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  3. 『資本論』抄録ー第1章第1節(si004-04)

『資本論』抄録 第1章(si004-04)

『資本論』抄録 第1章 商品

『資本論』経済学批判 第1版 第2版 文献比較研究
抄録 si004-01 序文 はこちら 『資本論』序文・説明
si004-02 第1章 1節はこちら 第1節商品の2要素
si004-03 第1章 2節はこちら 第2節労働の二重性
si004-04 第1章 3節はこちら 第3節価値形態または交換価値
si004-05 第1章 4節はこちら 第4節商品の物神的性格
si004-06 第2章はこちら 第2章 交換過程
si004-07 『経済学批判』 第1編資本一般 第1章 商品 
『経済学批判』A 商品分析の歴史
si004-08 第3節価値形態 概要  貨幣発生の証明の概要
 

 このページの目次 (クリックでとびます)

  
   第3節 価値形態または交換価値

 第1版  第2版 文献比較研究  ー第3節ー
・中見出しー編集部作成 第2版・岩波文庫 第1版・国民文庫
1. A 単純な,個別的な,または偶然的な価値形態  p.90-114 第1形態
2. B 総体的または拡大せ価値形態 p.115-118 第2形態
3. C 一般的価値形態 p.119-126 第3形態
4. D 貨幣貨幣 p.127-128 第4形態
      ★第3節 価値形態または交換価値 概要
*参考文献 『経済学批判』第1編 資本一般 第1章 商品
 

 第2版

  第3節 価値形態または交換価値

3-1 商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄・亜麻布・小麦等々として、生まれてくる。これが彼等の生まれたままの自然形態である。だが、これらのものが商品であるのは、ひとえに、それらが、二重なるもの、すなわち使用対象であると同時に価値保有者であるからである。したがって、これらのものは、二重形態、すなわち自然形態と価値形態をもつかぎりにおいてのみ、商品として現われ、あるいは商品の形態をもつのである。

3-2 諸商品の価値対象性は、かのマダム・クィックリ 〔シェイクスピアの『ヘンリー4世』等の中の人物。……訳者〕とちがって、一体どこを摑まえたらいいか、誰にもわからない。商品体の感覚的に手触りの荒い対象性と正反対に、諸商品の価値対象性には、一分子の自然素材もはいっていないのである。したがって、一々の商品をどう捻りまわして見ても、それを価値物として摑むことはできない。だが、もし諸商品が同一の社会的等一性gesellschaftlichen Einheitである人間労働の表現であるかぎりでのみ、価値対象性を有ち、したがってそれらの価値対象性は、純粋に社会的であるということを想い起こして見るならば、おのずから価値対象性が、ただ商品と商品との社会的関係においてのみ現われうるものであるということも明らかとなる。われわれは、実際において商品の交換価値から、または交換比率から出発して、その中にかくされている商品の価値をさぐりえたのである。いまわれわれは、価値のこの現象形態に帰らなければならぬ。

3-3 人は、何はともあれ、これだけは知っている、すなわち、諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態をもっているということである。―すなわち、貨幣形態である。だが、ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっとも単純なもっとも目立たぬ態容から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。これをもって、同時に貨幣の謎は消え失せる。

3-4 最も単純な価値関係は、明らかに、ある商品が、他のなんでもいいが、ただある一つの自分とちがった種類の商品に相対する価値関係である。したがって、二つの商品の価値関係は、一つの商品にたいして最も単純な価値表現を与えている。


3-5   単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
   A Einfache、einzelne、oder zufällige  Wertform

   *ヘーゲル「小論理学」の用語→「 単純な  個別的な  偶然的な 」
       *― “新しいウィンドウで開く”を選択 ー

3-6   x量商品A = y量商品B あるいは、x量の商品Aは y量の商品B に値する (亜麻布20エレ = 上衣1着 または20エレの亜麻布は1着の上着に値する)。

3-7 1 価値表現の両極。すなわち、相対的価値形態と等価形態

 一切の価値形態の秘密は、この単純なる価値形態の中にかくされている。したがって、その分析が、まことの難事となるのである。

3-8 ここでは、2種の異なった商品 AとB、われわれの例でいえば、亜麻布と上衣とは、明白に二つのちがった役割を演じている。亜麻布はその価値を上衣で表現している。上衣はこの価値表現の材料の役をつとめている。第一の商品は能動的の役割を演じ、第二の商品は受動的のそれを演じている。第一の商品の価値は、相対的価値として表わされている。いいかえると、第一の商品は相対的価値形態にあるのである。第二の商品は等価として機能している。すなわち等価形態にあるのである。

3-9 相対的価値形態と等価形態とは、相関的に依存しあい、交互に条件づけあっていて、離すことのできない契機であるが、同時に相互に排除しあう、または相互に対立する極位である。すなわち、同一価値表現の両極である。この両極は、つねに価値表現が相互に関係しあうちがった商品の上に、配置されるものである。私は、例えば亜麻布の価値を、亜麻布で表現することはできない。亜麻布20エレ = 亜麻布20エレというのは、なんら価値表現とはならない。方程式はむしろ逆のことをいっている。すなわち、20エレの亜麻布は、20エレの亜麻布にほかならないということ、亜麻布という使用対象の一定量にほかならないということである。したがって、亜麻布の価値はただ相対的にのみ、すなわち、他の商品においてのみ、表現されうるのである。したがって、亜麻布の相対的価値形態は、何らかの他の商品が、自分にたいして等価形態にあるということを予定している。他方において、等価の役を引き受けているこの他の商品は、みすから同時に相対的価値形態にあるというわけにはいかぬ。この商品は自分の価値を表現しているのではない。この商品はただ他の商品の価値表現に、材料を供給しているだけである。

3-10 むろん、亜麻布20エレ=上衣1着 または20エレの亜麻布は1着の上衣に値するという表現は、上衣1着=亜麻布20エレ または1着の上着は20エレの亜麻布に値するという逆関係をも今んではいる。しかしながら、上衣の価値を相対的に表現するためには、方程式を逆にしなければならぬ。そして私がこれを逆にしてしまうやいなや、亜麻布は上衣のかわりに等価となる。したがって、同一の商品は同一価値表現において、同時に両形態に現われることはできない。この二つの形態は、むしろ対極的に排除しあうのである。

3-11 それで、ある商品が相対的価値形態にあるか、これに相対立する等価形態にあるかということは、もっぱら価値表現におけるその時々の位置にかかっているのである。ということは、ある商品がその価値を表現するものであるか、それともその商品によって価値が表現されるものであるか、にかかっているということである。

3-12

 2 相対的価値形態

  a 相対的価値形態の内実

1.  どういう風に一商品の単純なる価値表現が、二つの商品の価値関係にふくされているかということを見つけ出してくるためには、価値関係を、まずその量的側面から全く独立して考察しなければならぬ。人は多くのばあい正反対のことをやっている。そして価値関係の中に、ただ二つの商品種の一定量が相互に等しいとされる割合だけを見ている。人は、異種の物の大いさが、同一単位に約元されてのちに、初めて量的に比較しうるものとなるということを忘れている。同一単位の表現としてのみ、これらの商品は、同分母の、したがって通約しうる大いさなのである(17)。

  (注17) S・ベイリーのように、価値形態の分析をやった少数の経済学者が、なんらの結論にも到達できなかったのは、第一に、彼らが価値形態と価値とを混同しているからであり、第二に、彼らが実際的なブルジョアの生のままの影響下にあって、初めから、もっぱら量的規定性だけを眼中に置いているからである。「量にたいする支配が、……価値をなすものである」(S・ベイリー『貨幣とその価値変動』ロンドン、1837年、11ページ)。

2. 亜麻布20エレ=上衣1着 または =20着 または =x着となるかどうか、すなわち、一定量の亜麻布が多くの上衣に値するか、少ない上衣に値するかどうかということ、いずれにしても、このようないろいろの割合にあるということは、つねに、亜麻布と上衣とが価値の大いさとしては、同一単位derselben Einheit,の表現であり、同一性質の物Dinge von derselben Naturであるということを含んでいる。亜麻布=上衣ということは、方程式の基礎である。Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung.

3. しかしながら、二つの質的に等しいとされた商品は、同一の役割を演ずるものでない。ただ亜麻布の価値のみが表現されるのである。そしていかに表現されるか? 亜麻布の「等価」としての、あるいは亜麻布と「交換され得るもの」としての上衣に、関係せしめられることによってである。この関係において、上衣は価値の存在形態、すなわち、価値物となされる。なぜかというに、このようなものとしてのみ、上衣は亜麻布と同一物であるからである。他方において、亜麻布自身の価値たることが前景に押し出される、すなわち、独立の表現を得る。なぜかというに、ただ価値としてのみ亜麻布は、等価物としての、あるいは自分と交換されうるものとしての、上衣に関係するからである。このようにして、酪酸は蟻酸プロピルとはちがった物体である。しかし、この両者は同一の化学的実体―炭素(C)、水素(H)および酸素(O)―から、しかも同一割合の組成、すなわち、C4H8O2から成り立っている。そこで、もし酪酸に蟻酸プロピルが等しい関係に置かれるとすれば、この関係においては、第一に蟻酸プロピルは単にC4H8O2の存在形態とされ、第二に酪酸もまたC4H8O2から成り立つということがいわれるであろう。こうして、蟻酸プロピルを酪酸と等置することによって、その化学的実体は、その物体の形態と区別して表現されるであろう。

4. 価値としては、商品は人間労働の単なる凝結物であると、われわれがいうとすれば、われわれの分析は、これらの商品を価値抽象 Wertabstraktion に整約するのではあるが、これらの商品に、その自然形態とちがった価値形態を与えるものではない。一商品の他のそれにたいする価値関係においては、ことはちがってくる。その価値性格は、この場合には、それ自身の他の商品にたいする関係によって現われてくる。

5. 例えば、上衣が価値物として亜麻布に等しいとされることによって、上衣にひそんでいる労働は、亜麻布にひそんでいる労働に等しいとされる。さて上衣を縫う裁縫は、亜麻布を織る機織とは種類のちがった具体的な労働であるが、しかしながら、機織に等しいと置かれるということは、裁縫を、実際に両労働にあって現実に同一なるものに、すなわち、両労働に共通な人間労働という性格に、整約するのである。この迂給を通って初めてこういわれるのである。機織も、価値を織りこむかぎり、裁縫にたいしてなんらの識別徴表をもっていない、すなわち、抽象的に人間的な労働であるというのである。ただおのおのちがった商品の等価表現 Äquivalenzausdruck のみが、種類のちがった商品にひそんでいる異種労働を、実際にそれらに共通するものに、すなわち、人間労働一般に整約して、価値形成労働の特殊性格を現出させる。

(注17a) 第2版への注。ウィリアム・ペティの後に、価値の性質を見破った最初の経済学者の一人である有名なフランクリンはこう述べている。「商業はそうじてある労働の他の労働にたいする交換にほかならないのであるから、すべての物の価値は、労働で評価されるのが、もっとも正しい」(『B・フランクリン著作集』スパークス版、ボストン、1836年、第2巻、267ページ)。フランクリンは、すべての物の価値を「労働で」評価して、交換された労働の異種性から抽象しているということを、―そしてこのようにして、これを同一人間労働に整約しているのだということを、意識していない。それでも、自分で知らないことを、彼は言っているのである。彼は、はじめ「ある労働」について、次いで「他の労働について」、最後に、すべての物の価値の実体であるほかなんらの名をもっていない「労働」について語っている。

6. だが、亜麻布の価値をなしている労働の特殊な性質を表現するだけでは、充分でない。流動状態にある人間労働力、  すなわち人間労働は、価値を形成するのではあるが、価値ではない。それは凝結した状態でin geronnenem Zustand,、すなわち、対象的な形態でin gegenständlicher Form価値となる。人間労働の凝結物としての亜麻布価値を表現するためには、それは、亜麻布自身とは物的に相違しているが、同時に他の商品と共通に亜麻布にも存する「対象性"Gegenständlichkeit"」として表現されなければならぬ。課題はすでに解決されている。

7. 亜麻布の価値関係において、上衣はこれと質的に等しいものqualitativ Gleichesとして、すなわち、同一性質の物とみなされる。というのは、上衣は価値であるからである。したがって、上衣はここでは価値の現われるerscheint物として、またはその掴みうる自然形態で、価値を表示している物となされている。ところが上衣、すなわち、上衣商品の肉体Körper der Rockwareは、たしかに単なる使用価値ではあるが、しかし、ある上衣をとって見ると、任意の一片の亜財布と同じように、価値を表現するものではない。このことは、ただ次のことを立証するだけである。すなわち、上衣が亜麻布にたいする価値関係の内部においては、その外部におけるより多くを意味すること、あたかも多くの人間が笹縁(ささべり)をつけた上衣の内部においては、その外部におけるより多くを意味するようなものであるというのである。

 *笹縁(ささべり)をつけた上衣:eines galonierten Rockes >galonieren: 飾りひも<モール>を縫いつける。 >Galon: (金・銀の)組みひも、 金<銀>モール

8. 上衣の生産においては、事実上裁縫の形態で人間労働力が支出された。したがって、人間労働は上衣の中に堆積されている。この側面から見れば、上衣は「価値の保持者」である。もちろん、この上衣の属性そのものは、どんなに糸目がすいていても、のぞいて見えるわけではないが。そして亜麻布の価値関係においては、上衣はただこの側面からのみ、したがって、体現された価値としてのみ、価値体としてのみ取り上げられている。上衣がどんなにすまし顔で現われても、亜麻布は、彼の中に血のつながりのある美わしい価値ごころを認めている。だが、上衣は彼女にたいして、同時に価値が彼女のために上衣の形態をとることなくしては、価値を表わすことはできないのである。こうして、個人Aは個人Bにたいして、Aにとって、陛下が同時にBの肉体の姿をとり、したがってなお容貌や毛髪やその他多くのものが、その都度の国君とともに変わるということなくしては、陛下として相対するわけにはいかない。

9. 上衣が亜麻布の等価をなす価値関係においては、このように、上衣形態は、価値形態とされる。亜麻布なる商品の価値は、したがって、上衣なる商品の肉体で表現される。一商品の価値は他の商品の使用価値で表現されるのである。使用価値としては、亜麻布は上衣とは感覚的にちがった物である。価値としては、それは「上衣に等しいもの」であって、したがって、上衣に見えるのである。このようにして、亜麻布は、その自然形態とはちがった価値形態を得る。その価値たることが、上衣との同一性 Gleichheit に現われること、ちょうどキリスト者の羊的性質が、その神の仔羊との同一性に現われるようなものである。

10.  商品価値の分析が以前に告げたような一切のことを、亜麻布は他の商品、上衣と交わるようになるやいなや、自身で、申し述べることがわかる。ただ、亜麻布は、その思いを自分だけにずる言葉、すなわち商品の言葉でもらすだけである。人間労働の抽象的な属性で労働が亜麻布自身の価値を形成することをいうために、亜麻布は、上衣が、亜麻布に等しいとされ、したがって価値であるかぎりにおいて、亜麻布と同一の労働から成っているという風に言うのである。亜麻布の森厳なる価値対象性が、そのゴワゴワした布の肉体とちがっているというために、亜麻布は、価値が上衣に見え、したがって、亜麻布自身が価値物としては、卵が他の卵に等しいと同じように、上衣に等しいという風に言うのである。ついでに述べておくと、商品の言葉も、ヘブライ語でほかに、なお多くの多少正確さのちがったいろいろの方言をもっている。ドイツ語の„Wertsein“〔価値あり〕という言葉は、例えば、ローマン語の動詞 valere, valer, valoir 〔上から順次にイタリア語・スペイン語・フランス語。……訳者〕 ほどにはっきりと、商品Bを商品Aと等置することが、商品A自身の価値表現であるということを表現しない。パリは確かにミサに値する!(Paris vant bien une messe !)〔アンリ4世はパリを支配下において王位につくために、新教から旧教に改宗した。そのとき右の言葉を発したといわれている。……訳者〕。

11.  したがって、価値関係を通して、商品Bの自然形態は、商品Aの価値の価値形態となる。あるいは商品Bの肉体は、商品Aの価値かがみとなる(18)。商品Aが商品Bを価値体として、すなわち、人間労働の体化物として、これに関係することにより、商品Aは、使用価値Bを、それ自身の価値表現の材料とするのである。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値に表現されて、相対的価値の形態を得るのである。

  (18) このことは、商品と同じようにいくらか人間にもあてはまる。人間は、鏡をもって生まれてくるものでも、フィヒテ流の哲学者として、我は我であるといって生まれてくるものでもないのであるから、まず他の人間の中に、自分を照らし出すのである。ペーテルという人間は、パウルという人間にたいして、自身に等しいものとして相関係ずることによって、初めて、自分自身に人間として相関係する。しかしながら、このようにしてペーテルにとっては、パウルなるものの全身が、そのパウル的肉体性のままで、人間という種の現象形態と考えられるのである。


  2 相対的価値形態 

   相対的価値形態の量的規定性   

1. 価値の表現せられるべきあらゆる商品は、15シェッフェルの小麦、100ポンドのコーヒー等というように、一定量の使用対象である。この与えられた商品量は、人間労働の一定量を含んでいる。したがって、価値形態は、ただに価値一般を表現するだけでなく、量的に規定された価値、すなわち価値の大いさをも表現しなければならぬ。商品Aの商品Bにたいする価値関係、亜麻布の上衣にたいする価値関係においては、したがって、上衣なる商品種は、ただに価値体一般として亜麻布に質的に等しいと置かれるだけでなく、一定の亜麻布量、例えば20エレの亜麻布にたいして、価値体または等価の一定量、例えば1着の上衣が等しいと置かれるのである。


2. 亜麻布20エレ=上衣1着 または亜麻布20エレは上衣1着に値する」という方程式は、1着の上衣のなかにまさに20エレの亜麻布の中におけると同じだけの量の価値実体がかくされているということ、両商品量は、したがって、おなじだけの労働が加えられている、または同一大いさの労働時間がかけられているということを前提とする。しかしながら、20エレの亜麻布または1着の上衣の生産に必要なる労働時間は、機織または裁縫の生産力における一切の変化とともに変化する。そこで、価値の大いさの相対的表現に及ぼすこのような変化の影響が、もっと詳細に研究されなければならぬ。


3.  I 亜麻布の価値は変化するが(19)、上衣価値は不変であるとするばあい。亜麻布の生産に必要な労働時間が、例えば亜麻栽培地の豊度の減退の結果、2倍となったとすれば、その価値は2倍となる。亜麻布20エレ=上衣1着のかわりに、われわれは亜麻布20エレ=上衣2着という式をもつことになる。というのは、1着の上衣は、いまでは20の亜麻布の半ばだけの分量の労働時間を含むにすぎないのであるからである。これに反して、亜麻布の生産に必要な労働時間が半分だけ、例えば織台改良の結果、減少するとすれば、亜麻布価値は半分だけ低下する。したがってこんどは亜麻布20エレ=上衣1/2着となる。商品Aの相対的価値、すなわち、その商品Bに表現された価値は、このようにして、商品Bの価値を同一としても、商品Aの価値に正比例して上騰したり、低下したりするのである。

 (19) 「価植」(„Wert“)という表現は、ここでは、すでに以前に時々あちこちでやったたように、量的に規定された価値、すなわち、価値の大いさという意味に用いられている。


4.  Ⅱ 亜麻布の価値は不変であって、上衣価値が変化するばあい。この事情のもとでは上衣の生産に必要な労働時間が、例えば羊毛剪截〔せんせつ:はさみで断ち切ること〕が不便とたったために、2倍となったとすれば、われわれは亜麻布20エレ=上衣1着という式のかわりに、いまでは亜麻布20エレ=上衣1/2着という式を得る。これに反して、上衣の価値が半分に低下したとすれば、亜麻布20エレ=上衣2着という式を得ることになる。したがって商品Aの価値を不変としても、商品Bで表現されるその相対的価値は、Bの価値変化と反比例で、低下したり上騰したりするのである。

5.  I および Ⅱの項における各種のばあいを比較すると、次のような結果が生ずる。すなわち、相対的価値の同一なる量的変化が、全く相反した原因から発生しうるということである。このようにして、亜麻布20エレ=上衣1着という式から、(1)、亜麻布20エレ=上衣2着という方程式が出てくる。それは亜麻布の価値が2倍となったのか、または、上衣の価値が半ばに低下したのかによるのである。さらに、(2)、亜麻布20エレ=上衣1/2着という方程式も出てくる。それは亜麻布の価値が半分に低下したのか、または上衣の価値が2倍にのぼったからである。


6.  Ⅲ 亜麻布と上衣の生産に必要な労働量は、同時に同一方向に同一割合で変化することもある。このばあいには、その価値がどんなに変化しても、依然として亜麻布20エレ=上衣1着である。この価値変化を発見するには、これらの二つの商品を、価値不変なる第三の商品と比較しさえすればよいのである。一切の商品の価値が、同時に同一割合で上騰または低下するならば、その相対的価値は不変にとどまるであろう。こんどは、この実際の価値変化は、同一労働時間に、以前より大きな商品量か、小さな商品量かが、同じように供給されるということから明らかとなるであろう。


7.  Ⅳ 亜麻布と上衣の生産にそれぞれ必要な労働時間、したがって、それらの価値は、同時に同一の方向に変化するとしても、ちがった程度に変化するばあい、または反対の方向に変化するばあい等々がある。一商品の相対的価値にたいする、この種のあらゆる可能な組み合わせの影響は、簡単にI、Ⅱ、Ⅲのばあいの応用によって明らかとなる。
 このようにして価値の大いさの現実の変化は、その相対的な表現において、あるいは相対的価値の大いさにおいて、曖昧さを残さず反映されるわけでも、剰(あま)すところなく反映されるわけでもない。一商品の相対的価値は、その価値が不変であっても変化しうる。その相対的価値は、その価値が変化しても、不変でありうる。そして最後に、その価値の大いさとその価値の大いさの相対的表現とにおける同時的変化は、決して相互に一致するわけのものではないのである(20)。

 (20) 第2版への注。価値の大いさとその相対的表現との間のこの不一致は、俗学的経済学によってもちまえの鋭敏さで、利用しつくされている。例えば、「かりに、Aが低落するのは、その間にAにたいして支出される労働は減少しないとしても、その交換されるBが上騰するからであるということを承認するとしたらどうか。そうなったら、諸君の一般的な価値原理は崩壊するであろう。……もし、Aの価値は相対的にBにたいして上騰し、Bの価値は相対的にAにたいして低下するということを承認するならば、リカードが、一商品の価値はつねにこれに体現されている労働の量によって規定されるという、彼の大命題を樹立した基礎は、ゆらぐ。なぜかというに、もしAの費用における変化が、それが交換されるBにたいする比率において、それ自身の価値を変化させるだけでなく、Bの生産に要する労働量においてなんらの変化が起こらなかったにもかかわらず、相対的にAの価値にたいするBの価値をも変化させるとする力らば、一商品にたいして支出される労働量が、その価値を規制するということを主張する教義は、崩壊するだけでなく、一商品の生産費がその価値を規制するという教義も、亡びることになるからである」(J・ブロードハースト『経済学にかんする論策』ロンドン、1842年、11・14ページ)。
  ブロードハースト氏は、これと同じように、こうも言うことができたのだ。こころみに10/20、10/50、10/100等々という数的比率を考えて見るといい。10なる数に変わりはない。だがしかし、その比、その分母たる20,50,100にたいする相対的な大いさは、不断に減少している。だから、10というような整数の大いさが、例えば、これに含まれている1の倍数によって「規制」されるという大原理は、崩壊してしまう、と。

・・・以上、「b 相対的価値形態の量的規定性」 終わり・・・

  3 等価形態

 1. われわれはこういうことを知った、すなわち、商品A(亜麻布)が、その価値を異種の商品B(上衣)という使用価値に表現することによって、Aなる商品は、Bなる商品自身にたいして独特な価値形態〔価値の形式〕、すなわち、等価の形態〔等価の形式〕を押しつけるということである。亜麻布商品は、それ自身の価値たることをば、次のことによって現わしてくる、すなわち、自分にたいして上衣が、その肉体形態とことなった価値形態をとることなくして、等しいものとして置かれるということである。このようにして、亜麻布は自分自身価値であることを、実際には上衣が直接に自分と交換しうるものであるということをつうじて、表現するのである。 一商品の等価形態は、それゆえに、この商品の他の商品にたいする直接的な交換可能性の形態である。


2. もし上衣というような一商品種が、亜麻布のような他の商品種にたいして、等価として用いられるとしても、したがって、上衣が亜麻布と直接に交換しうる形態にあるという独特の属性を得るとしても、これによって、決して上衣と亜麻布とが交換されうる割合も、与えられているというわけではない。この割合は、亜麻布の価値の大いさが与えられているから、上衣の価値の大いさにかかっている。
 上衣が等価として表現され、亜麻布が相対的価値として表現されるか、それとも逆に亜麻布が等価として表現され、上衣が相対的価値として表現されるか、そのいずれにしても、上衣の価値の大いさが、その生産に必要な労働時間によって、したがって、その価値形態からは独立して決定されているということには、変わりはない。しかし、上衣なる商品種が、価値表現において等価の地位をとることになると、その価値の大いさは、価値の大いさとしての表現をもたなくなる。
 その価値の大いさは、価値方程式において、むしろただ一物の一定量として現われるだけである。

3. 例えば、40エレの亜麻布は、一体何に「値する」のか?二着の上衣に。というのは、上衣なる商品種は、ここでは等価の役割を演じているのであり、上衣という使用価値は、亜麻布にたいして価値体とされているのであるから、一定の価値量としての亜麻布を表現するには、一定量の上衣ということで充分である。したがって、二着の上衣は、40エレの亜麻布の価値の大いさを表現することはできるが、決して自分自身の価値の大いさを、すなわち、上衣の価値の大いさを表現することはできないのである。
  等価が価値方程式においてつねに一物、すなわち、一使用価値の単に一定量の形態をもっているにすぎないというこの事実を、皮相に理解したことは、ベイリーをその先行者や後続者の多くとともに誤り導いて、価値表現においてただ量的な関係だけを見るようにしてしまった。一商品の等価形態は、むしろなんらの量的価値規定をも含んでいないのである。


4. 等価形態の考察に際して目立つ第一の特性は、このことである、すなわち、使用価値がその反対物の現象形態、すなわち、価値の現象形態となるということである。

5. 商品の自然形態が価値形態となる。しかしながら、注意すべきことは、このquid pro quo〔とりちがえ〕は、商品B(上衣または小麦または鉄等々)にとっては、ただ他の適宜(てきぎ)な商品A(亜麻布等々)が自分にたいしてとる価値関係の内部においてのみ、すなわち、この関連の内部においてのみ起こるということなのである。いかなる商品も、自分自身にたいして等価として関係することはなく、したがってまた、自分自身の自然の皮膚を、自分自身の価値の表現となすことは出来ないのであるから、このような商品は、他の商品を等価として、これに関係しなければならぬ。
 いいかえれば、他の商品の自然の皮膚を自分自身の価値形態にしなければならぬ。


6. このことを明らかにするために、商品体としての、すなわち、使用価値としての商品体に用いられるをつねとする度量衡の例を見よう。一つの砂糖塊は、物体であるから、重い。したがって重量をもっている。しかしながら、人は、砂糖塊をなでてさすっても、その重量を見つけることはできない。そこでわれわれは、あらかじめ重量の定められている種々なる鉄片を取り出すのである。
  鉄の物体形態も、砂糖塊のそれも、それだけを見れば、ともに、重さの現象形態ではない。だが、砂糖塊を重さとして表現するためには、われわれは、これを鉄との重量関係におく。この関係においては、鉄は、重さ以外の何ものをも示さない一物体となっている。
  従って、鉄量は砂糖の重量尺度として用いられ、砂糖体にたいして単なる重量態容、すなわち、重さの現象形態を代表する。鉄がこの役割を演ずるのは、ただこの関係の内部においてのみであって、この関係の内部で、砂糖は、あるいは重量を測ろうという他のどんな物体でも、鉄と相対するのである。両物が重さをもっていなければ、これらの物は、この関係にはいりえないであろうし、したがって、一物は他物の重量の表現として役立つことはできないであろう。われわれは、両者を秤皿(はかりざら)に投ずるならば、実際にこれらの二物が重さとして同一なるものであり、したがって、一定の割合において同一重量のものでもあるということを知るのである。鉄なる物体が、重量尺度として砂糖塊にたいして、ただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現においては、上衣体は、亜麻布にたいして、ただ価値を代表するだけである。


7. だが、ここで比喩は終わるのである。鉄は砂糖塊の重量表現で、両物体に共通なる自然属性、すなわち、それらの重さを代表したのであるが、――他方の上衣は亜麻布の価値表現において両物の超自然的属性を、すなわち、それらのものの価値を、およそ純粋に社会的なものを、代表しているのである。


8. 一商品、例えば亜麻布の相対的価値形態は、その価値たることを、何かその物体と物体の属性とから全く区別されたものとして、例えば、上衣に等しいものとして、表現しているのであるが、この表現自身が、一つの社会関係を内にかくしていることを示唆している。等価形態では逆になる。等価形態であるゆえんは、まさに、一商品体、例えば上衣が、あるがままのものとして価値を表現し、したがって、自然のままのものとして、価値形態をもっているということの中にあるのである。このことは、もちろんただ亜麻布商品が、等価としての上衣商品にたいして関係させられた価値関係の内部においてだけ、妥当することなのである。 しかし、一物の属性は、他物にたいするその関係から発生するのではなくて、むしろこのような関係においてただ実証されるだけのものであるから、上衣もその等価形態を、すなわち、直接的な交換可能性というその属性を、同じように天然にもっているかのように、それはちょうど、重いとか温いとかいう属性と同じもののように見える。

 このことから等価形態の謎が生まれるのであって、それは、この形態が完成した形で貨幣となって、経済学者に相対するようになると、はじめてブルジョア的に粗雑(そざつ)な彼の眼を驚かすようになる。そうなると彼は、金や銀の神秘的な性格を明らかにしようとして、これらのものを光り輝くことのもっと少ない商品にすりかえて、いつもたのしげに、すべて下賤な商品で、その時々に商品等価の役割を演じたものの目録を、述べ立てるのである。彼は、亜麻布20エレ=上衣1着というようなもっとも簡単な価値表現が、すでに等価形態の謎を解くようにあたえられていることを、想像してもみないのである。

 (21)このような反省規定は、総じて奇妙なところがあるものである。この人間が、例えば王であるのは、ただ他の人間が彼にたいして臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている。

9. 等価のつとめをしている商品の物体は、つねに抽象的に人間的な労働の体現として働いており、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。したがって、この具体的労働は、抽象的に人間的な労働の表現となる。例えば、上衣が、抽象的に人間的な労働の単なる実現となっているとすれば、実際に上衣に実現されている裁縫が、抽象的に人間的な労働の単なる実現形態として働いているわけになる。亜麻布の価値表現においては、裁縫の有用性は、裁縫が衣服をつくり、したがってまた人をもつくる〔ドイツには「着物は人をつくる」という諺がある。訳者〕ということにあるのでなく、次のような一つの物体をつくるところにあるのである。
  すなわちこの物体にたいして、人は、それが価値であるという風に、したがって、亜麻布価値に対象化されている労働から少しも区別されない、労働の凝結物(ぎょうけつぶつ)であるというように、みなしてしまうのである。このような一つの価値鏡を作るために、裁縫自身は、人間労働であるというその抽象的な属性以外には、何ものをも反映してはならない。


10. 裁縫の形態でも、機織の形態でも、人間労働力は支出されるのである。したがって、両者は、人間労働の一般的な属性をもっている。そしてこのために一定のばあいには、例えば、価値生産においては、ただこの観点からだけ考察すればいいのである。すべてこれらのことは、神秘的なことではない。しかし、商品の価値表現においては、事柄は歪(ゆが)められる。
  例えば、機織が機織としての具体的な形態においてではなく、人間労働としてのその一般的な属性おいて、亜麻布価値を形成するということを表現するために、機織にたいして、裁縫が、すなわち亜麻布等価物を作りだす具体的労働が、抽象的に人間的な労働の摑(つか)みうべき実現形態として、対置されるのである。


11. それゆえに、具体的労働がその反対物、すなわち、抽象的に人間的な労働の現象形態となるということは、等価形態の第二の特性である。

12. しかしながら、この具体的労働、すなわち裁縫は、無差別な人間労働の単なる表現として働くことによって、他の労働、すなわち、亜麻布にひそんでいる労働と等一性Gleichheit の形態をもち、したがって、他の一切の商品生産労働と同じように私的労働ではあるが、しかし直接に社会的な形態における労働である。まさにこのために、この労働は、直接に他の商品と交換しうる一つの生産物に表わされている。このように、私的労働がその反対物の形態、すなわち、直接に社会的な形態における労働となるということは、等価形態の第三の特性である。

13. 最後に述べた等価形態の二つの特性は、価値形態、ならびにきわめて多くの思惟形態、社会形態および自然形態を、最初に分析した偉大なる探求者にさかのぼって見るとき、もっと解りやすくなる。それはアリストテレスである。

14. 商品の貨幣形態が、単純なる価値形態、すなわち、なんらか任意の他の商品における一商品の価値の表現のさらに発展した姿にすぎないということを、アリストテレスは最初に明言している。というのは彼はこう述べているからである。
    「しとね〔寝台〕5個=家1軒」〔ギリシャ語省略〕
 ということは
    「しとね〔寝台〕5個=貨幣一定額」〔ギリシャ語省略〕
 ということと「少しも区別はない」と。

15. 彼はさらにこういうことを看取している。この価値表現をひそませている価値関係は、それ自身として、家がしとねに質的に等しいとおかれるということと、これらの感覚的にちがった物が、このような本質の等一性 Gleichheitなくしては、通約しうる大いさとして相互に関係しえないであろうということとを、条件にしているというのである。彼はこう述べている。「交換は等一性Gleichheitなくしては存しえない。だが、等一性は通約し得べき性質なくしては存しえない」〔ギリシャ語省略〕と。しかし、彼はここで立ちどまって、価値形態を、それ以上分析することをやめている。
  「しかしながら、このように種類のちがった物が通約できるということ」、すなわち、質的に同一であるということは「真実には不可能である」〔ギリシャ語省略〕。この等置は、物の真の性質に無関係なものでしかありえない、したがって、ただ「実際的必要にたいする緊急措置」でしかありえないと。


16. アリストテレスは、このようにして、どこで彼のそれ以上の分析が失敗しているかということについてすら、すなわち、価値概念の欠如(けつじょ)についてすら、述べているわけである。等一なるものは何か?すなわち、しとね〔寝台〕の価値表現において、家がしとね〔寝台〕に対していいあらわしている共通の実体は何か?そんなものは「真実には存しえない」と、アリストテレスは述べている。
  なぜか?家はしとね〔寝台〕にたいしてある等一物をいいあらわしている、家が、しとね〔寝台〕と家という二つの物で現実に同一なるものをいいあらわしているかぎりにおいて。そしてこれが――人間労働なのである。

17. しかしながら、商品価値の形態〔形式〕においては、すべての労働が等一なる人間労働として、したがって等一的に作用しているものとして表現されているということを、アリストテレスは、価値形態自身から読み取ることができなかった。というのは、ギリシア社会は奴隷労働にもとづいており、したがって、人間とその労働力の不等を自然的基礎としていたのであるからである。価値表現の秘密、すなわち一切の労働が等しく、また等しいと置かれるということは、一切の労働が人間労働一般であるから、そしてまたそうあるかぎりにおいてのみ、言えることであって、だから、人間は等しいという概念が、すでに一つの強固な国民的成心となるようになって、はじめて解きうべきものとなるのである。しかしながら、このことは、商品形態〔Warenform:商品の形式〕が労働生産物の一般的形態〔die allgemeine Form:普遍的な形式〕 であり、しがってまた商品所有者としての人間相互の関係が、支配的な社会的関係であるような社会になって、はじめて可能である。
  アリストテレスの天才は、まさに彼が商品の価値表現において、等一関係 Gleichheitsverhältnis を発見しているということに輝いている。 ただ彼の生活していた社会の歴史的限界が、妨げとなって、一体「真実には」この等一関係は、どこにあるかを見いだせなかったのである。

 4 単純な価値形態の総体 

1. ある商品の単純な価値形態は、その商品の他の異種商品にたいする価値関係に、またはこの商品との交換関係に含まれている。商品Aの価値は、質的には商品Bの商品Aとの直接的な交換可能性によって表現されている。この価値は量的には、商品Bの一定量が商品Aの一定量と交換されうるということによって、表現されている。他の言葉でいえば、ある商品の価値は、「交換価値」として現示されることによって、独立的に表現されている。この章のはじめに、普通に行なわれているように、商品は使用価値であり、また交換価値であるといったのであるが、このことは、正確にいえば誤りであった。商品は使用価値または使用対象であり、また「価値」である。商品は、その価値が、その自然形態とちがった独自の現象形態、すなわち交換価値という現象形態をとるとともに、ただちに本来の性質であるこのような二重性として示される。そして商品は、この形態を、決して孤立して考察するばあいにもっているのでなく、つねに第二の異種の商品にたいする価値関係、または交換関係においてのみ、もっているのである。だが、このことを知ってさえいれば、先の言い方は無害であって、簡略にするに役立つのである。

2. われわれの分析の証明するところによれば、商品の価値形態、またはその価値表現は、商品価値の本性から出てくるもので、逆に価値や価値の大いさが、交換価値としてのその表現様式から出てへるものではない。だが、このことは、重商学派とフェリエやガニール(22)等のような、その近代の蒸し返し屋たちの妄想であるとともに、またその対立者であるバスティアとその一派のような、近代自由貿易の外交員たちのそれでもある。重商学派は重点を、価値表現の質的側面に、したがって、貨幣として完成された姿になる商品の等価形態に置いている。―これに反して、近代自由貿易外交員たちは、その商品を、どんなにしても売り払わなければならないので、重点を相対的価値形態の量的側面においている。したがって、彼らにとっては商品の価値も価値の大いさも、交換関係を通した表現以外には存しないし、したがってただその日その日の時価表の中だけに存するのである。スコットランド人のマクラウドは、ロンバート・ストリートのもうろうたる観念を、できるだけ博学にめかし立てることを仕事にしているが、迷信的な重商学派と啓蒙された自由貿易外交員との間をうまくまとめている。
 (22) 第2版への注。F・L・A・フェリエ(副関税検察官)、『商業にたいする関係で見た政府の考察』パリ、1805年、およびシャルル・ガニール『経済学体系』第2版、パリ、1821年。

3. 商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現を、くわしく考察すると、その内部において、商品Aの自然形態は、ただ使用価値の姿としてのみ、商品Bの自然形態は、ただ価値形態または価値の姿としてのみはたらいていることが明らかになった。それゆえに、商品の中に包みこまれている使眉価値と価値の内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち、二つの商品の関係によって示されている。この関係において、価値が表現されるべき一方の商品は、直接にただ使用価値としてのみ、これにたいして身をもって価値を表現する他方の商品は、直接にただ交換価値としてのみ、働いている。それゆえに、ある商品の単純な価値形態は、この商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態である。

4.  労働生産物は、どんな社会状態においても使用対象である。しかし、ただある歴史的に規定された発展段階のみが、一つの使用物の生産に支出された労働を、そのものの「対象的」属性として、すなわち、その価値として表わすのであって、この発展段階が、労働生産物を商品に転化するのである。したがって、このことから、商品の単純なる価値形態は、同時に労働生産物の単純なる商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展も価値形態の発展と一致するという結果になる。

5. 一見すれば、すぐ単純な価値形態の不充分さがわかる。この形態は、一連の変態をへて、やっと価格形態に成熟してくる萌芽形態なのである。

6. なんらかの一商品Bにおける表現は、商品Aの価値を、ただそれ自身の使用価値から区別するのみであって、したがって、この商品を、ただそれ自身とちがった個々の商品種の何かにたいする交換関係に置くのみであって、他の一切の商品との質的等一性qualitative Gleichheit と量的比率とを示すものではないのである。ある商品の単純なる相対的価値形態には、他の一商品の個々の等価形態〔 Äquivalentform 当量形式, chemisches Äquivalent 化学当量。〕が対応している。だから、上衣は亜麻布の相対的価値表現においては、この個々の商品種たる亜麻布と関連して、等価形態、または直接的交換可能性の形態を有するのみである*。
 〔*編集部注:「元素と周期律・表」を参照〕

7. だが、個々の価値形態はおのずから、より完全な形態に移行する。この単純な形態によっては、一商品Aの価値は、ただ一つの他の種の商品に表現されるのではあるが、この第二の商品が、どんな種類のものか、上衣か、鉄か、小麦その他の何か、というようなことは、全くどうでもよいのである。したがって、この商品がある商品種と価値関係にはいるか、それとも他の商品種と価値関係にはいるかによって、それぞれ同一商品のちがった単純な価値表現が成立する(22a)。それらの可能な価値表現の数は、ただそれぞれちがった商品種の数によって制限されるのみである。したがって、その商品の個別的な価値表現は、そのそれぞれちがった単純な価値表現の、いくらでも延長されうる列に転化されるのである*。
 〔*編集部注:したがって、価値表現の形式である x量商品A=y量商品B は、「価値等式」が誤りで、「価値方程式」と理解しなければならない。→「価値方程式の源流」参照〕

  (22a) 第2版への注。例えば、ホメロスにあっては、一物の価値は、それぞれちがった物の列として表現されている。

  総体的または拡大せる価値形態

 z量商品A= u量商品B または v量商品C または = w量商品D または = x量商品E または =その他
(亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =コーヒー40ポンド または =小麦1クウォーター または =金2オンス または =鉄1/2トン または =その他 )

 1 拡大された相対的価値形態


1. 一商品、例えば、亜麻布の価値は、いまでは商品世界の無数の他の成素に表現される。すべての他の商品体は亜麻布価値の反射鏡となる(23)。こうしてこの価値自身は、はじめて真実に無差別な人間労働の凝結物として現われる。なぜかというに、価値を形成する労働は、いまや明瞭に、一切の他の人間労働がそれに等しいと置かれる労働として、表わされており、その労働がどんな自然形態をもっていようと、したがって、それが上衣に対象化せられようと、小麦や鉄または金等々に対象化せられようと、これを問わないからである。したがって、いまや亜麻布は、その価値形態によって、もはやただ一つの個々の他の商品種と社会関係にあるだけでなく、商品世界と社会関係に立っているのである。それは、商品としてこの世界の市民なのである。同時に、この市民たる表現の無限の序列の中にあるから、商品価値は、使用価値が、どんな形態であろうと、その特別の形態にたいして、無関心であることにもなるわけである。

(23) それゆえに、人は亜麻布の価値が上衣で示されるばあいには、亜麻布の上衣価値について語り、これを穀物で示すばあいには、その穀物価値について語ることになる、等々。上衣、穀物等々の使用価値に現われるのが、亜麻布の価値であるということを、すべてこのような表現は言っていることになる。「あらゆる商品の価値は、〔なんらか他の商品との〕交換におけるその比率を示すのであるから、われわれは価値について、その商品が比較される商品にしたがって、それぞれ穀物価値、布価値……という風に語ることができるわけである。したがってまた、それぞれちがった数千の価値種があり、商品のあるかぎり、これと同じ数の価値がある。そしてすべての価値が、同じように真実であり、また同じように名目的である」(『価値の性質、尺 度および原因にかんする批判的一論考、主としてリカード氏とその追随者たちの著作に関連して』『所信の形成と公表にかんする諸論』の著者による。ロンドン、1825年、39ページ〔邦訳、鈴木鴻一郎訳『リカアド価値論の批判』日本評論社、世界古典文庫、54ページ〕)。S・ベイリーが、当時イギリスで大さわぎをひき起こしたこの匿名の著作の著者であるが、彼は、このように同一商品価値の相対的表現の乱雑さを指摘することによって、価値の一切の概念規定を破壊したと妄信している。だが、彼自身の偏狭固陋にもかかわらず、リカードの理論の痛い所を探り当てていたということを、リカード学派の彼を攻撃した激昂が証明した。例えば『ウェストミンスター・レヴュー』所載。

2. 亜麻布20エレ=上衣1着 という第1の形態においては、これら二つの商品が、一定の交換比率で交換されるということは、偶然の事実であるかもしれない。これに反して、第二の形態では直ちに、偶然の現象と本質的に区別され、かつこれを規定する背景が、露われている。亜麻布の価値は、上衣で示されようと、コーヒーや鉄等々で示されようと、種々雑多な所有者に属する無数にちがった商品で示されようと、同じ大いさである。二人の個人的な商品所有者の偶然的な関係はなくなってしまう。交換が商品の価値の大いさを規制するのでなく、逆に商品の価値の大いさが、その交換比率を規制するのであるということは、明瞭となっている。

 2 特別な等価形態

 上衣、茶、小麦、鉄等々というような商品は、それぞれ亜麻布の価値表現においては、等価として、したがってまた価値体として働いている。これらの商品のおのおのの特定なる自然形態は、いまでは多くの他の商品とならんで、一つの特別な等価形態である。同じように、各種の商品体に含まれている特定の具体的な有用な多種多様の労働種は、いまではそれと同じ数だけ、無差別の人間労働を、特別な実現形態または現象形態で示すことになっている。


 3 総体的または拡大された価値形態の欠陥

1. 第一に、商品の相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示序列がいつになっても終わらないからである。一つの価値方程式が、他のそれを、それからそれとつないでいく連鎖は、引きつづいてつねに、新しい価値表現の材料を与えるあらゆる新たに現われる商品種によって引き延ばされる。第二に、それは崩壊しがちな雑多な種類の価値表現の色とりどりの寄木細工をなしている。最後に、あらゆる商品の相対的価値は、この拡大された形態で表現されざるをえないのであるが、そうなると、あらゆる商品の相対的価値形態は、すべての他の商品の相対的価値形態とちがった無限の価値表現の序列である。―拡大された相対的価値形態の欠陥は、これに相応する等価形態に反映する。すべての個々の商品種の自然形態は、ここでは無数の他の特別な等価形態とならんで、一つの特別な等価形態であるのであるから、一般にただ制限された等価形態があるだけであって、その中のおのおのは他を排除するのである。これと同じように、すべての特別な商品等価に含まれている特定の具体的な有用労働種は、ただ人間労働の特別な、したがって十全でない現象形態である。人間労働は、その完全な、または総体的な現象形態を、かの特別な現象形態の総体的広がりの中にもってはいるか、なんら統一的の現象形態をもたない。

2. だが、拡大された相対的価値形態は、ただ単純な相対的価値表現、または第一形態の諸方程式の総和から成っているだけである。例えば

    亜麻布20エレ=上衣1着
    亜麻布20エレ=茶10ポンド 等々

3. これらの諸方程式のおのおのは、だが、両項を逆にしても同じ方程式である、

    上衣1着=亜麻布20エレ
    茶10ポンド=亜麻布20エレ 等々

4. 実際上、一人の男がその亜麻布を多くの他の商品と交換し、したがってその価値を、一連の他の商品の中に表現するとすれば、必然的に多くの他の商品所有者もまた、その商品を亜麻布と交換し、したがって、彼らの種々の商品の価値を同一の第三の商品、すなわち、亜麻布で表現しなければならぬ。―かくて、もしわれわれが、亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =その他 というような序列を逆にするならば、すなわち、われわれが、実際にはすでに序列の中に合まれていた逆関係を表現するならば、次のようになる。

  一般的価値形態


 上着1着      = 
 茶10ポンド    =
 コーヒー40ポンド =
 小麦1クォーター   =   } 亜麻布20エレ
 金2オンス     =
 鉄1/2トン      =
 A商品x量     =
 その他の商品量   =

 1 価値形態の変化した性格  Veränderter Charakter der Wertform

 諸商品は、その価値をいまでは第一に、唯一の商品で示しているのであるから、単純に表わしていることになる。また第二に、同一商品によって示しているのであるから、統一的に表わしていることになる。それら商品の価慎形態は、単純で共同的であり、したがって一般的である。
 第一および第二の形態は、二つとも、一商品の価値を、その商品自身の使用価値、またはその商品体から区別したあるものとして表現するために、生じたものにすぎなかった。


 第一の形態は、上衣1着 = 亜麻布20エレ、茶10ポンド = 鉄1/2トン 等々というような価値方程式を作り出した。上衣価値は亜麻布に等しいものとして、茶価値は鉄に等しいものとして、というようなふうに表現される。しかしながら、亜麻布に等しいものと鉄に等しいもの、このような上衣および茶の価値表現は、亜麻布と鉄とがちがっているのと同じようにちがっている。この形態が明瞭に実際に現われるのは、ただ、労働生産物が、偶然的な、そして時折の交換によって商品に転化されるような、そもそもの端緒においてである。
 第二の形態は、第一のそれより完全に、商品の価値を、それ自身の使用価値から区別する。なぜかというに、例えば上衣の価値は、ここではその自然形態に、あらゆる可能な形態で、例えば亜麻布に等しいものとして、鉄に等しいもの、茶に等しいもの等として、すなわちただ上衣に等しいものでないだけで他の一切のものに等しいものとして、相対するからである。他方において、ここには商品のあらゆる共通な価値表現は、ただちにできなくされている。なぜかというに、ここでは一商品ごとに価値表現を行なって、すべての他の商品は、ただ等価の形態で現われるにすぎないからである。ある労働生産物、例えば家畜がもはや例外的にでなく、すでに習慣的に各種の他の商品と交換されるようになると、まず拡大された価値形態が、事実上出現するのである。


 新たに得られた形態は、商品世界の諸価値を、同一なる、この世界から分離された商品種で表現する、例えば亜麻布で、そしてすべての商品の価値を、かくて、その亜麻布と等しいということで示すのである。亜麻布に等しいものとして、あらゆる商品の価値は、いまやただそれ自身の使用価値から区別されるだけでなく、一切の使用価値から区別されるのである。そしてまさにこのことによって、この商品とあらゆる商品とに共通なるものとして表現される。したがって、この形態にいたって初めて現実に、商品を価値として相互に相関係させ、またはこれらを相互に交換価値として現われさせるようになる。


 先の二つの形態は、商品の価値を唯一の異種の商品をもってするばあいと、この商品と異なる多くの商品の序列をもってするばあいとの違いはあるが、いずれにしても一商品ごとに表現するのである。両場合ともに、価値形態を与えられるのは、個々の商品のいわば私事である。そして個々の商品は他の商品の協力なしに、このことをなすのである。他の諸商品は、先の一商品にたいして等価形態という単なる受動的の役割を演ずるのである。これに反して一般的価値形態は、商品世界の共通の仕事としてのみ成立するのである。一商品が一般的価値表現を得るのは、ただ、同時に他のすべての商品がその価値を同一等価で表現するからである。そして新たに現われるあらゆる商品種は、これを真似なければならない。このことによって、こういうことがはっきりとしてくる、すなわち、諸商品の価値対象性も、それがこれら諸物の単なる「社会的存在」であるのであるから、その全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって、その価値形態は、社会的に妥当する形態でなければならないということである。


 亜麻布に等しいものの形態において、いまではあらゆる商品が、ただに質的に等しいもの、すなわち価値一般としてだけでなく、同時に量的に比較しうる価値の大いさとしても現われる。すべての商品が、その価慎の大いさを同一材料で、亜麻布で写し出すのであるから、これらの価値の大いさは、交互に反映し合うのである。例えば 茶10ポンド = 亜麻布20エレ、さらに コーヒー40ポンド = 亜麻布20エレ. したがって、茶10ポンド = コーヒー40ポンド というようにである。あるいは1ポンドのコーヒーには、ただ1ポンドの茶におけるものの4分の1だけの価値実体、すなわち、労働が含まれているというようにである。


 商品世界の一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価商品である亜麻布に、一般的等価の性質をおしつける。亜麻布自身の自然形態は、この世界の共通な価値態容であり、したがって、亜麻布は他のすべての商品と直接に交換可能である。この物体形態は、一切の人間労働の眼に見える化身として、一般的な社会的な蛹化(ようか)としてのはたらきをなす。機織という亜麻布を生産する私的労働は、同時に一般的に社会的な形態、すなわち、他のすべての労働との等一性の形態にあるのである。一般的価値形態を成立させる無数の方程式は、順次に亜麻布に実現されている労働を、他の商品に含まれているあらゆる労働に等しいと置く。そしてこのことによって、機織を人間労働そのものの一般的な現象形態にするのである。このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用なる属性とから抽象された労働として、たんに否定的に表示されるだけではない。それ自身の肯定的性質が明白に現われるのである。それは、すべての現実的労働を、これに共通なる人間労働の性質に、人間労働力の支出に、約元したものなのである。
 労働生産物を、無差別な人間労働のたんなる凝結物として表示する一般的価値形態は、それ自身の組立てによって、それが商品世界の社会的表現であるということを示すのである。このようにして、一般的価値形態は、この世界の内部で労働の一般的に人間的な性格が、その特殊的に社会的な性格を形成しているのを啓示するのである。

 2 相対的価値形態と等価形態の発展関係


1. 相対的価値形態の発展程度に、等価形態の発展程度が応ずる。しかしながら、そしてこのことはよく銘記されなければならぬのであるが、等価形態の発展は相対的価値形態の発展の表現であり、結果であるにすぎない。

2. ある商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的な等価にする。相対的価値の拡大された形態、一商品の価値の他のすべての商品におけるこのような表現は、これらの商品に各種の特別な等価の形態を刻印する。最後に、ある特別な商品種が一般的等価形態を得る。というのは、他のすべての商品が、これを自分たちの統一的一般的な価値形態の材料にするからである。

3. しかしながら、価値形態一般が発展すると同じ程度で、その二つの極たる相対的価値形態と等価形態の間の対立もまた発展する。

4. すでに第一の形態―亜麻布20エレ=上衣1着―がこの対立を含んでいる。しかしまだ固定してはいない。同じ方程式が順に読まれるか、逆に読まれるかにしたがって、亜麻布と上衣というような両商品極のおのおのが、同じように、あるときは相対的価値形態に、あるときは等価形態にあるのである。このばあいにおいては、なお両極的対立を固着せしめるのに骨が折れる。

5. 第二の形態では、依然としてまだ各商品種ごとに、その相対的価値を全体として拡大しうるのみである。言葉をかえていえば、各商品種自身は、すべての他の商品がこれにたいして等価形態にあるから、そしてそのかぎりにおいて、拡大せる相対的価値形態をもっているにすぎないのである。このばあいにおいては、もはや価値方程式―亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =小麦1クォーター等々―の両項を移し換えると、その総性格を変更し、これを総体的価値形態から一般的価値形態に転換させてしまうほかはないことになる。

6. 最後の形態である第三形態は、ついに商品世界にたいして一般的社会的な相対的価値形態を与える、それは、唯一の例外を除いて、この世界に属するすべての商品が一般的等価形態から排除されるからであり、またそのかぎりにおいてである。ある商品、すなわち亜麻布は、したがって、他のすべての商品と直接的な交換可能性の形態に、あるいは直接的に社会的な形態にある。というのは、他の一切の商品がこの形態をとっていないからであり、また、そのかぎりにおいてである(24)。

 (24) 人は、一般的な直接的な交換可能性の形態について、その形態が対立的な商品形態であって、直接的な交換可能性でない形態から、一つの電極の陽性が他の極の陰性にたいすると同じように、分離しえないものであることを、事実上すこしも見ようとしない。したがって、すべての商品に、同時に直接的交換可能性の刻印を押しつけることができるという風に、妄想を描いているようである。ちょうどあらゆるカトリック信者を、教皇にすることができると思いこんでいる人があるように。商品生産に人間の自由と個人の独立の nec plus ultra (絶頂)を見る小市民にとっては、この形態に結びつけられている不都合を、ことに商品の直接に交換可能でないということを、除くことは、むろんきわめて願わしいことであろう。この俗人的空想境の色どりを示しているのは、プルードンの社会主義である。それは、私が他の所で示したように、独創という功績すらもっていないのであって、彼よりずっと以前にグレーやブレーその他の人々によって、はるかにうまく展開されたのである。このことは、このようなこざかしさが、今日ある仲間で「科学」の名で流行するというようなことをさまたげないのである。プルードン学派ほどに、「科学」という言葉を乱用した学派はかつてなかった。なぜかというに、 「ちょうど概念のない所へ詞(ことば)が猶予なく差し出ているものだ」〔ゲーテ『ファウスト』第1部、1995、森林太郎訳による〕から。


7. 逆に、一般的等価という役割を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態から排除される。亜麻布が、すなわち、一般的等価形態にあるなんらかのある商品が、同時に一般的相対的価値形態にもなるとすれば、その商品は、自分自身にたいして等価としてつかえるということにならなければなるまい。そうすると、われわれは、亜麻布20エレ=亜麻布20エレという式を得ることになる。これは内容のない繰り返しであって、そこには価値も価値の大いさも表現されてはいない。一般的等価の相対的価値を表現するためには、われわれはむしろ第三形態を引っくり返さなければならない。一般的等価は、他の商品と共同の相対的価値形態をもってはいないのであって、その価値は、すべての他の商品体の無限の序列の中に相対的に表現されるのである。このようにして、いまでは拡大せる相対的の価値形態または第二形態は、等価商品の特殊的な相対的価値形態として現われる。

 3 一般的価値形態から貨幣形態への移行


1.  一般的等価形態は価値一般の形態である。したがって、それは、どの商品にも与えられることがで
きる。他方において一商品は、それが他のすべての商品によって等価として除外されるために、そしてそのかぎりにおいてのみ、一般的な等価形態(第3形態)にあるのである。そして、この除外が、終局的にある特殊な商品種に限定される瞬間から、初めて商品世界の統一的相対的価値形態が、客観的固定性と一般的に社会的な通用性とを得たのである。

2.  そこでこの特殊なる商品種は、等価形態がその自然形態と社会的に合生するに至って、貨幣商品
となり。または貨幣として機能する。商品世界内で一般的等価の役割を演ずることが、この商品の特殊的に社会的な機能となり、したがって、その社会的独占となる。この特別の地位を、第2形態で亜麻布の`別の等価たる役を演じ、また第3形態でその相対的価値を共通に亜麻布に表現する諸商品のうちで、一定の商品が、歴史的に占有したのである。すなわち、金である。したがって、われわれが、第3形態において、商品金を商品亜麻布のかわりにおくならば、次のようになる。

 
 
  貨幣形態

   亜麻布20エレ    =
   上衣1着      =
   茶20封度      =
   コーヒー40封度   =  } 金2オンス
   小麦1クォーター  =
   鉄1/2トン     =
   A商品x量       =

1.  第1形態から第2形態へ、第2形態から第3形態への移行にさいしては、本質的な変化が生じて
いる。これに反して、第4形態は、ただ亜麻布のかわりに、いまや金が一般的等価形態をもつに至ったということ以外には、第3形態と少しもことなるところはない。金は第4形態で亜麻布が第3形態であったとおりのもの、すなわち一般的等価にとどまるのである。進歩があるのは次のことだけである、すなわち、直接的な一般的な交換可能性の形態、または一般的な等価形態が、いまや社会的習慣によって、終局的に商品金の特殊な自然形態と合生してしまったということである。

2. 金が他の商品にたいして貨幣としてのみ相対するのは、金がすでに以前に、それらにたいして商品
として相対したからである。すべての他の商品と同じように、金も、個々の交換行為において個別的の等価としてであれ、他の商品等価と並んで特別の等価としてであれ、とにかく等価として機能した。しだいに金は、あるいは比較的狭い、あるいは比較的広い範囲で一般的等価として機能した。金が、商品世界の価値表現で、この地位の独占を奪うことになってしまうと、それは貨幣商品となる。そして金がすでに貨幣商品となった瞬闇に、やっと第4形態が第3形態と区別される。いい換えると一般的価値形態は貨幣形態に転化される。

3. すでに貨幣商品として機能する商品、例えば金における、一商品、例えば金における、一商品、例えば亜麻布の、単純な相対的価値表現は価格形態である。亜麻布の「価格形態」はしたがって、
      亜麻布20エレ=金2オンス
  または、もし2オンスの金の鋳貨名が、2ポンド・スターリングであるならば、
      亜麻布20エレ=2ポンド・スターリング
 である。

4. 貨幣形態という概念の困難は、一般的等価形態の、したがって、一般的価値形態なるものの、すなわち、第3形態の理解に限られている。第3形態は、関係を逆にして第2形態に、すなわち、拡大された価値形態に解消する。そしてその構成的要素〔konstituierendes Element:構成する成素〕は第1形態である。すなわち、亜麻布20エレ=上衣1着 または A商品x量=B商品y量である。したがって、単純なる商品形態〔すなわち、A商品x量=B商品y量〕は貨幣形態の萌芽〔Keim:胚、胚芽〕である。


>第1版・国民文庫  【第1章 商品と貨幣】

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  第3節 価値形態または交換価値

 第1版  第2版 文献比較研究  ー第3節ー
・中見出しー編集部作成 第2版・岩波文庫 第1版・国民文庫
1. A 単純な,個別的な,または偶然的な価値形態  p.90-114 第1形態
2. B 総体的または拡大せ価値形態 p.115-118 第2形態
3. C 一般的価値形態 p.119-126 第3形態
4. D 貨幣貨幣 p.127-128 第4形態
 ★第3節 価値形態または交換価値 概要
 

 第1版(3節)前半43-50

  〔価値形態または交換価値

   第1形態 

43. われわれは、いま、ある一つの商品の、すなわちリンネルの、相対的な価値の大きさにおける変動が、どの程度まで、その商品自身の価値の大きさの変動を反映しているか、を検討した。そして、一般に相対的な価値をただその量的な側面からのみ考察した。われわれは今度はその形態に目を向けてみょう。相対的な価値が価値の表示形態であるならば、二つの商品の等価性の表現、たとえば、x量の商品A=y量の商品B または、20エレのリンネル=1着の上衣は相対的な価直の単純な形態である。


44.  相対的な価値の第一の、または単純な、形態
 20エレのリンネル=1着の上衣(x量の商品A=y量の商品B)

45. この形態は、それが単純であるがゆえに(16)、分析するのが困難なものである。そのなかに含まれている異なった諸規定は、隠されており、未発展であり、抽象的であって、そのためにただ抽象力のいくらかの緊張によってのみ識別され、確認されうるものである。しかし、次のことだけは、一見して明らかである。すなわち、20エレのリンネル=1着の上衣であろうと、20エレのリンネル=x着の上衣 であろうと、形態は同じままである、ということである。

  (16)それは、いわば貨幣の細胞形態である。へーゲルならば言うであろうに、貨幣の即自態 [das Ansich] である。〔(16):編集部注参照〕

〔(16):編集部注:ヘーゲルの注16の原文は以下のとおり。なお、「即自態」については『ヘーゲル用語事典』を参照してください〕
16) Sie ist gewissermassen die Zellenform oder, wie Hegel sagen würde, das An sich des Geldes.


 (17) J・ベーリのように価値形態の分析に携わってきた少数の経済学者たちが少しも成果をあげることができなかったのは、一つには彼らが価値形態と価値とを混同しているからであり、第二には、彼らが、実際的なブルジョアたちの粗雑さの影響のもとにあって、はじめからもっぱら量的な被規定性だけに着目しているからである。「量にたいする支配が・・・価値である。」(『貨幣とその価値の転変』、口ンドン、1837年、11ぺージ。)著者はJ・ベーリ。


46. リンネルは、一つの使用価値の姿で、すなわち有用な物の姿で、この世に現われるであろう。それゆえ、その糊(のり)のついた物体性すなわち現物形態は、その価値形態ではなくて、価値形態の正反対物なのである。それはそれ自身の価値存在を、さしあたりはまず、自分を他の一つの商品、上着に、自分に等しいものとして、関係させることによって、示すのである。もしリンネルがそれ自身価値でないならば、リンネルは自分を価値としての上着に、自分に等しいものにとして、関係させることはできないであろう。質的にリンネルは自分を上着に等置するのであるが、そうするのは、リンネルが自分を上着に同種の人間労働の、すなわちそれ自身の価値実体〔Werthsubstanz〕の、対象化として関係させることによって、である。そして、リンネルが自分をx着の上着にではなくてただ一着だけの上着に等置するのは、リンネルが単に価値一般であるだけではなくて一定の大きさの価値であり、しかも1着の上着が20エレのリンネルとちょうど同じだけの労働を含んでいるからである。このような、上着にたいする関係によって、リンネルは、ひとたたきでいくつもの蠅(ハエ)を打つのである。リンネルは、他の商品に自分を価値として等置することによって、自分を価値としての自分自身に関係させる。リンネルは、自分を価値としての自分自身に関係させることによって、同時に自分を使用価値としでの自分自身から区別する。リンネルは自分の価値の大きさ-そして価値の大きさは価値一般と量的に計られた価値との両方である―を上着で表現することによって、自分の価値存在〔Werthsein〕に自分の直接的な定在とは区別される価値形態〔Werthform:価値の形式〕を与える。リンネルは、こうして自分を一つのそれ自身において分化したものとして示すことによって、自分をはじめて現実に商品―同時に価値でもある有用な物―として示すのである。リンネルが使用価値であるかぎりでは、それは一つの独立な物である。これに反して、リンネルの価値は、ただ、他の商品、たとえば上着にたいする関係のなかにおいてのみ現われるのであって、この関係のなかでは上着という商品種類がリンネルに質的に等置され、したがって一定の量において同等とみなされ、リンネルの代わりとなり、リンネルと交換可能なのである。それゆえ、価値は、固有の、使用価値とは区別された形態を、ただ交換価値としてのそれの表示によってのみ、受け取るのである。


47. 上着におけるリンネル価値の表現は上着そのものに一つの新たな形態を刻印する。じっさい、リンネルの価値形態〔価値形式〕はなにを意味するのであろうか? 上着がリンネルと交換可能である、ということである。そのあるがままの姿をもって、上着というその現物形態〔Naturalform:自然形態〕において、今や上着は他の商品恚の直接的交換可能性の形態を、直接交換可能な使用価値すなわち等価物〔Aequivalent〕の形態〔Form:形式〕を、もっているのである。等価物という規定〔Die Bestimmung des Aequivalents〕に含まれているのは、ただ、ある商品が価値一般であるということだけではなくて、その商品がその物的な姿dinglichen Gestaltにおいて、その使用形態Gebrauchsformにおいて、他の商品にたいして価値として認められており、したがってまた直接に他の商品にとっての交換価値として存在しているということである。


48. 価値としては、リソネルはただ労働だけから成っており、透明に結晶した労働の凝固をなしている。しかし、現実にはこの結晶体は非常に濁っている。この結晶体のなかに労働が発見されるかぎりでは、しかもどの商品体でも労働の痕跡を示しているというわけではないが、その労働は無差別な人間労働ではなく、織布や紡績などであって、これらの労働もけっして商品体の唯一の実体をなしているのではなく、むしろいろいろな自然素材と混和されているのである。リンネルを人間労働の単に物的な表現として把握するためには、それを現実に物としているところのすべてのものを無視しなければならない。それ自身抽象的であってそれ以外の質も内容もない人間労働の対象性は、必然的に抽象的な対象性であり、一つの思考産物である。こうし
て亜麻織物は頭脳織物となる。ところが、諸商品は諸物である。諸商品がそれであるところのもの、諸商品は物的にそういうものでなければならない。言い換えれば、諸商品自身の物的な諸関係のなかでそういうものであることを示さなければならない。リシネルの生産においては一定量の人間労働力が支出されている。リンネルの価値は、こうして支出されている労働の単に対象的な反射なのであるが、しかし、その価値はリンネルの物体において反射されているのはない。その価値は、上着にたいするリンネルの価値関係によって、顕現するのであり、感覚的な表現を得るのである。リンネルが上着を価値としては自分に等置していながら、他方同時に使用対象としては上着とは区別されているということによって、上着は、リンネル-物体に対立するリンネル-価値の現象形態となり、リンネルの現物形態Naturalformとは違ったリンネルの価値形態〔価値形式〕となるのである。

    (18)それゆえ、リンネルの価値を上着で表わす場合にはリンネルの上着価値と言い、それを穀物で表わす場合にはリンネルの穀物価値と言ったりするのである。このような表現は、どれもみな、上着や穀物などという使用価値に現われるものはリンネルの価値である、ということを意味しているのである。

49. 20エレのリンネル=1着の上衣 または、xエレのリンネルはy着の上着に値する、という相対的な価値表現のなかでは、上着はただ価値または労働凝固体〔Arbeitsgallerte〕としてのみ認められているのではあるが、しかし、それだからこそ、労働凝固体は上着として認められ、上着はそのなかに人間労働が凝固しているところの形態として認められるのである。使用価値上着がリンネル価値の現象形態になるのは、ただ、リンネルが抽象的人間労働の、つまりリンネル自身のうちに対象化されている労働と同種の労働の、直接的物質化としての上着物質に関係しているからにほかならない。上着という対象は、リンネルにとっては、同種の人間労働の感覚的につかまえられる対象性として、したがってまた現物形態における価値として、認められているのである。リンネルは価値としては上着と同じ本質のものであるがゆえに、上着という現物形態がこのようにリンネル自身の価値の現象形態になるのである。しかし、使用価値上着に表わされている労働は、単なる人間労働ではないのであって、一定の、有用な労働、裁縫労働である。単なる人間労働、人間労働力の支出は、どのようにでも規定されることはできるが、それ自体としては無規定である。それは、ただ、人間労働力が特定の形態において支出されるときにはじめて、特定の労働として実現され、対象化されることができるのである。なぜならば、ただ特定の労働にたいしてのみ、自然素材Naturstoffは、すなわち労働がそれにおいて対象化される外的な物質は、相対するのだからである。ただヘーゲル的な「概念」だけが、外的な素材なしで自己を客観化することを達成するのである(19)。


   (18a)見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またパウロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態als Erscheinungsform des genus Mensch.として認められるのである。

   (19)「概念は、当初はただ主観的であるだけであるが、それがそのために外的な物質または素材を必要とすることなしに、それ自身の活動に適合しながら、自己を客観化することへと前進するのである。」へ-ゲル『論理学』、367ページ、所収、『エンチュクロペディ、第1部、ベルリン、1840年』。 〔編集部注:『小論理学』岩波文庫(下)185ページ〕

50. リンネルは、人間労働の直接的な実現形態としての裁縫労働に関係することなしには、価値または肉体化した人間労働としての上着に関係することはできない。とはいえ、リンネルを使用価値上着に関係させるものは、上着の羊毛的な快適さでもなければ、上着のボタンをかけられた有様でもなく、そのほか上着に使用価値として刻印するなんらかの有用的な質でもない。上着は、リンネルのためには、ただ、リンネルの価値対象性をリンネルのごわごわした使用対象性と区別して表わす、ということに役だつだけである。リンネルは、その価値をアギ〔植物名〕樹脂とか乾燥人糞とか靴墨とかで表現したとしても、同じ目的を達したであろう。それゆえ、同様に、裁縫労働がリンネルにとって有効であるのも、それが合目的的に生産的な活動であり有用労働であるかぎりにおいてのことではなくて、ただ、それが特定の労働として人間労働一般の実現形態である対象化様式であるかぎりにおいてのみのことである。もしリンネルがその価値を上着においてではなく靴墨において表現したとすれば、リンネルにとってはまたやはり裁縫ではなく靴墨作りが抽象的人間労働の直接的実現形態として認められたであろう(19a)。つまり、ある使用価値または商品体が価値の現象形態または等価物となるのは、ただ、別のある商品が、前記の商品体に含まれている具体的な有用労働種類に、抽象的人間労働の直接的実現形態としてのそれに、関係する、ということによってのみのことである。
    
(19a) すなわち、俗に靴墨の調製そのものが靴墨作りと呼ばれるかぎりにおいて。


  第1版(3節)後半51-79

51. われわれは、ここにおいて、価値形態の理解を妨げるあらゆる困難の噴出点に立っているのである。商品の価値を商品の使用価値から区別するということ、または、使用価値を形成する労働を、単に人間労働力の支出として商品価値に計算されるかぎりでのその同じ労働から区別するということは、比較的容易である。商品または労働を一方の形態において考察する場合には、他方の形態においては考察しないのであるし、また逆の場合には逆である。これらの抽象的な対立物はおのずから互いに分かれるのであって、したがってまた容易に識別されるものである。商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態の場合はそうではない。使用価値または商品体はここでは一つの新しい役割を演ずるのである。それは商品価値の現象形態に、したがってそれ自身の反対物に、なるのである。それと同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な有用労働が、それ自身の反対物に、抽象的人間労働の単なる実現形態に、なる。ここでは、商品の対立的な諸規定が別々に分かれて現われるのではなくて、互いに相手のなかに反射し合っている。こういうことは、一見したところではあまりにも奇妙であるとはいえ、いっそう綿密に熟慮してみれば、必然的であることが判明する。商品は、もともと、一つの二重物で使用価値にして価値、有用労働の生産物にして抽象的な労働凝固体〔abstrakte Arbeitsgallerte〕なのである。それゆえ、自分をあるがままのものとして表わすためには、商品はその形態を二重化しなげればならないのである。使用価値という形態のほうは、商品は生まれつきそれをもっている。それは商品の現物形態Naturalformである。価値形態Werthformのほうは、商品は他の諸商品との交際においてはじめてそれを得るのである。ところが、商品の価値形態は、それ自身もまたやはり対象的な形態でなければならない。諸商品の唯一の対象的な諸形態は、諸商品の使用姿態であり、諸商品の現物形態である。ところで、ある商品の、たとえばリンネルの、現物形態は、その商品の価値形態の正反対物であるから、その商品は、ある別の現物形態を、ある別の商品の現物形態を、自分の価値形態にしなければならない。その商品は、自分自身にたいして直接にすることができないことを、直接に他の商品にたいして、したがってまた回り道をして自分自身にたいして、することができるのである。その商品は自分の価値を自分自身の身体において、または自分自身の使用価値において、表現することはできないのであるが、しかし、直接的価値定在としての他の使用価値または商品体に関係することはできるのである。その商品は、それ自身のなかに含まれている具体的な労働にたいしては、それを抽象的な人間労働の単なる実現形態として関係することはできないが、しかし、他の商品種類Waarenartに含まれている具体的な労働にたいしては、それを抽象的な人間労働の単なる実現形態として関係することができるのである。そうするためにその商品が必要とするのは、ただ、他の商品を自分に等価物として等置する、ということだけである。一商品の使用価値は、一般にただ、それがこのような仕方で他の一商品の価値の現  象形態として役だつかぎりにおいてのみ、この他の商品のために存在するのである。もし簡単な相対的な価値表現 x量の商品A=y量の商品B のなかにただ量的な関係だけを見るならば、そこに見いだされるのは、やはりただ、前述の、相対的価値の運動に関する諸法則だけであって、これらの法則は、すべて、諸商品の価値の大きさはそれらの商品の生産に必要な労働時間によって規定されている、ということにもとづいているのである。しかし、両商品の価値関係をその質的な側面から見るならば、かの単純な価値表現のなかに価値形態の、したがってまた、簡単に言えば貨幣形態の、秘密を発見するのである(20)。



   (20)ヘーゲル以前には専門の論理学者たちが判断および推論の範例の形態内容〔Forminhalt形式内容〕をさえも見落としていたのだから、経済学者たちが、まったく物的な関心に影響されて、相対的な価値表現の形態実質Formgehaltを見落としてきたということも、驚くにあたらないのである。
 〔編集部注:内容と形式、Inhalt<Gehalt>und Form〕



52. われわれの分析が明らかにしてきたのは、一商品の相対的な価値表現は二つの違った価値形態を包括している、ということである。リンネルは、その価値と、その特定の価値の大きさとを、上着で表わしている。リンネルはその価値を他の一商品にたいする価値関係において、したがって交換価値として、示すのである。他方において、リンネルがその価値をそれにおいて相対的に表現するところの、この別の商品、上着は、まさにそれゆえに、リンネルと直接に交換されうる使用価値という形態を、すなわち等価物という形態を、受け取るのである。両方の形態、一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態なのである。両方が、じつはただ、同じ相対的な価値表現の諸契機であり、相互に制約され合っている
諸規定でしかないのであるが、それらが二つの等置された商品極の上に対極的に分けられているのである。

53. 量的な被規定性は一商品の等価形態のなかには包括されていない。たとえば、上着がリンネルの等価物である、という特定の関係は、上着の等価形態から、すなわちリンネルとの上着の直接的交換可能性の形態から生ずるのではなくて、労働時間による価値の大きさの規定から生ずるのである。リンネルがそれ自身の価値を上着で表わすことができるのは、ただ、リンネルが、結晶した人間労働の所与の量としての一定の上着量に関係するからにほかならない。もし上着の価値が変わるならば、この関係もまた変わるのである。とはいえ、リンネルの相対的な価値が変わるためには、その相対的な価値が存在していなければならないのであり、そしてその相対的な価値は、ただ、上着の価値が与えられている場合にのみ形成されうるのである。いま、リンネルがそれ自身の価値を上着の一着で表わすか、二着で表わすか、それともx着で表わすか、ということは、この前提のもとでは、まったく、自分の価値が上着形態で表わされるべきリンネルの1エレの価値の大きさとエレ数とによって定まる。一商品の価値の大きさは、ただ他の一商品の使用価値においてのみ、相対的な価値としてのみ、表現されることができるのである。これに反して、直接に交換可能な使用価値の形態すなわち等価物の形態を、一商品は、逆にただ他の一商品の価値がそれにおいて表現されるところの材料としてのみ、受け取るのである。


  
54. この区別は、その単純な、または第一の、形態における相対的な価値表現の特性によって、不明瞭にされている。すなわち、等式〔方程式〕20エレのリンネル=1着の上衣 または20エレのリンネルは1着の上着に値する は、明らかに、同じ等式〔方程式〕1着の上衣=20エレのリンネルまたは 1着の上着は20エレのリンネルに値するを含意している。つまり、リンネルの相対的な価値表現においては上着が等価物としての役割を演じているのであるが、この価値表現は逆関係的に上着の相対的な価値表現を含んでいるのであって、それにおいてはリンネルが等価物としての役割を演じているのである。

55. 価値形態の両方の規定、または交換価値としての商品価値の両方の表示様式は、単に相対的であるとはいえ、両方が同じ程度に相対的に見えるのではない。リンネルの相対的価値 20エレのリンネル=1着の上衣においては、リンネルの交換価値が明白に他の一商品にたいするリンネルの関係として示されている。上着のほうは、たしかにただ、リンネルがそれ自身の価値の現象形態としての、したがってまたリンネルと直接に交換されうるものとしての、上着に関係するかぎりにおいてのみ、等価物である。ただこの関係のなかにおいてのみ上着は等価物なのである。しかし、上着は受動的にふるまっている。それはけっしてイニシアチブを取ってはいない。上着が関係のなかにあるのは、それが関係させられるからである。それだから、リンネルとの関係から上着に生ずる性格は、上着のほうからの関係の結果として現われるのではなくて、上着の作為なしに存在するのである。それだけではない。リンネルが上着に関係する特定の仕方は、たとえ上着がまったく控え目であって、けっして「うぬぼれて気の狂った仕立屋」の製品ではなくても、まったく、上着を「魅惑する」ように仕立てられている。すなわち、リンネルは、抽象的人間労働の感覚的に存在する物質化としての、したがってまた現に存在する価値体としての、上着に関係するのである。上着がこういうものであるのは、ただ、リンネルがこのような特定の仕方で上着に関係するからであり、またそのかぎりにおいてのみのことである。上着の等価物存在は、いわば、ただリンネルの反射規定なのである。ところが、それがまったく逆に見えるのである。一方では、上着は自分自身では、関係する労をとってはいない。他方では、リンネルが上着に関係するのは、上着をなにかあるものにするためではなくて、上着はリンネルがなくてもなにかあるものであるからなのである。それだから、上着にたいするリンネルの関係の完成した所産、上着の等価形態、すなわち直接に交換されうる使用価値としての上着の被規定性は、たとえば保温するという上着の属性などとまったく同じように、リンネルにたいする関係の外にあっても上着には物的に属しているように見えるのである。相対的な価値の第一の形態または単純な形態20エレのリンネル=1着の上衣にあっては、このまちがった外観はまだ固定されてはいない。なぜならば、この形態は直接に反対のことをも言い表わしているからである。すなわち、上着がリンネルの等価物であるということ、および、これらの両商品のそれぞれがこのような被規定性をもつのは、ただ、他方の商品がその商品を自分の相対的な価値表現とするからであり、また、そうするかぎりにおいてのことである、ということがそれである。



  (21) およそこのような反射規定というものは奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいし臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだ、と思っているのである。

56. 相対的な価値の単純な形態においては、すなわち二つの商品の等価性の表現においては、価値の形態発展は両方の商品にとって、たとえそのつど反対の方向においてであっても、一様である。相対的な価値表現は、さらに、両方の商品のそれぞれに関して統一的である。というのは、リンネルはその価値を、ただ、一つの商品、上着においてのみ表わしており、また逆の場合は逆であるからである。しかし、両方の商品にとってはこの価値表現は二重であり、それらのおのおのにとって違っている。最後に、両方の商品のおのおのは、ただ他方の個別的な商品種類Waarenartにとって等価物であるだけであり、したがってただ個別的な等価物であるだけである。


  〔 第2形態 〕

57.  このような等式〔方程式〕、すなわち、20エレのリンネル=1着の上衣 または20エレのリンネルは1着の上着に値するというような等式〔方程式〕は、明らかに、商品の価値をただまったく局限的に一面的に表現しているだけである。もし私がたとえばリンネルを、上着とではなく、他の諸商品と比較するならば、私はまた別の相対的な諸価値表現、すなわち、20エレのリンネル=u量のコーヒー、20エレのリンネル=v量の茶 などというような別の諸等式〔Gleichungen諸方程式〕を得ることになる。リンネルは、それとは別な諸商品があるのとちょうど同じ数の違った相対的な価値表現をもつのであって、リンネルの相対的な価値表現の数は、新たに現われてくる諸商品種類の数とともに絶えず増加するのである。

(22)「各商品の価値は、交換にさいしてのその商品の割合を表わすのだから、われわれは、各商品の価値を、その商品が比較される商品がなんであるかにしたがって……穀物価値とか布価値とか呼ぶことができるであろう。したがってまた、無数の違った種類の価値があるのであり、そこにある諸商品と同じ数の価値の種類があるのであって、それらはみな等しく真実でもあり、また等しべ名目的でもある。」(『価値の性質、尺度および諸原因に関する批判的論究。主としてリカード氏とその追随者だちとの諸著作に関連して。意見の形成と公表とに関する試論の著者の著』、ロンドン、1825年、39ページ。〔日本評論社『世界古典文庫』版、鈴木訳『リカアド価値論の批判』、54ページ。〕)当時イギリスで大いに騒がれたこの匿名の書の著者S・ベーリは、このように同じ商品価値の種々雑多な相対的な表現を指摘することによって、価値の概念規定をすべて否定し去ったと妄信している。それにしても、彼自身の偏狭さにもかかわらず、彼がリカード学説の急所に触れたということは、たとえば『ウェストミンスター・レヴュー』のなかで彼を攻撃したリカード学派の立腹がすでに証明したところである。



58. 第一の形態20エレのリンネル=1着の上衣は二つの商品の価値のために二つの相対的な表現を与えた。この第二の形態は同じ商品の価値のために相対的な諸表現の雑多きわまる寄木細工を与える。価値の大きさの表現のためにもなんらかのものが得られたようには見えない。なぜならば、20エレのリンネル=1着の上衣においては、じっさいどの表現においても同じままであるリンネルの価値の大きさが、ちょうど20エレのリンネル=u量の茶 等々におけるのと同じに、あますところなく示されているからである。また、等価物の形態規定die Formbestimmung des Aequivalentsのためにもなんらかのものが得られたようには見えない。なぜならば、20エレのリンネル=u量のコーヒー等々においては、コーヒー等々は、上着がそうだったのとまったく同じように、ただ個別的な等価物であるにすぎないからである。



59. それにもかかわらず、この第二の形態は一つの本質的な進展を包蔵している。Dennoch birgt diese zweite Form eine wesentliche Fortentwicklung.〔sich fortentwickeln発展し続ける〕すなわち、この形態のなかに蔵されているのは、ただ単に、リンネルがその価値をたまたまあるときには上着で表現し、あるときにはコーヒーやその他のもので表現する、ということだけではなくて,リンネルがその価値を上着で表現するとともにコーヒーやその他のもので表現し、この商品でか、それともあの商品でか、それともまた第三の商品、等々でか表現する、ということである。このさらに進んだ規定は、相対的な価値表現のこの第二の、または展開された形態がその関連のなかで示されさえすれば、明らかになる。そうすれば、われわれは次のような形態を得ることになる。

 60. Ⅱ 相対的な価値の第二の、または展開された形態。
    II. Zweite oder entfaltete Form des relativen Werths:

 20エレのリンネル = 1着の上衣 または = u量のコーヒー または = v量の茶 または= x量の鉄 または = y量の小麦 または = 等々. 
 z量の商品A = u量の商品B または = v量の商品C または = w量の商品D または = x量の商品E または = y量の商品F または = 等々.


61. さしあたりまず明らかに第一の形態は第二の形態の基礎的要素〔Grundelement:編集部注〕をなしている。なぜならば、後者は 20エレのリンネル=1着の上衣、20エレのリンネル=u量のコーヒー、等々というような多数の簡単な相対的な価値表現から成り立っているからである。

 〔編集部注:GrundelementのGrundは、ヘーゲル論理学の「根拠、理由」。『小論理学』120-123節、『ヘーゲル用語事典』p.104,108参照〕

62. 第一の形態20エレのリンネル=1着の上衣においては、これらの二つの商品がこのような特定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的な事実に見えることがありうる。これに反して、第二の形態においては、この偶然的な現象とは本質的に区別されていてこの現象を規定している背景がすぐさま明らかに見えてくる。〔*連立方程式の成立状況のこと〕リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄などで示されていても、つまりまったく違った所有者たちの手にある無数に違った商品で示されていても、つねに同じ大きさのままである。二人の個別的な商品所有者の偶然的な関係はなくなってしまう。交換が商品の価値の大きさを規定するのではなくて、逆に商品の価値の大きさが商品のいろいろな交換の割合を規定するのだ、ということが明白になるのである。



63. 20エレのリンネル=1着の上衣 という表現では、上着はリンネルにおいて対象化されている労働の現象形態として認められていた。こうして、リソネルのなかに含まれている労働は、上着のなかに含まれている労働に等置され、したがってまた同種の人間労働として規定されたのである。とはいえ、この規定は明示的には現われていなかった。第一の形態はリンネルのなかに含まれている労働をただ裁縫労働にたいしてのみ直接に等置している。第二の形態はこれとは違っている。リンネルは、その相対的な諸価値表現の無限な、いくらでも延長されうる列において、リンネル自身のなかに含まれている労働の単なる諸現象形態としてのありとあらゆる商品体に関係している。それだから、ここではリンネルの価値がはじめて真に価値として、すなわち人間労働一般の結晶として、示されているのである。

64. 第二の形態は、第一の形態の諸等式〔Gleichungen:諸方程式〕だけの合計から成り立っている。しかし、これらの等式〔方程式〕のそれぞれ、たとえば 20エレのリンネル=1着の上衣 は、その逆の関係1着の上衣=20エレのリンネル をも包括しているのであって、ここでは上着が自分の価値をリンネルで示しており、まさにそれゆえにリンネルを等価物として示しているのである。ところで、こういうことはリンネルの無数の相対的な価値表現のどれにもあてはまるのだから、そこでわれわれは次のような形態を得るのである。


   〔 第3形態 〕

65. Ⅲ 相対的な価値の第三の、倒置された、または逆の関係にされた第二の形態。

   1 着の上衣    = 20エレのリンネル
  u 量のコーヒー  = 20エレのリンネル
  v 量の茶     = 20エレのリンネル
  x 量の鉄     = 20エレのリンネル
  y 量の小麦    = 20エレのリンネル
  その他      = 20エレのリンネル


65. 諸商品の相対的な価値表現はここではその元来の姿 1着の上衣=20エレのリンネルにおいて帰ってくる。とはいえ、この簡単な等式〔方程式〕は、いまではさらに展開されている。元来はこの等式〔方程式〕はただ次のことを含んでいただけである。すなわち、上着価値が、ある他の商品において表現されることによって、使用価値上着または上着体そのものからは区別された独立な形態を得る、ということがそれである。いまではこの同じ形態は、上着をすべての他の商品にたいしても価値として示しており、したがってまた、それは上着の普遍妥当的な価値形態なのである。ただ上着だけではなくて、 コーヒー、鉄、小麦、要するにすべての他の商品が、それらの価値をいまではリンネルという材料で表現している。こうして、すべての商品が互いに自分を人間労働の同じ物質化として示しているのである。すべての商品がただ量的に違っているだけであって、それだから、一着の上着、u量のコーヒー、x量の鉄、等々が、すなわち、これらのいろいろな物のさまざまに違った量が、20エレのリンネルに等しいのであり、対象化された人間労働の同じ量に等しいのである。こうして、すべての商品が、リンネルという材料でのそれらの共同の価値表現によって、交換価値としてそれら自身の使用価値から区別され、また同時に互いに価値の大きさとして関係し合い、質的に等置されて量的に比較されるのである。この統一的な相対的価値表現によってはじめてそれらの商品はすべて互いに価値として現われて、したがってまたはじめてそれらの価値はそれにふさわしい交換価値としての現象形態を得るのである。一商品の価値をすべての他の商品の広がりのなかで示すところの、相対的な価値の展開された形態(形態Ⅱ)と区別して、われわれはこの統一的な価値表現を一般的な相対的価値形態と呼ぶのである。



66. 形態Ⅱ 20エレのリンネル = 1着の上衣 または = u量のコーヒー または = v量の茶または = x量の鉄、 等々においてリンネルはその相対的な価値表現を展開するのであるが、この形態Ⅱにおいては、リンネルは一つの特殊的な等価物としての各個の商品、上着、コーヒー、等々に関係し、そして、その特殊的な諸等価形態の広がりとしてのすべての商品をいっしょにしたものに関係する。リンネルにたいしては、どの個別的な商品種類も、個別的な等価物におけるように、まだ単なる等価物そのものとしては認められていないのであって、ただ特殊的な等価物として認められているだけで、その一方のものは他方のものを排除している。これに反して、逆関係にされた第二の形態であり、したがってまた第二の形態において包括されて いるところの、形態Ⅲにおいては、リンネルはすべての他の商品にとっての等価物の類形態として現われる。それは、ちようど、群をなして動物界のいろいろな類、種、亜種、科、等々を形成している獅子や虎や兎やその他のすべての現実の動物たちと相並んで、かつそれらのほかに、まだなお動物というもの、すなわち動物界全体の個体的化身が存在しているようなものである。このような、同じ物のすべての現実に存在する種をそれ自身のうちに包括している個体は、動物、神、等々のように、一つの一般的なものである。それゆえ、リンネルが、一つの他の商品が価値の現象形態としてのリンネルに関係したということによって、個別的な等価物となったのと同じように、それは、すべての商品に共通な、価値の現象形態としては、一般的な等価物、一般的な価値肉体、抽象的な人間労働 abstrakten menschlichen Arbeit の一般的な物質化となるのである。それだから、リンネルにおいて物質化されている特殊な労働が、いまでは、人間労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められるのである。


67. 商品Aの価値が商品Bで示されることによって商品Bは個別的な等価物となるのであるが、そのさいには、商品Bがどんな特殊な種類のものであるかということは、どうでもよいことだった。ただ、商品Bの物体性が商品Aの物体性とは別の種類のもの、したがってまた別の有用労働の生産物でなければならなかった、というだけのことである。上着がその価値をリンネルで示したということによって、上着は実現された人間労働としてのリンネルに関係したのであって、まさにそれゆえに、人間労働の実現形態としてのリンネル織りに関係したのであるが、しかし、リンネル織りを別の労働種類から区別する特殊な被規定性は、まったくどうでもよかったのである。それは、ただ、裁縫労働とは別の種類のものでなければならず、とにかくある特定の労働種類でなげればならなかっただけである。リンネルが一般的な等価物となれば、そうではない。この使用価値の特殊な被規定性によってこの使用価値はコーヒーや鉄などというすべての他の商品種類とは区別されたリンネルだったのであるが、この使用価値がいまではすべての他の商品の一般的な価値形態となり、したがってまた一般的な等価物となるのである。それだから、この使用価値において示されている特殊な有用な労働種類が、いまでは、人間労働の一般的な実現形態として、一般的な労働として、認められているのであるが、そう認められるのは、まさにこの労働種類が、単に裁縫労働だけからではなく、コーヒー栽培や鉱山労働やすべての他の労働種類から区別されたリンネル織りという特殊な被規定性をもっている労働であるかぎりにおいてのことなのである。逆に、リンネルの、すなわち一般的な等価物の、相対的な価値表現(形態Ⅱ)においては、すべての他の労働種類はただ人間労働の特殊的な実現形態として認められているだけなのである。



69.  価値としては諸商品は同じ単位の、すなわち抽象的な人間労働の、諸表現である。交換価値という形態においては、諸商品は互いに諸価値として現われて、互いに諸価値として関係し合う。それと同時に諸商品は自分たちの共通な社会的実体としての抽象的な人間労働に関係する。諸商品の社会的な関係は、もっぱら、このような自分たちの社会的な実体のただ量的には違っていても質的には同じであり、したがってまた互いに置き換えられることができて互いに交換されることができる諸表現として認められる、ということにおいて成り立っているのである。有用な物としで商品が社会的な被規定性をもっているのは、それがその所持者以外の人々にとって使用価値であるかぎりにおいて、つまりそれが社会的な諸欲望を充たすかぎりにおいてのことである。しかし。その有用な諸属性がそれをどんな諸欲望に関係させるかということにはかかおりなく、それはこのような諸属性によってはつねにただ人間の諸欲望に関係させられた対象となるたけ了あって、他の諸商品にとっての商品にはならないのである。ただ、単なる諸使用対象を諸商品に転化字せるものだけが、それらの使用対象を諸商品として互いに関係させることができるのであり、したがってまた社会的な関係のなかに置くことができるのである。ところが、これこそが諸使用対象の価値なのである。それだから、そのなかにあってそれらの使用対象が互いに諸価値として、人間の諸労働凝固体として、認められるところの形態が、それらの使用対象の社会てきな形態なのである。つまり、商品の社会的な形態と、価値形態または交換可能性の形態とは、一つで同じなのである。もしある商品の現物形態が同時に価値形態であるならば、その商品は他の諸商品との直接的交換可能性の形態をもっており、したがってまた直接に社会的な形態をもっているのである。



 70. 単純な相対的な価値形態(形態I) 1着の上衣=20エレのリンネル は一般的な相対的な価値形態 1着の上衣=20エレのリンネル からは、ただ、この等式〔方程式〕がいまでは次のような隊列の一つの列になっている、ということによってのみ区別される。

      1 着の上衣    =20エレのリンネル
      u 量のコーヒー  =20エレのリンネル
      v 量の茶     =20エレのリンネル
           等々
つまり、それは実際にはただ、リンネルが一つの個別的な等価物から一般的な等価物に発展している、ということによって区別されるだけである。だから、単純な相対的な価値表現においては、自分の価値の大きさを表現する商品がではなくて、それにおいて価値の大きさが表現されるところの商品が、直接的交換可能性の形態を、等価形態を、したがってまた直接に社会的な形態を、得るのだとすれば、同じことは一般的な相対的な価値表現についても当てはまるのである。しかし、単純な相対的な価値形態においてはこの相違はただ形態的で一過的なだけである。もし1着の上衣=20エレのリンネル において上着が自分の価値を相対的に、すなわちリンネルにおいて、表現し、そうすることによってリンネルは等価形態を得るとすれば、この等式〔方程式〕は直接に逆関係 20エレのリンネル=1着の上衣 を包含しているのであって、この等式〔方程式〕においては上着が等価形態を得て、リンネルの価値が相対的に表現されるのである。このような、相対的価値としての、および等価物としての、この両商品の価値形態の対等な相互的な展開は、いまではもはや現われない。リンネルが一般的な等価物であるところの一般的な相対的な価値形態 1着の上衣=20エレのリンネルが逆にされて 20エレのリンネル=1着の上衣 とされても、それによって上着はすべての他の商品にとっての一般的な等価物になるのではなくて、ただリンネルの特殊的な等価物になるだけである。上着の相対的な価値形態が一般的であるのは、ただ、それが同時にすべての他の商品の相対的な価値形態であるからにほかならない。上着に当てはまることは、コーヒー、等々にも当てはまる。それだから、諸商品の一般的な相対的価値形態はそれらの商品そのものを一般的な等価形態から除外するということになるのである。  逆に、リンネルというような一つの商品が一般的な等価形態をもつようになれば、その商品は一般的な相対的な価値形態からは除外されているのである。リンネルの一般的な、他の諸商品と統一的な、相対的な価値形態は、20エレのリンネル=20エレのリンネルであろう。しかし、これは一つの同義反復なのであって、それは、このような、一般的な等価形態にあり、したがってまたいつでも交換されうる形態にある商品の価値の大きさを表現してはいないのである。むしろ、展開された相対的な価値形態 20エレのリンネル=1着の上衣 または =u量のコ―ヒー または =v量の茶 または =等々 が、いまでは一般的な等価物の独自な相対的な価値表現になるのである。



71.  諸商品の一般的な相対的な価値表現においては、それぞれの商品、上着やコーヒーや茶などが、それらの商品の現物形態とは違った価値形態を、すなわちリンネルという形態を、もっている。そして、まさにこの形態においてこそ諸商品は、交換されうるもの、しかも量的に規定された割合で交換されうるものとして、互いに関係し合うのである。なぜならば、1着の上衣=20エレのリンネル、 u量のコーヒー=20エレのリンネル、 等々であるならば、また1着の上衣=u量のコーヒー、等々でもあるからである。すべての商品が一つの同じ商品において自分たちを価値の大きさとして映し出すので、それらはまた互いにふたたび価値の大きさとして映り合うのである。しかし、これらの商品が諸使用対象としてもっている諸現物形態は、それらにとって互いにただこのような回り道を経てのみ、したがって直接にではなく、価値の現象形態として認められるのである。それゆえ、それらが直接的であれば、それらは直接に交換されえないのである。つまり、それらは互いに直接的交換可能性の形態をもっていないのであり、言い換えれば、それらの社会的に妥当な形態は媒介された形態なのである。逆に言えば、すべての他の商品が価値の現象形態としてのリンネルに関係するので、リンネルの現物形態が、すべての商品とのそれの直接的交換可能性の形態となり、したがってまた直接にそれの一般的社会的な形態となるのである。



72. ある商品が一般的な等価形態を得るのは、ただ、その商品がすべての他の商品のためにそれらの一般的な相対的な、したがってまた直接的ではない価値形態の表示に役だつからであり、またそのかぎりにおいてのみのことである。しかし、諸商品は、それらの現物形態はただそれらの使用価値形態でしかないのだから、相対的な価値形態一般を自分に与えなければならないのであり、そして、それらのすべてが互いに価値として、人間労働の等質な凝固体として、関係するためには、統一的な、したがってまた一般的な、相対的な価値形態を自分に与えなければならないのである。それだから、ある一つの商品がすべての他の商品との直接的な交換可能性の形態をとっており、したがってまた直接的に社会的な形態をとっているのは、ただ、すべての他の商品がそのような形態をとっていないからであり、またそのかぎりにおいてのみのことなのである。言い換えれば、商品一般が、その直接的な形態はその使用価値の形態であって、その価値の形態ではないために、もともと、直接に交換されうる、すなわち社会的な、形態をとってはいないからなのである。



73.  一般的な直接的交換可能性の形態を見ても、それが一つの対立的な商品形態であって非直接的交換可能性の形態と不可分であることは、ちょうど一方の磁極の陽性が他方の磁極の陰性と不可分であるのと同じようなものだ、ということは、実際にはけっしてわからない。それだからこそ、すべての商品に同時に直接的交換可能性の極印を押すことができるかのように想像することができるのであって、それは、すべての労働者を資本家にすることができるかのように想像することもできるのと同じようなものである。ところが、実際には、一般的な相対的な価値形態と一般的な等価形態とは、諸商品の同じ社会的な形態の対立的な、互いに前提し合いながらまた互いに突き放し合う両極なのである(23)。

(23) 商品生産に人間の自由と個人の独立との頂点を見る小市民にとっては、この形態につきもののいろいろな不都合、ことにまた諸商品の非直接的な交換可能性から免れるということは、もちろんまったく望ましいことであろう。この俗物的なユートピアを描き上げたものがプルドンの社会主義なのであるが、それは、私がほかのところで示したように、けっして独創という功績などのあるものではなく、むしろ彼よりもずっとまえにブレーやグレーやその他の人々によってもっとずっとよく展開されたのである。こういうことは、このような知恵が今日でもフランスでは「科学」という名のもとにはびこっている、ということを妨げないのである。プルドンの学派以上に「科学」という言葉を乱用した学派はかってなかった。じっさい、「まさに概念の欠けているところに、 言葉がうまくまにあうようにやってくるものなんだ。」 〔ゲーテ『ファウスト』、第1部、「書斎」からの言い変えた引用。岩波文庫版、相良訳、第1部、133ページ。〕

74. 労働の直接的に社会的な物質化としては、リンネル、すなわち一般的な等価物は、直接的に社会的な労働の物質化であるが、他方、自分の価値をリンネルで示している他の諸商品体は、直接的には社会的でない諸労働の諸物質化である。



75. 実際にすべての使用価値が商品であるのは、ただ、それらが互いに独立な諸私的労働の諸生産物であるからにほかならない。私的労働、と言っても、分業の自然発生的な体制の、独立化されているとはいえ特殊な諸分肢として、素材的に互いに依存し合っている私的労働である。それらの労働がこうして社会的に関係し合っているのは、まさに、それらの相違、それらの特殊な有用性によってのことである。それだからこそ、それらの労働は質的に違った諸使用価値を生産するのである。もしそうでないならば、これらの使用価値は相互にとっての商品にはならないであろう。他面では、このような違った有用な質だけではまだ諸生産物を諸商品にしはしない。もしある農民家族がそれ自身の消費のために上着とリンネルと小麦とを生産するとす  れば、これらの物はその家族にはその家族労働のいろいろに違った生産物として相対してはいるが、しかしそれら自身が互いに諸商品として相対してはいない。もし労働が直接的に社会的な、すなわち共同の、労働であるとすれば、諸生産物は、それらの生産者たちにとっては共同生産物という直接的に社会的な性格をとるであろうが、しかし相互にとっての商品という性格はとらないであろう。とはいえ、われわれはここではさらに進んで、諸商品に含まれていて互いに独立している諸私的労働の社会的な形態がなににあるのか、ということを探究する必要はない。この形態はすでに商品の分析から明らかになっていた。諸私的労働の社会的な形態とは、同じ労働としてのそれらの相互の関係である。つまり、千差万別のいろいろな労働の同等性Gleichheitはただそれらの不等性Ungleichheitの捨象においてのみ存在しうるのだから、それらの社会的な形態は、人間労働一般としての、人間労働力の支出としての、それらの相互の関係であって、このような人間労働力の支出は、すべての人間労働が、その内容やその作業様式がどうであろうとも、実際にそういうものなのである。どの社会的な労働形態においても別々な諸個人の労働はやはり人間労働として互いに関係させられているのであるが、ここではこの関係そのものが諸労働の独自に社会的な形態として認められるのである。ところが、これらの私的労働のどれもがその現物形態においては抽象的な人間労働のこの独自に社会的な形態をもってはいないのであって、それは、ちょうど、商品がその現物形態においては単なる労働凝固体という、すなわち価値という、社会的な形態をもってはいないのと同じことである。しかし、ある一つの商品の、ここではリンネルの、現物形態が、すべての他の商品がそれら自身の価値の現象形態としてのリンネルに関係するがゆえに、一般的な等価形態になる、ということによって、リンネル織りもまた抽象的な人間労働の一般的な実現形態に、すなわち直接的に社会的な形態にある労働に、なるのである。「社会的であること」の標準は、それぞれの生産様式に特有な諸関係の性質から借りられるべきであって、それに無縁な諸観念から借りられるべきではないのである。さきに明らかにされたように、商品は、生来、一般的な交換可能性の直接的な形態を排除しているのであって、したがってまた一般的な等価形態をただ対立的にのみ発展させることができるのであるが、これと同じことは諸商品のなかに含まれている諸私的労働にも当てはまるのである。これらの私的労働は直接的には社会的ではない労働なのだから、第一に、社会的な形態は、現実の有用な諸労働の諸現物形態とは違った、それらには無縁な、抽象的な形態であり、また第二に、すべての種類の私的労働はその社会的な性格をただ対立的にのみ、すなわち、それらがすべて一つの除外的な種類の私的労働に、ここではリンネル織りに、等置されることによって、得るのである。これによってこの除外的な労働は抽象的な人間労働の直接的で一般的な現象形態となり、したがって直接的に社会的な形態における労働となるのである。したがってまた、その労働は、やはり直接的に、社会的に認められて一般的に交換されうる生産物となって現われもするのである。



76. あたかも一商品の等価形態が、他の諸商品の諸関係の反射であるのではなくて、その商品自身の物的な性質から生ずるかのような外観は、個別的な等価物の一般的な等価物への発展につれて固まってくる。なぜならば、価値形態の対立的な諸契機は互いに関係する諸商品にとってもはや均等には発展しないからであり、一般的な等価形態はある一つの商品をすべての他の商品からまったく別なものとして区別するからであり、そして最後に、その商品のこのような形態は、実際にはもはや、なんらかの個別的な他の一商品の関係の産物ではないからである。とはいえ、われわれの現在の立場においては一般的な等価物はまだけっして骨化されてはいない。どのようにして実際にリンネルは一般的な等価物に転化させられたのであろうか? それは、リンネルが自分の価値をまず第一に一つの個別的な商品において示し(形態I)、次にはすべての他の商品において順次に相対的に示し(形態Ⅱ)、こうして逆関係的にすべての他の商品がリンネルにおいて自分たちの価値を相対的に示した(形態Ⅲ)、ということによってである。単純な相対的な価値表現は、リンネルの一般的な等価形態がそこから発展してきた萌芽だった。この発展のなかでリンネルは役割を変える。リンネルは、その価値の大きさを一つの他の商品で示すことをもって始め、そして、すべての他の商品の価値表現のための材料として役だつことをもって終わる。リンネルに当てはまることは、どの商品にも当てはまる。リンネルの展開された相対的な価値表現(形態Ⅱ)は、ただリンネルの多数の単純な価値表現から成っているだけであって、この価値表現においてはリンネルはまだ一般的な等価物として現われてはいない。むしろここではおのおのの他の商品体がリンネルの等価物となっており、したがって直接にリンネルと交換されうるのであり、したがってまたリンネルと位置を替えることができるのである。



  〔 第4形態 貨幣形態 〕


77. それゆえ、われわれは最後に次のような形態を得るのである。
 形態Ⅳ 
 20 エレのリンネル = 1 着の上衣 または = u 量のコーヒー または = v 量の茶 または = x 量の鉄 または = y 量の小麦 または = 等々.
 1 着の上衣 = 20 エレのリンネル または = u 量のコーヒー または = v 量の茶 または = x 量の鉄 または = y 量の小麦 または = 等々.
 u 量のコーヒー = 20 エレのリンネル または = 1 着の上衣 または = v 量の茶 または = x 量の鉄 または = y 量の小麦 または = 等々.
 v 量の茶 = 等々.


78. しかし、これらの等式のそれぞれは、逆の関係にされれば、上着、コーヒー、茶、等々を一般的な等価物として現われさせ、したがってまた上着、コーヒー、茶、等々においての価値表現をすべての他の商品の一般的な相対的な価値形態として現われさせる。一般的な等価形態は、つねに、すべての他の商品に対立して、ただ一つの商品だけのものになる。しかし、それは、すべての他の商品に対立して、どの商品のものにもなる。しかし、どの商品でもがそれ自身の現物形態をすべての他の商品にたいして一般的な等価形態として対立させるとすれば、すべての商品がすべての商品を一般的な等価形態から除外することになり、したがってまた自分自身をもその価値の大きさの社会的に認められる表示から除外することになる。

79. 要するに、商品の分析が明らかにするものは、価値形態のすべての本質的な規定、およびその対立的な諸契機における価値形態そのもの、一般的な相対的な価値形態、一般的な等価形態であり、最後に、単純な相対的な諸価値表現のけっして終結することのない列であって、この列は、最初は価値形態の発展における一つの過渡段階をなすのであるが、結局は一般的な等価物の独自に相対的な価値形態に一変するのである。しかし、商品の分析が明らかにしたところでは、これらの形態は商品形態一般なのであり、したがってどの商品のものにもなるのであるが、ただ対立的にのみそうなるのであって、もし商品Aが一方の形態規定にあるならば、商品B、C、等々はこれに対立して他方の形態をとる、というようになるのである。しかし、決定 Werthform, Werthsubstanz und Werthgrösse 的に重要なことは、価値形態Werthformと価値実態〔Werthsubstanz:価値実体〕と価値の大きさ Werthgrösse との関係を発見するということ、すなわち、観念的に表現すれば、価値形態は価値概念から発していることを論証するということだつたのである。



  (24) 古典派経済学の根本欠陥の一つは、商品の、またいっそう特殊には商品価値の、分析から、価  値をまさに交換価値となすところの価値の形態を見つげ出すことに成功しなかった、ということである。A・スミスやリカードのような、まさにその最良の代表者たちにおいてさえ、古典派経済学は、価値形態を、まったくどうでもよいも押として、または商品そのものの性質には外的なものとして、取り扱っているのである。その原因は、ただ、価値の大いさの分析にすっかり注意を奪われてしまったということだけではない。それは、もっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式の最も抽象的な、しかしまた最も一般的な形態なのであって、このことによってこの生産様式は、社会的生産様式の一つの特殊な種類〔eine besondre Art gesellschaftlicher Produktionsweise〕として,したがってまた同時に歴史的に、特徴づけられているのである。それゆえ、もしこの生産様式を社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的にまた価値形態の、したがって商品形態の、さらに発展しては貨幣形態や資本形態などの、独自性をも見そこなうことになるのである。それだから、労働時間による価値の大きさの計測についてはまったく一致している経済学者たちのあいだにも、貨幣、すなわち一般的な等価物の完成した姿については、きわめて雑多できわめて矛盾している諸見解が見られるのである。このことは、たとえば、ありふれた貨幣の定義ではもはやまにあわない銀行業の取扱いにさいして、明瞭に現われてくる。このことから、反対に、復活した重商主義(ガニルその他)が生じたのであって、これは価値においてただ社会的な形態だけを、またはむしろただ社会的な形態の無実体な外観だけを、見るのである。-ここで一度はっきり言っておくが、私は、W・ペティ以来の、ブルジョア的諸生産関係の内的な関連を探究する経済学のすべてを、俗流経済学と対立させて、古典派経済学と呼ぶのであって、俗流経済学のほうは、ただ外観上の関連のなかを右往左往するだけで、いわば粗雑きわまる現象のもっともらしい平易化と、ブルジョアの自家需要とのために、科学的な経済学にとってはとっくに与えられている材料を絶えず繰り返して反芻するのであるが、そのほかには、自分たち自身の最良の世界についてのブルジョア的生産当事者たちのありふれた、ひとりよがりの見解を、体系づけ、屁理屈づけ、永遠の真理として宣言するだけで満足しているのである。