自体としては、自己同一なものである。しかし、すでに述べたように、同一は区別なしには存在しない。そして物が持っている諸性質は、現存在している区別-差別のかたちにおける―である。以前は、差別されたものは相互に無関係であって、外的な比較がそれらの相互関係を作り出したのであるが、今やわれわれは物において、さまざまの性質を相互に結合する紐帯を持っている。

なお、われわれは性質Eigenschaftと質Qualitätとを混同してはならない。われわれは、或るものが質を持っているというような言い方をしないでもない。しかし、持つという言葉は、その質と直接に同一である或るものにはまだ属しないような独立性を示すから、こうした言い方は適当でないのである。或るものは、その質によってのみ或るものである。これに反して物は、諸性質を持つかぎりにおいてのみ現存在するものではあるが、しかしあれこれの特定の性質に結びつけられているものではなく、したがってそれらを失っても、その物でなくなるということはない。


§126


§126 (ロ) しかし根拠においてさえ、他者への反省はそれ自身直接に自己への反省である。したがって諸性質はまた自己同一であり、独立的でもあって、物に結びつけられていることから解放されてもいる。しかしそれらは、物の相互に区別された諸規定性が自己のうちへ反省したものであるから、それら自身具体的な物ではなく、抽象的な規定性として自己へ反省した現存在、質料(Materie)である。
  さまざまの質料、例えば磁気的、電気的質料は、実際また物とは呼ばれない。―それらは本来の意味における質、すなわちそれらの有と一つのものであり、直接態に達した規定性である。もっともこの直接態は、反省した有としての、したがって現存在であるところの有としての直接態であるけれども。


§126 ▼補遺


§126 ▼補遺 物が持つ諸性質が独立して、それらから物が成立する質料となるということは、物の概念にもとづいており、したがって経験のうちにも見出される。しかし、例えば、色とか匂とかのような物の諸性質を特殊の色素や臭素として示しうるということから、これですべては終ったのであって、物の本質をさぐるには物をその質料へ分解しさえすればよいと結論するのは、論理にも経験にも反している。独立的な諸質料への分解ということは、ただ無機的自然においてのみ本来の場所を持っている。したがって化学者が、例えば食塩や石膏をその質料に分解して、前者は塩酸とソーダ、後者は硫酸と石灰とから成ると言うとき、かれは正当である。また地質学が花崗岩を石英と長石と雲母とから合成されているとみるのも、同様に正当である。そして物を構成しているこれらの質料は、一部はそれ自身また物であり、したがってより抽象的な素材に分解されうる。例えば、硫酸は硫黄と酸素とから成っている。このような質料あるいは素材は、実際独立に存在するものとしてあらわされうるものであるが、このような独立を持たない諸性質が特殊の質料とみられることもしばしばある。例えば、熱や電気や磁気の質料とかいうようなことが言われているが、このような質料や素材は悟性の虚構にすぎない。一体に、理念の特定の発展段階としてのみ妥当する個々のカテゴリーを勝手にとらえてきて、すなおな直観と経験とに反するにもかかわらず、説明のためと称して、あらゆる考察の対象をそれに還元してしまうのが、抽象的な悟性的反省のやり方である。かくして、物が独立の諸質料からなるという思想は、それがもはや全く妥当しない領域にもしばしば適用されている。すでに自然の範囲内でも、有機的生命においてはこのカテゴリーは不十分である。われわれはこの動物は骨、筋肉、神経、等々から成ると言いはする。しかしこの場合、花崗岩の一片が上述のような諸質料から成るのとは、わけがちがうということはきわめて明白である。花崗岩を構成している諸質料は、その結合にたいして全く無関心であり、結合されていなくても存立することができる。これに反して有機的な肉体のさまざまの部分は、それらの結合のうちにのみ存立を持ち、はなればなれになると、そうしたものでなくなってしまう。


§127


§127 かくして質料は抽象的な、すなわち未規定の他者内反省であり、あるいは、同時に規定されたものとしての自己内反省である。質料はしたがって定有的な物性であり、物を存立させるものである。かくして物はその自己への反省を諸質料のうちに持ち(125節の反対)、自己に即して存立するものではなくて、諸質料からなるものであり、諸質料の表面的な連関、外面的な結合にすぎない。


§128


§128 (ハ) 質料は、現存在の自己との直接的統一であるから、規定性にたいして無関心でもある。したがって、さまざまの質料は合して一つの質料、すなわち、同一性という反省規定のうちにある現存在となる。他方、これらさまざまの規定性、およびそれらが物のうちで相互に持っている外面的な関係は、形式(Form)である。これは区別という反省規定であるが、しかし現存在しかつ統体性であるところの区別である。
  この無規定的な一つの質料もまた物自体と同じものである。ただ異るところは、物自体が全く抽象的な存在であるに反し、前者は即自的に他者との関係、まず第一に形式との関係を含んでいる点にある。

§128 ▼補遺


§128 ▼補遺 物を構成しているさまざまの質料は本来同じものである。これによってわれわれは、区別がそれにたいして外的なものとして、すなわち単なる形式として定立されているような一つの質料一般を持つことになる。物はすべて同一の質料をその基礎に持ち、それらの相違はただ外的にのみ、すなわち形式においてのみあるにすぎないという考え方は、反省的意識にはきわめてよく知られたものである。この場合質料は、それ自身は全く無規定的でありながら、しかもどんな規定でも受け入れることができるものであり、また絶対に永久不変で、あらゆる変転、変化のうちで自己同一にとどまるものである、と考えられている。特定の形式にたいする質料のこうした無関心は、確かに有限な事物のうちには見出される。例えば、大理石の一片にとっては、どんな立像の形が与えられようと、あるいはまた円柱の形が与えられようと、どうでもいいことである。
しかし、この場合見のがしてならないのは、大理石の一片のような質料でも、ただ相対的にのみ(彫刻家にたいしてのみ)形式に無関心なのであって、けっして、一般に無形式ではない、ということである。鉱物学者は、相対的にのみ無形式の大理石を特定の組成をもつ岩石とみ、同じく特定の組成をもつ他の岩石、例えば、砂石、斑岩などから区別している。したがって、質料をそれだけで独立させ、それ自身あくまで無形式のものと考えるのは、抽象を事とする悟性にほかならない。事実はこれに反して、質料という概念は、あくまで形式の原理を自己のうちに含んでいるのであり、だからこそ経験においても、形式のない質料はどこにも現存しないのである。なお、質料は本源的な存在であり、かつそれ自身無形式のものであるという考え方は、きわめて古く、すでにギリシャに見出される。その最初の姿はギリシャ神話のカオスであって、それは現存在の世界の没形式の基礎と考えられている。こうした考え方にしたがえば、神は世界の創造者ではなく、世界の単なる形成者、デミウルゴスと考えられなければならない。しかし一層深い見方は、神は世界を無から創造したという見方である。これは二つのことを含んでいる。一つには、質料そのものはけっして独立を持たないということであり、もう一つには、形式は外から質料に達するのではなく、統体性として質料の原理を自己のうちに持っているということである。このような自由で無限な形式は、後に示されるように、概念である。


§129


§129 かくして物は質料と形式とにわかれる。この両者はいずれも物性(Dingheit)の全体であり、おのおの独立的に存立している。しかし肯定的で無規定の現存在たるべき質料も、それが現存在である以上、自己内有とともにまた他者への反省を含んでいる。こうした二つの規定の統一として、質料はそれ自身形式の全体である。しかし形式は、諸規定の総括であるという点だけから言ってもすでに、自己への反省を含んでいる。言いかえれば、それは自分自身へ関係する形式として質料の規定をなすべきものを持っている。両者は即自的に同じものである。両者のこうした同一の定立されたものが、同時に異ったものでもあるところの質料と形式との関係である。


§130


§130 物はこのような統体性として矛盾である。すなわち、物は、否定的統一からすれば形式であり、質料はそのうちで規定されて諸性質にひきさげられているが(125節)、同時に物はもろもろの質料からなっており、これらは物の自己への反省のうちで、否定されたものであると同時に独立的なものでもある。かくして物は、自分自身のうちで自己を揚棄する現存在としての本質的な現存在、すなわち現象(Exscheinung)である。
  物においては、もろもろの質料の独立性と同時にそれらの否定が定立されているが、この否定は物理学では多孔性(Porosität)という姿をとってあらわれている。多くの質料(色素、嗅素、およびその他の諸質料。音素、熱素、電素等々というようなものなどまで考えている人もある)の各―は否定されてもいる。そしてこれらのこうした否定性、すなわち、これらが持っている多くの孔のうちに、他の多くの独立な質料が存在し、それらも同じく孔を持ち、かくして互に自分のうちに他のものを存在させるようになっている。この孔なるものはけっして経験的に見出されるものではなく、悟性の作りものである。悟性は、独立的な諸質料が持っている否定のモメントをこのような仕方で考え、そして矛盾のそれ以上の進展を、そのうちではすべてが独立的であるとともに、またすべてが互のうちで否定されているところの混沌をもっておおいかくすのである。―同じような仕方で精神の諸能力や諸作用が実体化される場合、それらの生きた統一は、それらが互に作用しあうという混乱となってしまう。
 孔が観察によって確証されうるものでないと同じように(ここで孔というのは、例えば木材や皮膚の孔のような有機体の孔をさすのではなく、色素とか熱素とか、あるいは金属や結晶などのような、いわゆる質料のうちにある孔である)、質料そのものとか、質料から切りはなされた形式というようなもの(その最も手近な例は、物が質料から成立しているという考え、および物はそれ自身存立していて諸性質を持つにすぎないという考えである)もまた反省的な悟性の産物である。この悟性は、観察しそして観察するものを記述すると称しながら、かえって一種の形而上学を作り出しているのであり、そしてこの形而上学は、あらゆる方面で矛盾にみちているのに、悟性はそれに気づかないのである


B 現 象 ( Die Erscheinung)


§131


§131 本質は現象しなければならない。本質が自己のうちで反照Scheinenするとは、自己を直接態へ揚棄することである。この直接態は自己への反省としては存立性(質料)であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立でもある。反照するということは、それによって本質が有でなく本質であるところの規定であり、そしてこの反照の発展した形態が現象である。したがって本質は現象の背後または彼方にあるものではなく、本質が現存在するものであることによって現存在は現象なのである。


§146 ▼補遺


§131 ▼補遺 現存在の矛盾が定立されたものが現象である。現象を単なる仮象(Schein)と混同してはならない。仮象は有あるいは直接態の最初の真理である。直接的なものは、われわれが思っているような独立的なもの、自己に依存しているものではなく、仮象にすぎない。かかるものとしてそれは、内在的な本質の単純性へ総括されている。本質は最初は自己内での反照の全体であるが、しかしそれはそうした内面性にとどまっていないで、根拠として現存在のうちへあらわれ出る。こうした現存在は、その根拠を自己のうちにではなく、他のもののうちに持つのであるから、まさに現象にほかならない。現象と言うとき、われわれは、その存在が全く媒介されたものにすぎず、したがって自分自身に依存せず、モメントとしての妥当性しか持っていないような多くの多様な現存在する物を思いうかべる。しかしこの表象のうちには同時に、本質は現象の背後または彼方にとどまるものではなく、自己の反照を直接態のうちへ解放して、それに定有の喜びを与える無限の仁慈であることが含まれている。このようにして定立された現象は、自分の足で立っているものではなく、その有を自分自身のうちでなく、他のもののうちに持っている。・・・以下、省略・・・


a 現象の世界(Die Welt der Erscheinung)


§132


§132 現象的なものの現存在の仕方においては、現象的なものの存立性(Bestehen)が直接的に揚棄されて、それは形式そのものの単なる一モメントとなっており、形式は存立性あるいは質料を、諸規定の一つとして自己のうちに含んでいる。かくして現象的なものは、その本質としての、すなわち、その直接態に対立する自己内反省としての、質料のうちにその根拠を持ってはいるが、しかし現象的なものはこのことによって、他者内反省としての形式のうちにのみその根拠を持つ。形式という現象の根拠も同じく現象的なものであり、かくして現象は、存立性の形式による、したがってまた非存立性による、無限の媒介へ進んでいく。この無限の媒介は、同時に自己への関係という統一であり、そして現存在は、現象すなわち反省された有限性の総体、つまり現象の世界へ発展させられている。


b 内容と形式 (Inhalt und Form)


§133


§133  現象の世界を作っている個々別々の現象は、全体として一つの統体をなしていて、現象の世界の自己関係のうちに全く包含されている。かくして現象の自己関係は完全に規定されており、それは自分自身のうちに形式を持っている。しかも、それは自己関係という同一性のうちにあるのであるから、それは形式を本質的な存立性として持っている。かくして形式は内容(Inhalt)であり、その発展した規定性は現象の法則(Gesetz)である。これに反して、現象の否定的な方面、すなわち非独立的で変転的な方面は、自己へ反省しない形式である。それは無関係的な、外的な形式である。
  形式と内容という対立において、けっして忘れてならないことは、内容は無形式なものではなく、形式は内容にたいして外的なものであると同時に、内容は形式を自分自身のうちに持っている、ということである。形式には二通りあって、それは一方自己へ反省したものとしては内容であり、他方自己へ反省しないものとしては内容に無関係な、外的な現存在である。ここには潜在的に内容と形式との絶対的相関、すなわち両者の相互転化があり、したがって内容と
は、内容への形式の転化にほかならず、形式とは、形式への内容の転化にほかならない。この転化はきわめて重要な法則の一つである。しかしそれは絶対的相関においてはじめて顕在するようになる。 


§133 ▼補遺


§133 ▼補遺 形式と内容という規定は、反省的悟性が非常にしばしば使用する一対の規定であるが、その際悟性は主として、内容を本質的で独立的のものとみ、これに反して形式を非本質的で独立的でないものと考えている。しかし、実際は両者ともに同様に本質的なものであって、形式を持たない質料が存在しないと同じように、形式を持たない内容も存在しないのである。内容と質料とがどうちがうかと言えば、質料は潜在的には無形式ではないけれども、その定有においては形式に無関心なものとしてあらわれているに反して、内容は、内容である以上、完全な形式を自己のうちに含んでいなければならない。もっとも、内容に無関係で外的な現存在であるような形式もまた存在する。こうしたことは、現象が一般にまだ外面性を脱しないところから起るのである。例えば、本について言えば、それが書かれたものであるか、印刷されたものであるか、あるいはまた、紙表紙であるか、皮表紙であるかは、確かにその内容には無関係である。しかし、このような外的でどうでもいいような形式を別とすれば、本の内容そのものが没形式だということはけっしてない。もちろん、内容から言っても当然無形式と言いうるような本がたくさんありはする。しかしこの場合、無形式というのと同じ意床であって、形式一般がないのではなく、正しい形式がないのである。正しい形式は、内容に無関係であるどころか、むしろ内容そのものである。したがって正しい形式を欠く芸術作品は、正しいすなわち真の芸術作品ではない。或る芸術家について、かれの作品の内容はいいが(否、すばらしくさえあるが)、ただ形式が欠けていると言われるとすれば、それは弁護になっていない。真の芸術作品は、その内容と形式が全き同一を示しているようなものである。われわれは「イリアス」について、その内容はトロヤ戦争、特にアキレウスの怒りであると言うことができる。これでわれわれはすべてを言いつくしているが、しかもほんの少しのことしか言ってはいないのである。なぜなら、「イリアス」を「イリアス」とするものは、こうした内容を作りあげている詩的形式だからである。同様に「ロミオとジュリエット」の内容は、かれらの家族間の不和によってひき起された二人の恋人の破滅であるが、これはまだシェクスピアの不滅の悲劇ではない。--さらに学問の領域における形式と内容との関係について言えば、哲学とその他の科学との相違に注意しなければならない。後者の有限性は一般に次の点にある。すなわち、ここでは思惟は、単に形式的な作用として、その内容を与えられたものとして外から受け取っており、内容がその基礎に横たわっている思想によって内から規定されたものであることを意識せず、したがって形式と内容とは完全に浸透しあってはいないのである。これに反して、哲学にあっては、こうした分離はなくなっており、したがってそれは無限の認識と呼ぶことができる。にもかかわらず、哲学的思惟もまた非常にしばしば単に形式的な作用とみられており、特に、思惟諸規定そのものを取扱うと認められている論理学については、その無内容はわかりきったことだと考えられている。内容という言葉が、単に手でつかまえられるようなもの、一般に感覚によって知られるものを意味するにすぎないとすれば、哲学一般についても、また特に論理学についても、それが内容を持たないということ、すなわち感覚的に知りうるような内容をもたないということは、あまりにも明白である。しかし普通の意識や用語においてさえ、内容という言葉は、単に感覚的に知りうるものとか、単なる定有とかいう意味以上の意味をも持っている。われわれが無内容の本と言う場合、言うまでもないことだが、われわれはその言葉によって何も書いてない本を意味するのではなく、その内容が無いにひとしいような本を意味するのである。この分析をよく考えて見れば、教養ある人々にとっては、内容とはまさに思想を含んでいることを意味するということがわかる。このことは同時に次のことを意味する。すなわち、思想は、内容に無関係な、それ自身空虚な形式ではないのであり、また、芸術においてそうであるように、他のあらゆる領域においても、内容が真実で価値あるものであるか否かは、それが形式と一体をなしているか否かにかかっているのである。


§134


§134  しかし、直接的な現存在は、形式の規定性でもあれば、存立性そのものの規定性でもある。したがってそれは内容の規定性にたいして外的でもあるが、しかし他方内容がその存立性というモメントによって持つところのこの外面性は、内容にとって同じく本質的でもある。このようなものとして定立された現象が相関(Verhältnis)であって、ここでは同一のもの、すなわち内容が、発展した形式として、外的で対立した独立の現存在としてあると同時に、また同一的な関係としても存在し、異った二つのものは、こうした同一関係のうちでのみそれらがあるところのものである。


c 相  関 (Verhältnis)


§135


§135 (イ) 直接的な相関は、全体と部分(das Ganze und die Teile)とのそれである。内容は全体であり、自己の対立者である諸部分(形式)から成っている。諸部分は相互に異っていて、独立的なものである。しかしそれらは相互の同一関係においてのみ、すなわち、それらが総括されて全体を形成するかぎりにおいてのみ、諸部分である。しかし総括は部分の反対であり否定である。


§135  ▼補遺


§135  ▼補遺
 本質的な相関ということは、規定された、全く普遍的な現象の仕方である。現存在するものは、すべて相関をなしており、この相関があらゆる現存在の真理である。したがって現存在するものは、単に独立的に存在するものではなく、他のもののうちにのみあるものである。しかしそれは他のもののうちで自己へ関係するから、相関は自己への関係と他者への関係との統一である。
 全体と諸部分という相関は、その概念と実在とが一致していないかぎりにおいて、真実でないものである。全体という概念は、諸部分を含むということである。しかし、全体がその概念上あるところのものとして定立されると、すなわち、それが分割されると、それは全体でなくなる。全体と部分という相関に対応しているような事物もあるにはあるが、しかしそれはまさにそれゆえに低い、真実でない存在である。この場合、一般に注意すべきことは、哲学において真実でないもの(das Unwahre)と言われるとき、そうしたものが現存しないという意味に解されてはならないということである。悪い国家とか病気の肉体というようなものはあくまで存在するであろう。が、これらは、その概念と実在とが一致していないから、真実でないものである。―全体と諸部分という相関は、直接的な相関であるから、反省的な悟性にはきわめてわかりやすい。そのために反省的悟性は、その実一層深い関係が問題である場合でも、この関係で満足していることが多い。例えば、生きた肉体の肢体や器官は、単に部分とのみみるべきものではない。なぜなら、それらは、それらの統一のうちにおいてのみ、肢体や器官であって、けっして統一に無関係なものではないからである。それらは、解剖学者の手にかかるとき、はじめて単なる諸部分となるのであり、解剖学者が取扱うのは、もはや生きた肉体ではなくて、死体にすぎない。こう言ったからといって、一般にこうした分解を行ってはならないと言うのではないが、しかし全体と諸部分というような外部的で機械的な関係は、有機的生命の真の姿を認識するには不十分なものである。

-全体と部分というような関係を、精神および精神の世界の諸形態に適用すれば、その不十分ははるかに著しいものとなる。心理学者は、心あるいは精神の諸部分というような言葉こそ使っていないが、しかし精神の活動の諸形態をそれぞれ独立させ、いわゆる特別の力及び能力として枚挙し記述している。このかぎりにおいて、人々が心理学を単に悟性の立場から研究する場合には、人々は同じく全体と部分という有限な相関関係の観念を根抵においているのである。


§136


§136 (ロ) したがってこの相関のうちにある同一なもの、すなわち自己関係は、直接に否定的な自己関係である。すなわち、それは媒介ではあるが、しかしこの媒介は、同一的なものが区別にたいして無関心でありながら、しかも否定的な自己関係であるというような媒介である。そしてこの否定的な自己関係は、自己への反省としての自分自身をつきはなして区別となり、他者への反省として現存在するようになるが、逆にまたこの他者への反省を自己への反省および無関心性へ復帰させる。こうした相関がすなわち力(Kraft)とその発現(Ӓusserung)である。
  全体と諸部分との相関は、直接的な、したがって無思想な相関であり、自己同一の差別への無思想な転化である。われわれは全体から諸部分へ、諸部分から全体へ移っていく。そして一方のうちで、それがもう一つのものへ対立したものだということを忘れ、各々をそれだけで、すなわち或るときは全体を、或るときは諸部分を、独立の存在と考える。別の言葉で言えば、われわれは、諸部分は全体のうちに存立し、全体は諸部分から成立すると考えているから、或るときは全体を本質的で諸部分を非本質的と考え、或るときは諸部分を本質的で全体を非本質的と考えているのである。機械的関係の表面的な形式は、諸部分が相互にたいしてもまた全体にたいしても独立的なものとして存在することにある。
 物質の可分性にかんする無限進行は、この相関を利用することもできる。すると、その無限進行は、この相関の二つの側面の無思想な交替となる。すなわち、或る物がまず全体的なものととられ、次にわれわれは部分の規定へ移っていく。今度はこの規定を忘れ、以前部分であったものを全体と考える。するとまた部分の規定が考えられてくる、という風にして無限に進むのである。われわれがしかしこの無限を、それが実際そうであるように、否定的なものと解すると、この無限は、全体と部分という相関の否定的な自己関係である。すなわち、自己内にあるものとして自己同一的全体でありながら、しかもこの自己内有を揚棄して発現するところの力であり、また逆に、消滅して力のうちへ帰っていくところの発現である。

 力は、このように無限であるにもかかわらず、また有限でもある。なぜなら、内容すなわち力と発現とのうちにある同一なものは、潜在的にのみ同一であるにすぎず、相関の二つの側面の各々は、まだそれ自身顕在的には相関の具体的な同一でなく、まだ統体性でないからである。したがって二つの側面は、相互にたいして異ったものであり、相関は有限な相関である。力はしたがって外からの誘発を必要とし、盲目的に作用する。そしてその形式がそうした欠陥を持っているために、内容もまた制限され偶然的である。その内容はまだ形式と真に同一でなく、絶対的に規定されている概念や目的ではない。―この区別はきわめて根本的なものであるが、その理解は容易でない。それは目的概念のところではじめて詳しく規定されるであろう。この区別をみのがすと、特にヘルダーにみられるように、神と力と混同するというようなことがおこってくる。
 人々はよく、力の本性そのものは認識できないものであって、認識できるのはその発現だけであると言う。しかし一方、力の内容規定の全体はまさに発現のそれと同じものであり、したがって現象を力から説明するのは、空虚な同語反復である。だから、人々があくまで認識できないと考えているものは、その実自己への反省という空虚な形式にすぎない。力はこうした形式によってのみ発現と区別されているのであって、それはよく知られているものでもある。こうした形式は、現象からのみ認識さるべき内容および法則に、何一つ新しいものをつけ加えはしないのである。また人々はよく、自分は力という言葉を使うが、力とはどういうものかについては何も主張しない、というようなことを言う。それでは、なぜ力という形式を諸科学に導き入れたのか理解に苦しまざるをえない。―他方、力の本性は認識できないものでもある。なぜなら、力の内容が制限されたものであり、したがってその規定性を自己以外のものによって持っているものであるかぎり、力の内容にはまだその内容の必然性も、内容のそれ自身のうちにおける連関の必然性も欠けているからである。


§136
 ▼補遺1
 力とその発現との相関は、全体と部分とのような直接的な相関にくらべれば、無限なものとみることができる。というのは、全体と部分との相関においてはようやく潜在的にのみ存在していた、二つの側面の同一性が、ここでは定立されているからである。全体は諸部分から成るが、分割されると全体ではなくなる。これに反して力は、発現することによってはじめて力であることを示し、また、発現それ自身が再び力であるから、発現のうちで自分自身へ帰る。しかしこの相関もやはり有限であり、そしてその有限性は次のような媒介性にある(全体と部分との相関は、これとは逆に、直接性のために有限であったが)。まず、力と発現という媒介された相関の有限性は、どの力も制約されていて、その存立のために自己以外のものを必要とする点に示されている。例えば、磁気は、誰も知っているように、特に鉄をその担い手として持っており、そして鉄のその他の諸性質(色、比重、酸類との関係、等々)は、こうした磁気との関係から独立的である。その他あらゆる力も同様であって、それらはすべて自分以外の他のものに制約され媒介されている。-さらに、力が有限であることは、発現するために誘発を必要とする点に示されている。力を誘発するものは、それ自身再び或る力の発現であって、それが発現するには同じく誘発されなければならない。このようにしてわれわれは再び、誘発と誘発されることの無限進行あるいは交互性をうるが、いずれにせよここにはまだ運動の絶対的なはじまりが欠けいる。力はまだ、目的のように、自分自身のうちで自分を規定するものではない。力の内容は規定されて与えられたものであり、力が発現する場合、よく言われているように、その作用は盲目である。そしてこの言葉は、抽象的な力の発現が目的活動と異っていることを意味するのである。

 補遺2
 認識できるのは力の発現にすぎず、力そのものは認識できないものであるという、非常にしばしば繰返される主張は、根拠のない主張である。なぜなら、力とはまさに発現するものにほかならず、したがってわれわれは、法則として把握された発現の総体のうちに、同時に力そのものを認識するからである。しかしてこの場合みのがしてならないのは、力そのものが認識できないという主張には、この相関が有限だという正しい予感が含まれているということである。
力の個々の発現は種々様々であり、また個別的であるから、それらはわれわれにまず偶然的なものとしてあらわれてくる。われわれは次にこの多様なものを、われわれが力と名づける内的な統一に還元する。そして、それらのうちにある法則を認識することによって、一見偶然とみえるものを必然的なものとして意識する。ところが、個々の力そのものがまたさまざまのものであって、それらの単なる並存においては偶然的なものとしてあらわれる。かくしてわれわれは、経験的物理学では重力、磁力、電気力、等々について語り、また同じく経験的心理学では記憶力、想像力、意志力、その他あらゆる心的な力について語る。この場合再び、さまざまな力を一つの全体として意識しようとする要求が起ってくる。しかしこの要求は、さまざまの力がそれらに共通な一つの原力というようなものに還元されたとしても、やはり満足させられないであろう。それは抽象的な物自体と同じように無内容な、空虚な抽象物にすぎないであろう。その上、力とその発現は本質的に媒介された相関であるから、力を根源的なもの、すなわち自己にのみ依存するものとみるのは、力の概念に矛盾する。- 力の本性は以上のごとくであるから、現存在する世界を神の諸力の発現と言うのはまだいいとしても、神そのものを単なる力とみるのは正しくない。なぜなら、力はまだ従属的で有限な規定だからである。ルネッサンスの時代に、個々の自然現象をその根抵にあるさまざまの力に還元しようとする試みがなされたとき、もし天体の運動、植物の生長、等々をひきおこすものが重力、生長力、等々であるとすれば、神が世界を支配する余地は全くなくなり、神はこうしたさまざまの力の働きを手をつかねて傍観するものになりさがってしまうという理由から、教会がそうした企てをさして神を否定するものと宣告したのも、同じ意味であった。自然科学者たち、そして特にニュートンは、力という反省形式を用いて自然現象を説明する場合、このことはけっして世界の創造者、支配者としての神の尊厳を傷つけることにはならないとあらかじめ言明してはいる。しかし、力をもってする説明は、その論理的帰結として、理由づけをこととする悟性が個々の力をそれだけで独立させ、そうした有限なものをあくまで究極的なものと考えるにいたるということを含んでいる。一度こうした独立の諸力および諸素材の有限な世界を認めると、神の規定としては、認識できない最高の彼岸的存在というような抽象的な無限しか残らない。これこそまさに唯物論の立場であり、また、神について知りうることは、神が何であるかということではなくて、神があるということにすぎないとする、近代の啓蒙思想の立場である。さて、有限な悟性的諸形式は、自然の本当の姿をも、また精神の世界の諸形態のそれをも、十分には認識しえないのであるから、上述の教会や宗教的意識の反駁は、このかぎりにおいては正しいと言わなければならないけれども、しかし他方まず第一に経験的諸科学にも、形式的には正しい点があることをみのがしてはならない。そしてその正しさは、現存する世界の規定された内容を思惟によって認識し、神の世界創造および統治というような抽象的な信仰にのみ満足しないところにある。教会の権威にもとづくわれわれの宗教的意識が、神とはその全能の意志によって世界を創造し、星辰の軌道を定め、あらゆる被創造物に存立と繁栄とを与えるものである、とわれわれに教えるとしても、なおなぜという問題に答えることが残されている。この問題に答えるのが、経験的であろうと哲学的であろうと、学問に共通の任務である。もし宗教的意識がこうした任務とこうした任務のうちに含まれている権利とを認めず、神意の測りがたさに訴えるとすれば、それはそれ自身上述の単に悟性的な啓蒙思想の立場に立つのである。こうした訴えは、神を精神および真理のうちに認識せよというキリストの明白な掟に背く勝手な独断であり、けっしてキリスト教的謙譲から出たものではなくて、高慢な狂信にもとづくものである。


§137


§137  力は、自分自身に即して自己へ否定的に関係する全体であるから、自己を自己から反撥し、そして発現するものである。しかしこのような他者への反省、すなわち諸部分の区別は、同様に自己への反省でもあるから、発現は、自己のうちへ帰る力が、それによって力として存在するところの媒介である。力の発現はそれ自身、この相関のうちにあるこつの項の差別の揚棄であり、潜在的に内容をなしている同一性の定立である。力と発現との真理はしたがって、その二つの項が内的なものと外的なものとしてのみ区別されているような相関である。


§138


§138 (ハ) 内的なもの(das Innere)は、現象および相関の一側面という単なる形式としてあるような根拠であり、自己内反省という空虚な形式である。そしてそれには、他者への反省という空虚な規定を持ち、同じく相関のもう一つの側面という形式としての現存在が、外的なもの(das Ӓussere)として対立している。内的なものと外的なものとの同一は、実現された同一であり、内容であり、自己への反省と他者への反省との統一が力の運動のうちで定立されたものである。両者は同じ一つの総体であり、この統一が両者を内容とするのである。


§139


§139
 したがってまず第一に、外的なものは内的なものと同じ内容である。内にあるものは外にもあり、外にあるものは内にもある。現象が示すものはすべて本質のうちにあり、本質のうちにあるものはすべて顕現されている。

§140


§140 第二に、内的なものと外的なものとは、形式規定としてはまた対立しあってもいる。しかも、一方は自己同一という抽象物であり、他方は単なる多様性あるいは実在性という抽象物であるから、全く正反対のものである。しかし両者は、一つの形式のモメントとして、本質的に同一なものであるから、一方の抽象物のうちに定立されているにすぎないものは、直接にまた他方のうちに定立されているにすぎない。したがって内的なものにすぎないものは、また外的なものにすぎず、外的なものにすぎないものは、また内的なものにすぎない。
  反省は普通本質を単に内的なものと思い誤っている。本質を単にそうしたものとみる場合、その見方もまた全く外面的であって、その場合考えられている本質は、空虚な外面的抽象にぎない。
  或る詩人はこう言っている― 
いかなる創られた精神も
自然の内部へ透入することはできない
その外殻だけでも示しうれば
この上もない幸と言わねばならぬ(*原注)

この言葉はむしろ、自然の本質を内的なものと規定するとき、人は外殻しか知りえない、と言わるべきであったろう。―有一般あるいはまた単に感覚的な知覚のうちでは、概念はまだ内的なものにすぎないから、それは有や感覚的知覚にたいして外的なものであり、主観的な、真理を持たない存在および思惟である。―精神におけると同じく、自然においても、概念、目的、法則がまだ内的な素質、全くの可能性にすぎないかぎり、それらはまだ外的な無機的自然、第三者の知識、外的な強力、等々にすぎない。―人間は外的に、すなわち行為においてあるとおりに(もちろん単に肉体的な外面をさすのではないが)、内的にある。内的にのみ、すなわち意図や心情においてのみ有徳、道徳的、等々であって、外が内と同じでない人があるとすれば、その人の内部も外部と同じようにからっぽなのである。
(*原註)。ゲーテの不満にたえかねた叫び「自然科学へ」第1巻、第3篇、を参照せよ。
  私はこうした言葉を60年間幾度となく聞いた
  そしてひそかにそれを呪ってきた―
  自然には心もなければ殼もない
  それは同時にその両者なのだ、云々。
 ▼補遺 ・・・略・・


§141


§141 同一の内容をなお相関のうちにひきとどめようとする二つの空虚な抽象物は、互のうちでの直接的な移行のうちで自己を揚棄する。内容はそれ自身両者の同一性にほかならず(138節)、両者は本質の仮象が仮象として定立されたものである。力の発現によって内的なものは現存在のうちへ定立される。しかしこの定立は空虚な抽象物による媒介であり、それはそれ自身のうちで消滅して直接態となる。そしてこの直接態においては内的なものと外的なものとは即自かつ対自的に同一であって、両者の区別は単に被措定有(Gesetztsein)として規定されているにすぎない。このような同一性がすなわち現実性である。


C 現 実 性 (Die Wirklichkeit)


§142


§142 現実性とは、本質と現存在との統一あるいは内的なものと外的なものとの統一が、直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものである。したがって現実的なものは、発現のうちにあっても、依然として本質的なものであるのみならず、直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なものである。
 前には直接的なものの形式として有および現存在があらわれた。有は一般に無反省の直接態であり、他者への移行である。現存在は有と反省との直接的な統一、したがって現象であって、根拠から出て根拠へ帰る。現実的なものは、この統一の定立されたものであり、自己と同一となった相関である。したがってそれはもはや移行することなく、その外面性はその顕在態である。それは外面性のうちで自分自身に反省しており、その定有は自分自身の顕現であって、他のもののそれではない。

 ▼補遺 ・・・略・・・


§143


§143 現実性はこのような具体的なものであるから、それは上に述べた諸規定およびそれらの区別を含んでいる。したがってまた現実はそれらの展開であり、それらは現実においては同時に仮象、すなわち単に措定されたものとして規定されている(141節)。 (イ) 同一性一般としては現実性はまず可能性(Mӧglichkeit)、すなわち現実の具体的な統一に対峙するものとして、抽象的で非本質的な本質性として定立されている自己内反省である。可能性は現実性にとって本質的なものであるが、しかし同時に単に可能性であるような仕方でそうなのである。
  カントは「これらの規定は客観としての概念を少しも増すものではなく、ただ認識能力への関係を表現するにすぎない」と言って、可能性と必然とを様態(Modalität)とみたが、カントがそういうことをなしえたのは、おそらく可能性の規定によってである。実際可能性は自己反省という空虚な抽象であり、前に内的なものと呼ばれていたものであるが、ただそれがここでは、揚棄された、単に定立されているにすぎぬ、外在的な、内的なものとして規定されているのである。したがってそれは単なる様態、不十分な抽象物、もっと具体的に言えば、単に主観に属するにすぎないものとして定立されてもいる。

現実性と必然性とはこれに反して、他のものにたいする様態であるどころか、まさにその正反対のものであり、単に他によって定立されているのではなく、自己のうちで完結した具体的なものとして定立されている。―可能性はまず、現実的なものとしての具体的なものにたいして、自己同一という単なる形式であるから、可能性の基準はただ、或るものが自己矛盾を含まないということにすぎない。かくしてすべてのものは可能である。というのは、われわれは、抽象によって、どんな内容にでもこうした同一性を与えることができるからである。しかしすべてのものは同様に不可能でもある。
というのは、あらゆる内容は具体的なものであるから、われわれはどんな内容においても、その規定性を特定の対立、したがって矛盾と考えることができるからである。―だからこのような可能、不可能の議論ほど空虚なものはない。特に哲学においては、或ることが可能であるとか、また他のことが可能であるとか、あるいはまたよく言われるように、或ることが考えられるとかいうような指摘に言葉を費すべきではない。以上から歴史家もまた、それ自身としてすでに真実でないことが明かになったこのカテゴリーを用うべきではないことがわかるであろう。しかし空虚な悟性の慧眼というものは、可能なこと、しかも実に多くの可能性を、役にも立たないのに、考え出して得々としているものである。


§143 補遺
 表象にとってはまず、可能性は豊かな広い規定であり、現実は、これに反して、貧しく狭い規定であるように思われる。かくして人々は、あらゆることが可能であるが、しかし可能であるすべてのことが、必ずしも現実的ではない、と言う。しかし実際には、すなわち、思想から言えば、現実性の方がより包括的なものである。なぜなら、現実性は具体的な思想であるから、可能性を抽象的モメントとしてそのうちに含んでいるからである。こうした考えは、われわれが現実から区別された可能なものについて語る場合、それを可能にすぎないものと呼ぶかぎり、普通の意識のうちにも見出される。―可能とは思惟しうることにある、と一般に言われている。
しかしこの場合思惟とは、ある内容を抽象的同一性の形式のうちで把握することとのみ解されている。しかしあらゆる内容がこの形式へもたらされうるし、しかもそうするにはただ、ある内容をそれがそのうちに立っている諸関係から切りはなしさえすればいいのであるから、この上もなく馬鹿らしく不合理なことでも可能と考えることができる。今夜月が地球へ落ちるということも司能である。なゼなら、月は地球から離れた物体であり。したがって空中へ投げ上げられた石と同じく、落下するかもしれないからである。トルコの皇帝が法王になることも可能である。というのは、トルコの皇帝は人間であるから、人間としてキリスト教に改宗し、それからカトリックの僧侶となり、云々、ということもありうるからである。可能性にかんするこのようなおしゃべりに際しては、特に理由の原理が先に述べたような仕方で使用されているのであって、これによれば、それにたいして理由を呈出しうるものは可能である、となる。人が無知識であればあるほど、すなわち、考察の対象の具体的な諸関係を知ることが少ければ少いほど、あらゆる空虚な可能性の考察に耽りたがるものであって、例えば、政治の領域においては素人政論狂がそうである。
さらに実際生活においても、悪意や怠慢が、責任をのがれるために、可能性というカテゴリーの後に身をかくすことが稀でないが、こうしたことについては、先に理由の原理の使用について注意したのと同じことが言える。理性的で実践的な人間は、それがまさに可能であるにすぎないという理由によって、可能なことなどに心を動かされず、あくまで現実的なものを堅持する。もっとも、ここで言今現実的なものとは、もちろん直接的な定有という意味ではないが。日常生活に用いられている諺には、抽象的な可能性の正当な軽視を言いあらわしたものが沢山ある。例えば、手の中にある一羽の雀は、屋根にいる十羽の雀よりましだと言われている。--さらに、あらゆるものが可能であるとみられるのと同じ権利をもって、あらゆるものが不可能とも考えられる。
というのは、あらゆる内容は、内容である以上常に具体的なものであるから、単にさまざまな規定を含んでいるにとどまらず、対立的な規定をも自己のうちに含んでいるからである。例えば、私が存在するということほど不可能なことはない。なぜなら、自我は単純な自己関係であるとともに、また他者への関係でもあるからである。自然および精神の世界のその他すべての内容についても、同じことが言える。われわれは、物質というものは不可能であると言うことができる。
 なぜなら、物質は反撥と牽引との統一だからである。同様なことが生命についても、法についても、自由についても言える。本当の神、すなわち三位一体の神としての神そのものについては、何よりも先にそうしたことが言える。実際、抽象的な悟性的啓蒙思想は、その原理にしたがって、こうした三位一体の神という概念を思惟に反するものとして非難しているのである。一般にこのような空虚な形式のうちをうろついているのは、空虚な悟性であって、哲学の任務は、こうした形式の無価値と無内容を示すことにある。或る事柄が可能であるか、不可能であるかは、その内容、すなわち、現実の諸モメントの総体による。そして現実は、それが自己を展開するとき、必然性としてあらわれる。


§144


§144 (ロ) しかし、自己内反省としての可能性から区別された現実性は、それ自身外的な具体物、非本質的な直接的なものにすぎない。あるいは直接的に言えば、現実性がまず(142節)内的なものと外的なものとの、単純な、直接的でさえある統一として存在するかぎり、それは非本質的な外的なものとして存在しており、かくして同時に(140節)単に内的なもの、自己内反省という抽象である。したがって現実性自身が単に可能なものとして規定されている。このように単なる可能性という価値しか持たぬ現実的なものは、一つの偶然的なものである、そして逆に、可能性は単なる偶然そのものである。


§145


§145 可能性と偶然性とは現実性のモメント、すなわち、現実的なものの外面性をなす単なる形式として定立されている、内的なものと外的なものである。この二つのものは、それらの自己内反省を、自己のうちで規定されている現実的なもの、すなわち、本質的な規定根拠としての内容において持っている。したがってもっとはっきり言えば、偶然と可能との有限性は、形式規定が内容から区別されていることにあり、或ることが偶然であり可能であるかどうかは、内容にかかっている。


 §145 補遺
・・・ これまで述べたところからわかるように、偶然性は現実性の一面的なモメントにすぎず、したがってわれわれはそれを現実性そのものと混同してはならない。しかし偶然性もやはり理念の一形式であるから、それは当然客観的な世界のうちにその位置を持っている。このことはまず自然について言えるのであって、自然の表面には、言わば偶然がほしいままにはびこっている。・・・例えば、言語というものは、言わば、思惟の肉体ではあるけれども、そこにはやはり偶然もまた決定的な役割をつとめているのであって、法律や芸術、等々の諸形態についても同じことが言える。学問および特に哲学の任務が、偶然の仮象のもとにかくされている必然を認識することにあるというのは、全く正しい。・・・


§146


§146
 現実性の外面は、より立ち入って考えてみると、次のことを含んでいる。すなわち、偶然性は、直接的な現実性であるから、本質的に被措定有としてのみ自己同一なものであるが、しかしこの被措定有も同様に揚棄されており、定有的な外面性である。かくして偶然性は前提されているものであるが、同時にその直接的な定有は一つの可能性であり、揚棄されるという定め、他のものの可能性であるという定めを持っている。すなわちそれは条件(Bedingung)である。

§146 ▼補遺

§146 ▼補遺 偶然的なものは、直接的な現実性として、同時に他のものの可能性でもあるが、しかしそれはすでに、われわれが最初に持っていたような抽象的な可能性ではなく、有るものとしての可能性であり、かくしてそれは条件である。われわれが或る事柄の条件と言うとき、そこには二つのことが含まれている。一つは定有、現存在、一般的に言えば直接的なものであり、もう一つは、この直接的なものが揚棄されて他のものの実現に役立つという定めである。―直接的な現実性は真の現実性ではなく、自己のうちで分裂した、有限な現実性であり、消耗されるということがその定めである。しかし現実性のもう一つの側面は本質性である。これはまず内的なものであるが、内的なものは単なる可能性にすぎないから、同じく揚棄される定めを持っている。揚棄された可能性としては、それは一つの新しい現実の出現であって、この現実は最初の直接的な現実を前提として持っている。これが条件の概念のうちに含まれている交替関係である。われわれが或る事柄の条件を考えてみるとき、それはただそれだけのもののようにみえる。その実はしかし、こうした直接的な現実は、自分とは全く別な或るものへの萌芽をそのうちに含んでいるのである。この別なものは、最初は単に可能なものにすぎないが、やがてこの可能性という形式は自己を揚棄して現実となる。かくして出現するこの新しい現実は、それが消費する直接的な現実自身の内面である。したがってそこには全く別な姿を持った事物が生じるが、しかしそれは最初の現実の本質が定立されたものにすぎないのであるから、なんら別なものは生じないのである。自己を犠牲にし、亡びさり、消耗される諸条件は、他の現実のうちでただ自分自身とのみ合一するのである。― 現実性の過程はこうしたものである。現実は単に直接的な存在ではなく、本質的存在として自分自身の直接性を揚棄し、それによって自己を自己自らへ媒介するものである。


§147  真下真一 宮本十蔵訳 岩波書店p.377


§147(ハ) 現実性の外面性がこのように可能性および直接的現実性という二つの規定からなる円、すなわち両者の相互的媒介として展開されるとき、それは実在的可能性(die reale Mӧglichkeit)一般である。このような円としてそれはさらに統体性であり、したがって内容、即自かつ対自的に規定されている事柄(Sache)である。そしてそれはまた、このような統一のうちにある二つの規定の区別から見れば、対自的な形式の具体的な総体であり、内的なものの外的なものへの、および外的なものの内的なものへの直接的な転化である。形式がこのように動いていくということが活動(Tätigkeit)、すなわち自己を揚棄して現実となる実在的根拠としての事柄の働きであり、また偶然的な現実、諸条件の働きである。諸条件の働きとはすなわち、諸条件の自己内反省、諸条件が自己を揚棄して一つの異った現実、事柄の現実となることである。あらゆる条件が現存すれば、事柄は現実的にならざるをえない。そして、事柄はそれ自身諸条件の一つである。なぜなら、それは最初は内的なものとして、それ自身単に前提されたものにすぎないからである。展開された現実性は、内的なものと外的なものとが一つのものとなる交互的な転化、一つの運動へと合一されているところの両者の対立的な運動の交替であって、これがすなわち必然性(Notwendigkeit)である。
  必然性が可能性と現実性との統一と定義されるのは正しい。しかし単にそう言いあらわしただけでは、この規定は表面的であり、したがって理解しがたいものである。必然性という概念は非常に難解な概念である。というのは、必然性はその実概念そのものなのであるが、その諸契機はまだ現実的なものとして存在しており、しかもこれら現実的なものは同時に単なる形式、自己のうちで崩壊し移行するところの形式としてとらえられなければならないからである。で 私は次の2節において、必然性を構成する諸モメントをもっと詳細に述べなければならない。
  ▼補遺 或ることが必然だと言われるとき、われわれはまず最初に、なぜそうなのかと問う。これによってわれわれは必然性が措定されたもの、媒介されたものとして示されることを要求するのである。しかしわれわれが単なる媒介に立ちどまるならば、それはまだ本当の意味における必然性ではない。単に媒介されたものは、自分自身によってそれが現にあるところのものであるのではなく、他のものにそうなのであるから、やはり偶然的なものにすぎない。われわれが必然的なものに要求することは、これに反して、自分自身によってそれが現にあるところのものとして
 ▼補遺 ・・・略・・・


§148


§148 条件(Bedingung)、事柄(Sache)、活動(Tätigkeit)という三つのモメントのうち、
 a 条件は(イ) あらかじめ措定されているものである。それは、単に措定されたもの(Gesetztes)としては、事柄にたいして相関的なものにすぎない。しかし先行するもの(Voraus)としては、それは独立的なもの―事柄と無関係に存在する偶然的な、外的な事情である。しかし偶然的であるとはいえ、このあらかじめ措定されているものは、統体的なものである事柄と関係させてみれば、諸条件の完全な円である。
(ロ) 諸条件は受動的であり、事柄のために材料として使用され、かくして事柄の内容へはいっていく。それらはまたこの内容に適合しており、内容の規定全体をすでにそのうちに含んでいる。

 b 事柄も同じく(イ) あらかじめ措定されているものである。措定されたものとしては、まだ内的なものであり、可能なものにすぎないが、先行するものとしては、それだけで独立の内容である。
(ロ) 事柄は諸条件を使用することによって外へあらわれる、すなわち諸条件と対応しあう内容諸規定を実現する。したがって事柄は内容諸規定によって自己を事柄として示すとともに、また諸条件から出現するものである。

 c 活動 (Tätigkeit)も(イ) 同じく独立に存在するが(例えば人間、人物のように)しかもまた諸

条件および事柄のうちにその可能性を持っている。
(ロ) それは諸条件を事柄へ移し、また事柄を諸条件(これは現存在に属する)へ移す運動である。否むしろ、そのうちに事柄が即自的に存在している諸条件から事柄のみを取り出し、そして諸条件が持っている存在を揚棄することによって、事柄に存在を与える運動である。
   これら三つのモメントが相互に独立した存在という形を持つかぎり、上の過程は外的必然として存在する。― 外的必然は限られた内容を事柄として持つ。なぜなら、事柄は単純な規定態における全体であるが、しかしこの全体的なものは、形式上、自己に外的であるから、自分自身においても、また自己の内容においても、自己に外的であり、そして事柄におけるこの外面性が、事柄の内容の制限をなすからである。


§149


§149 必然性はしたがって即自的には、自己のうちで反照しその諸区別が独立の諸現実という形式を持っているところの、自己同一的でありながらも、内容にみちた一つの本質である。そしてこの同一的なものは、同時に絶対的な形式として、直接的なものを揚棄して媒介されたものとし、媒介を揚棄して直接的なものとする活動である。―必然的であるものは、他のものによってそうなのである。そしてこの他のものは、媒介する根拠(事柄と活動)と直接的な現実、すなわち、同時に条件でもある偶然的なものとにわかれる。他のものによるものとしての必然は、絶対的でなく、措定されたものにすぎない。しかしこの媒介はまた直接に自分自身の揚棄である。というのは、根拠と偶然的な条件は、直接態へ移され、そしてこのことによって、措定されたものは揚棄されて現実となり、事柄は自分自身と合一するからである。このように自己のうちへ帰ったものとしての必然的なものは、無条件的な現実性として端的に存在する。―必然的なものは、一群の諸事情に媒介されて必然的なのである。すなわち、必然的なものは、諸事情が必然的であるから、必然的なのである。と同時に、必然的なものは、媒介されないで必然的である。すなわち、必然的であるから、必然的なのである。

a 実体性の相関 (Substantialitäts-Verhältnis)


§150


§150
 必然的なものは自己のうちで絶対的な相関である。すなわち、(上の諸節に述べたように)相関が同時に自己を揚棄して絶対的な同一となる過程である。
 その直接的な形態は実体性(Substantialität)と偶有性(Akzidentalität)との相関である。この相関の絶対的自己同一は実体そのものである。実体は必然性であるから、こうした内面性の形式の否定であり、したがって自己を現実性として定立する。しかしそれは同時にまたこうした外面性の否定であって、この面からすれば、直接的なものとしての現実は偶有的なものにすぎない。そして偶有的なものは、こうした単なる可能性であるために、他の現実へ移っていく。この推移が形式活動(148節および149節)としての実体的同一性である。

§151


§151 したがって実体は偶有の全体であり、偶有のうちで実体は、それが偶有の絶対的否的、すなわち絶対の力であること、しかも同時にあらゆる豊かな内容であることを顕示する。この内容はしかしこうした顕示そのものにすぎない。というのは、自己へ反省して内容となった規定性そのものは、実体の力のうちで移り変っていく、形式の一モメントにすぎないからである。実体性は絶対的な形式活動であり、必然性の力である。そしてあらゆる内容は、ひたすらこうした過程に属するモメントにすぎず、形式と内容との絶対的な交互転化である。


§151 ▼補遺


§151 ▼補遺 哲学の歴史においては、われわれは実体にスピノザの哲学の原理として出あう。名声と悪評の並び行われているこの哲学の意義および価値については、すでにスピノザの生時から大きな誤解があって、それ以来も多くの議論の的となっている。スピノザの体系にたいして普通なされている主な非難は、無神論という非難、さらにまた汎神論という非難である。そしてその理由は、それが神を実体として、しかもただ実体としてのみ理解しているというのである。こうした非難をどう考えたらいいかは、まず第一に、論理的理念の体系のうちで実体が占めている位置をみればわかる。実体は理念の発展過程における一つの本質的な段階であるが、しかしそれは理念そのもの、絶対的理念ではなく、必然性というまだ限られた形式のうちにある理念である。もちろん、神は必然性であり、われわれはそれを絶対的な事物ということもできるが、しかしそれは同時に絶対の人格でもある。この点がスピノザの到達していない点であり、そしてこの点でスピノザの哲学は、キリスト教的意識の内容をなしている真の神の概念より劣っているのである。・・・略・・・


§152


§152 実体は絶対的な力であるから、単なる内的可能性としての自己に関係することによって自己を偶有性へ規定する力であり、かくして措定された外面性はこの力から区別されている。この点からみるとき、実体は、必然性の最初の形式において実体であったように、本来の相関、すなわち因果性の相関である。

b 因果性の相関 (Kausalitäts-Verhältnis)


§153


§153 実体は一方では、偶有性への移行とは反対に、自己へ反省し、かくして本源的な事柄であるが、しかし他方それは、自己内反省あるいは単なる可能態を揚棄して、自己を自己そのものの否定として定立し、かくして結果(Wirkung)、すなわち、単に定立されたものではあるが、同時に作用の過程によって必然的なものでもあるところの、現実を産出する。このかぎりにおいて実体は原因(Ursache)である。

 原因は、本源的な事柄として、絶対的な独立性と、結果にたいして自己を保持する存立性とを持っているが、その同一性は、原因の本源性そのものをなしている必然性のうちで、全く結果へ移行している。特定の内容がここでも問題となりうるかぎり、結果のうちには原因のうちにないようないかなる内容も存在しない。右に述べた同一性が絶対的な内容そのものである。しかしこの同一性はまた形式規定でもあって、原因の本源性は、そのうちでそれが自己を措定された存在とするところの結果のうちで揚棄される。しかし原因はこれによって消失するのではなく、結果のみが現実的なものとして残るのではない。というのは、この措定された存在も同様に直接的に揚棄されており、それはむしろ原因の自己すなわちその本源性への反省だからである。原因は、結果のうちではじめて現実的であり、原因なのである。したがって原因は、即時かつ対自的には自己原因(causa sui)である。―ヤコービは媒介をあくまで一面的に考えたために、原因の絶対的真理である自己原因(自己結果effectus suiも同じものである)を単に形式主義と考えた(「スピノザにかんする手紙」第2版、416ページ)。かれはまた、神は根拠と規定すべきものではなく、本質的に原因と規定されなければならないと述べているが、かれの意図したことがこれによって達成されないということは、原因の本性をもっと根本的に反省してみればわかったであろう。有限な原因およびその表象においてさえ、内容の同一は存在している。原因である雨と結果である湿りとは、同一の現在する水である。形式からすれば、原因(雨)は結果(湿り)のうちで消失する。しかしそれとともにまた結果という規定も失われてしまうのであって、結果は原因なしには無であり、そしてこの場合無関係な湿りが残るにすぎない。
 普通考えられているような因果関係の意味では、原因は有限である。というのは、その内容が有限であり(有限な実体におけるように)、また原因と結果が二つの別々の独立な存在と考えられている―これは因果関係が捨象されているからにすぎない―からである。有限の領域においては、われわれは関連のある二つの形式規定の区別ということに立ちどまっているから、一度原因とされたものが、今度は措定されたもの、すなわち結果と規定されるようになる。するとこれはまた他の原因を持つことになり、かくしてここでもまた結果から原因への無限進行が生じる。同様に下降的な無限進行も生じる。なぜなら、結果が原因そのものと同一であるという面からみれば、それは原因として、しかも同時にはじめの原因とは別の原因として規定され、そしてこの原因は再び他の結果を持つ、という風に無限に進んでいくからである。


§153 ▼補遺


§153 ▼補遺 悟性は、実体性というものは容易に受け入れようとしないが、それに反して因果性、すなわち原因と結果との関係はよく知っている。或る内容を必然的なものとみようとする場合、悟性的な反省が努力するのは、主としてそれを因果関係に還元することである。もちろん、因果関係は、必然性に属してはいるが、しかしそれは必然性の過程における一側面にすぎず、必然性の
過程は、因果性のうちに含まれている媒介を揚棄して、自分が全くの自己関係であることを示すものである。われわれが因果性そのものに立ちどまるならば、われわれは真の因果性ではなく、有限な因果性を持つにすぎない。この関係の有限性は、原因と結果とがあくまで区別されている点にある。ところが、この二つのものは、単に異っているだけでなく、また同一でもある。この
同一性は普通の意識のうちにも見出される。われわれは、原因について、それが結果を持つかぎりにおいてのみ原因であると言い、結果については、それが原因を持つかぎりにおいてのみ結果であると言う。したがって原因と結果とは同一の内容であり、両者の相違はまず措定と被措定との相違にすぎない。しかもこの形式上の相違も同じくまた揚棄される。すなわち、原因は単に他のものの原因であるにとどまらず、また自分自身の原因であり、結果は単に他のものの結果であるにとどまらず、また自分自身の結果である。したがって事物の有限性がどこにあるかと言えば、それは、原因と結果は概念上同一であるのに、この二つの形態が分離されていることにある。すなわち原因は結果であり、結果は原因であるが、しかし原因はそれが原因であると同じ関係において結果ではなく、結果はそれが結果であると同じ関係において原因ではないのである。このことは再び原因の果しない系列―これは同時に、結果の果しない系列でもある―という形をとる無限進行を出現させる。


§154


§154 結果は原因とは別なものである。結果はこの意味では措定されたものである。しかし被措定有もまた自己反省であり、直接なものである。そして原因の作用、すなわちその措定作用は、結果があくまで原因と異るものとされているかぎり、同時に結果を前提する作用である。したがって結果がそこで起るところの他の実体が存在する。この実体は直接的なものであるから、自己へ関係する否定性でもなければ能動的でもなく、受動的なものである。しかしそれはまた実体であるから能動的でもあって、前提された直接性と自己のうちへ措定された結果とを揚棄し、反作用する。言いかえれば、それは最初の実体―これもまたその直接性あるいはそのうちへ措定された結果を揚棄するものなのであるが―の能動性を揚棄し、そして反作用する。かくして因果性は交互作用(Wechselwirkung)へ移っていく。
  交互作用において、因果関係はまだその真の規定において定立されてはいないけれども、原因から結果への、および結果から原因への直線的な運動が、自己のうちへ曲り戻らされていることによって、原因と結果との無限進行は真の仕方で揚棄されている。このように無限進行を自己完結的な関係へ曲り戻らせるものは、常にそうであるように、ここでもまた、無思想的な反復のうちには、同じもの、すなわち或る原因ともう一つの原因および両者相互の関係があるにすぎないという単純な反省である。しかしこうした関係の発展である交互作用は、それ自身区別の交替ではあるが、しかしそれは原因の区別の交替ではなくて、因果関係を構成する二つのモメントの区別の交替であり、そしてこれら二つのモメントの各々において再び、原因は結果のうちで原因であり、結果は原因のうちで結果であるという同一性、不可分性にしたがって、同じくもう一つのモメントも定立されるのである。


c 交互作用 (Wechselwirkung)


§155


§155 交互作用のうちであくまで区別されている二つの規定は(イ) 即自的には同じものである。すなわち、一方の側面は他の側面と同じように原因であり、本源的であり、能動的であり、受動的である、等々。同様に、他の側面を前提することとそれへ働きかけること、直接の本源性と交替によって措定されることとは、同一である。最初のものと考えられた原因は、その直接性によって受動的であり、措定されたものであり、結果である。したがって二つと言われた原因の区別は空
虚であって、即自的にはただ一つの原因、すなわち、結果のうちで実体としての自己を揚棄するとともに、またこの働きのうちではじめて自己を独立化する原因が存在するにすぎない。


§156


§156 (ロ) しかしこの同一性はまた対自的でもある。なぜなら、上に述べたような交替の全体は、原因自身の措定作用であり、原因のこうした措定作用のみが原因の有をなしているからである。区別は即自的にのみ、あるいはわれわれの反省によってのみ空無であるのでなく(前節を見よ)、交互作用そのものが、措定された二つの規定の各々を再び揚棄して、反対の規定へ逆転させるものなのであり、したがって二つのモメントの即自的に存在する空無性を措定するものなのである。結果は本源性のうちへ定立される、すなわち本源性が揚棄される、原因の作用は反作用となる、等々。


§156 ▼補遺


§156 ▼補遺 交互作用は完全に展開された因果関係であり、実際また反省は、因果性の見地の下に事物を考察することが、前に述べたような無限進行のために不十分であることがわかると、普通それへ逃路を求めるものである。例えば、人々が歴史を考察する場合、人々はまず或る国民の性格および風習はその政体および法律の原因であるか、それとも逆に結果であるかというように問題を論じていき、それから性格と風習および政体と法律を交互作用の見地の下にすなわち、原因はそれが原因であるのと同じ関係において同時に結果であり、結果はそれが結果であるのと同じ関係において同時に原因でもある、という風に理解するにいたる。同じことはまた自然を考察する場合、特に生物を考察する場合にも行われ、生物の諸器官および諸機能は同じく交互作用の関係にあるものとして示される。交互作用は原因と結果の関係の最も近接した真理であって、言わば概念の入口に立っているが、しかしまさにそれゆえに、概念的認識が必要である場合、われわれはこの関係の適用で満足してはならないのである。われわれが与えられた内容を単に交互作用の見地の下にみるにとどまるならば、それは全く没概念的な態度である。というのは、その場合われわれは単なる事実を取扱うにすぎず、因果関係を適用する際まず問題になっている媒介の要求は、再び満足されないままに残るからである。交互作用という関係の適用がなぜ不十分であるかをよく考えてみると、それは、この関係が概念に等しいものでなく、まず概念的に把握されなければならないものである、という点にある。そしてこのことは、この相関の二つの側面を直接に与えられたものとして放置せず、前の二節で示したように、それらをより高い第三のもののモメントとして認識することによって行われる。そしてこの第三のものこそまさに概念なのである。
例えば、スパルタの国民の風習をその政体の結果とみ、また逆に政体を風習の結果とみるとすれば、こうした見方は正しいにはちがいないが、しかしそれは最後的な満足を与えるものではない。なぜなら、それによっては実際この国民の政体も風習もどちらも概念的には把握されないからである。最後的な満足はただ、上に述べた二つの側面、およびスパルタ国民の生活および歴史が示すその他のあらゆる側面が概念のうちに根拠を持つものとして認識されることによってのみ生じるのである。


 §157
  (ハ) したがってこのような純粋の自己交替は、顕現されたあるいは定立された必然性である。必然度そのものの紐帯は、まだ内的で隠れた同一性である。なぜなら、この同一性は、それらの自立性がまさに必然性たるべきものではあるが、諸々の現実的なものと考えられているものの同一性であるからである。したがって実体が因果性と交互作用とを通過するということは、独立性が無限の否定的自己関係であるということの定立である。なぜ否定的であるかと言えば、そこで区別および媒介が相互に独立的な諸現実の本源性となるからであり、またなぜ無限の自己関係であるかと言えば、諸現実の独立はそれらの同一性としてのみ存在するからである。


  §158
 したがって必然の真理は自由であり、実体の真理は概念-すなわち、自己を自己から反撥してさまざまな独立物となりながらも、この反撥のうちで自己同一であり、交替運動をしながらも、あくまで自分自身のもとにとどまる、すなわちただ自己とのみ交替運動をする自立性-である。

 補遺 
  必然は冷酷であると普通言われている。このことは、われわれが必然そのものに、すなわち必然の直接的な姿に立ちどまっているかぎり、正しい。ここにはまずそれ自身で存立している或る状態、あるいは一般に或る内容があるが、しかし必然性のうちには次に、そうした内容が他のものによって襲われ、かくしてそれは滅亡させられるということが含まれている。これが直接的なあるいは抽象的な必然性における冷酷で悲しむべき点である。二つの事物は、必然性のうちで互に結びつけられているものとしてあらわれ、かくしてその独立性を失うが、しかしこの二つの事物の同一性は、ようやく内的な同一性にすぎず、必然性に従属させられている事物にたいしてはまだ存在していない。かくしてまた自由も、この立場にあっては、ようやく抽象的な自由にすぎず、それはわれわれが直接的に有りかつ持っているものを諦めることによってのみ、救われるのである。―しかし、これまでみてきたように、必然性の過程は次のようなものである。すなわち、それは最初に存在している硬い外面を克服して、その内面を啓示し、かくして互につなぎあわされているものが、実際互に無縁ではなく、一つの全体の諸モメントにすぎないこと、そしてこれらモメントの各々は、他と関係しながらも、自分自身のもとにとどまり、自分自身と合致するということを示すのである。これが必然性の自由への変容であって、この自由は単に抽象的否定の自由ではなく、具体的で肯定的な自由である。ここから、自由と必然とを相容れないものとみるのが、どんなに誤っているかがわかる。もちろん必然そのものはまだ自由ではない。しかし自由は必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる。有徳な人は、その行為の内容が必然的でありかつ即自対自的に妥当するものであることを意識しているが、しかもこのことは、かれの自由を少しも傷つけるものではなく、むしろそれによってはじめてこの意識は、まだ無内容で単に可能的な自由としての恣意とはちがった、現実的で内容のある自由となるのである。犯罪者が罰せられるとき、かれはこのかれに加えられる刑罰を自分の自由の制限と考えるかもしれない。しかしその実は、かれが従うこの刑罰は外的な強力ではなくて、かれ自身の行為の顕示にほかならない。そしてかれがこのことを認めるとき、かれは自由な人として振舞うのである。一般に、自分が全く絶対的理念に規定されているのだということを知るのが、人間の最高の自立性である。スピノザはこうした意識および態度を神への知的愛と呼んでいる。


§157 ・・・略・・・
§158 ・・・略・・・
§158 ▼補遺 ・・・略・・・
§159 ・・・略・・・
・・・以上で、第2部本質論 終わり・・・

 第3部 概念論 ・・・略・・・


 ヘーゲル 『大論理学』 第2巻本質論

   第1章 仮 象 Der Schein

  
  『大論理学』 第2巻 本質論   

 〔1、有から本質への過程〕 

 有の真理は本質である。
 有は直接的なものである。知識が有の即且向自的な真の相を認識しようとするときは、知識はこの直接的なものとその諸規定にとどまらず、この有の背後に有そのものとは異なる何か他のものが存在し、その背後こそ有の真理をなしているものだという前提をもって、この直接的なものを貫き抜ける。このような認識は媒介された知識である。というのは、この認識は本質の下で、また本質の中で直接的に見出されるものではなくて、むしろ或る他者から、即ち有から出発して、その有を超出する道、或いはむしろ有の中への沈潜の道を予め歩まなければならないからである。そして知識が、この直接的な有の中から自己を想起する〔内化する〕ときはじめて、知識はこの媒介を通して本質を見出すのである。動詞のSein(有る)という言葉は、その過去の時称 gewesen の中に Wesen (本質)を含んでいる。というのは、本質は過ぎ去った〔過去になった〕有であるが、しかも無時間的に過ぎ去った有だからである。
 
だが、この運動を知識の行程と考えるとすると、この有からの出発と、この有を止揚して、媒介されたものとしての本質に達するところの進行とは、有に對して外面的で、有自身の本性とは無関係な認識の活動であるかのように見える。
 けれども、この行程は有自身の運動である。それで、この行程において明らかにせられたことは、有がその本性によって自己を想起〔内化〕し、この自己内行( Insichgehen )を通して本質となるということである。
それ故に、絶對者は最初には有と規定されたが、いまは本質と規定される。認識は一般に多様な定有にとどまることはできないが、それはまた有、純粋有にとどまることもできない。そこで認識は直ちに反省を行うことになる。その反省は即ち、この純粋有、即ち、すべての有限的なものの否定が、直接的定有を純粋有にまで純化した想起〔内化〕と運動とを前提しているという反省である。有は、それによって本質として規定される。即ち、すべての規定的なものと有限的なものとがその中で否定されているような有として規定される。その意味で、本質は無規定的で単純な統一であって、この統一からは規定的なものは或る外面的な仕方で取り除かれているのである。だから規定的なものそのものは、この統一に對して外面的な存在であったし、それはこの除去の後にも依然この統一に對立している。というのは、この規定的なものは即自的に〔それ自身として〕止揚されているのではなくて、相對的に、即ち、ただこの統一との関係においてのみ止揚されているからである。―すでに前に注意したように、もしこの純粋な本質がすべての実在性の総括と規定される場合には、これらの実在性はまた規定性という性質の下に、従ってまた抽象を行う反省の下におかれることになり、その結果この総括は空虚な単純性に還元されてしまうことになる。このような仕方では本質は単に産出されたもの、即ち一つの製作物にすぎない。即も抽象にほかならないところの外面的否定が、本質として残るところのものから有の諸規定性を全く剥ぎ取るのである。従って本質は、これらの規定性を云わば次々と或る他の場所に移し加えてみるだけで、それらが有的な規定性である点は前と少しもちがわない。しかし本質は、このような仕方では即自的にも、また向自的にも存在しない。本質は或る他者、即ち外面的な、抽象的な反省を通してあることになる。即ち或る他者に對するものとしてある。即ち抽象に對してのみあり、従って一般に、あくまでも本質に對立するところの有的なものに對するものとしてのみある。だから、このような規定の中では本質は死んだ、空な没規定性である。
 けれども、ここに現われて来たところの本質は、真の相における本質である。それは自己に外的な否定を通して現われたものではなく、自己自身の運動、即ち有の無限の運動を通じて現われたものである。それは即且向自的有である。即ち、この本質は有のすべての規定性に無関心であって、そこでは他在と他者への関係とが全く止揚されている点で、絶對的な即自有である。しかし、それは単にこのような即自有にとどまらない。単なる即自有であれば、本質は、ただ純粋な本質という抽象にすぎないであろう。そうではなくて、本質は同様にまた本質的に向自有でもある。即ち本質そのものは、このような否定性であり、他在と規定性との自己止揚なのである。

〔2、本質の本性 〕 

本質は有の完全な自己復帰であるから、最初は無規定的な本質である。有の諸々の規定性は、その中では止揚されている。本質は、それらを即自的には含んでいるが、しかし本質において措定されているところの規定性としてではない。このような自己の単純性の中にある絶對的本質は何らの定有をももたない。けれども、それは定有へ移行しなければならない。なぜなら、それは即且向自有だからである。云いかえると、本質は、その即自的に含むところの各規定を区別するものだからである。即ち絶對的本質は自己反発であり、或いは自己に對する無関心性であり、自己に對する否定的関係である故に、それは自己を自己自身に對立させるのであって、しかもこの自己との区別の中にありながら自己との統一であるという意味でのみ、無限的な向自有なのである。― そこで、この本質の規定作用は有の領域における規定作用とはちがった性質をもっている。また本質の諸規定は有の諸規定性とは別種の性格をもつ。本質は即且向自有という絶對的統一である。だから本質の規定は、どこまでもこの統一の中にとどまるものであって、それは生成でも、移行でもない。またその各々の規定そのものも他者としての他者ではなく、また他者への関係でもない。各規定は自立的なものであるが、しかしそれらが相互の統一の中にあるところの規定だという意味でのみそうである。― 本質は、はじめは単純な否定性であるが故に、次にそれは、それが単に即自的にのみ含んでいるところの規定性を自己の領域の中で措定しなければならない。それは、自己に定有を、また更に向自有を与えるためにである。

 本質は全体としては、有の領域の中で量として現われたものである。即ち限界に對する絶對的無関心心性である。量は、しかし直接的な規定の中にある無関心性であって、限界は量においては直接的に外的な規定性であり、量は定量に移行する。外的限界は量にとっては必然のものであって、従ってそれは量においては有的で〔直接的に〕ある。これに反して本質においては、規定性は有るのでは〔直接的では〕ない。それは本質そのものによって措定されているのである。即ち、それは自由にあるのではなくて、ただ本質の統一に對する関係の中にのみある。― 本質の否定性は反省〔反映〕である。従って各規定は反省された規定であり、即ち本質自身によって措定されたところの、しかも止揚されたものとして、あくまでも本質の中にとどまっているところの規定である。
 本質は有と概念との間に立ち、両者の中間をなしている。そしてその運動は有から概念への移行を形成する。本質は即且向自有であるが、ただし即自有の規定の中にあるところの即且向自有である。というのは、本質の一般的規定は、有から出て来たという点、云いかえると有の最初の否定であるという点にあるからである。本質の運動は、否定または規定を自己の中に措定し、それによって自身に定有を与え、またそこから無限的な向自有となって、本来の本質そのものとなることにある。こうして本質は自己の即自有に等しいところの定有を自己に与えて、概念となる。そのわけは、概念とは定有の中にあって絶對的または即且向自的であるところの絶對者を意味するからである。けれども、本質が自身に与えるところの定有は、まだ即且向自的な定有ではない。それは、あくまでも本質が与える定有という意味を脱しない。云いかえると、それは措定された定有である。だから概念の定有とは、まだ区別がある。

〔3、区分〕 

本質は、まず第一には、自己自身の中へ映現〔Scheinen:照り返し〕する。云いかえると、それは反省( Reflexion )である。第二に、それは現象する。第三に、それは自己を啓示する。故に本質の運動は次のような規定をとる。
 1 自己の内部の各規定の中にとどまっているところの単純な、即自有的本質という規定。
 2 定有の中へ現われ出たものという規定、云いかえると、その実存( Existenz )と現象( Erscheinung )という面での規定。
 3 その現象と合一したところの本質、即ち現実性( Wirklichkeit )としての規定。
 ◆目次
 第2巻 本質論 Die Lehre vom Wesen
  第1篇 自己自身における反省としての本質 Das Wesen als Reflexion in ihm selbst
 第1章 仮象 Der Schein
   A 本質的存在と非本質的存在 Das Wesentliche und das Unwesentliche
   B 仮象 Der Schein
   C 反省 Die Reflexion
 第2章 本質性または反省規定 Die Wesenheiten oder die Reflexionsbestimmungen
 第3章 根拠 Der Grund
  第2篇 現象 Die Erscheinung
  第3篇 現実性 Die Wirklichkeit

第2巻 本質論 Die Lehre vom Wesen
第一篇 自己自身における反省としての本質

 本質は有から出て来る。そのかぎりにおいて、本質はそのまま即且向自的であるのではなく、有の運動の結果である。云いかえると、本質は最初は直接的な本質と見られるから、本質は一つの規定的な定有であって、それに對しては或る他の規定的定有が對立している。即ち、それは非本質的な定有に對立する本質的な定有にすぎない。しかし、本質は帥且向自的に止揚された有である。そして本質に對立するところのものは単に仮象( Schein )にすぎない。けれども、仮象は本質自身の措定である。
 本質は第一に反省である。反省は自己を規定する。即ち反省の両規定は被措定有( Gesetztsein )であるが、この被措定有は同時に自己への反省( Reflexions in sich )であるようなそれである。
 第二に、これらの反省規定( Reflexions-bestimmung )または本質性( Wesenheit )が考察されなければならない。
 第三に、本質は規定作用の自己自身への反省として、自己を根拠( Grund )とする。そこで次に、この本質は実存と現象とに移って行く。


 第1章  仮 象

 本質は有から出て来たものとして、有に對立するように見える。そしてこの直接的な有はまず差し当っては非本質的存在( das Unwesentliche )である。
 けれども第二に、この有は単に非本質的な有よりも以上のものであって、それはむしろ本質を欠くところの有、即ち仮象である。
 第三に、この仮象は外面的なもの、本質に對する他者ではなくて、むしろ本質自身の仮象である。そしてこの本質のそれ自身における仮現が反省である。

 A 本質的存在と非本質的存在

 〔1、本質的存在と非本質的存在〕 
 本質は止揚された有である。本質は自己との単純な同等性であるが、しかしそのことは本質が有の領域の一般的否定であるかぎりにおいてである。それ故に本質は、直接性〔有〕が本質の生成の源であって、この止揚の過程〔本質の生成〕の中に保存され、維持されているものとして、その直接性を自己に對立させる。このような規定の中にあるために、本質自身も有的な、直接的な本質であって、また有もただ本質との関係における否定的なものにすぎず、即且向自的にあるものではない。それ故に、本質は一つの規定的な否定である。有と本質とは、このような仕方で再び互に他者一般として関係しあう。というのは、その各々は一つの有、即ち相互に無関心な直接性をもつのであって、この有の点では両者の価値は同等だからである。
 けれども、同時に有は本質に對立するものとして非本質的存在であって、有は本質に對しては止揚されたものという規定をもつ。だが、この有が一般に他者として本質に関係するかぎり、本質も本来の意味での本質ではなくて、有とは別の仕方で規定された定有、即ち本質的存在( das Wesentliche )にすぎない。

 〔2、第三者の外面的見地による両者の区別 〕 

本質的存在と非本質的存在との区別は本質を再び定有の領域に逆行させる。というのは本質は、この最初の形では直接的な有的本質として、従って有に對して単に他者として規定されているにすぎないからである。そのために、定有の領域が、その根底におかれている。それで、この定有の中にある有の真相が即且向自有であるということは、ずっと高次の規定で、定有そのものにとっては外面的な規定である。逆にまた、本質はたしかに即且向自有ではあるが、しかしそれもただ或る他者に比べてみてのことで、一定の顧慮〔見地〕の下で、そうであるにすぎない。― だから、定有の形で本質的存在と非本質的存在之が互に区別されるかぎり、この区別は一つの外面的な措定である。定有そのものの核心には触れないところの分離であり、定有の或る面と他の面との分離にすぎない。つまり、第三者が行うところの分離である。従って、その場合には、何が本質的存在に属し、何か非本質的存在に属すかは不定である。即ち、この区別を立てるものは何らかの外面的な顧慮と考察とであって、それ故に同一の内容が時には本質的と見られ、時には非本質的と見られることになる。

 〔3、仮象への移行〕 

 しかし更によく考えてみると、本質が非本質的存在に對立するところの単に本質的存在となるのは、本質が止揚された有、または定有とせられるからである。けれども、このような仕方では、本質は単に最初の否定にすぎず、または規定性としての否定にすぎない。即ち、この否定によって有は単に定有になり、定有は単に他者となるにすぎない。ところが、本質は有の絶對否定性である。本質は有そのものではあるが、しかし単に他者として規定されているのではなくて、直接的有としても、或る他在に結びついているような否定としての直接的否定としても止揚されたところの有である。従ってまた、有または定有も自己を本質とは別のものとして〔本質との関係において〕保持しているのではない。それで、この本質と全く区別されたところの直接的なものは単に非本質的な定有ではなくて、むしろ即且向自的に〔全く〕空な直接者である。それは草に非本質( das Unwesen )にすぎず、仮象にすぎない。

  B 仮 象 

   (*注:「直接性:Unmittelbarkeit」について→用語解説を参照してください)

 1 〔仮象としての有〕 
有は仮象である。仮象の有は全くただ有が止揚されているという点、有の空無性の点でのみありうる。有は、この空無性を本質の中でもつのであって、仮象は、その空無性を離れては、云いかえると本質を離れては存在しない。仮象は否定的なものとして措定されているところの否定的なものである。
 仮象は有の領域からまだ残っているところの唯一の残り物である。しかし、それはなお本質から独立した直接的な面をもち、本質の他者一般であるような観を呈する。他者は一般に定有と非定有との二契機を含んでいる。ところが、非本質的存在はもはや有をもたないから、それにとっては、その他在の面の中で全くの非定有の契機だけが残されている。仮象とは、この直接的な非定有である。即ち他者に對する関係の中でのみ、即ち自己の非定有の中でのみ定有をもつという意味における有の規定性の中にある直接的な非定有である。即ち自己の否定の中にあるところの非自立的な存在である。それ故に、非本質的存在に残されているのは、ただ直接性という純粋な規定性のみである。即ち、この非本質的存在は反省された直接性として存在する。即ち反省された直接性とは、自己の否定をその媒介とすることによってのみ存在するところのものであり、従って、それは〔媒介のないものであるから〕その媒介に對しては、むしろ単に非定有の 直接性(*注)という空か規定にほかならない。
  ―この意味で、仮象は懐疑論のいう幻影〔 Phänomenフェノメーン〕である。或いはまた、観念論の現象〔 Erscheinungエアシャイヌング〕も、このような直接性(*注:Unmittelbarkeit )である。これは〔客観的糊立的な〕或る物でもなく、また物でもなく、一般に自己の規定性、従って主観に對する開係を離れてあるような無開心な有ではない。懐疑論にとっては「何かが有る」と云うことは許されない。また近代の観念論には、認識を物自信の知識と見ることは許されない。即ち懐疑論の仮象は一般に何ら有の根底をもつべきではなく、また物自体は、この観念論の認識の中へ這入りこむべきではない。けれども同時に懐疑論は、仮象の多様な規定を認容した。或いはむしろ、その仮象が世界の多種多様な事象の全体を、その内容としてもつものと見る。同様に観念論の現象も、この多様な規定性の全範團を、その中に包容する。即ち前者の仮象も、後者の現象も、直接的にこのような多様な規定をもっている。それ故に、実際この内容の根底には如何なる有も、物も、物自膿も存在する必要はあるまい。内容は内容だけで内容としてある。内容は有から仮象へ移し変えられているにすぎない。そのために、仮象は仮象そのものの中に、そのような多様な規定性を、即ち直接的で、有的な、互に他者であるような多様な規定性をもつのである。それ故に仮象は、それ自身一つの直接的に規定されたものである。仮象は、これやあれやのいろいろの内容をもつことができるが、しかしどのような内容をもつにしても、それは仮象自身によって措定されたものではない。仮象は内容を直接的にもつのである。ライプニッツ、或いはカント、フィヒテの観念論ならびに、その観念論の諸形式は、懐疑論と同様に、規定性としての有を、即ち上述の直接性を超越していない。懐疑論にも、その仮象の内容が与えられることはできる。けれども、如何なる内容をもつにせよ、それは懐疑論にとっては、直接的にある。ライプニッツの単子は、それ自身の中から、その表象を展開する。けれども、単子は生産力または結合力ではなく、諸々の表象は、あたかも気泡のように単子の中に浮び出て来る。即も、これらの表象は互に無関心で、直接的であって、従って単子自身に對しても無開心である。同様にカントの現象も所与の知覚内容である。この内容は感覚を前提し、主観の諸々の規定を予想するが、これらの規定は相互にも、また主観に對しても直接的にある。フィヒテの観念論における無限の衝撃は、なるほど物自体をその根底とするものではなく、従ってそれは純粋に自我の中の規定性を意味するといってよい。けれども、この規定性もまた、それを自己自身の規定性となし、その外面性を止揚するところの自我に對して直接的な規定性である。即ち、それは自我の制限である。この制限は自我がそれを越えることのできるものではあるけれども、しかしそれはまた、その中に無関心性の面をもち、その無関心性の面では制限は自我の中にあるにかかわらず、また自我の直接的非有という意味をももっている。

 2 〔仮象の本性-仮象と本質〕 
このように仮象は一つの直接的な前提を、即ち本質に對して猫立的な一面を含んでいる。しかし仮象が本質と区別されているかぎり、仮象について、それが自己を止揚して本質の中へ復帰するということは示され得ない。というのは、有は全体として本質の中へ復帰したのであり、仮象はそれ自身空なものだからである。そこで、ここに明らかにしなければならない唯一の点は、仮象を本質と区別するところの諸規定が本質自身の規定であるということ、及びこの本質の規定性、即ち仮象は本質そのものの中では止揚されているということである。

 仮象を形成しているところのものは非有の直接性(*注)である。しかし、この非有は本質のそれ自身における否定性にほかならない。有は本質の中での非有である。〔Es ist die Unmittelbarkeit des Nichtseins, welche den Schein ausmacht; dies Nichtsein aber ist nichts anderes als die Negativität des Wesens an ihm selbst. Das Sein ist Nichtsein in dem Wesen.〕

 (*注)直接性 : 用語解説を参照のこと。

有の空無性は即自的には本質そのものの否定的な本性である。しかも、この非有が含むところの直接性または無関心性は本質自身の絶對的な即自有である。即ち本質の否定性は本質の自己同等性、または本質の単純な直接性であり、無関心性である。本質が、その無限な否定性の中に、このような自己同等性をもつかぎりで、有は本質の中で自己を保持しているのである。その点で、本質自身が有である。だから、規定性が仮象の中で本質に對してもつところの直接性は、本質自身の直接性にほかならない。もっとも、それは有的な直接性なのではなくて、全く媒介された、即ち反省された直接性であって、この直接性が仮象なのである。―即ち、それは有としての有ではなくて、単に媒介に對してあるところの有の規定性としての有であり、即ち契機としての有である。
 それ故に、この2契機、即ち空無性ではあるがしかし存立としての空無性と、有ではあるがしかし契機としての有とは、云いかえると仮象の2契機を形成しているところの即自有的な否定性と反省した直接性とは、本質それ自身の二つの契機である。即ち有の仮象が本質の中に存在するのでもなければ、また本質の仮象が有の中に存在するのでもない。本質の中にあるところの仮象は或る他者の仮象ではない。仮象は即自的な仮象であり、本質自身の仮象である。

 仮象は有の規定性の中にあるところの本質そのものである。本質が仮象をもつのは、本質がそれ自身の中で規定され、そのために自己の絶對的統一から区別されることによる。けれども、この規定性は同様にまた全くそれ自身において止揚されている。なぜなら、本質は自立的なものであり、本質自身であるところの自己の否定によって自己を自己と媒介するものとして有るものだからである。それ故に、本質は絶對的否定性と直接性との同一的な統一である。
―否定性は即自的な否定性である。即ち、それは否定性の自己への闘係である。故に否定性は即自的には直接性である。けれども、否定性は自己への否定的な開係であり、自己自身を反発する否定作用であるから、この即自有的な直接性は否定的なものであり、或いは直接性に對して規定されているものである。しかし、この規定性は、それ自身絶對的な否定性であり、また規定するものとして、そのまま自己自身の止揚、即ち自己への復帰であるような規定作用である。

 仮象は否定的なものである。しかし、この否定的なものは有をもってはいるか、これを他者の中で、即ち自己の否定の中でもつところの否定的なものである。故に仮象は、それ自身止揚されたものであり、空かものであるような非自立性である。この意味で、仮象は自己に復蹄するところの否定的なものであり、それ自身において非自立的なものとしての非自立的存在である。このような否定的存在または非自立性の自己への関係が、仮象の直接性である。従って、この関係〔即ち、この意味の直接性〕は、否定的なものそのものとは別のものである。この関係は否定的なものが自己に對立するところの規定性であり、云いかえると否定的なものに對する否定である。けれども、否定的なものに對する否定とは、ただ自己にのみ関係するところの否定性であり、即ち規定性そのものの絶對的止揚である。
 それ故に、本質の中における仮象であるところの規定性は無限的な規定性である。それは全く自己と合致する否定的なものにほかならない。故に、この規定性はこういう規定性として自立性であって、従って規定されていないような規定性である。― 逆に、自立性は自己に関係する直接性として、同様に全くの規定性であり、契機であって、ただ自己に関係する否定性としてのみある。―このような直接性と同一のものであるところの否定性、従ってまた否定性と同一のものであるところの直接性が、本質である。それ故に、仮象は本質そのものである。但しそれは、単に本質の契機にすぎないような規定性の中にあるところの本質である。こうして本質は、自己の自己自身の中における映現Scheinenである。

 〔3、仮象の反省への移行〕 

 有の領域においては、直接的存在としての有に對立して同様に直接的存在としての非有が生起するのであって、両者の真理は成である。ところが、本質の領域においては、第一に本質と非本質的存在とが、次に本質と仮象とが對立する。そして非本質的存在と仮象とは有の残り物である。けれども、この両者ならびに両者と本質とのに別が成り立つのは、本質がまず一つの直接的な本質と見られて、その真の相において見られなかったこと、云いかえると純粋な媒介または絶對的否定性として直接性であるような直接性として見られなかった故にほかならない。従って、前の最初の直接性は単に直接性の規定性にすぎない。だから、本質のこのような規定性の止揚が成り立つためには、次の点を明らかにすればよい。即ち非本質的存在は仮象にすぎないものだということ、しかも本質は、この仮象をむしろ自己における無限の運動として自己自身の中に含んでいるということ、そしてこの自己の中における無限の運動は本質の直接性を否定性として規定すると共に、またその否定性を直接性として規定するのであって、その意味で本質の自己自身の中における映現であるということが、それである。ところで、このような自己運動の中にあるところの本質は、即ち反省である。

      C 反  省 Die Reflexion
 
 〔1、反省の本性〕 

 仮象は反省と同一のものである。しかし、仮象は直接的な反省としての反省である。そこで、この自己の中に復帰したところの、従ってその直接性を離脱したところの仮象に對して、われわれは外国語の反省( Reflexion )という言葉を使う。
 本質は反省である。それは自己自身の中にとどまるところの生成と移行との運動であって、それにおいては区別された存在は全くそれ自身否定的なものとして、仮象として規定されているにすぎない。-有の場合の成においては、規定性の根底に有が存在していて、その規定性は他者への関係であった。これに反して、反省的運動は否定それ自身としての他者であって、この否定は自己に関係する否定という意味でのみ有をもっている。或いは、この自己への関係は、まさにこのような否定の否定である故に、否定は否定として存在するのであり、即ち自己の否定態の中に自己の有をもつような否定として、言いかえると仮象として存在する。それ故に他者は、この場合には否定または限界を伴うところの有なのではなくて、否定をともなうところの否定なのである。・・・

 ・・・以下、省略・・・


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  D.ヘーゲル「小論理学」第2部本質論A112-123

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    ヘーゲル「小論理学」
 第1部 有 論 (86-98)  第3部 概念論 (160-244)
 A 質 (86-98)  A 主観的概念(163-193)
a 有 (86-88) a 概念そのもの (163-165)
b 定有 (89-95) b 判 断 (172-173)
c 向自有 (96-98)  イ 質的判断 (172-173)
 B 量 (99-100)  ロ 反省の判断 (174-176)
a 純量 (99-100)  ハ 必然性の判断(177)
b 定量 (101-106)  ニ 概念の判断 (178-180)
c 度  (103-106) c 推 理 (181-193)
 C 限 度 (107-111)  イ 質的推理 (183-189)
 ロ 反省の推理 (190)
 ハ 必然性の推理 (191-193)
 第2部 本質論 §112 ― §156  B 客 観(194-212)
 第2部 本質 Wesen 論
 (112-159)Die Lehre vom Wesen
a 機械的関係 (195-199)
A 現存在の根拠としての本質
A.Das Wesen als Grund der Existenz
(115-122)
b 化学的関係 (200-203)
a 純粋な反省規定 (115-122)
a. Die reinen Reflexionsbestimmungen
c 目的的関係 (204-212)
 イ 同一性 (115) α. Identität  C 理 念 (213-244)
 ロ 区別 (116-120)
       β. Der Unterschied
a 生命(216-222)
 ハ 根拠 (121-122)
        γ. Der Grund
b 認識(223-235)
b 現存在 (123-124)
        b. Die Existenz
 イ 認識(226-232)
c 物 (125-130) c. Das Ding  ロ 意志(233-235)
  B 現象 (131-141)
     B. Die Erscheinung
c 絶対的理念(236-244)
a 現象の世界 (131)
  a. Die Welt der Erscheinung
b 内容と形式 (133-134)
    b. Inhalt und Form
c 相関 (135-141)
     c. Das Verhältnis
 C 現実性 (142-149)
     C. Die Wirklichkeit
a 実体性の相関 (150-152)
  a Substantialitätsverhältnis
b 因果性の相関 (153-154)
    b Kausalitätsverhältnis
c 交互作用 (155-159)
    c Die Wechselwirkung