1. HOME
  2. 西洋と科学史(目次)
  3. デカルト革命と価値方程式01(sn_029)

「デカルト革命」について

『資本論』の科学史ハンドブック2019-4
    デカルト革命と価値方程式 -1-

 資本論ワールド編集部 まえがき


 デカルト革命と価値方程式 -1-

 『精神指導の規則』 「系列」 ー 事物の比例すなわち関係(proportio sive habitudo)について、提起されうるあらゆる問題が、いかなる構造を内に蔵しているか ・・・
       

1.  デカルト(1596-1650)の時代は、西洋社会が中世から近代へと大きく変換してゆく時代でした。フランスでは、国内の内戦・ユグノー戦争(1562-98)からブルボン王朝(1594-1830)の統一国家の成立とルイ14世(1638-1715)の時代へと変換してゆきます。イギリスは、エリザベル女王の治世(1558-1603)を経て、清教徒革命(1640-60)へと激動してゆきます。ガリレオ裁判に揺れるイタリアのローマ教会をはじめ、ヨーロッパ全体的には、神聖ローマ帝国のドイツ地方を戦場にした新旧キリスト教諸国間の“30年戦争”(1618-48)が断続的に戦われ、最終的に中世社会が解体してゆきます。
 こうした動乱の中にあって、当時デカルトが居住したオランダは、スペインの支配から脱して「最初の資本主義国家」へと歩み始めてゆきます。

2. コペルニクス(1473-1543)地動説やガリレオ(1564-1642)望遠鏡による「木星の4つの衛星」発見によって中世の地球中心説の宇宙論と自然学ーキリスト教神学と一体的に権威を保持したアリストテレス科学は、ケプラー(1571-1630)の「3法則」を経て、“ニュートン(1643-1727)力学の時代”へと交代してゆきます。

3. では、「デカルト革命」とは?
   
   最初に全般的な見通しを立てるためには、以下を参照してください

   比例関係と方程式論の歴史的形成過程<1>~<3>

   デカルトと機械論の展開 (「デカルト革命」序論)

   小林道夫 『哲学の歴史』第5巻 デカルト革命 要約



4.  第4回 科学史ハンドブックは、17世紀「デカルト革命」です
 第1回では、 古代ギリシャの元素 “Element”として、アシモス『化学の歴史』を通覧してきました。(「歴史的に、論理的に」アシモス科学史と『資本論』の“Element”)
そして、第2回アリストテレスの「四元素説」と第一哲学、第3回古代思想の目的論体系化ーアリストテレスを通して、アリストテレス自然学の全体像を解説しました。

5.  デカルトは、「近代哲学の祖」とも呼ばれています。中世ヨーロッパを覆っていた「アリストテレス自然学」を解体する“道すじ”を切り開き、同時に、ヘーゲル論理学と『資本論』の価値方程式を基礎づける「普遍数学」を構築しました。「デカルト革命」を震源とする「機械論の伝統(元素-原子論世界観)」は、20世紀アインシュタインによる「質料とエネルギーの等価性( E=mc2 )」の発見を経て、現代進化論のすそ野を拡張しつづけています。

6.  21世紀の私たちから「デカルト革命」を振り返ってみると、ヘーゲル論理学(『小論理学』)の難点に気づかされます。ヘーゲルの観念論が、「絶対精神である神」の自己展開の論理性を表現するのに対し、デカルトは、「機械論宇宙」で一貫した自然体系を構築しています。アリストテレス科学を受け継ぎ、“物質世界の運動”が原点にあります。
 この論理構造が、人間社会の分析に適用されるとき、資本主義社会の “ Element ” -『資本論』の価値方程式が出現してきます。

7.  最初に紹介する『 精神指導の規則 』 (野田又男訳)では、「順序(ordo)或いは計量的関係(mensura)」は、「何ら特殊な質料に関わりなく」、「事物の系列を考察することの重要性を通じて」、「 系列と関係について、比例論の世界」を研究究してゆきます。

 これらは、「価値方程式:A商品x量 = B商品y量 」〔計量的関係〕において

 亜麻布20エレ=上衣1着 または =20着 または =×着 となるかどうか、すなわち、一定量の亜麻布が多くの上衣に値するか、少ない上衣に値するかどうかということ、いずれにしても、このようないろいろの割合にあるということは、つねに、亜麻布と上衣とが価値の大いさ 〔 デカルトの “系列” のこと 〕 としては、同一単位 derselben Einheit の表現であり、同一性質 derselben Natur の物 Dinge 〔 何ら特殊な質料に関わりなく-“Element”の実在の多様性〕であるということを含んでいる。 亜麻布=上衣 ということは、方程式の基礎〔Grundlage:根拠〕である Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung 。(『資本論』岩波文庫(1)p.93)

 ・・・~  ・・・~  ・・・~  ・・・~  ・・・~
 

   「デカルト革命」について

  デカルト『精神指導の規則』  「規則第4」

   野田又男訳 (岩波書店 1974年改訳発行) p.29


  1.  こうした考えが私を導いて、数論や幾何学の特殊な研究から、数学の一般的な研究へと戻らせた。
    そこで私はまず第一に、数学という名にすべての人は正確には何を意味せしめているか、またなにゆえに、上述の二つの学問のみならず星学・音楽・光学・力学その他多くの学問が、数学(Mathematica)の部分であるといわれるか、を探ねた。実際、この点についてはこの語の起原を考察するだけでは充分でないのである。というのは数学(Mathesis)なる語はただ学問(disciplina)というだけの意味である以上、他の学問も幾何学自身と同じく数学(Mathematica)と呼ばれる権利をもつからである。
  2.  しかし一方われわれの見るところ、ほんの少しでも学問をしたことのある人ならほとんど誰でも、示される事物のどれが数学に属しどれが他の学問に属するかをたやすく区別するのである。そしてこの点をさらに注意深く考察するなら人はついに次のことに気づくであろう、すなわち、順序(ordo)或いは計量的関係(mensura)の研究せられるすべての事物しかもただそれのみが、数学に関係し、かつそういう計量的関係が、数において或いは図形において或いは星において或いは音においてまたその他のいかなる対象において、求められるかは、問題でない、ということ。従って何ら特殊な質料に関わりなく、順序と計量的関係とについて求められうるすべてのことを、説明するところの或る一般的な学問がなければならぬこと。かつそれは外来の名を以ってでなくすでに古くから慣用されている名を以って、普遍数学(Mathesis universalis)と呼ばるべきであること―というのはその他の学問が数学の部分とよばれるときその理由となっているすべての事柄は、それに含まれているからである―。

  3.     〔 比例論 - 系列と関係について 〕

       「規則第6」  (p.35)

     最も単純な事物を複雑な事物から区別しかつ順序正しく探求するためには、若干の真理を他の真理から直接的に演繹して成り立ったところの、事物の系列の一つ一つについて、何が最も単純であるか、どんなふうに他のすべてのものがこの単純者から、或いはより多く、或いはより少なく、或いは等しく、隔たっているかを、観察すべきである。
  4.   〔 比例論の基底にある単純な本質―Element 〕

      さてこのことを正しく為しうるために、第一に注意すべきは、すべての事物が、われらの目的に対して有用でありうる程度に応じて、或いは絶対的(absolutum)、或いは相対的(respectivum)と呼ばれうることである。ただしこの際われわれは事物の本質を個々別々に考察するのでなく、一を他から認識するため事物を相互に比較するのである。
     絶対的と私が呼ぶのは、今問題になっている純粋な単純な本質を自己の中に含むところのものである。例えば、独立的、原囚、単純、普遍、一、相等、類似、垂直、その他同様なもの。しかして私はそれを、あらゆるものの中で最も単純 最も容易なものと呼ぶ。人々が問題を解くにそれを用いるように、というわけである。

  5.  これに反し、相対的なものとは、かの本質そのものを分有し、或いは少なくともそれの幾分かを分有し、よって以って絶対者に関係づけられかつ或る系列によって絶対者から演繹せられうるもの、であるが、なおその上にそれは、私が関係(respectus)と呼ぶものをみずからの概念の中に含んでいる。すなわち相対的なものとは、依存的、結果、複合的、個別的、多、不等、不同、斜め、等といわれるすべての事物である。これら相対的なものは、上にいったような関係―これらの関係自身がまた相互に従属関係にある―を、より多く含めば含むだけ、絶対的なものから隔たっている。そして上の規則がわれらに教えるのは、これらすべてを区別しこれら相互の間の結合及び自然的順序を守るべきこと、かくて最後のものから出発しつつ最も絶対的なものへと、他のすべてを経て達することができるということ、である。〔*注1〕

     〔*注1〕 「最後のもの」とは感覚的実在、あるいは最終的成果物として階層的に把握されるもののこと。
  6.  しかして、すべての事物において、最高度に絶対的なものを、注意深く看取するところにこそ、全方法の秘密が存する。
     事実、或るものは或る見地からすれば他より一層絶対的であるが、見方をかえればかえって一層相対的である。例えば、普遍的なものは、個別的なものよりも、一層単純な本質をもつゆえに、一層絶対的であるが、しかしそれは、存在するためには個物に依存するがゆえに、また一層相対的であるともいうことができる、等。同様にして或るものは時として実際他よりも絶対的であるが、決してすべての中で最も絶対的とはいえない。例えば、個物を考察する時、種は或る絶対的なものであるが、類を考察する時は、種は或る相対的なものである。
  7. 〔 事物の系列を考察することの重要性 〕

     
     アリストテレスの「実体」(第一実体、第二実体)

        実体定義の対比を参照する

       

     可量的なものの中では、延長は或る絶対的なものであるが、延長の中では長さが絶対的である、等。同様にして最後に、ここでは認識すべき事物の系列を考察するのであって一々の本質を考察するのではない所以を一層よくわれらが理解するようにとの考えから、上にはわざと、原囚及び相等をば、絶対的なものに数えておいた、しかしそれらのものの本質はまさしく相対的なのである。
    事実哲学者たちは原因と結果とが相関的なものであると考えているのである。けれどもいまもし結果がいかなるものなるかを探れるとすれば、まず原囚を認識すべきであって、逆ではいけないのである。また相等しいものは、なるほど相互に対応するものではあるが、しかしわれらが不等なものを認識するには、相等しいものとの比較によらねばならないのであって逆は不可なのである、その他。
  8.  第二に注意すべきは、純粋な単純な本質―それは何にも先立ってかつそれ自身によって、他のいかなるものにも依存せずに、或いは経験そのものにおいて或いはわが内に宿れる或る光明によって、直観せられうる―の数は、厳密にいえば、ごく少ない、ということである。しかして上述のごとくわれわれはこれらを細心に観察せねばならない。というのは、それこそ、われわれが各々の系列において最も単純なものと呼ぶところなのであるから。これに反して、他のすべてのものは、上の単純者から演繹されるのでなくては、覚知せられない。しかも或る場合には直接に接近して、或る揚合には二つまたは三つまたは多くの異なった推論を通じて、演繹されるのである。かつこの推論の数をもまた注意せねばならぬ。そうして始めて、それらの複合物が、第一の最も単純な命題から、或いはより多い段階によって隔てられているか或いはより少ない段階によってか、をわれわれは知るのである。そしてどの場合でも推論の連鎖なるものは、かかるものであって、この連鎖からして、探究すべき事物の系列が生まれるのであり、またかような系列にこそ、すべての問題を ― 確実な方法によりそれを吟味しえんがためには ― 還元すべきなのである。しかしながら、これら系列をすべて一々吟味することは容易でなく、なおまたそれらは記憶に留むべきであるよりもむしろ精神の或る種の鋭敏さによって識別すべきものなのであるから、必要とあればいつでも直ちにそれらを看取するように精神を陶冶するため、何らかの手段を求めねばならない。それには ― 私みすがらの経験によるに ― 以前に覚知した何かきわめて些細な事柄を、一種の洞察力を以って反省する習慣をつけることが、実際最も適切である。
  9.  最後に、第三に、注意すべきことは、研究をば困難な事物の探究から始むべきではなく、何か限定された問題に手をつける準備をする前に、おのずから現われる真理をまず手当り次第に集め、後漸を追うて、それから他のものが演繹されうるかどうか、さらにまたこのものからして他のものが演繹されるかどうか、を次々に見て行くべきことである。そしてそれが終った後、見出された真理を注意深く反省し、かつ、なにゆえ或る真理が他よりも先にまた容易に発見されえたか、それはいったい如何なるものであるかを、細心に考究すべきである。さすればわれわれはまた、いざ何か限定された問題に手をつけようとする場合、他のどういう研究にまず向かうのが有利であるかを、判断しうるであろう。
    例えば 6 という数が 3の2倍 であることを想い浮べたとすれば、私は次に 6の2倍 すなわち 12 を求めるであろう。そしてまだ興味があればさらにこれの 2倍すなわち 24 を、さらにその 2倍すなわち 48 を、そして以下同様に、求めるであろう。そしてここから容易に、同じ比が 3と6 との間にも、6と12 との間にも存すること、同じく 12と24 との間等々に存すること、従って数 3,6,12,24,48 等は 連比 をなすことを、演繹するであろう。実にこのことからして私は、たとえこれらすべてがきわめて明瞭でほとんど子供じみて見えるにもせよ、注意深い反省によって次のことを理解するのである、すなわち、事物の比例すなわち関係(proportio sive habitudo)について提起されうるあらゆる問題が、いかなる構造を内に蔵しているか、またいかなる順序に従ってこれらの問題は探究さるべきであるか、を。そしてただこれだけのことの中に、純粋数学の核心全体が含まれているのである。
        〔・・・以下、比と連比の具体例が叙述されるが、省略・・・〕

    ・・・・ 編集部の挿入部  ・・・・  ・・・・  ・・・・

    〔 連比と比例式(比例方程式) 〕 → 価値方程式のはじまり・・・

      ★連比と比例式の解き方は簡単・・・

    連比 A : B = 5:2、 B:C = 3:8 のとき、A : B : C は?
     → 共通部分Bを同値にする →B×B=2×3=6、 → A×3、C×2、
               ∴ A : B : C は 15:6:16

    比例式 4 : a = 5 : 15 ・・・ a =12
        比例方程式の未知数「a」を求める
        (比例式の計算方法「内側のかけ算=外側のかけ算」)
       → 4×15=60、 a ×5=5a、 60=5a  a =12

     ・・・・   ・・・・  ・・・・  ・・・・   ・・・・
  10.  デカルトは、『規則論』 規則第16 において次のように述べています。・・・                    >記号数学操作
     「困難の解決にあたっては、ひとまとまりのことと見なす事柄はすべて、ただ一つの記号によって表示することにする。この記号は任意に作ってよい。けれども、分かり易いように、文字a、b、c などを既知量を表わすのに用い、A、B、Cなどを未知量を表わすのに用いよう。 〔後に、未知量表示はx、y、zに変更〕  そして、それらの量の数を示すために1、2、3 などの数字を文字の前に付け、またそれらの量が含むと考えれるべき関係の数を示すためには、数字を文字の後へ付けよう。そこで、たとえば 2a³ と書けば、これは a なる文字によって示され、かつ3つの関係を含むところの量の2倍、というに同じい。このような手段により、多くの語を短く要約することができるのみならず、また特に、困難の諸項をはなはだ純粋にあらわに明示して、その結果、その困難の中には、有用なものは一つも捨てられないが、過剰なもの―しかも精神が多くを同時に総括すべき場合にその把握力を無益に労せしめるようなもの―は決して見出されないようにするのである。
  11. ・・・ 以上、『規則論』 「系列」 ー 事物の比例すなわち関係(proportio sive habitudo)について、提起されうるあらゆる問題が、いかなる構造を内に蔵しているか 、「デカルト革命」について-1- 終わり ・・・