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ダンネマン-機械論の原理

  『大自然科学史』 第1巻
  Ⅱ. ギリシャ人における科学の発展 アリストテレス以前
    -原子論-

   ・機械論の原理による自然説明のはじめての試み
   ・イオニア自然哲学 「一つの新しい要素が人間の精神生活に入った」
1. 自然科学はその後まもなく現象間の法則的関係を発見するという、もっと謙虚であるが、だれでも手出しのできる目的に専心することになった。人びとがこの目的をはっきり見定めるにしたがって、たとえば錬金術や占星術にあらわれたようなよけいな空想分子は取りのぞかれ、人びとはしだいに今日の形の科学に近づくようになった。
 イオニア自然哲学とともに「一つの新しい要素が人間の精神生活に入った」。ここにはじめてたゆまぬ精神活動によって、各自の成果に達するという、自己自身の信念をもった科学上の個性があらわれた。ほんとうの科学のその後の発展にとって、こういう個性の出現は欠くことのできない前提であった。
 純粋な哲学的考察方法は、精密研究にくらべて、固有な欠点があるにもかかわらず、経験科学をたえず刺激した点では、無視することのできない功績をもっている。ギリシア的古代が発展させた多くの哲学観はずっと近世の自然科学にまで影響を与えた。たとえば、物質の多様性をただ一つの始原物質に還元するという試みは、今日までつづいている。はじめはイオニア哲学者によって、空気あるいは水のような周知の物質の一つが、そういう始原物質であるときめられた。
 その後アリストテレスは空気、水、土、火を、同一の根元の、異なった現象形態と理解した。その結果、この周知の物質をたがいに転化させることが、可能であると考えられるようになった。中世において、卑金属を貴金属に変える努力が、とくにアリストテレス哲学によって支えられていたのもそのためであった。


2. 元素説の源をたどれば、アクラガス(アグリゲンツム)のエンペドクレス(紀元前440年頃)に達する。彼は元素を永久的、自立的であり、たがいに転化させることはできないとした。この元素は、2種の起動力、すなわち、親和(※愛)およびヘラクレイトスが万物の父とよんだ戦い(※憎)の二つによって混合されて、事物につくりあげられる。分解というのは、目に見えないが、一つの物質の小分子が他の物質の小分子から、分離することによっておこなわれるとした。エンペドクレスは、感覚もやはりこういう方法で生ずるとした。


 3. 機械論の原理による自然説明のはじめての試み

 いたるところに見られる物質変化を、一般の人びとがはじめは発生と消滅として理解していたときに、あらゆる変化は混合と分解に還元されること、しかもそのさい物質そのものはつくられもせず、いなくなりもしないことを教えたのは、哲学者であった。さらに同じ哲学的思惟から、物質は最小微分子からなり、右の混合と分解はそれら徴分子の移転に基づくという考えが生まれた。研究によってえられたこの2原理は、ついで自然の思惟的把握を目ざす研究の努力を導く北極星として役立った。

 機械的自然説明のあらましの仕上げは、エンペドクレスの説を機縁として、原子論者とよばれる哲学者、レウキッポスおよびデモクリトスによっておこなわれた。
 彼らの考えはつぎのような命題にまとめることができる。万物ははじめがなく、何ものによっても創造されたのでない。そもそも在ったものも、在るものも、在るであろうものも、すべて永遠のかかしから必然に基づいて在るのである。宇宙は質的に均等な微分子、つまり原子からなるが、これらは形態を異にして、相互の位置を変える。位置を変えることが可能であるためには、なおこのうえに、空間は空虚でなくてはならない。原子は永久的で消滅しない。無からは何も生じない。何物もなくすることはできない。すべての変化は原子の結合と分離によってのみ生ずる。原子の数、形態、合一および分離によって、事物の多様性が生ずる。自然におけるすべての過程は、超自然的なものの気まぐれによるものではなく、因果的に制約されていて、何ものも偶然にはおこらない。原子の運動はそもそものはじめからあり、それによって無数の世界の形成が導かれた。原子と空虚な空間のほかには、何ものも存しない。この原子説の弱点は、今日の原子説にもやはりつきまとっている弱点であるが、霊魂的なものも原子から、しかもいっそう微細な原子からなり、この微細な原子は、はるかに粗大な物体原子に浸透し、非常に動きやすく、このようにして生命現象をよびおこすと考えたところにある。・・・・・


4. 哲学的見地から機械的世界説明に価値を認めようと、あるいはそれをすでに打破されたものと考えようと、私たちはともかくこの世界説明の建設者たちのこれまでの偏見を脱した、徹底的な考え方だけは、認めなければならないであろう。今日でも科学研究の努力は、質を量に還元し、現象の測量できるという点に、その説明を見いだすところに、おかれているからである。「この方法によってはじめて、自然科学の偉大な勝利がえられたことを知る者は、デモクリトスの考えの偉大さを評価できるであろう。原子論はたしかに仮説の網である。しかし、自然現象を私たちが理解のために捕獲するのに、私たちはこれ以上によい網をもっていない。」
 原子説は奇妙な運命をもった。原子説はそれが成立した時代にたいしては、わずかな影響しか与えなかった。2,000年後にはじめてガサンディと、とくにドールトンによって、復活をみた。それ以来原子説は最大の科学的意義を勝ち取った。なぜなら、原子の力学がいっさいの自然現象の根底におかれたからである。
 (ダンネマン『大自然科学史』第1巻p.236)

 第2部  シンガー著 『科学思想のあゆみ』

1. 「科学とは、何を意味しているのか。これは、この本を読もうとするときに当然おこる疑問である。しかしこの疑問は、答えられるにしても、はじめに答えることはほとんど不可能である。ある意味でこの本自体が、その解答になっている。・・・」
 「・・・したがって科学とは、静的な知識体ではなく、むしろ、時代を通じてたどることができる動的な過程である。・・・科学的なという語の本来の意味は、知識をつくることである。だから、成長することなく、現につくられつつあることのない説教というものは、もはや科学の属性を保持することはできない。」

2. 科学の伝統の起原
 「したがって、科学とは一つの過程である。しかし、いつその過程ははじまったのだろうか。これに答えることは、ちょうど、人間はいつ成長をはじめるのかという疑問に答えるのとおなじようにむずかしい。・・・旧石器時代の人間は、自分で動物を殺してその肉を食べていた。かれらは、狩猟にたよっていたので、自分が猟をする動物の習性や形態を観察するようになった。また呪術のおかげで、動物を殺している動作を絵に描くだけで、その動物をわがものになることを示唆しているものと信じていた。かれらの絵の正確さと美しさは、かれらの洞穴を探査する人びとの驚異と称賛をひきおこしている。旧石器時代の画家の観察の正確さや、形や動きの表現にむけられたその注意力や、さらに動物の解剖さえも、科学的な過程に類似している諸要素をたしかに示している。・・・」


3. 古代文明とギリシャ思想
 「こうして、これらの古代文明のうちで科学を見分けることはできるかもしれないがそういう文明における科学思想の発達を継続的に述べることは、だれにもできなかった。さらに、科学が古代人の思考様式にどのような影響をおよぼしたかを示すことは、もっとむずかしい。いっそうはっきりした見解を得るには、さらにのちの別な文化であるギリシャ人の文化を考察しなければならない。だがそれにもかかわらず、メソポタミアやナイル川流域の古代民族が残したものは、ギリシャ思想のいちじるしいまとまりを示唆しており、またおそらくそれを促進したであろう。そこでつぎに、バビロニア文化とエジプト文化のあるいくつかの局面をとり扱うことにする。」


4. 目的論自然学
 私たちの資本論ワールドでは、ここで、シンガーの「序論 科学的な過程の本質」からいったん離れ、古代世界の科学思想を現代に引き継いでいる「アリストテレス科学」からはじめてゆきます。古代ギリシャ史の底流にある「目的論自然学」は、アリストテレスの時代に「統一的体系化」を成し遂げます。以後古代・中世から17世紀「デカルト革命」に至る 2,000年の間、支配的な科学思想として西洋史に君臨してゆきます。
 古代の原子論は、目的論自然学に対抗する宇宙と自然の原理として「機械論」を展開しますが、しかし、中世キリスト教神学-アリストテレス・スコラ哲学複合体-の圧倒的な影響力の前に歴史の表舞台から退いてゆきます。「原子論」に対抗する「アリストテレス自然学」の2,000年に及ぶ科学的意義-目的論と生気論の科学思考-は、『資本論』の "Elememt" にも刻印されているのです。

5. アリストテレスの歴史的位置
 シンガー『科学思想のあゆみ』の目次を通覧しておくことは、「アリストテレス科学の歴史的位置」の見定めに大変役立つものと思われます。



 ◆科学思想のあゆみ 目次

序論  科学的な過程の本質
第1章 精神的なまとまりの発生――
    基盤-前400年ころまでの、メソポタミア、エジプト、
       イオニア、マグナ・グラエキア、アテネ
第2章 偉大な冒険――
    思想の統一的体系(前400-前300年のアテネ)、
   (1)プラトンとアカデメイア学派 (2)アリストテレス 
   (3)ペリパトス派、ストア派、エピクロス派
第3章 第二の冒険――科学と哲学の分離(前300-後200年のアレクサンドリア)
第4章 霊感の衰退――
    実利実用の侍女としての科学。帝政時代のローマ(前50-後400年)
第5章 知識の衰退――中世(後約400-1500年)。神学-諸学の女王
第6章 学問の復興――
    ヒューニズムの勃興-古代への計画的な復帰(1250-1600年)
第7章 波乱の世紀(1600-1700年)アリストテレスの没落。総合の新しいこころみ
第8章 機械論的世界――決定論の登場(1700-1850年)
    物質の変換 
    ⅰ.定量的方法の出現 ⅱ.化学反応の徹底的な研究 
    ⅲ.気体 ⅳ.元素 ⅴ.原子論 ⅵ.分子説
第9章 機械論的世界観の全盛(約1850-1900年ころ)

  ・・・・  ・・・・  ・・・・


Ch.シンガー著 『科学思想のあゆみ』  岩波書店 1968年発行
  A SHORT HISTRY OF SCIENTIFIC IDEAS TO 1900

第2章 偉大な冒険 思想の統一的体系(前400-前300年のアテネ)

  アリストテレス

  〔 「デカルト革命」前のアリストテレス自然学 〕

1. プラトン(前427-347年)の学校は、アカデメイアの名のもとに幾世紀もの間つづいたが、主として形而上学の論議に専念した。科学で頭角をあらわした門人の一人は、観測的な宇宙論の創始者となったクニドスのエウドクソス(前405-356年)であった。エウドクソスもまた、ピュタゴラス(前582-496年)派の人々とともに研究していた。・・・
 アリストテレスもプラトンと同様に、かれの物理学的なもくろみのなかではピュタゴラス的な傾向をいくつか示している。ことに、円と球とを最も「完全な」図形で、世界はそれらを基にしてつくられていると強調した。こうしてかれは、天体は、この地球を中心にしてそのまわりに配列した一連の同心天球に属するとみなすようになった。ところがこれらの天球は、エウドクソス数学的なもくろみから機械論的に組み立てられ、水晶のように透明なものとして記述された。この地球のまわりには大気の天球があり、そのまわりには純粋な原素的な諸領域がある。そしてこれらは、内から外へ濃厚さの順序によって、土(または、むしろ土の蒸気)、水、空気、火となっていた。これらの純粋な原素の領域へは、天体そのものと同様に、われわれは近づけない。ついで、原素的な火の領域のむこうには、もっと神秘的な実体アイテル(ギリシャ語で「高く輝く空」の意味)の領域がある。そしてこのアイテルは、諸天体の構成のなかにはいりこんでいる。さらに遠くその外側には、連続して七つの天球があり、その各天球は一つずつ惑星を運んでいる。そしてそのむこうには、恒星がはめこまれている8番目の天球があり、最後の一番外側には、その聖なる調和によって天空の全体系を円回転させている天球がある。
 人間のいだく自然観を2000年間も支配することになった体系の基礎は、このようなものであった。この体系と、その歴史、その運命は、つぎのように要約できるだろう。



   (a) 物質は連続的である

2. アリストテレスは、この見解を採用してデモクリトスに反対し、ソタラテスやプラトンの側に立った。原子論的物質観(22-23ページ)を採用したデモクリトスならびにその系統に属するエピクロスの後継者たちは、初期と中世の教会にはとくにきらわれた教理と提携した。原子論は、アリストテレスの物質に関する概念にたいして唯一の別な概念であった。だからこの点で、アリストテレスを批判することは、おのずから神学からの非難をこうむった。したがって原子論は、あとで見るように、長年にわたって目立たない場所ですごした。

3. (b)地上のあらゆる事物は、土、空気、火、水の四「原素」からつくられ、これらの原素はそれぞれ、熱、寒、乾、湿の四「性質」の二つずつの結合を含んでいる。
この物質観は、エムペドクレス(前約500-430年ころ)からとられたものだが、おそらくもっと古い時代に起原をもつものだろう。それは、万物が愛か憎の状態にある―たとえば、火は水と相容れないが空気とは結びつく―というピュタゴラス的な概念のアリストテレス的な表現である。四原素の教理は、17世紀までほとんど疑われることもなく、18世紀末までつづいた。それは、ユダヤ教思想、キリスト教思想、回教思想によく適合し、中世の正統神学の一部になった。

4. (c) 恒星や惑星は、地球を中心にしたそのまわりの透明な天球に属して一様な円速度で運動する。それぞれの天球は、それよりも外側にある天球の影響をうける。

 この一般的な概念は、ピュタゴラス派に起原をもっている。アリストテレスは、単に、それをエウドクソスから借用して機械化し、哲学の一般的な体系に適応させただけである。かれの宇宙体系や、それにいくらかの修正をほどこしたものは、17世紀のケプラー(1571-1630)の時代までその地歩を維持していた。

5. (d) 円は完全な図形だから、円運動は完全である。円運動は、天体の不変で永遠な秩序をあらわしている。それは、変化し不完全なこの地上にひろまっている直線運動と対照的である。不完全さの止むところ、天がはじまる。
   
 ここにもまた、ピュタゴラスの影響がある。この概念の基礎となっているのは、天体はわれわれのまわりを回転するように見えるのに、地上の物体は落下するか上昇する傾向があるということである。ニュートンは17世紀末に、天体の運動を、既知の経験的に論証された条件で表示することに成功した。かれの時代までは、地上の物体の動きと天体の動きとのちがいは、謎であるか、または矛盾であるか、それともその両方だった。

6. (e) 宇宙は、それが外側の天球内に含まれているという意味で、空間的に有限である。宇宙は、それが全体としては創造も破壊もされないという意味で、時間的に無限である。

 中世のあらゆる神学体系、ことに西方キリスト教会の神学体系にとっては、宇宙が空間的にも時間的にも有限であるということが必要になった。このことは、ブルノ(1600年死)の時代まで、事実上疑われることはなかつた。だから、アリストテレス自身は、完仝にはうけいれられなかったわけである。空間的にも時間的にも無限な宇宙という概念に哲学的に復帰したことは、科学史では画期的な出来事である。


7. アリストテレスにたいしては、つぎのような反論がなされてきた。すなわち、アリストテレスは、天界の力学と地上の力学とを分離して、天文学の進歩を阻害した。というのも、かれは、天界の運動は、それ自身の独自の法則に支配されているという原理を採用したからである。こうしてかれは、天文観測に水をさし、天界を、経験的な研究の可能性を越えたところにおき、同時に、「自然な」運動と「不自然な」運動とのちがいを仮定することによって、力学の知識の進歩も妨げた。アリストテレスが述べたような一般的な世界観は、2000年間も正統的な見解として存続した。それに疑問をさしはさむことは、危険でさえあった。この知的専制には、アリストテレスにどれだけの責任があったのだろうか。この疑問にたいしては多くの解答があるが、そのうちの四つだけを挙げることにしよう。
 (a) 天界の物理学と地上の物理学とを区別したのは、アリストテレスではなかった。このような区別は、かれの先人たちによって当然のこととして認められていたのである。たとえば、ピュタゴラス派の人びとは、そこから多くのことをつくり出していた。じっさいのところアリストテレスは、実証的で実質のあるもくろみを示すことによって、自然の研究に新しい興味を与えたのである。
 (b) アリストテレスを責めるために、かれ自身の偉大さをもち出すことは正当でない。物質世界に関するわれわれの概念―いわゆる「科学理論」―はすべて、単に一時的な工夫にすぎないもので、時がくれば捨て去られるべきである。これは、アリストテレス自身が述べた提案である。かれは、惑星の運動を述べるさい、読者に、自分の見解と読者自身が到達する見解とを比較するように忠告している。かれのもくろみが効果的な批判もなく2000年間もつづいたことは、かれの罪ではない。それはむしろ、かれを信奉した人びとがこの「知識人たちの師」にくらべると小人だった証拠である。

 (c) アリストテレスが、今日われわれが世界の形態だとみなしていることに反対している理由のいくつかは、じつは根拠がある。たとえば、かれは地球の運動というものに反対する。もしもこのような運動が存在するならば、恒星の間に見かけの運動が生じるはずであるとかれは考えた。これは正当な反論であって、19世紀になってやっと、そのような見かけの運動のあることがじっさいに証明されたのである。以前にこの運動が見出されなかったのは、天体とわれわれとの莫大な距離がこの見かけの運動を非常に小さくしたため、極度に鋭敏な器具が必要だったからである。

 (d) アリストテレスの体系が硬直なのは、体系自体がそうなのではなくて、それに加えた解釈、とくに中世の解釈のせいであることに留意しておく必要がある。中世の人びとは、アリストテレスの理論と自分たちの宗教的見解とを結びつけることによって、かれのもくろみの妥当性に関する論争に、哲学的または科学的価値とは無関係な予断を導入したのである。

 ・・・以上、2 アリストテレス 終わり・・・