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アリストテレスの「四元素説」と第一哲学


 2019 資本論入門5月号  (2019.05.20)
 第2回 『資本論』の科学史ハンドブック2019-2 


  アリストテレスの「四元素説」と第一哲学

    ダンネマン 『大自然科学史』第1巻 ギリシャ人における科学の発展
 
( 前回『資本論』の科学史ハンドブック2019-1) 
  第1回
 「歴史的に、論理的に」アシモス科学史と『資本論』の“Element”
  ~アシモス著『化学の歴史』と『生物学の歴史』より~
 <目次>
 第1部 古代ギリシャの元素 “Element”
 Ⅰ.アイザック・アシモス著『化学の歴史』
       -古代ギリシャの元素Element ・・・・4月号
 Ⅱ.アリストテレスの「四元素説」と第一哲学  ・・・5月号に続く
    ダンネマン『大自然科学史』第1巻 ギリシャ人における科学の発展
 第2部 化学と生物学の相互進化
 Ⅰ.アシモス著 『生物学の歴史』 ・・・4月号から検索
 Ⅱ.『資本論』価値形態の「萌芽形態-胚芽」について ・・・(作業中)
 第3部 西洋科学史と『資本論』の“Element” ・・・・・(作業中)

 第2回 『資本論』の科学史ハンドブック2019-2 
 ダンネマン 『大自然科学史』 第1巻 三省堂発行 1977年
   古代ギリシャとアリストテレスの科学

 <目次>    資本論ワールド 編集部 まえがき

  1. アリストテレスの「4元素説
  2. ギリシャ人における科学の発展 アリストテレス以前
  3.    ・イオニア自然哲学「一つの新しい要素が人間の精神生活に入った」
       ・機械論の原理による自然説明のはじめての試み
  4. アリストテレスの時代
       ・哲学と自然科学にたいする地位
  5. 第一哲学(形而上学)
       ・出 隆 編集 『アリストテレス哲学入門

資本論ワールド 編集部 まえがき

 第2回科学史ハンドブックは、
 ダンネンマンによるアリストテレスの「4元素説」です。 


 ドイツ科学史家のダンネマン(1859-1936)による全12巻『大自然学史』は、きめ細かな原典紹介と圧倒的な文献資料によって世界的な権威を確立した著作です。各巻の構成は次の通りで、私たちは、『資本論』の科学史に欠かせない多くの資料をダンネマンから学ぶことができます。
 <大自然科学史>
第1巻 古代の科学 ・・・アジアとエジプトから科学がおこる / ギリシャ人の科学
第2巻 古代科学の終わり ・・・アレクサンドリア時代 / 中世における科学の衰亡
第3巻 アラビアの科学からルネサンスまでの科学 ・・・コペルニクスの太陽中心説
第4巻 ルネサンスから17世紀までの科学 ・・・ボイルによる化学の確立
第5巻 17世紀から18世紀までの科学  ・・・ニュートンとホイゲンスの業績
第6巻 18世紀の科学     ・・・電気学、リンネ分類学、ドールトンの原子仮説
第7巻 19世紀初頭の科学  ・・・ガルヴァーニ電気の発見、古生物学の成立
第8巻 19世紀の科学     ・・・膠質化学の成立、ファラデーの業績
第9巻 19世紀の科学     ・・・有機化学、細胞説の成立、エネルギー保存則の確立
第10巻 19世紀の科学    ・・・進化論の確立、周期律の発見、物理化学の進歩
第11巻 20世紀初頭の科学 ・・・レントゲン線・ラジウムの発見と古典量子論の成立

2019 資本論入門5月号



                 ~アリストテレス関連文献検索~
→ 『自然学』 『天体論』 『気象学』 『生成消滅論』


 古代ギリシャとアリストテレスの科学


 Ⅰ. アリストテレスの四元素説

   ~ 古代ギリシャとアリストテレスの科学 ~
      ー ダンネマン『大自然科学史』第1巻 -
  *気象学 アリストテレス全集第5巻


 『気象学』のおわりに、アリストテレスは四元素のことを論じている。この対象に関するくわしい説明は発生と消滅についての本に見いだされる。アリストテレスは四つの元素しかないことを、思索的方法で証明しているがその議論はアリストテレス的思考方法を評価するうえで、きわめて独特なものであるから、少しくわしく述べることにしよう。
 彼のとくところによると、四つの基本感覚、暖、寒、湿、乾がある。これらの感覚は二つずつ対になって感受される。数学的にいうと、そういう結合は六つある(二つずつ6個の組み合わせがある)。しかし、そのうち二つはたがいに矛盾して、結合が不可能である、つまり、暖と寒、湿と乾の結合がそれである。したがって四つの対象だけが存在し、それに応じて四つの元素だけが可能である。寒と乾の対偶には土、寒と湿には水、暖と湿には空気、暖と乾には火が対応する。これら四元素の混合によって、地球にある全物質が生ずる。また各元素にはそれぞれの「自然的」場所があって、その方向へ運動する。
 アリストテレスは、物質(質料)を与えられたものとして前提する。それは無から発生するものではなく、増減するものでもない。それはむしろ変化しうるだけである。変化は不等なもの、あるいは対立的なものが、たがいに作用しあうことによって生ずる。この作用は接触によっておこるが、接触と言ってもかならずしも直接の接触である必要はない。むしろ、中間物質の各部分が、すぐ隣りへ運動を伝えるという、中間物質の媒介も生じてよい。けっきょくにおいて、いっさいの変化は質的、量的の区別を問わず、すべて運動に基づく。物体は一度動かされると、抵抗物に突きあたらぬかぎり、静止するという理由は考えられない。他方静止するものは抵抗を示し、じぶんの場所にいつまでもとどまる。
 これらの命題のすべてのなかに、その後全体的にまた部分的に真実として証明されることになった芽ばえや予想がすでにあらわれている。物質保存の法則の暗示とならんで、エネルギー保存の法則の予想もすでに立てられた。それは自然のなかにある運動は、発生することもなく、消滅することもないという言葉のうちに示されている。ただし、アリストテレスにはときどき、ほんとうの、まぐれあたりがあったことも、忘れてはならない。空気は二つの構成要素からなり、地面に近い所ではむしろ湿にして冷、高所ではむしろ乾にして暖の要素がまさっていると言ったのなどはそれである。

 アリストテレスによると、生成には三つの原因、つまり、生成の根底に横たわるものとしての質料、目的としての形相、および誘因としての加動がある(原注1)。生物について言うと、質料に形態を与える形相(※エンテレケイア)は、アリストテレスによると、私たちが霊魂とよぶものと区別がない。霊魂の種別は生物の段階的序列を決定する。霊魂の最下段は植物的霊魂である。それは栄養摂取と生殖にかぎられ、植物のなかに働く。動物的霊魂はなおこのほかに、感覚の能力を有し、さらに人間にいたると、なおこれに理性が加わる。人間そのものは、アリストテレスにとっては、全創造の目的であり、中心であった。人間において倫理的の感じが意識にのぼる。しかし、アリストテレスにとって、霊魂はそれ自身で存在するものではない。霊魂は自らは物体的となることなしに、質料に結びつけられる。霊魂は質料から肉体をつくりあげ、肉体を目的に一致させるように、働くところのものである。
 四元素の説はヒッポクラテス学派やまたプラトンにとっても、病気の発生を説明するうえに役立った。身体は土、火、空気、水からなっているので、この元素の一つが多すぎたり、少なすぎたり、またそのしめるべき位置が変わったりすることは、かならず騒動、つまり、病気を引きおこすと言われた。
 アリストテレスもまた、ある病気は湿気の過多によって、他の病気は熱の過度によって説明している。彼は、年とともに、肺臓のなかに土の成分がたまり、それによって火が消えて、死がくると考えた。
 アリストテレスの元素は、今日の化学元素のようなものではないが、同時にまたイオニアの自然哲学者たちの物活説(※すべての物質には生命があるという説)は、彼の非難するところであった(「ただ一つのもの、たとえば、空気がすべてであるということは、成り立たない」)。アリストテレスの意見は、「感覚器官によって知覚できる諸物体の一つの実質(原注2)はあるが、それはつねに対立性と結ばれて、その対立性からいわゆる元素が生ずる」というのであった。

(原注1)
 アリストテレスのとなえたのは本来四原因の説である。ラテン語で有名になっているカウサ・マテリアーリス(質料因)、カウサ・フォルマーリス(形相因)、カウサ・エッフィキエーンス(動力因)、カウサ・フィナーリス (目的因)が、これである。著者は第二と第四を一つにまとめて、紹介したのであろうが、かならずしも妥当でない。生成がたとえば人間の活動であるばあいは、一定の目的のために、一定の形にしたがって素材に手を加えるのであって、四原因は明らかである。ただし、いまのばあいは、生物体の成長のような自己展開であって、それにおいては質料因にたいして、他の三原因は一つに帰してあらわれる。それがエンテレケイア、すなわち質料を限定しつつ、自己自身のために、自己自身を実現していく形相である。いわば本質の現象への自己実現であって、生物では霊魂がこういうものと規定されたわけである。 エッテレケイアの思想はドリーシュ(1867-1941)などによって、現代生理学説に復活させられた。

(原注2)
 アリストテレスはプローテー・ヒューレー(最初の質料・第一物質materia prima)とよんでいる。これは現実的には対偶をなす四つの性質(寒暖乾湿)において見いだされ、その対偶にしたがって四元素が生成する。対偶をなす性質の一方がその反対の性質に打ち勝つと、元素の転化がおこる。たとえば、水(寒湿)の寒が暖に打ち勝つと、空気(暖湿)になるというようにたがいに転化する。個々の物体はこの四元素のすべてを種々の割合でふくむ。これにたいし、質料を規定して個々の物体をつくりあげる原理、物体を物体たらしめる本質はウーシア( οὐσί ラテン語で essential )とよばれた。中世になると、このウーシアを第五元素( quinta essential )とよんで物質的に考えられ、これを抽出する努力がはらわれた。
  ・・・以上、終わり・・・

ダンネマン著『大自然科学史』 


  安田徳太郎新訳 三省堂 1977年発行


 ダンネマン Dannemann,Friedrich (1859-1936)
ドイツの科学史家。ブレーメン出身、ボン大学の教授として自然科学史講座を担当。主著は『大自然科学史』4巻(1910‐13)
訳序 〔1943年、旧約第1巻-第6巻。新訳第1巻-第11巻、別巻は1977年発行。訳者の訳序は要約〕
この本はドイツのフリードリッヒ・ダンネマンの『発展と関連から見た自然科学』1920-1923年全4巻の翻訳である。自然科学の全体的な発展的過程把握であり、科学を推進せしめる社会的背景の認識であった。こういう立場から書かれた科学史が、どこにもなかった。・・・ 1937年にダンネンマン教授に翻訳権の許可を求め、アメリー・ダンネマン嬢から快諾の手紙をいただいたが、その文中に「父も昨年なくなりました」とあり・・・。
 敗戦後共訳者の加藤正君は、長い闘病生活ののち、1949年に43歳の若さで亡くなった。・・・そこで戦後の混乱のなかで、今度は私一人で翻訳をつづけ、1960年にやっと完結を見た。・・・ それから30年の歳月が流れた。数年前に三省堂出版部の人が見えて、改訳してほしいという相談を受けた。・・・
 この本は今日の高い科学的水準から見ても、やはりすぐれた本であって、これまでのところ、これをしのぐ科学史本はまだ出ていない。・・・この本の基礎知識は高等学校の自然科学の程度で、今日の日本人ならだれにでも理解できる、やさしいものである。しっかり腰をすえて、科学の原点に立ち返り、新しい目をでもって、ピュタゴラスやアルキメデスの数学、コッペルニクスの天文学、ガリレオ・ガリレイの力学を、原典について学ぶのは、日本人にとっても、楽しいことであると思う。・・・ 1976年10月1日 安田 徳太郎

 ダンネマン『大自然科学史』第1巻
 Ⅱ. ギリシャ人における科学の発展 アリストテレス以前

  1. 自然科学はその後まもなく現象間の法則的関係を発見するという、もっと謙虚であるが、だれでも手出しのできる目的に専心することになった。人びとがこの目的をはっきり見定めるにしたがって、たとえば錬金術や占星術にあらわれたようなよけいな空想分子は取りのぞかれ、人びとはしだいに今日の形の科学に近づくようになった。 イオニア自然哲学とともに「一つの新しい要素が人間の精神生活に入った」。ここにはじめてたゆまぬ精神活動によって、各自の成果に達するという、自己自身の信念をもった科学上の個性があらわれた。ほんとうの科学のその後の発展にとって、こういう個性の出現は欠くことのできない前提であった。 純粋な哲学的考察方法は、精密研究にくらべて、固有な欠点があるにもかかわらず、経験科学をたえず刺激した点では、無視することのできない功績をもっている。ギリシア的古代が発展させた多くの哲学観はずっと近世の自然科学にまで影響を与えた。たとえば、物質の多様性をただ一つの始原物質に還元するという試みは、今日までつづいている。はじめはイオニア哲学者によって、空気あるいは水のような周知の物質の一つが、そういう始原物質であるときめられた。その後アリストテレスは空気、水、土、火を、同一の根元の、異なった現象形態と理解した。その結果、この周知の物質をたがいに転化させることが、可能であると考えられるようになった。中世において、卑金属を貴金属に変える努力が、とくにアリストテレス哲学によって支えられていたのもそのためであった。
  2. 元素説の源をたどれば、アクラガス(アグリゲンツム)のエンペドクレス(紀元前440年頃)に達する。彼は元素を永久的、自立的であり、たがいに転化させることはできないとした。この元素は、二種の起動力、すなわち、親和(※愛)およびヘラクレイトスが万物の父とよんだ戦い(※憎)の二つによって混合されて、事物につくりあげられる。分解というのは、目に見えないが、一つの物質の小分子が他の物質の小分子から、分離することによっておこなわれるとした。エンペドクレスは、感覚もやはりこういう方法で生ずるとした。
  3. 機械論の原理による自然説明のはじめての試み

    いたるところに見られる物質変化を、一般の人びとがはじめは発生と消滅として理解していたときに、あらゆる変化は混合と分解に還元されること、しかもそのさい物質そのものはつくられもせず、ゝなくなりもしないことを教えたのは、哲学者であった。さらに同じ哲学的思惟から、物質は最小微分子からなり、右の混合と分解はそれら徴分子の移転に基づくという考えが生まれた。研究によってえられたこの二原理は、ついで自然の思惟的把握を目ざす研究の努力を導く北極星として役立った。
    機械的自然説明のあらましの仕上げは、エンペドクレスの説を機縁として、原子論者とよばれる哲学者、レウキッポスおよびデモクリトスによっておこなわれた。彼らの考えはつぎのような命題にまとめることができる。万物ははじめがなく、何ものによっても創造されたのでない。そもそも在ったものも、在るものも、在るであろうものも、すべて永遠のかかしから必然に基づいて在るのである。宇宙は質的に均等な微分子、つまり原子からなるが、これらは形態を異にして、相互の位置を変える。位置を変えることが可能であるためには、なおこのうえに、空間は空虚でなくてはならない。原子は永久的で消滅しない。無からは何も生じない。何物もなくすることはできない。すべての変化は原子の結合と分離によってのみ生ずる。原子の数、形態、合一および分離によって、事物の多様性が生ずる。自然におけるすべての過程は、超自然的なものの気まぐれによるものではなく、因果的に制約されていて、何ものも偶然にはおこらない。原子の運動はそもそものはじめからあり、それによって無数の世界の形成が導かれた。原子と空虚な空間のほかには、何ものも存しない。この原子説の弱点は、今日の原子説にもやはりつきまとっている弱点であるが、霊魂的なものも原子から、しかもいっそう微細な原子からなり、この微細な原子は、はるかに粗大な物体原子に浸透し、非常に動きやすく、このようにして生命現象をよびおこすと考えたところにある。・・・・・
  4. 哲学的見地から機械的世界説明に価値を認めようと、あるいはそれをすでに打破されたものと考えようと、私たちはともかくこの世界説明の建設者たちのこれまでの偏見を脱した、徹底的な考え方だけは、認めなければならないであろう。今日でも科学研究の努力は、質を量に還元し、現象の測量できるという点に、その説明を見いだすところに、おかれているからである。「この方法によってはじめて、自然科学の偉大な勝利がえられたことを知る者は、デモクリトスの考えの偉大さを評価できるであろう。原子論はたしかに仮説の網である。しかし、自然現象を私たちが理解のために捕獲するのに、私たちはこれ以上によい網をもっていない。」原子説は奇妙な運命をもった。原子説はそれが成立した時代にたいしては、わずかな影響しか与えなかった。2000年後にはじめてガサンディと、とくにドールトンによって、復活をみた。それ以来原子説は最大の科学的意義を勝ち取った。なぜなら、原子の力学がいっさいの自然現象の根底におかれたからである。(ダンネマン『大自然科学史』第1巻p.236)

 Ⅲ. アリストテレスの時代

  1. アリストテレス

    アリストテレスは古代のいちばんすばらしい人物の一人で、彼こそ当時の科学の化身ともいえる存在である。彼はマケドニア宮廷で名望のあったあるギリシア人の医家の出身であった。アリストテレスは紀元前384年にアトス山脈に近いギリシア植民地のスタゲイロス(のものスタゲイラ)に生まれた。彼の教育は、当時の習慣にしたがって、ある一人の人間の手にゆだねられた。アリストテレスはこの人にたいして、後年彼自らが教え子アレクサンドロス大王から示されたような変わらぬ感謝の念を抱いていた。それ以外にはアリストテレスの少年時代と成長の経歴に関する、くわしい報告は見あたらない。しかし、彼は家系の伝統にしたがって、医者の仕事につくことになり、まずその方面の教育を、手ほどきされたものと見て、さしつかえないであろう。アリストテレス哲学の経験的な特色は何よりもまずこの事情に由来している。 学問は紀元前5世紀においては、まだ少数のすぐれた人だけのものであったが、紀元前4世紀においては、しだいに教育のある人たちの共有財産となってくる。文献は量においても、専門分科においても増大する。すでに紀元前4世紀の前半においては、どんな題目のばあいでも、それについて本が書かれないようなものは、ほとんどないまでになった。
  2. 紀元前4世紀の中頃における精神生活の焦点はアテナイであった。この地でソクラテスが子弟を教え、プラトンが隆々たる哲学学校を開設した。科学に情熱をもつ富裕な少年たちが、まずここに足を向けたことに、不思議はない。紀元前367年にアリストテレスはプラトンを師とするアカデメイアに入学した。彼は紀元前347年にこの師が死ぬ日まで、引きつづきその教えを受けた。プラトンはアリストテレスのうむことを知らぬ勉学ぶりを見て、彼を「読書家」という名でよび、彼を他の門弟たちと比較して、彼らには拍車がいるが、アリストテレスには手綱がいると言ったという。後世においても、アリストテレスがおよそ科学史の知るかぎりのもっとも勤勉な学者の一人と目されたのは当然である。彼の名声はまもなく高まらずにはおかなかった。伝えるところによると、マケドニア王フィリッポスは紀元前343年に14歳になったじぶんの息子の教育を、アリストテレスにまかせたときに、つぎのような言葉を彼に書き送ったという。「私はあなたと同じ時代に息子を授かったことを、神々に感謝しなければならない。なぜなら、私は、あなたの教育によって、私の息子が私の王位をつぐにふさわしい人物になるよう、願うからである。」このようにして、当時の最大の思想家は、最大の王の教育を委任されることになった。こういうことは、歴史の上で例のないことであった。 ・・・・
  3. アリストテレスが示したような広範な科学活動を実行するためには、莫大な費用が必要であった。彼がこの費用をマケドニア王の好意によったものか、それとも自分自身の財産から支出したのか、はっきりしたことはわからない。おそらく両方の事情がいっしょになって、そのおかけでアリストテレスはギリシア哲学者のなかで、はじめて大文庫を所有することができたのであろう。書籍をつくるということは、当時にあっては手間と費月のかかる仕事で、一つの書物について、出る部数ももちろんかぎられていた。したがって、当時の書物をアリストテレスが集めたほどたくさん手に入れるには、莫大な金額を要したことは想像できる。・・・アレクサンドロス大王の死んだ翌年、まだギリシアに以前の制度が復活しないうちに、彼のゆたかな生涯は死によっておわりを告げた。
     この大哲学者の著述と蔵書は、とりあえず彼の愛弟子のテオフラストスの所有に移された。そのなかには未完成で、のちに補欠されたものも、多かったであろう。これらの著述はテオフラストスから、さらに一人の門弟に残されたが、その後150年間そのまま埋もれていた。最後にスラがアテナイを征服したとき、これらはローマに移され、そこで多くの部数が写されて、広く普及された。そのさいゆがめられたり、損なわれたものが多かったのは、言うまでもない。今日伝わっている全著述は、オクタボ型に入れれば3800ページを要するほどである。しかし、そのなかのある部分は、偽本とされている。
     アリストテレスの著述のうち、元のままのものは、おそらく一つもないはずである。若干の重要な著述でも、やはり門弟たちが手を加えたものであろう。文体の統一が欠けていることも、その一つの証拠である。他の著述にいたっては、たんなる草案であったり、抜粋の羅列であったりする。それに加えて、後世の編集者の手による追加もまじっているが、特別にそうとことわってあるのはまれである。最後にアリストテレスの名を冠しているが、じつはそうとは見られない偽作、またはその一小部分がアリストテレスのものと見られるにすぎない著述も存している。
  4. 哲学者としてのアリストテレスと自然科学にたいする彼の地位

    アリストテレスの著述のうち、いちばん大きなものは、自然科学に関する諸書である。それらは物質界の普遍的条件や宇宙構造から、地球上の個々の動植物の記述や解剖にいたるまでの、万有の総体にわたっている。自然科学の内容を扱った書物で、以下アリストテレスの学説の体系を述べるにあたって、とくに間題になるのは、つぎのものである―『自然学講義集』、『天界について』、『生成と消滅について』、『気象学』、および『力学問題』(*原注:アリストテレスの著書でない)。アリストテレスの純粋な、哲学書のなかでは、特殊科学のどの部門にとっても大切なものとして、のちに『オルガノン』とよばれた本をあげることができる。アリストテレスがはじめて形式論理学の概要をくわしく述べたのは、この本である。
     自然科学にたいするアリストテレスの功績は、二つの方面から見ることができる。彼は一方では先人たちの散在している一つ一つの知識を総括し、非常に多産的な著述活動によって、これを後世に伝えた。しかし、彼はその反面において、こういう知識の無批判的なよせ集めに満足しないで、哲学的原理からあらゆる科学の統一的体系を展開するという大問題に向かった。したがって、世界解明にたいする努力としての哲学は、彼にとっては科学の発展をもたらす起点であり、また拠点であった。
    アリストテレスは思惟と世界を、その対立と相関において理解し、また理解させようとした。哲学はプラトンにおいてはまだ詩的霊感にみちていたが、アリストテレスにくると、自我とその思惟活動および直観形式、また世界とその個々物の冷静な観察となった。彼はプラトンにおいて事物のかなたおよび事物の背後に立っていたイデアならびに目的を個々物のなかに指摘しようと試みた。プラトンにたいしては、彼が現実をあまりにも無視して、現実のかわりに、しばしば内容空虚な概念の体系をおいたという非難をあげないわけにはいかないが、アリストテレスになると、現実的認識はただ経験だけから生ずることができるという確信によって進んだ。したがってアリストテレスは、だれでも「まず現象を理解し、その後にはじめて原因をあげる」というようにしなければならないと戒めている。
  5. 彼が弁証法の方法をりっぱに使いこなすことを心得て、それを守りとおした点において、アリストテレスはさすがにソクラテスとプラトンの弟子であった。しかし、この二人の哲学がもっぱら弁証法の地盤に根ざしていたのにたいして、アリストテレスのほうは自然科学の観察的方法を弁証法に結びつけようとした。こういうことは、彼の師たちのなしえなかったことであった。「もちろん両要素を完全な均衡にもたらすことはできなかったが、それでも彼は二つの結合によって、ギリシア人のうちで、最高の仕事をなしとげたのであった。」ソクラテスとプラトンはまず概念を問題とし、しばしば言語習慣や一般におこなわれている意見の観察からのみえた概念の認識を、将来の研究の基礎においたが、アリストテレスのほうは概念(形相)のほかに、起動的および質料的原因を考慮に入れた。彼は鋭い思索家であるばかりでなく、その過度の経験主義のため非難を受けることもめすらしくないほどまでに、飽くことを知らぬ観察家であった。自然説明のさいに従うべき原理は、彼のばあいでは総括的に展開されていないで、多数の個別的な所見となって散在している。それらをひっくるめれば、つぎのように言うことができよう、―いつでも説明には観察がさき立たなければならない。理論は個々物の認識のうえに立たなければならないということが、くりかえし強調された。観察に関しては、それが細心で、包括的で、何よりもいっさいの先入観から自由であることが要求された。もしそれが他人の観察であるばあいは、厳正な批判を加えなげればならない。つまり、アリストテレスに見いだされる原理は、経験主義を信奉する近世哲学者たち、たとえばベーコンでさえも、これ以上りっぱに展開できなかった原理である。しかし、ベーコンのばあいもやはりそうであったように、せっかく意図したことも、かならずしも遂行されるとは言えなかった、それにはいろいろの理由をあげることができる。一つにはアリストテレスの時代には科学研究の道具が、まだそれほど発達していなかった。とりわけ、ほとんどすべての分野において、量的関係をもっと精密に測定する可能性が欠けていた。アリストテレスは熱を論ずるさい、すでにそのことに気がついた。しかし、感覚器官の不完全さを補い、それによって観察をできるかぎり鋭敏にすることについては、彼は漠然とした予想さえもっていなかった。彼にとってはまだ、感覚器官にたいして実在しないものは、存在しないものと思われていた。
    ツェラーはアリストテレスの思考方法をうまく評価して、こう言っている。「ギリシア科学は思索をもってはじまり、経験科学はその後になって、はじめてある程度の完成に達したのであったから、ソクラテスやプラトン流の弁証法の方法が、厳密な経験をとびこえていたのは当然であった。アリストテレスもはじめはこの方法をしっかり守っていたばかりか、この方法を理論的にも、実際的にも、完成させたとはいえ、彼において経験的研究の方法が、同じ程度の完成に達するだろうとは期待できない。それにまたこの二つの方法を厳密に区別することは、彼にはまだ問題にもならなかった。このことは経験科学のいっそう高い発展によって、哲学のほうから言えば、認識論の研究によって、はじめてもたらされたのであるが、これがよびおこされたのは近世のことである。」
     アリストテレスは考察の全対象を一連の最高概念、つまりカテゴリーの下において、それを一つにまとめようとした。その主なものは実体、量、質、状態、能動、受動のカテゴリーである。彼は人間を自然全体の究極目的と見た。人間はアリストテレスの哲学と科学論を採用して、自分たち人間にあてがわれたこの地位に、その後2000年もしがみついてきたが、最後にこの目的概念を機械的因果律におきかえ、人間をその他の存在の連鎖における一環として、把握するようになったのである。

       ・・・・以下、省略・・・
Ⅳ. 第一哲学(形而上学)

   ・出 隆 編集 『アリストテレス哲学入門 岩波書店 1972年発行


  ・・・以上、終わり・・・