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価値表現の構造分析と
価値形態の物神的性格について

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『資本論』総論2022.



  価値表現の構造分析と

    価値形態の物神的性格について


    ― 『資本論』第1章第3節価値形態または交換価値 ―


 
  資本論ワールド編集部


   価値表現の構造分析と価値形態の物神的性格について

    ◆目次
 Ⅰ.  諸商品の価値対象性と貨幣の謎
 Ⅱ.  一切の価値形態の秘密-単純な価値形態
      x量商品A=y量商品B
 Ⅲ. 商品の等価表現と価値「対象性」 Gallert
      a 相対的価値形態の内実
 Ⅳ.  貨幣の神秘的な性格―等価形態の謎と価値表現の秘密
      ~3 等価形態~金や銀の神秘的な性格
 Ⅴ.  “人間労働”の眼に見える化身と物質的象徴・Gallert
      ~C一般的価値形態~
 Ⅵ. 単純なる商品形態は貨幣形態の萌芽
      ~ D貨幣形態 ~
 Ⅶ. 貨幣物神の謎は、商品物神の目に見えるようになった、
     幻惑的な謎であるにすぎないのである・・・第2章 交換過程 ・・・


 価値表現の構造分析と価値形態の物神的性格について

    第3節価値形態または交換価値

 Ⅰ.  諸商品の価値対象性と貨幣の謎

(1) 商品は使用価値または商品体の形態〔目に見える姿〕で、すなわち、鉄・亜麻布・小麦等々として、生まれてくる。これが彼等の生まれたままの自然形態である。だが、これらのものが商品であるのは、ひとえに、それらが、二重なるもの、すなわち使用対象であると同時に価値保有者であるからである。したがって、これらのものは、二重形態、すなわち自然形態〔 Naturalform:生まれたままの姿〕 と価値形態〔 Wertform:自然形態とは違う価値の形式/様式〕 をもつかぎりにおいてのみ、商品として現われ、あるいは商品の形態Form:姿/目に見える形〕をもつのである。

 諸商品の価値対象性Wertgegenständlichkeitは、かのマダム・クィックリとちがって、一体どこを掴まえたらいいか、誰にもわからない。商品体の感覚的に手触りの荒い対象性と正反対に、諸商品の価値対象性には、一分子の自然素材Naturstoff もはいっていないのである。もし諸商品が同一の社会的等一性〔gesellschaftlichen Einheit : 社会的単位 〕である人間労働の表現であるかぎりでのみ、価値対象性を有ち〔持ち〕、したがってそれらの価値対象性は、純粋に社会的であるということを想い起こして見るならば、おのずから価値対象性が、ただ商品と商品との社会的関係においてのみ現われうる〔新たに出現する〕ものであるということも明らかとなる。〔すなわち、価値対象性とは社会関係ということ〕


 人は、何はともあれ、これだけは知っている、すなわち、諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態〔価値の形式〕をもっているということである。―すなわち、貨幣形態〔貨幣の形式〕である。だが、ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態〔貨幣の形式〕の発生を証明するということ 〔すなわち、貨幣物神も発生すること〕、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっとも単純なもっとも目立たぬ態容〔Gestalt : 目に見える姿・形〕から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。これをもって、同時に貨幣の謎 〔 貨幣物神の謎は残っているが・・・〕は消え失せる。


 最も単純な価値関係は、明らかに、ある商品が、他のなんでもいいが、ただある一つの自分とちがった種類の商品に相対する価値関係である。したがって、二つの商品の価値関係は、一つの商品にたいして最も単純な価値表現 〔ー価値対象性ー〕 を与えている
(岩波文庫p.88)



 Ⅱ.  一切の価値形態の秘密-単純な価値形態

   A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 
       x量商品A=y量商品B
  1 価値表現の両極、すなわち、相対的価値形態と等価形態

 (2) 一切の価値形態の秘密は、この単純なる価値形態の中にかくされている。したがって、その分析が、まことに難事となるのである。・・・
 相対的価値形態と等価形態とは、相関的に依存しあい、交互に条件づけあっていて、離すことのできない契機であるが、同時に相互に排除しあう、または相互に対立する極位である。すなわち、同一価値表現の両極〔注〕である。
(岩波文庫p.90-91)

 〔注〕価値表現の両極:Die beiden Pole des Wertausdrucks この「両極 Pole」は、「磁極」に該当する科学言語。磁極は二つに切断しても再び「+と-の二つの極」が同時に出現する。このように、商品Aと商品Bの価値表現では両極「x量商品A=y量商品B」が現象する。



 Ⅲ.  商品の等価表現と価値「対象性」 Gallert

   ~ 2 相対的価値形態 a 相対的価値形態の内実 ~
 

 (3) ただおのおのちがった商品の等価表現のみが、種類のちがった商品にひそんでいる異種労働を、実際にそれらに共通するものに、すなわち、人間労働一般に整約して、価値形成労働の特殊性格を現出させる。
 だが、亜麻布の価値をなしている労働の特殊な性質を表現するだけでは、充分でない。流動状態にある人間労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するのであるが、価値ではない。それは (*注) 凝結した状態で〔 in geronnenem Zustand : ゲル化した状態で 〕、すなわち、対象的な形態で価値となる。人間労働の凝結物 Gallert としての亜麻布価値を表現するためには、それは、亜麻布自身とは物的に相違しているが、同時に他の商品と共通に亜麻布にも存する 「対象性」"Gegenständlichkeit"〔価値対象性のこと〕として表現されなければならぬ。
(岩波文庫p.95)

  (*注):geronnenem → geronnen : rinnen, gerinnenの過去分詞 → rinnen : 液体などがしたたる。・gerinnen : ミルク・血液などが凝固(凝結)する。膠状化する、ゲル化する。(寒天溶液などを冷却すると、流動性のゾル状がゼリー状のゲル状態になる現象ー固体などの状態変化で目に見える姿が現象する)



 (4) 神の仔羊と同一性Gleichheit
 
 上衣が亜麻布の等価をなす価値関係においては、このように、上衣形態は、価値形態とされる。亜麻布なる商品の価値は、したがって、上衣なる商品の肉体で表現される。一商品の価値は他の商品の使用価値で表現されるのである。使用価値としては、亜麻布は上衣とは感覚的にちがった物である。

    〔ー価値表現の意味内容ー〕
 価値としては、それは「上衣に等しいもの」"Rockgleiches"であって、したがって、上衣に見えるのである。このようにして、亜麻布は、その自然形態とはちがった価値形態を得る。その価値たることが、上衣との同一性 Gleichheit に現われること、ちょうどキリスト者の羊的性質が、その神の仔羊 〔イエス・キリスト〕 との同一性に現われる 〔 すなわち、物神性として出現する・・・ 〕ようなものである。
(岩波文庫p.97)




 Ⅳ.  貨幣の神秘的な性格―等価形態の謎と価値表現の秘密

    ~ 3 等価形態 ~ 金や銀の神秘的な性格

  〔*注〕:「3 等価形態」については『資本論』本文参照のこと・

(5) 等価形態の謎 ― 金や銀の神秘的な性格 

 「われわれはこういうことを知った、すなわち、商品A(亜麻布)が、その価値を異種の商品B(上衣)という使用価値に表現することによって、Aなる商品は、Bなる商品自身にたいして独特な価値形態、すなわち、等価の形態を押しつけるということである。・・・(岩波文庫p.103)

 「一商品、例えば亜麻布の相対的価値形態は、その価値たることを、何かその物体と物体の属性とから全く区別されたものとして、例えば上衣に等しいものとして、表現しているのであるが、この表現自身が、一つの社会関係を内にかくしていることを示唆している。等価形態であるゆえんは、まさに、一商品体、例えば上衣が、あるがままのものとして価値を表現し、いたがって、自然のままのものとして、価値形態をもっているということの中にあるのである。このことは、もちろんただ亜麻布商品が、等価としての上衣商品にたいして関係させられた価値関係の内部においてだけ、妥当することなのである。

 しかし、一物の属性は、他物にたいするその関係から発生するのではなくて、むしろこのような関係においてただ実証されるだけのものであるから、上衣もその等価形態を、すなわち、直接的な交換可能性というその属性を、同じように天然にもっているかのように、それはちょうど、重いとか温いとかいう属性と同じもののように見える。このことから等価形態の謎が生まれるのであって、それは、この形態が完成した形で貨幣となって、経済学者に相対するようになると、はじめてブルジョア的に粗雑(そざつ)な彼の眼を驚かすようになる。そうなると彼は、金や銀の神秘的な性格を明らかにしようとして、これらのものを光り輝くことのもっと少ない商品にすりかえて、いつもたのしげに、すべて下賤な商品で、その時々に商品等価の役割を演じたものの目録を、述べ立てるのである。彼は、亜麻布20エレ=上衣1着というようなもっとも簡単な価値表現が、すでに等価形態の謎を解くようにあたえられていることを、想像してもみないのである。」 
(岩波文庫p.107)


 (6) “人間はみな等しい” ― 同等性社会の成立と価値表現の秘密
      〔 アリストテレスの”等一関係(同等性)”の発見 〕
 価値表現の秘密、すなわち一切の労働が等しく、また等しいと置かれるということは、一切の労働が人間労働一般であるから、そしてまたそうあるかぎりにおいてのみ、言えることであって、だから、人間は等しいという概念が、すでに一つの強固な国民的成心となるようになって、はじめて解きうべきものとなるのである。しかしながら、このことは、商品形態が労働生産物の一般的形態であり、したがってまた商品所有者としての人間相互の関係が、支配的な社会関係であるような社会になって、はじめて可能である。アリストテレスの天才は、まさに彼が商品の価値表現において、等一関係を発見している〔*注〕ということに輝いている。ただ彼の生活していた社会の歴史的限界 〔―ギリシャの奴隷労働の社会― 〕 が、妨げになって、一体「真実には」この等一関係は、どこにあるかを見いだせなかったのである。(岩波文庫p.111)

 〔*注〕等一関係を発見しているー等一関係 Gleichheitsverhältnis
 「アリストテレスが商品の価値表現において、等一関係を発見している」ということー
 向坂逸郎訳の「等一関係」は、ヘーゲル『小論理学』では、「相等性Gleichheit」の「
関係Verhältnis」となります。
 
『小論理学』§116-118  ロ区別(118 相等性)
  「相等性とは、同じでないもの、互に同一でないものの同一性であり、
   不等性とは、等しくないものの関係である。」
  なお、向坂逸郎訳の「等一Gleichheit」は、向坂の独自翻訳語と思われます。




 Ⅴ.  “人間労働”の眼に見える化身と物質的象徴・Gallert

    ~ C 一般的価値形態 ~

 上衣1着         =
 茶10ポンド       =
 コーヒー40ポンド    =
 小麦1クォーター      =    } 亜麻布20エレ
 金2オンス        =
 鉄1/2トン        =
 A商品x量       =
 その他の商品量     =


 (7) "人間労働"の眼に見える化身 Inkarnation, 一般的社会的な蛹化

 亜麻布に等しいものの形態において、いまではあらゆる商品が、ただに質的に等しいもの、すなわち価値一般としてだけでなく、同時に量的に比較しうる価値の大いさとしても現われる。すべての商品が、その価慎の大いさを同一材料で、亜麻布で写し出すのであるから、これらの価値の大いさは、交互に反映し合うのである。例えば 茶10ポンド = 亜麻布20エレ、さらに コーヒー40ポンド = 亜麻布20エレ. したがって、茶10ポンド = コーヒー40ポンド というようにである。あるいは1ポンドのコーヒーには、ただ1ポンドの茶におけるものの4分の1だけの価値実体、すなわち、労働が含まれているというようにである。

 商品世界の一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価商品である亜麻布に、一般的等価の性質をおしつける。亜麻布自身の自然形態は、この世界の共通な価値態容 die gemeinsame Wertgestalt dieser Welt であり、したがって、亜麻布は他のすべての商品と直接に交換可能である。この物体形態は、一切の人間労働の眼に見える 化身 Inkarnation として、一般的な社会的な蛹化 〔昆虫の幼虫が変態し、サナギになること〕 としてのはたらきをなす。・・・

 労働生産物を、無差別な人間労働のたんなる凝結物 Gallert (*注1) として表示する一般的価値形態は、それ自身の組み立てによって、それが商品世界の社会的表現であるということを示すのである。このようにして、一般的価値形態は、この世界の内部で労働の一般的に人間的な性格が、その特殊的に社会的な性格を形成しているのを啓示する (*注4)のである。
(岩波文庫p.123)


(*注1) 人間労働の物質的象徴を表示するGallertは、価値「対象性」の機能を担う役割り。なお、Gallertについて」は、こちらを参照のこと。

(*注2) 化身〔 Inkarnation:受肉ーキリスト教の用語〕
  受肉:
神の言葉が肉となり人間イエスとして表れること(クラウン独和辞典)
 『資本論』では、「Inkarnation」が以下のように使用されています。
 ①一切の人間労働の眼に見える化身・受肉として、一般的な社会的な蛹化として、
  (岩波文庫p.122)
 ②金と銀は、すべての人間労働の直接的な化身・受肉である。(岩波文庫p.167)
 ③貨幣は、人間労働の社会的化身・受肉として、価値の尺度である。
  (岩波文庫p.174)
 ④生活原理の燦爛たる化身・受肉として、(岩波文庫p.230)
 ⑤一切の人間労働の直接に社会的な化身・受肉である(岩波文庫p.232)
 ⑥社会的労働の個性的な化身・受肉として、(岩波文庫p.240)

(*注3)翻訳キーワード
   ①3つのキーワード 1.成素形態 2.変態 3.化身Inkarnation
   ②稲垣良典著「存在(エッセ)」 と 神学的キリスト論(「受肉」論参照


(*注4) 啓示する:ドイツ語offenbaren、ラテン語revelatio。
 ― ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 ―
啓示 revelation  → 独 die Offenbarung >啓示する offenbaren
 「神あるいは超越的存在が,一般的意味において人間自身の力では認識できない秘密,特に神が人間の理解をこえて実在する本質が,いわば逆説的な緊張関係においてあらわにされることをいう。人はこの啓示によって神との交わりに入ることを許される。啓示は人間の予測をこえてただ神の側から一方的に訪れるものであるから,キリスト教では,救いを目的とした神の恩寵としての奇跡的行為とみなされる。また神と交わるということは人が神と同化するというのではなくて,むしろ逆説的にみずからの罪と卑小さを悟り真に神を信じ,神を恐れ,救いを待つという意味での人間的関係を神と結ぶことを意味する。キリスト教における啓示は一度限りの決定的な出来事,すなわち神の言葉の受肉としてイエス・キリストにおいて現れたとされるが,このキリストにおける特殊啓示だけを排他的に主張する立場 (K.バルト) ,神の被造物における一般啓示をも認める立場 (自然神学) などがある。」




 Ⅵ.  単純なる商品形態は貨幣形態の萌芽

   ~ D 貨幣形態 ~
 
  (D 貨幣形態 〔第四形態〕)

 亜麻布20エレ      =
 上着1着         =
 茶10ポンド      =
 コーヒー40ポンド    =
 小麦1クォーター    =  } 金2オンス 2 Unzen Gold
 鉄1/2トン        =
 A商品x量       =

1. 直接的な一般的な交換可能性の形態、または一般的な等価形態が、いまや社会的習慣によって、終局的に商品金の特殊な自然形態と合生してしまった。
  亜麻布20エレ = 金2オンス

2. 金が他の商品にたいして貨幣としてのみ相対するのは、金がすでに以前に、それらにたいして商品として相対したからである。すべての他の商品と同じように、金も、個々の交換行為において個別的の等価 einzelnes Äquivalent としてであれ、他の商品等価と並んで特別の等価 besondres Äquivalent としてであれ、とにかく等価として機能した。しだいに金は、あるいは比較的狭い、あるいは比較的広い範囲で一般的/普遍的 等価 allgemeines Äquivalent として機能した。〔*注〕

 *注1〕『資本論』のヘーゲル論理学 →『小論理学』個別・特別・普遍
   
『資本論』とヘーゲル論理学の関係について、具体的事例箇所を参照。
  
①個別的な等価einzelnes Äquivalent、②特別の等価 besondres Äquivalent
  ③一般的/普遍的 等価 allgemeines Äquivalent
  

3. 金が商品世界の価値表現で、この地位の独占を奪うことになってしまうと、それは貨幣商品となる。そして金がすでに貨幣商品となった瞬間に、やっと第4形態が第3形態と区別される。いい換えると一般的価値形態は貨幣形態に転化される。・・・

4. 貨幣形態という概念の困難は、一般的等価形態の、したがって、一般的価値形態なるものの、すなわち第3形態の理解に限られている。第3形態は、関係を逆にして第2形態に、すなわち、拡大された価値形態に解消する。そしてその構成的要素は第1形態である。すなわち、亜麻布20エレ=上衣1着 または A商品x量=B商品y量である。
したがって、単純なる商品形態は貨幣形態の萌芽(胚芽・胚細胞)である。*注2
(岩波文庫p.129)


*注2『資本論』序文「商品の価値形態は、経済の細胞形態である」参照




 Ⅶ. 貨幣物神の謎は、商品物神の目に見えるようになった
     幻惑的な謎であるにすぎないのである。

   → 第2章 交換過程 ・・・  (岩波文庫p.167)
   → 『資本論』の物神性について 参照  作業中2022.10.


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 参考質料
『資本論』第2版第2章交換過程 抄録


1. 商品は、自分自身で市場に行くことができず、また自分自身で交換されることもできない。したがって、われわれはその番人を、すなわち、商品所有者をさがさなければならない。商品は物であって、したがって人間にたいして無抵抗である。もし商品が従順でないようなばあいには、人間は暴力を用いることができる。言葉を換えていえば、これを持って歩くことができる。これらの物を商品として相互に関係せしめるために、商品の番人は、お互いに人として相対しなければならぬ。彼らの意志がそれらの物の中にひそんでいる。したがって、ある一人は、他人の同意をもってのみ、したがって各人は、ただ両者に共通な意志行為によってのみ、自身の商品を譲渡して他人の商品を取得する。したがって、彼らは交互に私有財産所有者として、認め合わなければならぬ。契約という形態をとるこの法関係は、適法的なものとして進行するかどうかは別として、一つの意志関係である。この関係に経済的関係が反映されている。この法関係または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。人々はここではただ相互に商品の代表者として、したがってまた商品所有者として存在している。叙述の進行とともに、われわれは、一般に、人々の経済的仮装は経済的諸関係の人格化にすぎず、この経済的諸関係の担い手として、彼らが相対しているということを見るであろう。


7. 貨幣結晶は交換過程の必然的な生産物である。交換過程で、種類のちがう労働生産物がおたがいに事実上等しく置かれ、したがってまた、事実上商品に転化される。交換の歴史的な拡がりと深化は、商品性質の中にねむっている使川価値と価値の対立を展開させる。この対立を、交易のために外的に表示しようという欲求は、商品価値の独立形態の成立へとかり立てる。そしてこの独立形態が、商品を商品と貨幣とに二重化することによって、終局的に確立されるまでは、安定し憩うことを知らない。したがって、労働生産物の商品への転化が行なわれると同じ程度に、商品の貨幣への転化が行なわれる(40)。


8. 直接的な生産物交換は、一方において単純なる価値表現の形態をもち、他方においてまだこれをもたない。かの形態はA商品x量=B商品y量であった。直接的な生産物交換の形態は、A使用対象x量=B使用対象y量である(41)。AおよびBという物は、交換前には、このばあいまだ商品でなくして、交換によってはじめて商品となる。ある使用対象が可能性の上から交換価値となる最初の様式は、使用対象が非使用価値として、すなわち、その所有者の直接的欲望を超える使用価値のある量として、存在するということである。
・・・・交換の絶えざる反復は、これを一つの規則的な社会過程とする。したがって時の経過とともに、少なくとも労働生産物の一部は、故意に交換のために生産されなければならなくなる。この瞬間から、一方においては直接的欲望のための物の有用性と、その交換のための有用性との間の分裂が固定化する。その使用価値はその交換価値から分離する。他方において、それらが交換される量的関係は、その生産自身に依存するようになる。習慣は、それらの生産物を価値の大いさとして固定化する。


9. 直接的な生産物交換においては、すべての商品は、直接にその所有者にとっては交換手段、その非所有者にとっては等価Äquivalentである。もちろん、それがこの非所有者にとって使用価値であるかぎりにおいてである。したがって、交換物品は、まだなんらそれ自身の使用価値から、または交換者の個人的欲望から、独立した価値形態を得ていない。この形態の必然性は、交換過程にはいる商品数が増大し、多様化されるとともに発展する。課題は、その解決の手段と同時に発生する。商品所有者が自分の物品を、ほかのいろいろな物品と交換し、比較する交易は、各種の商品所有者の各種の商品が、その交易の内部で同一の第三の商品種と交換され、また価値として比較されるということを必ず伴う。このような第三の商品は、各種の他の商品にたいして等価Äquivalentとなることによって、狭い限界内においてではあるが、直接に、一般的なまたは社会的な等価形態allgemeine oder gesellschaftliche Äquivalentformとなる。このような一般的等価形態は、これを発生させた瞬間的な社会的接触とともに成立し、消滅する。この一般的等価形態は、あの商品へこの商品へと、常なくかわるがわる与えられる。しかし、商品交換の発達とともに、一般的等価形態は、もっぱら特別な商品種besondere Warenartenに付着する、すなわち、結晶して貨幣形態kristallisiert zur Geldformとなる。どの商品種に付着してしまうかは、まず初めは偶然である。だが、大体においては二つの事情が決定する。貨幣形態は、あるいは、外域からのもっとも重要な交換品目に付着する。それらの物品は事実上、領域内生産物の交換価値の自然発生的な現象形態である。あるいはまた、例えば家畜のように、領域内の譲渡しうべき所有物の主要素をなす使用対象に付着する。遊牧民族が、最初に貨幣形態Formを発展させる。というのは、彼らの一切の財産は動かしうる、したがって直接に譲渡しうる形態にあるからであり、また彼らの生活様式は、彼らをつねに他の共同体と接触させ、したがって、生産物交換をひき起こしていくからである。


10. 商品交換が全く地方的な束縛を突き破るのに比例して、したがって、商品価値が人間労働一般の体化物Materiaturに拡がっていくのに比例して、貨幣形態は、本来一般的等価の社会的機能に適する商品、すなわち、貴金属に移行する。


13. すべての他の商品は、貨幣の特別の等価besondre Äquivalente des Geldesにすぎず、貨幣はそれらの一般的等価allgemeines Äquivalentなのであるから、それらの商品は、一般的商品allgemeinen Ware(44)としての貨幣にたいして、特別の商品besondre Warenとしてたいするわけである。


16. A商品x量=B商品y量というもっとも単純な価値表現において、すでに、ある他の物の価値の大いさを表示している一物が、その等価形態を、この関係から独立して社会的の自然属性としてもっているように見えるということを、われわれは知ったのである。われわれは、この誤った外観〔falschen Scheins:誤った仮象〕がどうして固定していくかを追究した。この外観は、一般的等価形態が、ある特別な商品種の自然形態と合生し〔verwachsen:合体する、合生する〕、または貨幣形態に結晶する〔kristallisiert:結晶する、明確な形をとる〕とともに、完成するのである。一商品は、他の諸商品が全面的にその価値を、それで表示するから、そのために貨幣となるのであるようには見えないで、諸商品は、逆に一商品が貨幣であるから、一般的にその価値をこれで表わすように見える。媒介的な運動は、それ自身の結果を見ると消滅しており、なんらの痕跡をも残していない。諸商品は、自分では何もするところなく、自分自身の価値の姿が、彼らのほかに彼らと並んで存在する商品体として完成されているのを、そのまま見出すのである。これらのもの、すなわち、土地の内奥から取り出されてきたままの金と銀とは、同時にすべての人間労働の直接的な化身Inkarnationである。このようにして貨幣の魔術が生まれる。人間がその社会的生産過程で、単に原子的な行動を採っているにすぎぬということ、したがって、彼らの規制と彼らの意識した個人的行為とから独立した彼ら自身の生産諸関係の物財的な姿sachliche Gestaltは、まず、彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるということの中に現われるのである。したがって、貨幣物神の謎は、商品物神の目に見えるようになった、眩惑的な謎であるにすぎないのである。

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