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ヘーゲル哲学・論理学用語資料(ht012_gensyou-soukan)

ヘーゲル哲学・論理学用語資料

  現象と相関 §132-§136_2020.04.28

   ヘーゲル「小論理学」 松村一人訳 岩波文庫

 小論理学 第2部 本質論
   B 現 象  Erscheinung
 a 現象の世界 ( Die Welt der Erscheinung )
 b 内容と形式 ( Inhalt und Form )
 c 相  関 ( Verhältnis )
    → a 実体性の相関 ( Substantialitäts-Verhältnis )

 「小論理学」 第2部 本質論 (§112-159 )
 
  B 現 象 ( Die Erscheinung )

 §131  〔 本質は現象する 〕
 本質は現象しなければならない。本質が自己のうちで反照 Scheinen するとは、自己を直接態へ揚棄することである。この直接態は自己への反省としては存立性(質料)であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立でもある。反照するということは、それによって本質が有でなく本質であるところの規定であり、そしてこの反照の発展した形態が現象である。したがって本質は現象の背後または彼方にあるものではなく、本質が現存在するものであることによって現存在は現象なのである。

 131 補遺  〔 現象と仮象 Schein 〕
 現存在の矛盾が定立されたものが現象である。現象を単なる仮象 Schein と混同してはならない。仮象は有あるいは直接態の最初の真理である。直接的なものは、われわれが思っているような独立的なもの、自己に依存しているものではなく、仮象にすぎない。かかるものとしてそれは、内在的な本質の単純性へ総括されている。本質は最初は自己内での反照の全体であるが、しかしそれはそうした内面性にとどまっていないで、根拠として現存在のうちへあらわれ出る。こうした現存在は、その根拠を自己のうちにではなく、他のもののうちに持つのであるから、まさに現象にほかならない。現象と言うとき、われわれは、その存在が全く媒介されたものにすぎず、したがって自分自身に依存せず、モメントとしての妥当性しか持っていないような多くの多様な現存在する物を思いうかべる。しかしこの表象のうちには同時に、本質は現象の背後または彼方にとどまるものではなく、自己の反照を直接態のうちへ解放して、それに定有の喜びを与える無限の仁慈であることが含まれている。このようにして定立された現象は、自分の足で立っているものではなく、その有を自分自身のうちでなく、他のもののうちに持っている。・・・以下、省略・・・


  a 現象の世界  ( Die Welt der Erscheinung )

 §132
 現象的なものの現存在の仕方においては、現象的なものの存立性(Bestehen)が直接的に揚棄されて、それは形式そのものの単なる一モメントとなっており、形式は存立性あるいは質料を、諸規定の一つとして自己のうちに含んでいる。かくして現象的なものは、その本質としての、すなわち、その直接態に対立する自己内反省としての、質料のうちにその根拠を持ってはいるが、しかし現象的なものはこのことによって、他者内反省としての形式のうちにのみその根拠を持つ。形式という現象の根拠も同じく現象的なものであり、かくして現象は、存立性の形式による、したがってまた非存立性による、無限の媒介へ進んでいく。この無限の媒介は、同時に自己への関係という統一であり、そして現存在は、現象すなわち反省された有限性の総体、つまり現象の世界へ発展させられている。

  b 内容と形式 ( Inhalt und Form )

  §133  〔 現象の世界ー絶対的相関 〕
  現象の世界を作っている個々別々の現象は、全体として一つの統体をなしていて、現象の世界の自己関係のうちに全く包含されている。かくして現象の自己関係は完全に規定されており、それは自分自身のうちに形式を持っている。しかも、それは自己関係という同一性のうちにあるのであるから、それは形式を本質的な存立性として持っている。かくして形式は内容(Inhalt)であり、その発展した規定性は現象の法則(Gesetz)である。これに反して、現象の否定的な方面、すなわち非独立的で変転的な方面は、自己へ反省しない形式である。それは無関係的な、外的な形式である。

  形式と内容という対立において、けっして忘れてならないことは、内容は無形式なものではなく、形式は内容にたいして外的なものであると同時に、内容は形式を自分自身のうちに持っている、ということである。形式には二通りあって、それは一方自己へ反省したものとしては内容であり、他方自己へ反省しないものとしては内容に無関係な、外的な現存在である。ここには潜在的に内容と形式との絶対的相関、すなわち両者の相互転化があり、したがって内容とは、内容への形式の転化にほかならず、形式とは、形式への内容の転化にほかならない。この転化はきわめて重要な法則の一つである。しかしそれは絶対的相関においてはじめて顕在するようになる。

  c 相 関 ( Verhältnis ) 

 §135
 (イ) 直接的な相関は、全体と部分( das Ganze und die Teile )とのそれである。内容は全体であり、自己の対立者である諸部分(形式)から成っている。諸部分は相互に異っていて、独立的なものである。しかしそれらは相互の同一関係においてのみ、すなわち、それらが総括されて全体を形成するかぎりにおいてのみ、諸部分である。しかし総括は部分の反対であり否定である。

 §135 補遺

 本質的な相関ということは、規定された、全く普遍的な現象の仕方である。現存在するものは、すべて相関をなしており、この相関があらゆる現存在の真理である。したがって現存在するものは、単に独立的に存在するものではなく、他のもののうちにのみあるものである。しかしそれは他のもののうちで自己へ関係するから、相関は自己への関係と他者への関係との統一である。・・・

 ―― 全体と諸部分という相関は、直接的な相関であるから、反省的な悟性にはきわめてわかりやすい。そのために反省的悟性は、その実一層深い関係が問題である場合でも、この関係で満足していることが多い。例えば、生きた肉体の肢体や器官は、単に部分とのみみるべきものではない。なぜなら、それらは、それらの統一のうちにおいてのみ、肢体や器官であって、けっして統一に無関係なものではないからである。それらは、解剖学者の手にかかるとき、はじめて単なる諸部分となるのであり、解剖学者が取扱うのは、もはや生きた肉体ではなくて、死体にすぎない。こう言ったからといって、一般にこうした分解を行ってはならないと言うのではないが、しかし全体と諸部分というような外部的で機械的な関係は、有機的生命の真の姿を認識するには不十分なものである。

 全体と部分というような関係を、精神および精神の世界の諸形態に適用すれば、その不十分ははるかに著しいものとなる。心理学者は、心あるいは精神の諸部分というような言葉こそ使っていないが、しかし精神の活動の諸形態をそれぞれ独立させ、いわゆる特別の力及び能力として枚挙し記述している。このかぎりにおいて、人々が心理学を単に悟性の立場から研究する場合には、人々は同じく全体と部分という有限な相関関係の観念を根抵においているのである。


 §136
 (ロ) したがってこの相関のうちにある同一なもの、すなわち自己関係は、直接に否定的な自己関係である。すなわち、それは媒介ではあるが、しかしこの媒介は、同一的なものが区別にたいして無関心でありながら、しかも否定的な自己関係であるというような媒介である。そしてこの否定的な自己関係は、自己への反省としての自分自身をつきはなして区別となり、他者への反省として現存在するようになるが、逆にまたこの他者への反省を自己への反省および無関心性へ復帰させる。こうした相関がすなわち力(Kraft)とその発現(Ӓusserung)である。
  全体と諸部分との相関は、直接的な、したがって無思想な相関であり、自己同一の差別への無思想な転化である。われわれは全体から諸部分へ、諸部分から全体へ移っていく。そして一方のうちで、それがもう一つのものへ対立したものだということを忘れ、各々をそれだけで、すなわち或るときは全体を、或るときは諸部分を、独立の存在と考える。別の言葉で言えば、われわれは、諸部分は全体のうちに存立し、全体は諸部分から成立すると考えているから、或るときは全体を本質的で諸部分を非本質的と考え、或るときは諸部分を本質的で全体を非本質的と考えているのである。機械的関係の表面的な形式は、諸部分が相互にたいしてもまた全体にたいしても独立的なものとして存在することにある。
 物質の可分性にかんする無限進行は、この相関を利用することもできる。すると、その無限進行は、この相関の二つの側面の無思想な交替となる。すなわち、或る物がまず全体的なものととられ、次にわれわれは部分の規定へ移っていく。今度はこの規定を忘れ、以前部分であったものを全体と考える。するとまた部分の規定が考えられてくる、という風にして無限に進むのである。われわれがしかしこの無限を、それが実際そうであるように、否定的なものと解すると、この無限は、全体と部分という相関の否定的な自己関係である。すなわち、自己内にあるものとして自己同一的全体でありながら、しかもこの自己内有を揚棄して発現するところの力であり、また逆に、消滅して力のうちへ帰っていくところの発現である。

 力は、このように無限であるにもかかわらず、また有限でもある。なぜなら、内容すなわち力と発現とのうちにある同一なものは、潜在的にのみ同一であるにすぎず、相関の二つの側面の各々は、まだそれ自身顕在的には相関の具体的な同一でなく、まだ統体性でないからである。したがって二つの側面は、相互にたいして異ったものであり、相関は有限な相関である。力はしたがって外からの誘発を必要とし、盲目的に作用する。そしてその形式がそうした欠陥を持っているために、内容もまた制限され偶然的である。その内容はまだ形式と真に同一でなく、絶対的に規定されている概念や目的ではない。―この区別はきわめて根本的なものであるが、その理解は容易でない。それは目的概念のところではじめて詳しく規定されるであろう。この区別をみのがすと、特にヘルダーにみられるように、神と力と混同するというようなことがおこってくる。
 人々はよく、力の本性そのものは認識できないものであって、認識できるのはその発現だけであると言う。しかし一方、力の内容規定の全体はまさに発現のそれと同じものであり、したがって現象を力から説明するのは、空虚な同語反復である。だから、人々があくまで認識できないと考えているものは、その実自己への反省という空虚な形式にすぎない。力はこうした形式によってのみ発現と区別されているのであって、それはよく知られているものでもある。こうした形式は、現象からのみ認識さるべき内容および法則に、何一つ新しいものをつけ加えはしないのである。また人々はよく、自分は力という言葉を使うが、力とはどういうものかについては何も主張しない、というようなことを言う。それでは、なぜ力という形式を諸科学に導き入れたのか理解に苦しまざるをえない。―他方、力の本性は認識できないものでもある。なぜなら、力の内容が制限されたものであり、したがってその規定性を自己以外のものによって持っているものであるかぎり、力の内容にはまだその内容の必然性も、内容のそれ自身のうちにおける連関の必然性も欠けているからである。