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岡崎次郎訳『資本論』第2版第1章第1節

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■『資本論』のレトリック論研究(1)■


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 第1章 資本論ワールド編集部 序論       ・hm002-04
     『資本論』のレトリック論研究(1)
 第2章 向坂逸郎の『資本論』キーワード      ・hm002-05
     向坂訳『資本論』第2版
 第3章 『資本論』岡崎次郎の翻訳哲学の差異    ・hm002-06    
 第4章 向坂逸郎と岡崎次郎の翻訳哲学の差異    ・hm002-07

『資本論』向坂逸郎と岡崎次郎の翻訳哲学の差異

  第3章『資本論』ー 岡崎次郎の翻訳哲学の差異


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  資本論ワールド 編集部
 1. 岡崎次郎訳 大月書店(国民文庫) 『資本論』第1章第1節を掲載します。
 2. 




『資本論』第2版第1章第1節
  岡崎次郎訳 大月書店(国民文庫)1972年 

 第一篇 商品と貨幣
 第一章 商品

 資本論ワールド編集部 
注解
1.
2.
3.
向坂『資本論』第2版第1章第1節 (marx2016.com)
*「新しいウィンドウで開く」によって、向坂訳を開きながら岡崎訳と対比できます。
4. D.『資本論』


『資本論』岡崎次郎訳 第2版第1章第1節 2023.03.01
 *本文の下線箇所とは、資本論ワールド編集部による。

 
第一篇 商品と貨幣
第一章 商品

  第一節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)

『資本論』岡崎次郎訳 第2版 第1章第1節 2023.03.01
 *本文の下線箇所とは、資本論ワールド編集部による。

第1篇 商品と貨幣
第1章 商品
  第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)
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1) 資本主義的生産様式が支配的に行なわれている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現われ、一つ一つの商品は、その富の基本形態・注1 として現われる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる。

  1. カール・マルクス『経済学批判』、ベルリン、1859年、3ページ。〔全集、第13巻、15(原)ページを見よ。〕

2) 商品は、まず第一に、外的対象であり、その諸属性によって人間のなんらかの種類の欲望を満足させる物である。この欲望の性質は、それがたとえば胃袋から生じようと空想から生じようと、少しも事柄を変えるものではない。ここではまた、物がどのようにして人間の欲望を満足させるか、直接に生活手段として、すなわち受用の対象としてか、それとも回り道をして、生産手段としてかということも、問題ではない。

 2. 「願望は欲望を含む。願望は精神の食欲であり、肉体にとって空腹が自然的であるように、自然的である。・・・・大多数(の物)は、それらが精神の欲望を満足させるからこそ価値をもっているのである。」 (*ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究。ロック氏の諸考察に答えて』、ロンドン、1696年、2、3ページ。)

3) おのおのの有用物、鉄、紙、等々は、二重の観点から、すなわち質の面と量の面から、考察される。このような物は、それぞれ、多くの属性の全体であり、したがって、いろいろな面から見て有用でありうる。これらのいろいろな面と、したがってまた物のさまざまな使用方法とを発見することは、歴史的な行為である。有用な物の量を計るための社会的な尺度を見いだすことも、そうである。いろいろな商品尺度の相違は、あるものは計られる対象の性質の相違から生じ、あるものは慣習から生ずる。

 3. 「諸物は、一つの内的な効力〔intrinsick vertue〕」(これはバーボンにあっては使用価値を意味する独自な表現である)「をもっている。すなわち、諸物はどこにあっても同じ効力をもっている。たとえば磁石が鉄をひきつけるというようにである。」(同前、6ページ)鉄をひきつけるとう磁石の属性は、それを手がかりとして磁極が発見されたとき、はじめて有用になったのである。

  ...........................................
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   ◆使用価値は、交換価値の素材的担い手ー*注2

4) ある一つの物の有用性は、その物を使用価値にする。しかし、この有用性は空中に浮いているのではない。この有用性は、商品体の諸属性に制約されているので、商品体なしには存在しない。それゆえ、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが、使用価値または財なのである。商品体のこのような性格は、その使用属性の取得が人間に費やさせる労働の多少にはかかわりがない。使用価値の考察にさいしては、つねに、1ダースの時計とか1エレのリソネルとか1トンの鉄とかいうようなその量的な規定性が前提される。いろいろな商品のいろいろな使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する。使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される使用価値は、富の社会期形態がどんなものかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている・注2。われわれが考察しようとする社会形態にあっては、それは同時に素材的な担い手になっている・注2 ――交換価値の

 4「およそ物の自然的価値(natural worth)は、いろいろな欲望を満足させるとか人間生活の便宜に役だつとかいうその適性にある。」(ジョソ・ロック『利子引下げ……の結果の諸考察』、1691年、『著作集』、ロンドン、1777年版、第2巻、28ページ。)17世紀にはまだしばしばイギリスの著述家たちのあいだでは“Worth”を使用価値、“Value”を交換価値の意味に用いているのが見いだされるのであるが、それは、まったく、直接的な事物をゲルマン語で表現し反省された事物をロマン語で表現することを好む国語の精神によるものである。
 5 ブルジョア社会では、各人は商品の買い手として百科辞典的な商品知識をもっているという擬制〔fictiojuris〕が一般的である。

  ◆形容矛盾-レトリック論の入り口-・注3 

5) 交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係すなわち割合として現われる・注4。それは、時と所とによって絶えず変動する関係である.それゆえ、交換価値は偶然的なもの、純粋に相対的なものであるように見え、したがって、商品に内的な、内在的な交換価値(valeur intrinsèque )というものは、一つの形容矛盾〔contradictio in adjectio〕であるように見える。このことをもっと詳しく考察してみょう・注4 

 6 「価値とは、ある物と他のある物とのあいだ、ある生産物量と他のある生産物量とのあいだに成立する交換関係である。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、所収『重農学派』、デール版、パリ。1846年、889ページ)。
 7 「どんなものも、内的な価値をもつことはできない。」(N・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』、6ページ)。または、バトラーが言っているように、
  「ある物の価値はちょうどその物がもたらすであろうだけのものである。」
  〔The value of a thing Is just as much as it will bring.〕

6) ある一つの商品、たとえば1クォーターの小麦は、x量の靴墨とか、y量の絹とか、z量の金とか、要するにいろいろに違った割合の諸商品と交換される。だから、小麦は、さまざまな交換価値をもっているのであって、ただ一つの交換価値をもっているのではない。しかし、x量の靴墨もy量の絹もz量の金その他も、みな1クォーターの小麦の交換価値なのだから、x量の靴墨やy量の絹やz量の金などは、互いに置き替えられうる、または互いに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。そこで、第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの同じものを表わしている、ということになる。しかし、第二に、およそ交換価値は、ただ、それとは区別される或る実質の表現様式、「現象形態」でしかありえない、ということになる。

  等式注5 事例―第三のものに還元―すなわち、共通物の実在

7) さらに、二つの商品、たとえば小麦と鉄とをとってみょう。それらの交換関係がどうであろうと、この関係は、つねに、与えられた量の小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという一つの等式で表わす・注5 ことができる。たとえば 1クォーターの小麦= aツェントナーの鉄 というように。この等式はなにを意味しているのか? 同じ大きさの一つの共通物が、二つの違った物のうちに、すなわち1クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも、存在するということである。だから、両方とも或る一つの第三のものに等しいのであるが、この第三のものは、それ自体としては、その一方でもなければ他方でもないのである。だから、それらのうちのどちらも、それが交換価値であるかぎり、この第三のものに還元できるものでなければならないのである。


『資本論』岡崎次郎訳 第2版第1章第1節 2023.03.01
 *本文の下線箇所とは、資本論ワールド編集部による。

第1篇 商品と貨幣
第1章 商品
  第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)
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8)簡単な幾何学上の一例は、このことをもっとわかりやすくするであろう。およそ直線形の面積を測定し比較するためには、それをいくつかの三角形に分解する。その三角形そのものを、その目に見える形とはまったく違った表現――その底辺と高さとの積の2分の1――に還元する。これと同様に、諸商品の諸交換価値は、それらがあるいはより多くあるいはより少なく表わしている一つの共通なものに還元される・注6 のである。

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第一篇 商品と貨幣
第一章 商品
  第一節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)
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    ◆諸商品の交換関係ー使用価値の捨象、”同じだけのもの”

9) この共通なものは、商品の幾何学的とか物理学的とか化学的などというような自然的な属性ではありえない。およそ商品の物体的な属性は、ただそれらが商品を有用にし、したがって使用価値にするかぎりでしか問題にならないのである。ところが、他方、諸商品の交換関係を明白に特徴づけているものは、まさに諸商品の使用価値の捨象なのである・注6。この交換関係のなかでは、ある一つの使用価値は、それがただ適当な割合でそこにありさえすれば、ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけのもの・注7 と認められるのである。あるいは、かの老バーボンが言っているように、
  「一方の商品種類は、その交換価値が同じ大きさならば、他方の商品種類と同じである。同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには差異や区別はない・注7のである。」

 8 „One sort of warea are as good as another, if the value be equal. There is no difference or distinction in things of equal value. …… One hundred pounds worth of lead or iron, is of as great a value as one hundred pounds worth of silver and gold.“  (「・・・100ポンドの価値ある鉛や鉄は、100ポンドの価値ある金銀と同じ大きさの交換価値をもっている。」(N・バーボン、同前、五三ページ、五七ページ。)

10) 使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえない・注8 のであり、したがって1分子の使用価値も含んではいないのである。

 ◆同じ人間労働に、抽象的人間労働・注10に、還元―使用価値の違いと同質性

11) そこで商品体の使用価値を問題にしないことにすれば、・注9 商品体に残るものは〔諸商品同士の違った量と〕、ただ労働生産物という属性だけである。しかし、この労働生産物も、われわれの気がつかないうちにすでに変えられている。労働生産物の使用価値を捨象するならば、それを使用価値にしている物体的な諸成分や諸形態をも捨象することになる。・注10 それは、もはや机や家や糸やその他の有用物ではない。労働生産物の感覚的性状はすべて消し去られている。それはまた、もはや指物労働や建築労働や紡績労働やその他の一定の生産的労働の生産物でもない。労働生産物の有用性といっしょに、労働生産物に表わされている労働の有用性は消え去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく同じ人間労働に、抽象的人間労働注10に、還元されているのである。


『資本論』岡崎次郎訳 第2版第1章第1節 2023.03.01
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第一篇 商品と貨幣
第一章 商品
  第一節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)
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   ◆第三のもの->凝結物-凝固物―—価値‐商品価値

12) そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性・注11 のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、だだの凝固物・注11 のほかにはなにもない。これらの物が表わしているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値――商品価値なのである・注12 

   ◆レトリック論-等価形態◆
  諸商品の交換関係そのもののなかで→交換価値は、使用価値とかかわりないもの――
 この価値は、さしあたりまずこの形態〔価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値〕にはかかわりなしに考察される****

13) 諸商品の交換関係そのもののなかでは、商品の交換価値は、その使用価値にはまったくかかわりのないものとしてわれわれの前に現われた・注13 。そこで、実際に労働生産物の使用価値を捨象してみれば、注13 ちょうどいま規定されたとおりの労働生産物の価値が得られる。だから、商品の交換関係または交換価値のうちに現われる共通物は、商品の価値なのである・注13 。研究の進行は、われわれを、価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値につれもどすことになる・注13 であろう。しかし、この価値は注12さしあたりまずこの形態〔価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値〕にはかかわりなしに考察されなければならない・注14 

〔―しかし、この価値は、さしあたりまずこの形態〔形式〕にはかかわりなしに考察―
  →だから、抽象的人間労働の物質化→使用価値または財貨が価値をもつ-〕

14) だから、ある使用価値または財貨が価値をもつのは、ただ抽象的人間労働がそれに対象化または物質化されているからでしかない。では、それの価値の大きさはどのようにして計られるのか? それに含まれている「価値を形成する実体・注15」の量、すなわち労働の量によってである。労働の量そのものは、労働の継続時間で計られ、労働時間はまた1時間とか1日とかいうような一定の時間部分をその度量標準としている。

   ◆価値の実体をなしている労働

15) 一商品の価値がその生産中に支出される労働の量によって規定されているとすれば、ある人が怠惰または不熟練であればあるほど、彼はその商品を完成するのにそれだけ多くの時間を必要とするので、彼の商品はそれだけ価値が大きい、というように思われるかもしれない。しかし、諸価値の実体をなしている労働は、同じ人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値となって現われる社会の総労働力は、無数の個別的労働力から成っているのではあるが、ここでは一つの同じ人間労働力とみなされる・注16のである。これらの個別的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力という性格をもち、このような社会的平均労働力として作用し、したがって一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間だけを必要とするかぎり、他の労働力と同じ人間労働力なのである。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的に正常な生産条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である。たとえば、イギリスで蒸気織機が採用されてからは、一定量の糸を織物に転化させるためにはおそらく以前の半分の労働で足りたであろう。イギリスの手織工はこの転化に実際は相変わらず同じ労働時間を必要としたのであるが、彼の個別的労働時間の生産物は、いまでは半分の社会的労働時間を表わすにすぎなくなり、したがって、それの以前の価値の半分に低落したのである。
  だから、ある使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働の量、すなわち、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけである。個々の商品は、ここでは一般に、それが属する種類の平均見本とみなされる・注16。したがって、等しい大きさの労働量が含まれている諸商品、または同じ労働時間で生産されることのできる諸商品は、同で価値量をもっているのである。一商品の価値と他の各商品の価値との比は、一方の商品の生産に必要な労働時間と他方の商品の生産に必要な労働時間との比に等しい・注17。「価値としては(・注12)、すべての商品は、ただ、一定の大きさの凝固した労働時間・注17でしかない。」

 9 第二版への注
 „The value of them (the necessaries of life) when they are exchanged the one for another, is regulated by the quantity of labour necessarily required, and commonly taken in producing them.“
「諸使用対象の価値は、それらが互いに交換されるとき、それらの生産に必ず必要とされ、普通に充用される労働の量によって、規定されている。」(『金利一般および特に公債利子に関する諸考察』、ロンドン、三六、三七ページ。) 18世紀のこの注目に値する匿名の著書には、刊行年が記されていない。しかし、それがジョージ2世治下、1739年か1740年ごろに刊行されていることは、その内容からみて明らかである。
 10 「同種の生産物は、その全体が本来ただ一つのかたまりをなしているのであって、このかたまりの   価格は、一般的に、そして個別的な諸事情にかかわりなく、決定されるのである。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、八九三ページ。)
 11 カール・マルクス『経済学批判』、六ページ。〔全集、第一三巻、一八(原)ページを見よ。〕


『資本論』岡崎次郎訳 第2版第1章第1節 2023.03.01
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第一篇 商品と貨幣
第一章 商品
  第一節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)
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16) それゆえ、もしもある商品の生産に必要な労働時間が不変であるならば、その商品の価値の大きさも不変であろう。しかし、この労働時間は、労働の生産力に変動があれば、そのつど変動する。労働の生産力は多種多様な事情によって規定されており、なかでも特に労働者の技能の平均度、科学とその技術的応用可能性との発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模および作用能力によって、さらにまた自然事情によって、規定されている。同量の労働でも、たとえば豊作のときには8ブッシェルの小麦に表わされ、凶作のときには4ブッシェルの小麦にしか表わされない。同量の労働でも、豊かな鉱山では貧しい鉱山でよりも多くの金属を産出する、等々。ダイヤモンドは地表に出ていることがまれだから、その発見には平均的に多くの労働時間が費やされる。したがって、ダイヤモンドはわずかな量で多くの労働を表わす。ジェーコブは、金にその全価値が支払われたことがあるかどうかを疑っている。このことは、ダイヤモンドにはもっとよくあてはまる。エッシュヴェーゲによれば、1823年には、ブラジルのダイヤモンド鉱山の過去80年間の総産額は、ブラジルの砂糖またはコーヒーの農場の1年半分の平均生産物の価格にも達していなかったというが、じつはそれよりもずっと多くの労働を、したがってずっと多くの価値を表わしていたにもかかわらず、そうだったのである。もしも鉱山がもっと豊かだったならば、それだけ同じ労働量がより多くのダイヤモンドに表わされたであろうし、それだけダイヤモンドの価値は下がったであろう。もしほんのわずかの労働で石炭をダイヤモンドに変えることに成功するならば、ダイヤモンドの価値が煉瓦の価値よりも低く下がることもありうる。一般的に言えば、労働の生産力が大きければ大きいほど、一物品の生産に必要な労働時間はそれだけ小さく、その物品に結晶している労働量はそれだけ小さく、その物品の価値はそれだけ小さい。  逆に、労働の生産力が小さければ小さいほど、一物品の生産に必要な労働時間はそれだけ大きく、その物品の価値はそれだけ大きい。つまり、一商品の価値の大きさは、その商品に実現される労働の量に正比例し、その労働の生産力に反比例して変動するのである・注18

  *初版ではこれに次の句が続いている。
「われわれは今では価値の実体を知った。それは労働である。われわれは価値の大きさの尺度を知った。それは労働時間である。価値の形態、これこそは価値に交換-価値という印を押すのであるが、この形態を分析するのはまだこれからのことである・注19。しかし、まずその前に、すでに見いだされた諸規定をもう少し詳しく展開しなければならない。」


『資本論』岡崎次郎訳 第2版第1章第1節 2023.03.01
 *本文の下線箇所とは、資本論ワールド編集部による。

第1篇 商品と貨幣
第1章 商品
  第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)
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17) ある物は、価値ではなくても、使用価値であることがありうる。それは、人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合である。たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである。ある物は、商品ではなくても、有用であり人間労働の生産物であることがありうる。自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。{しかも、ただ単に他人のためというだけではない。中世の農民は領主のために年貢の穀物を生産し、坊主のために十分の一税の穀物を生産した。しかし、年貢の穀物も十分の一税の穀物も、他人のために生産されたということによっては、商品にはならなかった。商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役だつ他人の手に交換によって移されなければならない。}最後に、どんな物も、使用対象であることなしには、価値ではありえない。物が無用であれば、それに含まれている労働も無用であり、労働のなかにはいらず、したがって価値をも形成しないのである。

 11a 第四版への注。――括弧内の文句を私が書き入れたのは、この文句がないために、マルクスにあ  っては生産者以外の人によって消費される生産物はなんでも商品とみなされるかのような誤解が非常にしばしば生まれたからである。―—F・エングルス

 ・・・・・・2023.02.27・・第1章第1節 終わり・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・