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『資本論』第2版 翻訳問題
価値抽象と背理 第1,2節/4(si001-01)

2020/09/17(木)


 資本論ワールド 編集部
 
  編集方針について
 『資本論』第1章を中心として、岩波書店・向坂逸郎訳と日経BP社・中山元訳を参照しながら、翻訳上の問題点や『資本論』解釈の争点・論争などを紹介してゆきます。
 『資本論』の「価値抽象 Wertabstraktion 」問題が凝縮された形で、露出してきます。戦後の『資本論』翻訳受難の50年(1969年岩波・向坂訳から50年)です。

 ◆キーワード
 1. 背理 ーcontradictio in adjecto〔形容矛盾〕
 2.


  なお、編集部の最新の調査報告(2020.09.26)は、こちらを参照してください。
   交換価値の「表現方式Ausdrucksweise」の翻訳問題は、
   数式の仕方(数式で表わす方法)」となります。

  適宜ドイツ語原本の挿入を編集部で行っています。
 岩波書店・向坂逸郎訳はこちら。 日経BP社・中山元訳はこちら

●進捗履歴2020.          
09.22_1-11.商品の使用価値からの抽象

 
  『資本論』経済学批判 岩波書店 向坂逸郎訳 と 日経BP社 中山元訳

    第1節 商品の2要素 使用価値と価値 (価値実体、価値の大いさ)
 

  1. 資本主義的生産様式の支配的である*1社会の富 Der Reichtum der Gesellschaften は、「*2巨大なる商品集積〔"ungeheure Warensammlung"〕(原注1)」として現われ、個々の商品はこの富の*3成素形態 Elementarform として*0現われる erscheint 。したがって、われわれの研究は商品 の分析をもって始まる。 

    (原注1) カール・マルクス『経済学批判』1859年、新潮社版第7巻p.57「*1市民社会の富は、一見して、巨大な商品集積であり、個々の商品はこの富の成素的存在で あることを示している。しかして、商品は、おのおの、使用価値と交換価値(1)という二重の観点で現われる。」   

    *4『経済学批判』アリストテレスの注(1):「何故かというに、各財貨の使用は二重になされるからである。・・・・その一つは物そのものに固有であり、他の一つはそうではない。例えていえば、サンダ ルの使用は、はきものとして用いられると共に交換されるところにある。両者共にサンダル の使用価値である。何故かというにサンダルを自分のもっていないもの、例えば食物と交換 する人も、サンダルを利用しているからである。しかし、これはサンダルの自然的な使用法 ではない。何故かいうに、サンダルは交換されるためにあるのではないからである。他の諸 財貨についても、事情はこれと同じである。」(新潮社版p.57)

    ■ 中山元 訳 日経BP社 __________

     1-1
     資本制生産様式が支配的な社会においては、社会の富は「一つの巨大な商品の集まり”ungeheure Warensammlung"」として現れ、個々の商品はその要素形態〔Elementarform:元素形式〕として現れる。だからわたしたちの研究もまた商品の分析から始まる。
     1-2
      商品は何よりも人間の外部にある対象であり、その
    特性 Eigenschaften によって何らかの種類の人間の欲望を満たす事物 Dingである。この欲望の性格 Natur が食欲であるか、幻想から生まれたものであるかは、重要なことではない。またこの物 Sacheが人間の欲望をどのように満たすのか、すなわち食べ物として、享受の対象として直接に満たすのか、それとも生産手段として、迂回路をへて満たすのかも、重要なことではない。


    編集部注 ______

     向坂訳「個々の商品はこの富の*3成素形態 Elementarform」に対して、中山訳は「要素形態」としてあります。「Element」は独和辞書にあるように、一般的には「要素, 構成要素」などですが、科学書や哲学史では「元素」となります。したがって、向坂訳の「成素」は極めて異例の扱いを行っています。広辞苑などの国語辞典には出てきません。
     実は、
    ■Lヘーゲル哲学関係で翻訳される用語です。『精神現象学』(1971-1973年)の訳者ー金子武蔵(岩波)、樫山欽四郎(河出書房)から流通した造語です。
     「再生は有機体の形式的概念をつまり感受性を、表現している。だが再生は本来から言えば有機体の現実的な概念であり、また全体である。この全体は、個体としては自己自身の個々の部分を生み出すことにより、類としては個体を生み出すことによって、自己に帰る。
     有機体の成素の別の意味つまり外なるものの意味は、それらが形をえた姿である。この形によればこれらの成素は現実的部分として、だが同時にまた一般的な部分、つまり有機的な組織として現存している。感受性は、たとえば神経組織として、再生は個体及び類を保存するための内臓として現存している。」(河出書房新社p.161-162)
     なお、向坂訳は用語の出典を明示していないので、読者に余計な負担を課していることになります。(「成素」なる用語自体は意味不明となる)

     ■L.成素形態 Elementarform の関連質料は、こちら

     ■L.「*2巨大なる商品集積〔"ungeheure Warensammlung"〕

     (商品の「集積」・(集合・集まり)Sammlung -ヘーゲル『精神現象学』)


  2. 商品はまず第一に外的対象である。すなわち、その属性Eigenschaft によって人間のなんらかの種類の欲望を充足させる一つの物である。こ れらの欲望の性質は、それが例えば胃の腑から出てこようと想像によるものであろうと、こ との本質を少しも変化させない(注2)。ここではまた、事物が、直接に生活手段として、すなわち、享受の対象としてであれ、あるいは迂路をへて生活手段としてであれ、いかに人 間の欲望を充足させるかも、問題となるのではない。
       
    (原注2)「願望をもつということは欲望を含んでいる。それは精神の食欲である。そして身体にたいする飢餓と同じように自然的なものである。・・・大多数(の物)が価値を有するのは、それが精神の欲望を充足させる からである」(*5ニコラス・バーボン『新貨幣をより軽く改鋳することにかんする論策、ロック氏の「考察」に答えて』 ロンドン、1696年、2-3ページ)。


  3.  鉄・紙等々のような*6一切の有用なる物は、と量 Qualität und Quantität にしたがって二重の観点から考察され るべきものである。このような*6すべての物は、多くの属性の全体をなすのであって、したが って、いろいろな方面に役に立つことができる。物のこのようないろいろの側面と、したがってその多様な使用方法を発見することは、歴史的行動(原注3)である。有用なる物の量をはかる社会的尺度を見出すこともまたそうである 。商品尺度の相違は、あるばあいには測定さるべき対象の性質の相違から、あるばあいには 伝習から生ずる。

     (原注3)「物は内的な特性(vertue ― これはバーボンにおいては使用価値の特別な名称である)をもっている。物の特性はどこに行っても同一である。例えば、磁石は、どこにいっても鉄を引きつける」(同上、6ページ)。磁石(関連コラム)の鉄を引きつける属性 Eigenschaft は、人がその性質を利用して*7磁極性 magnetische Polarität を発見するにいたって初めて有用となった。


    ■ 中山元 訳 __________
    1-3
      鉄や紙などの有用な物Dingは、それぞれ
    性質と量 Qualität und Quantitätという二重の側面から考察する必要がある。こうした物はすべて、多数の特性 Eigenschaften をそなえており、そのためにさまざまな側面において有益に利用することができる。物を利用しうるこれらのさまざまな側面と、その多様な使用方法を発見するのは、歴史の仕事である。有用な物がどれほどの量で必要とされるかを測定する社会的な尺度をみいだすのも、歴史の仕事である。商品の社会的な尺度の違いVerschiedenheit は、測定される対象の性質の多様性 der verschiedenen Naturによって生まれることも、習慣によって作りだされることもある。

    編集部注 ______

     
    ニコラス・バーボンとロックの論争は、こちら


  4.  一つの物の有用性は、この物を使用価値にする(原注4)。しかしながら、この有用性は 空中に浮かんでいるものではない。それは、*8商品体の属性 Eigenschaften des Warenkörpers によって限定されていて、商品体なくしては存在するものではない。だから、商品体自身が、鉄・小麦・ダイヤモンド等々というように、一つの使用価値または財貨である。このような商品体の性格 Charakter は、その有効属性を取得することが、人間にとって多くの労働を要するものか、少ない労働を要するものか、ということによってきまるものではない。使用価値を考察するに際しては、つねに、1ダースの時計、1エレの亜麻布、1トンの鉄等々というよ うに、それらの確定した量が前提とされる。商品の使用価値は特別の学科である商品学(原注5)の材料となる。使用価値は使用または消費されることによってのみ実現される。*9使用価値は、富の社会的形態 gesellschaftliche Form の如何にかかわらず、富の素材的内容 stofflichen Inhalt des Reichtums をなしている。われわれがこれ から考察しようとしている社会形態においては、*9使用価値は同時に-交換価値の素材的な担 い手 stofflichen Träger をなしている。

    (原注4) 「あらゆる物の自然価値(natural worth)とは、必要なる欲望を充足させ、あるいは人間生活の快適さに役立つ、物の適性のことである」(ジョン・ロック『利子低下の諸結果にかんする若干の考察』 1691年、『著作集』版、ロンドン、1777年、第2巻、28ページ)。第17世紀において、まだしばしばイギリスの著述家の間に „worth“ を使用価値の意味に、„value“ を交換価値の意味に、用いるのが見られる。全く、直接的の事物をゲルマン系語で、反省的事物をローマン系語で言い表わすことを愛する言語の精神にもとづくのである。

    (原注5) ブルジョア社会においては、すべての人は商品の買い手〔アドラツキー版には売り手。エンゲルス版・カウツキー版・英語版・フランス語版およびディーツ版『全集』ではすべて買い手となっている。……訳者〕として、百科辞典的商品知識をもっているという法的擬制(fictio juris)が、当然のことになっている。

    ■ 中山元 訳 __________
    1-4
     ある物が有用 Nützlichkeit であるとき、その物は使用価値をもつと言われる。しかしこの有用性は空中に漂っているものではない。有用性は
    商品の〈身体〉の特性 die Eigenschaften des Warenkörpers から生まれるものであり、この〈身体〉なしには存在しない。鉄、小麦、ダイヤモンドなどの商品の〈身体〉そのものが使用価値であり、財なのである。この〈身体〉の特性は、この商品が使用価値という性格を獲得するために人間がどれほどの労働を投入する必要があるかとは、かかわりがない。使用価値を考察するときには、1ダースの時計、1ヤードの亜麻布、1トンの鉄のように、つねに量的な規定 quantitative Bestimmtheit が想定されている。商品の使用価値は、商品学という独自な学問で研究する対象である。使用価値は、商品が使用され、消費されて初めて現実のものとなる。使用価値は富の内容の素材となるものであり、Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, その富の社会的な形態がどのようなものであるかにはかかわらない。わたしたちが考察している社会形態では、使用価値は[富の内容とは]別の素材の担い手となる。使用価値は交換価値の担い手なのである。 In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des - Tauschwerts.


    編集部注 ______
     
    中山元訳の丁寧な翻訳が現れている箇所です。「[富の内容とは]別の素材の担い手」ーすなわち、「使用価値は交換価値の担い手」ということが、次元の違う事態を指示しています。


  5.  *10交換価値は、まず第一に量的な関係として、すなわち、ある種類の使用価値が他の種類 の使用価値と交換される比率として、すなわち、時とところとにしたがって、絶えず変化する関係として、現われる erscheint (原注6)。したがって、交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に 相対的なるものであって、*11商品に内在的な、固有の交換価値(valeur intrinseque)という ようなものは、一つの背理(原注7)contradictio in adjecto〔形容矛盾〕)のように思われる。われわ れはこのことSacheもっと詳細に考察しよう

     〔 背理:誤った推論(正しいと思われていることに反すること)〕

     (原注6) 「価値は一つの物と他の物との間、一定の生産物の量と他のそれの量との間に成立する交換関係である)(ル・トゥローヌ 『社会的利益について』、『重農学派』デール版、パリ、1846年、88ページ)。

     (原注7) 「どんな物でも内的価値というようなものをもつことはできない」N・バーボン『新貨幣をより軽く改鋳することにかんする論策』6ページ)、またはバットラのいうように、
     「物の価値なるものはそれがちょうど持ち来すだけのものである。」


    ■ 中山元 訳 __________

           *交換価値  〔訳者の中見出し〕
     1-5

     交換価値はまず量的な関係として示される。この量的な関係とは、ある種の使用価値が別の種類の使用価値とどのような比率で交換されるかを示すものであり、この関係は時と所におうじてたえず異なる。このため交換価値は偶然的なもの、まったく相対的なもののようにみえる。
     そこで商品には内的で固有の交換価値があるという表現は、
    形容矛盾に聞こえるのである。この問題をさらに詳しく検討してみよう。


     ◆ 編集部注 ______

     
    この第5段落で、マルクスは「このことSacheもっと詳細に考察しよう」と、第1節全体の議論の展開を告知しています。
     まず議論の入口として、「contradictio in adjecto」を考察してゆきます。

     『資本論』の翻訳問題に関連してゆきますが、「交換価値の量的な関係」の分析です。


     ■分析手順として、
     1. この第5段落は、(contradictio in adjectoの翻訳-背理か形容矛盾か)翻訳を巡って、次以降の段落に翻訳と読解の違いが発生してきます。
      第6段落:形容矛盾に対応する「交換価値の量的な関係」に対する解釈・理解の相違、
     また
      第7段落:等式か方程式Gleichung: 1 Quarter Weizen = a Ztr. Eisen)翻訳の問題と「交換価値の量的な関係」の数学的表示方法
     さらに
      第9段落:商品の交換関係 Austauschverhältnis der Waren と商品の使用価値からの“抽象 Abstraktion (抽象化、抽象作用)”、 に関して見解が大きく分かれてゆきます。
     


  6.  背理
         〔■背理に対応する交換価値の説明ー赤字箇所

     一定の商品、1クォーターの小麦は、例えば z.B.、x量靴墨、またはy量絹、またはz量金等々 と、簡単にいえば他の商品と、きわめて雑多な割合で交換される。このようにして、小麦は 、唯一の交換価値のかわりに多様な交換価値をもっている。しかしながら、x量靴墨、同じく y量絹、z量金等々は、1クォーター小麦の交換価値であるのであるから、x量靴墨、y量絹、z 量金等々は、*12相互に置き換えることのできる交換価値、あるいは相互に等しい大いさの交換価値であるに相違ない。したがって、第一に、同一商品の妥当なる交換価値は、一つの同一 物を言い表している。だが、第二に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき内在物の 表現方式、すなわち、その「現象形態」でありうるにすぎない。


    ■ 中山元 訳 __________

    1-6   〔■形容矛盾に対応する交換価値の説明ー赤字箇所

      ある商品、たとえば1クォーターの小麦であれば、X量の靴墨やY量の絹布やZ量の金などと交換される。要するにこの小麦はさまざまな比率 verschiedensten Proportionen で他の商品と交換される。だからこの小麦の交換価値はただ一つではなく、多数の交換価値をそなえていることになる。しかしX量の靴墨もY量の絹布も Z量の金なども、すべて1クォーターの小麦の交換価値なのだから、X量の靴墨、Y量の絹布、Z量の金の交換価値はたがいに置き換えられうるものであり、同じ大きさ einander gleich große Tauschwerte でなければならない。
      そこで次のことが確認できる。 第一に、
    その社会で通用する同じ商品の交換価値は、同一である 〔drücken ein Gleiches aus:同じものを表現する〕。 第二に、交換価値はそもそもある内容 [価値] の「現象形態」であり、交換価値が表現する内容は、交換価値とは違うものである。

    Zweitens aber: Der Tauschwert kann überhaupt nur die Ausdrucksweise, die "Erscheinungsform" eines von ihm unterscheidbaren Gehalts sein.〔交換価値から区別・識別できる内容・実質〕


     ◆ 編集部注 _____

    第6段落:形容矛盾に対応する「交換価値の量的な関係」に対する理解の相違.

     中山訳の「形容矛盾」では、「丸い三角形」の表現のように捉えています。一方、向坂訳では、「一つの背理」(誤った推論)と意訳を行っています。

     中山訳”交換価値はそもそもある内容[価値]の「現象形態」であり、交換価値が「表現する内容」は、交換価値とは違うものである” として、このように中山訳は、表現する内容・仕方(丸い三角形」の形容矛盾に焦点を当てて, 理解と解釈の仕方に力点が置かれています。

     一方、向坂訳:「第二に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき内在物の 表現方式、すなわち、その「現象形態」でありうるにすぎない。」
     Zweitens aber: Der Tauschwert kann überhaupt nur die Ausdrucksweise, die "Erscheinungsform" eines von ihm unterscheidbaren Gehalts sein.〔交換価値から区別・識別できる中身・内容・実質

     
    *直訳的には:「第二に、だが:交換価値はそもそもただ区別・識別できる中身・内在物の表現方式「Ausdruck(化学・数学の)式」の「weise(方法)」、その” 現象形式 (現われ方の形式)” にちがいない。

    向坂訳: 内在物の 表現方式、すなわち、その「現象形態」でありうる ”として、contradictio in adjecto(形容矛盾)」の論理構成に関して「背理ー誤った推論(正しいと思われていることに反すること)」として理解し、交換価値の”表現形式(表現方法)”ーすなわち”現象形態ー現象として現われる形式”の 原因・根拠に言及 している、と言えます。

     この二人の「交換価値の量的な関係」の「把握の仕方の違い」が、次の 第7段落:等式か方程式Gleichung: 1 Quarter Weizen = a Ztr. Eisen)翻訳の問題ーとして継続してゆきます。
     すなわち、「形容矛盾・丸い三角形」の表現方法・形式の判断基準が「等式」に合致しているかどうか、を根拠にしています。



  7.  さらにわれわれは二つの商品、*13例えば z.B.小麦と鉄をとろう*。その交換関係がどうであれ、 この関係はつねに*一つの方程式に表わすことができる。そこでは与えられた小麦量は、なん らかの量の鉄に等置される。*例えば z.B.、1クォーター小麦=aツェントネル鉄というふうに。

     こ の方程式は何を物語るか?
    二つのことなった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様にaツェントネル鉄にも、同一大いさのある共通なものがあるということである。したがって、両つのものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身としては、前の二つのもののいずれでもない。両者のおのおのは、交換価値である限り、こうして、この第三のものに整約〔還元〕しうるのでなければならない。

      *〔背理の内容を展開ー交換関係はつねに”未知数”を含む一つの方程式に表わせるー〕


    ■ 中山元 訳 __________

           *交換価値の等式
     1-7
     さらに別の二つの商品として、小麦と鉄を考えてみよう。この二つの商品の
    交換比率 〔Austauschverhältnis:交換関係〕 がどのようなものであるにせよ、特定の量の小麦が特定の量の鉄と等しい関係にあることを示す 等式 〔方程式〕 で表現することができる es ist stets darstellbar in einer Gleichung,。 たとえば 1クォーターの小麦= a キログラムの鉄 1 Quarter Weizen = a Ztr. Eisen. という等式 〔Gleichung:方程式 で示されるのである。

      この等式
    〔方程式〕 は何を語っているのだろうか。1クォーターの小麦と a キログラムの鉄という二つの異なる物のうちに、同じ大きさのもの 〔Gemeinsames:共通のものー中山訳は“同じ大きさ”の語句に意訳している〕 が共通して存在しているということである。この小麦と鉄という二つの物が、小麦でも鉄でもない第三のものに等しく、この第三のものはそれ自身としては小麦でも鉄でもないということを示しているのである。だからどちらの商品も、交換価値としては、この第三のものに還元できるのでなければならない。

      〔
    すなわち、1-5の「形容矛盾」かどうかについては「商品には内的で固有の交換価値があるという表現は形容矛盾に該当しない」ことになります。


    編集部注 _____

    第7段落:
     向坂訳:「二つの商品、*13例えば 小麦と鉄」の「交換関係」を「”未知数”を含むーすなわち”未知数=ある共通なもの”と理解してー 一つの方程式に表わす」ことで、続く次の分析から「第三のものに整約〔還元〕し」てゆきます。すなわち商品の交換関係を「方程式」によって「表示する」方法です。
     一方、
     中山訳:二つの商品の交換比率」が「特定の量の小麦が特定の量の鉄と等しい関係」にあることを示すことで、「等式」を形成する根拠としています。
     すなわち「同じ大きさのものが共通して存在している」ので、「等式」と解釈しています。


  8.  一つの簡単な幾何学上の例がこのことを明らかにする。一切の直線形の面積を決定し、それを比較するためには、人はこれらを三角形に解いていく 。三角形自身は、その目に見える形と全くちがった表現-その底辺と高さとの積の2分の1― に整約される。これと同様に、商品の交換価値も、共通なあるものに整約されなければならない。それによって、*14含まれるこの共通なあるものの大小が示される


      編集部注 _____

      「一切の直線形の面積・・・を三角形に解いていく 。三角形自身は、その目に見える形と全くちがった表現-その底辺と高さとの積の2分の1― に整約(還元)」とは、

     上記1-6の 
    *直訳的には:「第二に、だが:交換価値はそもそもただ区別・識別できる中身・内在物の表現方式「Ausdruck(化学・数学の)式」の「weise(方法・やり方)」、その” 現象形式 ” にちがいない」ことを言い直しています。


     ■ 中山元 訳 __________

    1-8
      これは簡単な幾何学の実例で考えると分かりやすい。[六角形や七角形など]多数の直線で囲まれている図形を考えてみよう。この図形の面積を計算し、比較したければ、これを三角形に分解するとよい。そして三角形の面積は、目に見える図形とはまったく異なる表現に還元され、底辺の長さに高さを乗じて、それを2分の1にするという方法で計算できる。これと同じように複数の商品の交換価値は、ある〈共通なものGemeinsam〉に還元される。この
    〈共通なものGemeinsam〉を多く含んでいるか、少なく含んでいるか〔その比率によって〕で、その交換価値が決まるのである。

     〔ここでは、中山訳は、ー多く含んでいるか、少なく含んでいるかで、その交換価値が決まるー「等式」が成立する根拠を改めて確認しています。〕


  9.  この共通なものは、商品の幾何学的・物理的・化学的またはその他の自然的属性である ことはできない。商品の形体的属性は、ほんらいそれ自身を有用にするかぎりにおいて、したがって使用価値にするかぎりにおいてのみ、問題になるのである。しかし、他方において 、商品の交換関係 Austauschverhältnis der Warenをはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象Abstraktion(抽象作用)ー編集部注参照で ある。
     この交換関係の内部においては、*6一つの使用価値は、他の使用価値と、それが適当の割合にありさえすれば、ちょうど同じだけのものとなる。あるいはかの*5老バーボンが言って いるように、「一つの商品種は、その交換価値が同一の大いさであるならば、他の商品と同 じだけのものである。このばあい同一の大いさの交換価値を有する物の間には、少しの相違 または差別がない(原注8)。」

    (原注8) 「一商品種は、もし価値が同一であれば、他の商品種と同じものである。同一価値の物には相違も差別も存しない。……100ポンドの価値のある鉛または鉄は、100ポンドの価値ある銀や金と同一の大いさの交換価値をもっている」(N・バーボン、前掲書、53・57ページ)。


    ■ 中山元 訳 __________

          *人間労働の凝縮物
     1-9
     この〈共通なもの〉は、商品の幾何学的な特性でも、物理的な特性でも、化学的な特性でも、その他の自然の特性でもありえない。そもそも商品のこれらの〈身体〉的な特性 körperlichen Eigenschaften は、それが有用なものである場合にだけ問題になるのであり、使用価値としてしか問題にならないのである。 ところが商品の交換
    比率 Austauschverhältnis der Warenの明確な特徴は、この*使用価値がまさに無視される〔度外視される〕ということ 〔抽象・Abstraktion(抽象作用)〕である。
     交換
    比率が問われるときには、使用価値はたんにある比率で存在してさえいれば、他の商品の使用価値とまったく同じものとみなされる。
     老バーボンの表現を借りれば、「交換価値さえ同じであれば、商品がどのような種類のものであるかは問題ではない。交換価値の等しい物のあいだには違いも区別もない」のである。


    編集部注 _____

    第9段落:商品の交換関係 Austauschverhältnis der Waren と商品の使用価値からの“抽象 Abstraktion”、 に関して見解が大きく分かれてゆきます。

     向坂訳:「商品の交換関係をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象〔Abstraktion:抽象作用〕である。この交換価値の内部においては、一つの使用価値は、他の使用価値と、それが適当の割合にありさえすれば、ちょうど同じだけのものとなる。」

     中山元 訳:「 ところが商品の交換比率の明確な特徴は、この使用価値がまさに無視される〔度外視される〕ということ 〔Abstraktion(抽象作用)〕である。 交換比率が問われるときには、使用価値はたんにある比率で存在してさえいれば、他の商品の使用価値とまったく同じものとみなされる。」


     『資本論』の翻訳問題ー抽象・Abstraktion 

     向坂訳と中山訳の比較検討を行いましょう。この検討は、「価値の抽象-価値抽象問題」として「価値方程式」と並んでー根底をなしてー第1章の中軸を形成している概念です。じっくり腰を据えて取り組んでいく課題です。ここでは、問題群の概要を提示しますので、詳細は■LこちらAbstraktion(抽象作用)ー編集部注参照〕・・・09.22作業中・・・を参照してください。

     (1)向坂訳 A1「商品の交換関係 Austauschverhältnis der Waren」、B1「商品の使用価値からの抽象〔Abstraktion:抽象作用〕die Abstraktion von ihren Gebrauchswerten 」と、中山訳 A2商品の交換比率」、B2使用価値がまさに無視されるということ〔Abstraktion:度外視されること〕」について。

     向坂訳と中山訳の翻訳の違い・差異として、
     1.商品の Austauschverhältnis の翻訳ー「交換関係」と「交換比率」の違い
     2.「商品の使用価値からの抽象」(向坂訳)と「使用価値がまさに無視されるということ」(中山訳)
     3.次の1-11段落「いまもし商品体の使用価値を無視するとすれば、〔Sieht man nun vom Gebrauchswert der Warenkörper ab, 〕」は、1-9段落とセットになっていること。

     中山訳で「無視される(こと)」と訳された〔Abstraktion〕は、無視する(1-11: absehen:度外視する。 商品の使用価値を無視する Abstrahieren wir von seinem Gebrauchswert,→ abstrahieren は absehenと類語・同義語となっています)

     (2)向坂訳で「抽象」と訳され、中山訳では「無視→結果として本来の語義が捨象されること」と翻訳されている「Abstraktion」は、ヘーゲル「小論理学」では以下のように出現しています。

      ヘーゲル『小論理学』松村一人訳 岩波文庫(下)p.18
     「 §115  この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象 Abstraktion とは こうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。」
     
     『資本論』との類推で検討されるのは、「諸使用価値のさまざまな規定性・差異を捨象して、一つの規定性・交換価値(使用価値は交換価値の担い手という規定)へ集約」する仕方です。
     したがって、向坂訳:「商品の使用価値からの抽象」の「抽象」は、「捨象」と同義として認識していることになります。中山訳の「無視する」と一緒に、もう少し事態の内容を探究する課題となっています。→詳細は■LこちらAbstraktion(抽象作用)ー編集部注参照〕・・・09.28作業中・・・を参照してください。



  10.  使用価値としては、商品は、なによりもまずことなれる質のものである。交換価値としては、商品はただ量をことにするだけのものであって、したがって、一原子の使用価値をも含んでいない。

  11.  いまもし 商品体の使用価値を無視するとすれば、〔Sieht man nun vom Gebrauchswert der Warenkörper ab, 〕
    商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである。だが、われわれにとっては、この労働生産物も、すでにわ れわれの手中で変化している。われわれがその使用価値から抽象するならば Abstrahieren wir von seinem Gebrauchswert、われわれは労 働生産物を使用価値たらしめる物体的な組成部分や形態からも抽象することとなる。それはもはや机や家でも撚糸でも、あるいはその他の有用な何物でもなくなっている。すべてのその感覚的な性質は解消している。それは もはや指物労働の生産物でも、建築労働や紡績労働やその他なにか一定の生産的労働の生産物 でもない。労働生産物の有用なる性質とともに、その中に表わされている労働の有用なる性 質は消失する。したがって、これらの労働のことなった具体的な形態も消失する。それらは もはや相互に区別されることなく、ことごとく同じ人間労働、抽象的に人間的な労働〔abstrakt menschliche Arbeit :副詞的用法のabstrakt〕に整約される〔reduzieren:「還元する」動詞系がabstraktと連動して副詞的用法となっています。〕。


    ■ 中山元 訳 __________

    1-11
      
    さて、商品の〈身体〉の使用価値を無視するならば 〔absieht→absehen:度外視する、問題としない〕、そこに残るのは商品が労働の生産物であるという特性だけである。しかしわたしたちの手の中で、この労働の生産物はすでに変化してしまっている。 商品の使用価値を無視するということは Abstrahieren wir von seinem Gebrauchswert, 、その商品の使用価値を作りだしている物体的な成分や形態もまた無視するということである。その商品はもはやテーブルや住宅や紡ぎ糸などの有用な物ではなくなっている。商品の感覚的な特性はすべて消滅している。 これはもはや家具労働、建築労働、紡績労働、その他の種類の特定の生産的な労働の生産物ではなくなっている。労働の生産物の有用な性格 nützlichen Charakter が失われるとともに、これらの労働の具体的に異なる形態もまた消滅する 〔verschwinden:姿を消す,なくなる〕。もはやこれらの労働はたがいに区別されず、すべて同じ人間労働に、抽象的な人間労働 〔abstrakt:抽象的に menschliche Arbeit〕 に還元されている。


    編集部注 _____
     
     向坂訳, 中山訳両方とも「商品体の使用価値を無視する(absehen)」と翻訳・解釈しています。
     上記 1-9 では、向坂訳の「商品の交換関係」は、中山訳の「商品の交換比率」とは区別されていましたが、11段落で、両者とも一致して「使用価値を無視する」ことになります。
     ーー向坂訳では「 第9段落:商品の交換関係 Austauschverhältnis der Waren と商品の使用価値からの“抽象 Abstraktion” に関して表現形式・見解が大きく分かれて」いたのですが、交換関係の内部では、「使用価値を無視する」観点では 同じ”やり方”をしていることになります。すなわち、向坂訳でも「交換関係」も「交換比率」も 同じ”扱い” をしていることになります。

     
    資本論ワールド編集部では、
     1-5において「この第5段落は、contradictio in adjectoの翻訳-背理か形容矛盾か-を巡って、次段落以降に読解の違いが発生してきます。」と提議して、「
    第6段落 形容矛盾, 第7段落 等式か方程式か, 第9段落「抽象作用・Abstraktion 」の探索を進めてきました。
     しかしながら、1-11段落にきて、
    向坂・中山両者の翻訳が「商品の使用価値を無視するというやり方・分析視点では一致して同じ”扱い” をしてしまいます

     商品の交換関係の”内部”で発生している事態に対して、向坂訳と中山訳両者が、
    なぜ、同じ”扱いー使用価値を無視する” で一致してしまう結論となるのでしょうか?
    ー「交換価値と使用価値の相互関連の分析」を巡る議論の不透明さと混濁・混迷が発生する原点がここにあります。こうして探索は続行されなければならない。
     *詳しくは、
    こちらを参照してください。(2020.09.28現在作成中です)



  12.  われわれはいま労働生産物の残りをしらべて見よう。もはや、妖怪のような同一の対象性いがいに、すなわち、無差別な人間労働に、いいかえればその支出形態を考慮することのない、人間労働力支出の、単なる膠状物 Gallert 〔Gallertの中山訳は凝縮物〕というもの意外に、労働生産物から何物も残っていない。これらの物は、ただ、なおその生産に人間労働力が支出されており、人間労働が累積されているということを表わしているだけである。これらの物は、おたがいに共通な、こ の社会的実体の結晶として、価値―商品価値である。


    ■ 中山元 訳 __________

    1-12
      それではこのようにして残された労働生産物の残滓を検討してみよう。そこに残されているのは、人間のさまざまな労働がどのような形態で行われたかはまったくかかわりなく、たんに無差別に行使された人間労働の凝縮物 eine bloße Gallerte unerschiedsloser menschlicher Arbeit,という幻想的な実態 gespenstige Gegenständlichkeitにすぎない。これが表現しているのは、`これを生産するために人間の労働力が行使されたということ、そこに人間の労働力が蓄積されているということだけである。それは、これらの物に共通する社会的な実体 gemeinschaftlichen Substanz の結晶であり、これがこの商品の価値、商品価値なのである。



  13.  商品の交換関係そのものにおいては Im Austauschverhältnis der Waren selbst、その交換価値は、その使用価値から全く独立しているあるもの〔Unabhängig:独立したもの ー(使用価値に)左右されないもの 〕として、現われたerschien。もしいま実際に労働生産物の使用価値から抽象するAbstrahiert man nun wirklich vom Gebrauchswert der Arbeitsprodukte: 労働生産物の使用価値を度外視する〕とすれば、いま規定されたばかりの労働生産物の価値が得られる。商品の交換比率 Austauschverhältnis または交換価値に表われている共通なものは、かくて、その価値である。研究の進行とともに、われわれは価値の必然的な表現方式または現象形態としての交換価値に、帰ってくるであろう。だが、この価値はまず第一に、この形態から切りはなして unabhängig von 考察せらるべきものである。


    ■ 中山元 訳 __________

     1-13
      商品の交換関係 Austauschverhältnis のうちで、商品の交換価値はその使用価値とはまったく独立したものdurchaus Unabhängigesのようにみえる
    〔erschien:姿を現す〕
    労働生産物の使用価値を実際に無視してしまうと A
    bstrahiert man nun wirklich vom Gebrauchswert der Arbeitsprodukte、このように規定された労働生産物の価値が決定される。だからすでに考察してきた〈共通なもの〉とは、商品の価値である。これが商品の交換比率 Austauschverhältnis として、商品の交換価値として表現されるのである。
    これから研究を深めていくと、
    価値の必然的な表現形式として、または現象形式として、この交換価値について考察することになるが、ここではこの価値は これらの形式とは別に考察する必要があるのである。


    編集部注 _____

     上記1-5から1-11まで、段落ごとにかなり細かくたどってきましたが、1-13段落で、中山訳の混線した議論が簡潔に整理された形で、まとめられています。
     ①商品の交換関係のうちで
     ②使用価値とはまったく独立したもの
     ③使用価値を実際に無視してしまうと〔度外視すると〕
     ④このように規定された労働生産物の価値が決定
     ⑤商品の価値ー交換比率 Austauschverhältnisとして、商品の交換価値として表現される
     ⑥価値の必然的な表現形式ー現象形式として交換価値を考察する


  14.  このようにして、一つの使用価値または財貨が価値をもっているのは、ひとえに、その中に抽象的に人間的な労働が対象化されているから、または物質化されているからである。そこで、財貨の価値の大いさはどうして測定されるか? その中に含まれている「価値形成実体」である労働の定量によってである。労働の量自身は、その継続時間によって測られる。そして労働時間には、また時・日等のようか一定の時間部分としてその尺度標準がある。


    ■ 中山元 訳 __________

    1-14
    このように、商品の使用価値または財が価値をもつのは、そこに抽象的な人間労働が[物的なものとして]対象化され、物質化されているからである。この価値の大きさはどのようにして測定されるのだろうか。そこに含まれる「価値を形成する実体"wertbildenden Substanz"」の大きさ Quantum、すなわち労働の量 Die Quantität der Arbeit によってである。この労働の量そのものは、労働が持続した時間の長さで決定され、この労働時間の長さを測定する尺度は、1時間、1日のように、特定の時間の長さである。



  15.  もしある商品の価値が、その生産の間に支出された労働量によって規定されるならば、ある男が怠惰であり、または不熟練であるほど、その商品は価値が高いということになりそうである。というのは、その商品の製造に、この男はそれだけより多くの時間を必要とするからである。だが、価値の実体をなす労働は、等一の人間労働である。同一人間労働力の支出である。商品世界の価値に表わされている社会の全労働力は、ここにおいては同一の人間労働力となされる。もちろんそれは無数の個人的労働力から成り立っているのであるが。これら個人的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力の性格をもち、またこのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間をのみ用いるというかぎりにおいて、他のものと同一の人間労働力なのである。社会的に必要な労働時間とは、現に存する社会的に正常な生産諸条件と労働の熟練と強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値仝造り出すために必要とされる労働時間である。例えば、イギリスに蒸気織機が導入されたのちには、一定量の撚糸を織物に変えるために、おそらく以前の半ばほどの労働で足りた。イギリスの手織職人は、この織物に変えるために、実際上は前と同じように、同一の労働時間を要した。だが、彼の個人的労働時間の生産物は、いまではわずかに半分の社会的労働時間を表わしているだけとなった。したがって、その以前の価値の半ばに低落した。


    ■ 中山元 訳 __________

    1-15
      商品の価値が、それを生産するために消費された労働の量verausgabte Arbeitsquantumの大きさで決定されるのだとすればEs könnte scheinen, [疑問が生じるかもしれない。たとえば] ある労働者が怠け者であるか、労働に熟練していない場合には、商品を完成するためには長い時間がかかってしまい、その商品の価値が高くなるということにはならないだろうか。しかし価値の実体となる労働というものは、同等な人間労働のことであり、同等な人間の労働力の行使である。商品世界の価値のうちには、社会の全体の労働力が表現されるのであり、これはたしかに無数の個人的な労働力で構成されるが、ただ一つの同等な人間の労働力とみなされるのである。
      個々の個人の労働力はすべて、その社会の平均的な労働力という性格をそなえている。この労働力は、これはその社会の平均的な労働力として行使されるのであり、一つの商品を生産するために平均して必要な労働時間(これは社会的に必要な労働時間と呼ばれる)だけを費やすものであるため、他の人の労働力と同じになるのである。この社会的に必要な労働時間とは、社会的に正常な既存の生産条件のもとで、社会的に平均した労働の熟練度と強度を行使して、何らかの使用価値を作りだすために必要な労働時間のことである。
       たとえばイギリスに蒸気で作動する織物機械が導入された後には、一定の量の紡ぎ糸を亜麻布に織りあげるための労働時間は、それ以前の半分に短縮された。この機械を利用せずに手作業で布地を織る職人は、実際には以前と同じだけの労働時間を働くとしても、彼の個人としての1労働時間の生産物は、社会的な労働時間としては「機械を利用する場合の」半分の労働時間の価値しかなくなった。手作業で布地を織る職人の生産物の価値は、それ以前の半分に低下したのである。



  16.  そんなわけで、ある使用価値の価値の大いさを規定するのは、ひとえに、社会的に必要な労働の定量、またはこの使用価値の製造に社会的に必要な労働時間にほかならないのである(原注9)。個々の商品は、このばあい要するに、その種の平均見本にされてしまう。(原注10)同一の大いさの労働量を含む商品、または同一労働時間に製作されうる商品は、したがって、同一の価値の大いさをもっている。ある商品の価値の他の商品のそれぞれの価値にたいする比は、ちょうどその商品の生産に必要な労働時間の、他の商品の生産に必要な労働時間にたいする比に等しい。
    「価値としては、すべての商品は、ただ凝結せる労働時間の一定量であるにすぎない。」(原注11)

     (原注9) 第二版への注。「使用対象の価値は、それらが相互に交換されるときには、その生産に必然的に要せられ、通例として投下される労働の量によって規定される」(『一般金利、とくに公債等における金利にかんする二、三の考察』ロンドン、三六ページ)。この注目すべき前世紀の匿名書には日付がない。だが、それがジョージ2世治下、およそ1739年または1740年に刊行されたものであることは、その内容から明らかである。

     (原注10)「すべて同一種の産物は、本来、その価格が一般的にかつ特別の事情を考慮することなく規定される一つの集塊であるにすぎない」(ル・トゥローヌ『社会的利益について』893ページ)。

     (原注11)カール・マルクス『批判』6ページ〔ディーツ版『全集』第13巻、18ページ。邦訳、岩波文庫版、26ページ。新潮社版『選集』第7巻、60ページ〕。


    ■ 中山元 訳 __________

    1-16
     このように一つの使用価値の大きさを決定するのは、社会的に必要な労働の量das Quantum gesellschaftlich notwendiger Arbeitであり、その使用価値を生産するために社会的に必要とされる労働時間だけなのである。この場合には個々の商品は一般に、その種類の商品の平均的な見本とみなされる。複数の商品は、そこに同じ大ききの労働量が含まれるならば、言い換えれば、同じ労働時間で生産できるのであれば、同じ大きさの価値をもつことになる。ある商品の価値と別の商品の価値の比率は、その商品の生産に必要な労働時間の長さと、別の商品の生産に必要な労働時間の長さの比率と一致する。
    「価値としてみたすべての商品は、凝固した労働時間の特定の量にほかならない」。"Als Werte sind alle Waren nur bestimmte Maße festgeronnener Arbeitszeit."



  17.  したがって、ある商品の価値の大いさは、もしその生産に必要な労働時間が不変であるならば、不変である。しかしながらこの労働時間は、労働の生産力における一切の変化とともに変化する。労働の生産力は、種々の事情によって規定される。なかでも、労働者の熟練の平均度、科学とその工学的応用の発展段階、生産過程の社会的組み合わせ、生産手段の規模と作用力とによって、さらに自然的諸関係によって、規定される。同一量の労働は、例えば豊年には 8ブッシェルの小麦に表わされるが、凶年には僅か4ブッシェルに表わされるにすぎない。同一量の労働は、富坑においては、貧坑におけるより多くの金属を産出する、等々。ダイヤモンドは、地殼中にまれにしか現われない。したがって、その採取には、平均して多くの労働時間が必要とされる。そのために、ダイヤモンドは、小さい体積の中に多くの労働を表わしている。ジェーコブは、金はいまだかつてその価値を完全に支払われたことはあるまい、といっている。このことは、
    もっとつよくダイヤモンドにあてはまる。エッシュヴェーゲによれば、1823年、ブラジルのダイヤモンド坑80年間の総産出高は、ブラジルの砂糖栽培とコーヒー栽培の1ヵ年半の平均生産物の価格にも達しなかった。ダイヤモンド総産出高の方が、より多くの労働を、したがってより多くの価値を表わしていたのは勿論のことであったが。より豊かな鉱山では、同一の労働量がより多くのダイヤモンドに表わされ、その価値は低下するであろう。もし少量の労働をもって、石炭がダイヤモンドに転化されうるようになれば、その価値は練瓦以下に低下することになるだろう。一般的にいえば、労働の生産力が大であるほど、一定品目の製造に要する労働時間は小さく、それだけその品目に結晶している労働量は小さく、それだけその価値も小さい。逆に、労働の生産力が小さければ、それだけ一定品目の製造に必要な労働時間は大きく、それだけその価値も大きい。したがって、ある商品の大きさは、その中に実現されている労働の量に正比例し、その生産力に逆比例して変化する。

      第1版には、次の一文がつづく。「われわれは、いまや価値の実体を知った。それは、労働である。われわれは価値の大いさの尺度を知った。それは労働時間である。価値をまさに交換価値にしてしまうその形態は、これから分析する。だが、その前に、すでにここで見出された規定を、いま少し詳しく述べておかなければならぬ。」―ディーツ版編集者


    ■ 中山元 訳 __________

    *交換価値の変動 
     1-17
     そのため一つの商品を生産するために必要な労働時間が変わらないかぎり、その商品の価値の大きさも同じである。ただし労働の生産力が変動すると、必要な労働時間も変動する。労働の生産力はさまざまな要因によって決定される。とくに労働者の平均的な熟練度、科学とその技術的な応用可能性の発展段階、複数の生産過程の社会的な結合、生産手段の規模と効力、自然の状況などが重要である。
      たとえば豊作の年であれば8ブッシェルの小麦を収穫できる労働量でも、不作の年にはわずか4ブッシェルの小麦しか収穫できないこともあるだろう、鉱物の埋蔵量が多い鉱山では、同じ労働量でも、埋蔵量の乏しい鉱山よりも多量の金属を掘り出すことができるだろう、などなど。
      ダイヤモンドは地表近くにはほとんど存在しないために、これを発見するために平均して長い労働時間が必要である。だからダイヤモンドはその小さな体積のうちに、多量の労働を表現しているのである。ジェイコブは、金がその「ほんらいの」すべての価値を支払われたことがあるかどうかは疑問であると語ったことがある。それならば、ダイヤモンドについては、この言葉がもっとあてはまるだろう。
      エシュヴェーゲによると、1823年の時点でブラジルの過去80年間のダイヤモンド鉱山の総生産量の価格は、ブラジルの砂糖とコーヒーのプランテーションで1年半の期間で生産される平均生産物の価格を下回っていたという。それでもダイヤモンドの生産には、砂糖とコーヒーの生産よりも長い労働時間が含まれていたのであり、大きな価値を含んでいたのである。ダイヤモンドの埋蔵量の豊富な鉱山があれば、同じ労働量でより多くのダイヤモンドが生産できるだろうし、ダイヤモンドの価値は低下するだろう。もしもわずかな労働で石炭をダイヤモンドに変えることができたならば、ダイヤモンドの価値はレンガの価値よりも低くなることだろう。        
      一般的に、労働の生産力が高いほど、一つの物品を生産するために必要な労働時間が短くなり、そこに結晶する労働量も小さくなり、その物品の価値も小さくなる。反対に労働の生産力が低くなると、一つの物品を生産するために必要な労働時間が長くなり、その物品の価値は大きくなる。ある商品の価値の大きさは、それを生産するために必要な労働の量に正比例し、その労働の生産力に反比例するのである。



  18. 物は、価値でなくして使用価値であるばあいがある。その物の効用が、人間にとって労働によって媒介せられないばあいは、それである。例えば、空気・処女地・自然の草地・野生の樹木等々がそうである。物によっては、有用であり、また人間労働の生産物であって、商品でないばあいがある。自分の生産物で自身の欲望を充足させる者は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他の人々にたいする使用価値、すなわち、社会的使用価値を生産しなければならぬ。
    (そしてただに他の人々にたいして生産するだけではない。中世の農民は封建領主のために年貢の穀物を、僧侶のために10分の1税の穀物を生産した。しかし、この年貢穀物も10分の1税穀物も、それらが他の人々のために生産されたということによって、商品となったわけではない。商品となるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他の人にたいして、交換によって移譲されるのでなければならない。(11a))最後にどんなものでも、使用対象でなくして、価値であることはできない。それが効用のないものであるならば、その中に含まれている労働も効用がなく、労働のうちにはいらず、したがってまた、なんらの価値をも形成しない。(11a)第4版への注。私はこのカッコ内の文句を入れた。というのは、この文旬を除くと、生産者以外の人々によって消費される生産物はすべてマルクスにおいて商品と考えられているという誤解が、きわめてしばしば生じたからである。― F・E(Friedrich Engels フリードリヒ・エンゲルス)


    ■ 中山元 訳 __________

            *自然に生まれる使用価値
     1-18
     ある物が価値をもたずに、使用価値をもつことがありうる。物が人間にとって有益であるのに、その物を使用するために人間の労働が不要な場合がこれにあてはまる。空気、処女地、自然のままの草原、野生の樹木などがその実例である。物は商品でなくても、有益な物であったり、人間の労働の生産物であったりすることもある。みずからの生産物で自分の欲望を満たす人は、使用価値を作りだしているが、商品を作るわけではない。商品を作りだすためには、その人は使用価値を作りだすだけでなく、他人のための使用価値を、社会的な使用価値を作りだす必要がある。{ しかも他人のためというだけでは不十分である。中世の農民は封建領主のために年貢として穀物を生産し、聖職者のために10分の1税の穀物を生産していた。しかしこうした年貢のための穀物も10分の1税のための穀物も、他人のために生産されたが、商品になったわけではない。生産物が商品になるには、それが使用価値をもつ他人に、交換をつうじて譲渡されなければならないのである }。 最後にどのようなものであっても、使用の対象でなければ価値をもつことはできない。それが無用なものであれば、そこに含まれる労働もまた無用のものである。これは労働とはみなされず、いかなる価値も作りださないのである。




 第1章第2節検索一覧(*~*

  第2節 商品に表わされた労働の二重性

2-1 最初商品はわれわれにとって両面性のものとして、すなわち、使用価値および交換価値として現われた。後には、労働も、価値に表現されるかぎり、もはや使用価値の生産者としての労働に与えられると同一の徴表をもたないということが示された。商品に含まれている労働の二面的な性質は、私がはじめて批判的に証明したのである。この点が跳躍点であって、これをめぐって経済学の理解があるのであるから、この点はここでもっと詳細に吟味しなければならない。

  (12)『批判』12、13ページおよびその他の諸所〔ディーツ版『全集』第13巻、22、23ページ以下。邦訳、岩波文庫版、33・35ページ以下、その他。新潮社版『選集』第7巻、64、65ページ、その他〕。

2-2  二つの商品、例えば1着の上衣と10エレの亜麻布とをとろう。前者は後者の2倍の価値をもっており、したがって、10エレの亜麻布がWとすれば、1着の上衣は2Wであるとしよう。

2-3  上衣は特別の欲望を充足させる一つの使用価値である。これを作るためには、一定の種類の生産的活動を必要とする。生産的活動はその目的、作業法、対象、手段および成果によって規定される。労働の有用性が、かくて、その生産物の使用価値に表わされ、すなわちその生産物が一つの使用価値であるということのうちに表わされているばあい、この労働を簡単に有用労働と名づける。この観点のもとでは、労働はつねにこの利用効果と結びつけて考察される。

2-4  上衣と亜麻布とが質的にちがった使用価値であるように、その存在を媒介する労働は、質的にちがっている。―裁縫と機織。もしそれらのものが質的にちがった使用価値でなく、したがって、質的にちがった有用労働の生産物でないとすれば、これらのものは、決して商品として相対することはありえないであろう。上衣は上衣に対しては交換されない。同一使用価値は同一使用価値と交換されることはない。

2-5  各種の使用価値または商品体の総体の中に、同じく属・種・科・亜種・変種等々というように、種々様々のちがった有用労働の総体が現われている。― 社会的分業である。この分業は商品生産の存立条件である。商品生産は逆に社会的分業の存立条件ではないのであるが。古代インドの共同体では、労働に、社会的に分割されているが、生産物が商品となることはない。あるいはもっと近い例をあげると、あらゆる工場で労働は系統的に分割されている。だが、この分割は、労働者がその個人的生産物を交換するということによって媒介されてはいない。お互いに商品として相対するのは、独立的でお互いに分かれている私的労働の生産物だけである。

2-6  したがって、こういうことが明かとなる。すなわち、すべての商品の使用価値の中には、一定の目的にそった生産的な活動または有用労働が含まれている。もし使用価値の中に、質的にちがった有用労働が含まれていないとすれば、使用価値は商品として相対することはできない。その生産物が一般に商品の形態をとる社会においては、すなわち、商品生産者の社会においては、独立生産者の私業として相互に独立して営まれる有用労働のこのような質的な相違は、多岐に分かれた労働の体制に、すなわち社会的分業に発展する。

2-7  だが、上衣にとっては、それを裁縫職人が着るか、その顧客が着るかは、どうでもいいことなのである。そのいずれのばあいでも、上衣は使用価値として作用している。同じように、上衣とこれを生産する労働との関係は、それ自身としては、裁縫が特別の職業となること、社会的分業の独立の分肢となることによって、変化することはない。着物を着るという欲望が人間に強要するかぎり、人間は、ある男が裁縫職人となる以前に、幾千年の永きにわたって裁縫した。しかしながら、上衣・亜麻布等、自然に存在しない素材的富のあらする要素が現存するようにたったことは、特別な人間的要求に特別な自然素材を同化させる特殊的な目的にそった生産活動によって、つねに媒介されなければならなかった。したがって、使用価値の形成者として、すなわち、有用なる労働としては、労働は、すべての社会形態から独立した人間の存立条件であって、人間と自然との間の物質代謝を、したがって、人間の生活を媒介するための永久的自然必然性である。

2-8  上衣・亜麻布等々の使用価値、簡単に商品体は、自然素材と労働という二つ要素の結合である。上衣・亜麻布等々に含まれているちがった一切の有用労働の総和を引き去るならば、つねに入間の加工なしに自然に存在する物質的基盤が残る。人間は、その生産において、自然みずからするようにするほか仕方のないものである。すなわち、ただ素材の形態を変更するほかに仕方のないものである(13)。さらに、この製作の労働そのものにおいても、人間はたえず自然力の援けをかりている。したがって、労働はその生産する使用価値の、すなわち素材的富の、唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティがいうように、労働はその父であって、土地はその母である。

 (13) 「宇宙の一切の現象は、それが人間の手によってもたらされようと、物理学の一般法則によってもたらされようと、事実上の新創造ではなくして、単に素材の形態変更であるにすぎない。複合と分離は、人間精神が再生産の観念の分析にあたって、いかなるときにも見出す唯一の要素である。そして、価値(使用価値のこと。むろん、ヴェリはこのばあいその重農学派にたいする論争において、どんな種類の価値について自分が語っているのかを、自分ではよく知らないのである)と富の再生産についても、土地・空気および水が、耕地で穀物に転化されるばあい、あるいはまた人間の手によってある種の昆虫の分泌物が絹糸に転化され、あるいは若干の金属の小片が一つの時打ち懐中時計をつくるために組み立てられるばあいで見るように、ことは同様である」(ピエトロ・ヴェリ『経済学にかんする考察』―初版、1771年―。クストディの『イタリアの経済学者』版で刊行。近代篇、第15巻、21、22ページ)。

2-9 われわれは、使用対象という限度内で商品を論じたのであるが、これから商品価値に移ろう。

2-10 われわれの想定によれば、上衣は亜麻布の2倍の価値をもっている。しかしながら、このことは量的な相違にすぎないのであって、いまのところわれわれの関心を惹くものではない。したがって、われわれは、もし1着の上衣の価値が10エレの亜麻布の価値の2倍の大いさであるとすれば、20エレの亜応布は1着の上衣と同一の価値の大いさをもっているということを思い起こすのである。価値として、上衣と亜麻布とは同一実体のものであり、同一性質の労働の客観的表現である。しかしながら、裁縫と機織とは質的にちがった労働である。だが、こういう社会状態がある。そこでは同一人間が交互に裁縫したり織ったりする、したがって、この二つのちがった労働様式は、同一個人の労働の変形にすぎないもので、ちがった個人の特殊な固定した機能にまだなっていないのであって、ちょうど今日われわれの裁縫職人の作る上衣と明日彼のつくるズボンとが、同一の個人的労働の変化であるにすぎないことを前提するのと同じである。さらに、われわれは日頃こういうことを目で見ている。すなわち、われわれの資本主義社会では、労働需要の方向の変化によって、一定分の人間労働が交互に裁縫の形態で供給されたり、機織の形態で供給されたりするのである。このような労働の形態変更は、摩擦なく行なわれるわけではあるまいが、しかし、行なわれざるをえないものである。生産的活動の特定性、したがってまた労働の有用な性格を見ないとすれば、労働に残るものは、それが人間労働力の支出ということである。裁縫と機織とは、質的にちがった生産的活動ではあるが、両者ともに、人間の頭脳・筋肉・神経・手等々の生産的支出であって、この意味では両者ともに人間労働である。それは人間労働力を支出する二つのちがった形態であるにすぎない。もちろん、人間の労働力それ自身は、どの形態でも支出されうるためには、多少とも発達していなければならぬ。しかしながら、商品の価値は人間労働そのものを、すなわち人間労働一般の支出を表わしている。さてブルジョア的社会では、将軍または銀行家が大きな役割を演じ、人間そのものは、これに反して、きわめてみすぼらしい役割を演ずる(14)ように、このばあいでも人間労働は同じ取り扱いをうけている。この労働は、すべての普通の人間が特別の発達もなく、平均してその肉体的有機体の中にもっている単純な労働力の支出である。単純なる平均労働自身は、国のことなるにしたがい、また文化時代のことなるにしたがって、その性格を変ずるのではあるが、現にある一定の社会内においては与えられている。複雑労働は、強められた、あるいはむしろ複合された単純労働にすぎないものとなるのであって、したがって、複雑労働のより小なる量は、単純労働のより大なる量に等しくなる。この整約が絶えず行なわれているということを、経験が示している。ある商品はもっとも複雑な労働の生産物であるかもしれない。その価値はこの商品を、単純労働の生産物と等しい関係におく。したがって、それ自身、単純労働の一定量を表わしているにすぎない(15)。それぞれちがった種類の労働が、その尺度単位としての単純労働に整約される種々の割合は、生産者の背後に行なわれる一つの社会的過程によって確定され、したがって、生産者にとっては慣習によって与えられているように思われる。ことを簡単にするために、以下においてはどの種類の労働力も直接に単純労働力であると考えられる。これによってただ整約の労をはぶこうというのである。

  (14) ヘーゲル『法の哲学』ベルリン、1840年、250ページ、第190節参照。
  (15) 読者に注意して貰わなければならぬことは、ここでは、労働者が例えば一労働日にたいして受け取る賃金または価値について論じているのではなくして、その労働日が対象化されている商品価値について論じているということである。労働賃金という範疇は、そもそもわれわれの説明のこの段階では、まだ問題にはならない。

2-11  したがって、上衣や亜麻布という価値においては、その使用価値の相違から抽象されているように、これらの価値に表わされている労働においては、その有用なる形態である裁縫や機織の相違から抽象されている。上衣や亜麻布という使用価値が、目的の定められた生産的な活動と布や撚糸との結合であるように、上衣や亜麻布という価値が、これと反対に、単なる同種の労働膠状物であるように、これらの価値に含まれている労働も、布や撚糸にたいするその生産的な結びつきによるのでなく、ただ人間労働力の支出となっているのである。上衣や亜麻布という使用価値の形成要素は、裁縫であり、機織である。まさにそれらの質がちがっていることによってそうなるのである。それらの労働が上衣価値や亜麻布価値の実体であるのは、ただそれらの特殊な質から抽象され、両者が同じ質、すなわち人間労働の性質をもっているかぎりにおいてである。

2-12  しかしながら、上衣と亜麻布とは、ただ価値そのものであるだけではなく、一定の大いさの価値である。そしてわれわれの想定によれば、1着の上衣は10エレの亜麻布の2倍だけの大いさ心価値である。どこから、それらの価値の大いさの相違が生ずるのか? それは、亜麻布がただ上衣の半分だけの労働を含んでいること、したがって、上衣の生産には、労働力が亜麻布の生産にくらべて2倍の時間、支出されなければならぬということから来るのである。

2-13  したがって、使用価値にかんしては、商品に含まれている労働がただ質的にのみ取り上げられているとすれば、価値の大いさについては、労働はすでに労働であること以外になんら質をもたない人間労働に整約されたのち、ただ量的にのみ取り上げられているのである。前者では、労働は、如何になされるかということ、何を作るかということが問題であるが、後者では、労働のどれだけということ、すなわち、その時間継続ということが問題なのである。ある商品の価値の大いさは、ただそれに含まれている労働の定量をのみ表わしているのであるから、商品はある割合をもってすれば、つねに同一の大いさの価値でなければならぬ。

2-14  例えば、1着の上衣の生産に必要な一切の有用労働の生産力が不変であるこすれば、上衣の価値の大いさは、それ自身の量とともに増大する。もし1着の上衣がX労働日を表わすそすれば、2着の上衣は2x労働日を表わす、等々である。しかしながら、1着の上衣の生産に必要な労働が2倍に増大するか、または半分だけ減少するという場合を仮定しよう。第一のばあいにおいては、1着の上衣は、以前の2着の上衣と同じ価値をもつものとなる。後のばあいには、2着の上衣が、以前の1着の上衣と同じ価値をもつにすぎないこととなる。もちろん、二つのばあいにおいて、1着の上衣は依然として同一のはたらきを果たし、それに含まれている有用労働は、依然として同一品質のものにとどまっているのであるが。ところが、その生産に支出されている労働量は、変化しているのである。

2-15  より大きな量の使用価値は、それ自身としてはより大きな素材的富をなしている。2着の上衣は1着よりは多い。2着の上衣では、2人の人に着せることができる。1着の上衣では、1人の人に着せることができるだけである、等々。だが、素材的富の量が増大するのにたいしては、その価値の大いさの同時的低下ということが、相応じうる。この相反する運動は、労働の両面的な性格から生じている。生産力は、もちろんついに有用な具体的な労働の生産力である。そして実際にただ与えられた期間における、目的にしたがった生産的活動の作用度を規定しているだけである。したがって、有用労働は、その生産力の増大あるいは低下と正比例して、より豊富な生産物源泉ともなれば、より貧弱なそれともなる。これに反して、生産力の変化は、価値に表わされている労働それ自身には、少しも触れるものではない。生産力は、労働の具体的な有用な形態がもっているものであるから、労働が、この具体的な有用な形態から抽象されるやいなや、当然にもはや労働に触れることはできない。したがって、同一の労働は、同一の期間に、生産力がどう変化しようと、つねに同一大いさの価値を生む。しかしながら、生産力は同一期間に、ちがった量の使用価値をもたらす。生産力が増大すればより多く、それが低下すればより少ない。労働の生産度を増大させ、したがって、これによってもたらされる使用価値の量を増加させる同じ生産力の変化は、このようにして、もしこの変化がその生産に必要な労働時間の総計を短縮するならば、この増大した総量の価値の大いさを減少させる。同じように、逆のばあいは逆となる。

2-16  すべての労働は、一方において、生理学的意味における人間労働力の支出である。そしてこの同一の人間労働、または抽象的に人間的な労働の属性において、労働は商品価値を形成する。すへての労働は、他方において、特殊な、目的の定まった形態における人間労働力の支出である。そしてこの具体的な有用労働の属性において、それは使用価値を生産する(16)。

  (16) 第2版への注。「労働のみがすべての商品の価値を、あらゆる時代に、評価し、比較しうる終局的な真実な尺度である」ということを証明するために、A・スミスはこう述べている。「同一量の労働は、あらゆる時代あらゆる場所において、労働者自身のために同一価値をもっていなければならぬ。労働者の健康・力および活動の正常な状態において、そして彼のもっていると考えられる熟練の平均度とともに、彼は、つねにその安息、その自由およびその幸福の、それ相応の部分を犠牲としなければならぬ」(『諸国民の富』第1篇第5章〔E・G・ウェイクフィールド版、ロンドン、1836年、第1巻、104ページ以下。邦訳、大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』岩波文庫版、第1分冊、155―156ページ〕)。一方A・スミスは、ここで(どこででもというわけではない)、商品の生産に支出された労働量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と混同している。したがって、同一量の労働が、つねに同一価値をもつことを証明しようと企てる。他方では彼は、労働が商品の価値に表わされるかぎり、労働力の支出としてのみ考えられるものであることを感じているが、この支出をまた、ただ安息・自由および幸福の犠牲とのみ解していて、正常な生活活動とも解していない。もちろん、彼は近代賃金労働者を眼前に浮かべている。
―注(9)に引用した匿名のA・スミスの先駆者は、はるかに正しくこう述べている。
「一人の男がこの欲望対象の製造に1週間をかけた。……そして彼に他の対象を交換で与える男は、彼にとって同じ大いさの労働と時間を費やさせるものを計算するよりほかには、より正しく実際に同価値であるものを算定することができない。このことは、事実上ある人間が一定の時間に一つの対象に費消した労働と、同一時間に他のある対象に費消された他の人の労働との、交換を意味している」(『一般金利……にかんする二、三の考察』 39ページ)。―{ 第4版に。英語は、労働のこの二つのことなった側面にたいして、二つのことなった言葉をもっているという長所がある。使用価値を作り出し、質的に規定される労働を Work といい、Labour に相対する。価値を作り出し、ただ量的にのみ測定される労働を Labour といって、Workに相対する。英語訳14ページの注を参照されよ。-F・E }。
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