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■『資本論』- 約元 と整約-Reduktion
(1) 第1章商品 第2節 商品に表わされた労働の二重性 ー整約ー
2-9 われわれは、使用対象という限度内で商品を論じたのであるが、これから商品価値に移ろう。
2-10 われわれの想定によれば、上衣は亜麻布の2倍の価値をもっている。しかしながら、このことは量的な相違にすぎないのであって、いまのところわれわれの関心を惹くものではない。したがって、われわれは、もし1着の上衣の価値が10エレの亜麻布の価値の2倍の大いさであるとすれば、20エレの亜応布は1着の上衣と同一の価値の大いさをもっているということを思い起こすのである。価値として、上衣と亜麻布とは同一実体のものであり、同一性質の労働の客観的表現である。・・・
・・・。複雑労働は、強められた、あるいはむしろ複合された単純労働にすぎないものとなるのであって、したがって、複雑労働のより小なる量は、単純労働のより大なる量に等しくなる。この整約 Reduktion が絶えず行なわれているということを、経験が示している。ある商品はもっとも複雑な労働の生産物であるかもしれない。その価値はこの商品を、単純労働の生産物と等しい関係におく。したがって、それ自身、単純労働の一定量を表わしているにすぎない(15)。それぞれちがった種類の労働が、その尺度単位としての単純労働に整約される種々の割合は、生産者の背後に行なわれる一つの社会的過程によって確定され、したがって、生産者にとっては慣習によって与えられているように思われる。ことを簡単にするために、以下においてはどの種類の労働力も直接に単純労働力であると考えられる。これによってただ整約 Reduktion の労をはぶこうというのである。
(2)第1章第3節 価値形態または交換価値
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 2 相対的価値形態
a 相対的価値形態の内実
1. どういう風に一商品の単純なる価値表現が、二つの商品の価値関係にふくされているかということを見つけ出してくるためには、価値関係を、まずその量的側面から全く独立して考察しなければならぬ。人は多くのばあい正反対のことをやっている。そして価値関係の中に、ただ二つの商品種の一定量が相互に等しいとされる割合だけを見ている。人は、異種の物の大いさが、同一単位に約元Reduktionされてのちに、初めて量的に比較しうるものとなるということを忘れている。同一単位の表現としてのみ、これらの商品は、同分母の、したがって通約しうる大いさなのである(17)。
(3) C 一般的価値形態
7. 商品世界の一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価商品である亜麻布に、一般的等価の性質をおしつける。亜麻布自身の自然形態は、この世界の共通な価値態容であり、したがって、亜麻布は他のすべての商品と直接に交換可能である。この物体形態は、一切の人間労働の眼に見える化身として、一般的な社会的な蛹化(ようか)としてのはたらきをなす。機織という亜麻布を生産する私的労働は、同時に一般的に社会的な形態、すなわち、他のすべての労働との等一性の形態にあるのである。一般的価値形態を成立させる無数の方程式は、順次に亜麻布に実現されている労働を、他の商品に含まれているあらゆる労働に等しいと置く。そしてこのことによって、機織を人間労働そのものの一般的な現象形態にするのである。このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用なる属性とから抽象された労働として、たんに否定的に表示されるだけではない。それ自身の肯定的性質が明白に現われるのである。それは、すべての現実的労働を、これに共通なる人間労働の性質に、人間労働力の支出に、約元Reduktionしたものなのである。
労働生産物を、無差別な人間労働のたんなる凝結物として表示する一般的価値形態は、それ自身の組立てによって、それが商品世界の社会的表現であるということを示すのである。このようにして、一般的価値形態は、この世界の内部で労働の一般的に人間的な性格が、その特殊的に社会的な性格を形成しているのを啓示するのである。
(4) 第4節 商品の物神的性格とその秘密
〔 価値対象性 Wertgegenständlichkeit - 価値性格 Wertcharakter 〕
7. 労働生産物はその交換の内部においてはじめて、その感覚的にちがった使用対象性から分離された、社会的に等一なる価値対称性を得るのである。労働生産物の有用物と価値物とへのこのような分裂は、交換がすでに充分な広さと重要さを得、それによって有用物が交換のために生産され、したがって事物の価値性格が、すでにその生産そのもののうちで考察されるようになるまでは、まだ実際に存在を目だたせるようにはならない。この瞬間から、生産者たちの私的労働は、事実上、二重の社会的性格を得るのである。これらの私的労働は、一方においては特定の有用労働として一定の社会的欲望を充足させ、そしてこのようにして総労働の、すなわち、社会的分業の自然発生的体制の構成分子であることを証明しなければならぬ。これらの私的労働は、他方において、生産者たち自身の多様な欲望を、すべてのそれぞれ特別に有用な私的労働がすべての他の有用な私的労働種と交換されうるかぎりにおいて、したがって、これと等一なるものとなるかぎりにおいてのみ、充足するのである。(全く)ちがった労働が等しくなるということは、それが現実に不等一であることから抽象される〔 Abstraktion 〕ばあいにのみ、それらの労働が、人間労働力の支出として、抽象的に人間的な労働としてもっている共通な性格に約元Reduktion(約分)されることによってのみ、ありうるのである。・・・」
*関連質料→ 整約-Reduktion
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ヘーゲル「小論理学」第2部 本質論
A 現存在の根拠としての本質
a 純粋な反省 b 現存在 c 物
B 現象
C 現実性
........ ........
c 物 (Das Ding)
§125
物 Ding は根拠 Grund と現存在 Existenz という二つの規定が発展 Entwicklung して一つのもののうちで定立されているものとして、統体〔Totalität; 全体性、総体性〕である。それは、そのモメントの一つである他者内反省〔Reflexion-in-Anderes; 他者への反照〕からすれば、それに即してさまざまの区別を持ち、これによってそれは規定された、具体的な物 konkretes Dingである。
(イ) これらの諸規定は相互に異っており、それら自身のうちにではなく、物のうちにその自己内反省を持っている。それらは物の諸性質(Eigenschaften)であり、それらと物との関係は、持つという関係である。
今や“ある”の代りに、持つという関係があらわれる。“或るもの”も自己に即してさまざまの質Qualitäten を持ってはいるが、このように持つという言葉を有的なものへ転用するのは正確ではない。なぜなら、質としての規定性 Bestimmtheit als Qualität は、或るものと直接に一体であって、或るものがその質を失うとき、或るものは存在しなくなるからである。しかし物は自己内反省であり、区別から、すなわち自己の諸規定から区別されてもいるところの同一性である。―Haben 〔持つ〕 という言葉は、多くの言語において過去をあらわすに用いられているが、これは当然である。というのは、過去とは揚棄された有であるからである。精神は過去の自己内反省であって、過去は精神のうちでのみなお存立を持っているが、しかし精神はまたこの自己のうちで揚棄された有を自己から区別してもいる。
§125 ▼補遺 〔性質 Eigenschaft と 質 Qualität の区別〕
物において、すべての反省規定が、現存在するものとして再びあらわれてくる。かくして物は、まず物自体としては、自己同一なものである。しかし、すでに述べたように、同一は区別なしには存在しない。そして物が持っている諸性質は、現存在している区別-差別のかたちにおける―である。以前は、差別されたものは相互に無関係であって、外的な比較がそれらの相互関係を作り出したのであるが、今やわれわれは物において、さまざまの性質を相互に結合する紐帯を持っている。
なお、われわれは性質 Eigenschaft と 質 Qualität とを混同してはならない。われわれは、或るものが質を持っているというような言い方をしないでもない。しかし、持つという言葉は、その質と直接に同一である或るものにはまだ属しないような独立性を示すから、こうした言い方は適当でないのである。或るものは、その質によってのみ或るものである。これに反して物は、諸性質を持つかぎりにおいてのみ現存在するものではあるが、しかしあれこれの特定の性質に結びつけられているものではなく、したがってそれらを失っても、その物でなくなるということはない。
§126 〔諸性質Eigenschaften -抽象的な規定性として、質料 Materie〕
(ロ) しかし根拠においてさえ、他者への反省はそれ自身直接に自己への反省である。したがって諸性質はまた自己同一であり、独立的でもあって、物に結びつけられていることから解放されてもいる。しかしそれらは、物の相互に区別された諸規定性が自己のうちへ反省したものであるから、それら自身具体的な物ではなく、抽象的な規定性として自己へ反省した現存在、質料(Materie)である。
さまざまの質料、例えば磁気的、電気的質料は、実際また物とは呼ばれない。―それらは本来の意味における質、すなわちそれらの有と一つのものであり、直接態に達した規定性である。もっともこの直接態は、反省した有としての、したがって現存在であるところの有としての直接態であるけれども。
§126 補遺 〔物の諸性質と質料の分解〕
物が持つ諸性質が独立して、それらから物が成立する質料となるということは、物の概念にもとづいており、したがって経験のうちにも見出される。 しかし、例えば、色とか匂とかのような物の諸性質を特殊の色素や臭素として示しうるということから、これですべては終ったのであって、物の本質をさぐるには物をその質料へ分解しさえすればよいと結論するのは、論理にも経験にも反している。独立的な諸質料への分解ということは、ただ無機的自然においてのみ本来の場所を持っている。したがって化学者が、例えば食塩や石膏をその質料に分解して、前者は塩酸とソーダ、後者は硫酸と石灰とから成ると言うとき、かれは正当である。また地質学が花崗岩を石英と長石と雲母とから合成されているとみるのも、同様に正当である。そして物を構成しているこれらの質料は、一部はそれ自身また物であり、したがってより抽象的な素材に分解されうる。例えば、硫酸は硫黄と酸素とから成っている。このような質料あるいは素材は、実際独立に存在するものとしてあらわされうるものであるが、このような独立を持たない諸性質が特殊の質料とみられることもしばしばある。例えば、熱や電気や磁気の質料とかいうようなことが言われているが、このような質料や素材は悟性の虚構にすぎない。一体に、理念の特定の発展段階としてのみ妥当する個々のカテゴリーを勝手にとらえてきて、すなおな直観と経験とに反するにもかかわらず、説明のためと称して、あらゆる考察の対象をそれに還元してしまうのが、抽象的な悟性的反省のやり方である。かくして、物が独立の諸質料からなるという思想は、それがもはや全く妥当しない領域にもしばしば適用されている。すでに自然の範囲内でも、有機的生命においてはこのカテゴリーは不十分である。われわれはこの動物は骨、筋肉、神経、等々から成ると言いはする。しかしこの場合、花崗岩の一片が上述のような諸質料から成るのとは、わけがちがうということはきわめて明白である。花崗岩を構成している諸質料は、その結合にたいして全く無関心であり、結合されていなくても存立することができる。これに反して有機的な肉体のさまざまの部分は、それらの結合のうちにのみ存立を持ち、はなればなれになると、そうしたものでなくなってしまう。
§127 〔物と質料の関係〕
かくして質料は抽象的な、すなわち未規定の他者内反省であり、あるいは、同時に規定されたものとしての自己内反省である。質料はしたがって定有的な物性であり、物を存立させるものである。かくして物はその自己への反省を諸質料のうちに持ち(125節の反対)、自己に即して存立するものではなくて、諸質料からなるものであり、諸質料の表面的な連関、外面的な結合にすぎない。
§128 〔質料-形式-区別〕
(ハ) 質料は、現存在の自己との直接的統一であるから、規定性にたいして無関心でもある。したがって、さまざまの質料は合して一つの質料、すなわち、同一性という反省規定のうちにある現存在となる。他方、これらさまざまの規定性、およびそれらが物のうちで相互に持っている外面的な関係は、形式(Form)である。これは区別という反省規定であるが、しかし現存在しかつ統体性であるところの区別である。
この無規定的な一つの質料もまた物自体と同じものである。ただ異るところは、物自体が全く抽象的な存在であるに反し、前者〔質料〕は即自的に他者との関係、まず第一に形式との関係を含んでいる点にある。
§128 補遺 〔物は同一の質料を持つ〕
物を構成しているさまざまの質料は本来同じものである。これによってわれわれは、区別がそれにたいして外的なものとして、すなわち単なる形式として定立されているような一つの質料一般を持つことになる。物はすべて同一の質料をその基礎に持ち、それらの相違はただ外的にのみ、すなわち形式においてのみあるにすぎないという考え方は、反省的意識にはきわめてよく知られたものである。この場合質料は、それ自身は全く無規定的でありながら、しかもどんな規定でも受け入れることができるものであり、また絶対に永久不変で、あらゆる変転、変化のうちで自己同一にとどまるものである、と考えられている。特定の形式にたいする質料のこうした無関心は、確かに有限な事物のうちには見出される。例えば、大理石の一片にとっては、どんな立像の形が与えられようと、あるいはまた円柱の形が与えられようと、どうでもいいことである。
しかし、この場合見のがしてならないのは、大理石の一片のような質料でも、ただ相対的にのみ(彫刻家にたいしてのみ)形式に無関心なのであって、けっして、一般に無形式ではない、ということである。鉱物学者は、相対的にのみ無形式の大理石を特定の組成をもつ岩石とみ、同じく特定の組成をもつ他の岩石、例えば、砂石、斑岩などから区別している。したがって、質料をそれだけで独立させ、それ自身あくまで無形式のものと考えるのは、抽象を事とする悟性にほかならない。事実はこれに反して、質料という概念は、あくまで形式の原理を自己のうちに含んでいるのであり、だからこそ経験においても、形式のない質料はどこにも現存しないのである。なお、質料は本源的な存在であり、かつそれ自身無形式のものであるという考え方は、きわめて古く、すでにギリシャに見出される。その最初の姿はギリシャ神話のカオスであって、それは現存在の世界の没形式の基礎と考えられている。こうした考え方にしたがえば、神は世界の創造者ではなく、世界の単なる形成者、デミウルゴスと考えられなければならない。しかし一層深い見方は、神は世界を無から創造したという見方である。これは二つのことを含んでいる。一つには、質料そのものはけっして独立を持たないということであり、もう一つには、形式は外から質料に達するのではなく、統体性として質料の原理を自己のうちに持っているということである。このような自由で無限な形式は、後に示されるように、概念である。
§129 〔物-質料と形式〕
かくして物は質料と形式とにわかれる。この両者はいずれも物性(Dingheit)の全体であり、おのおの独立的に存立している。しかし肯定的で無規定の現存在たるべき質料も、それが現存在である以上、自己内有とともにまた他者への反省を含んでいる。こうした二つの規定の統一として、質料はそれ自身形式の全体である。しかし形式は、諸規定の総括であるという点だけから言ってもすでに、自己への反省を含んでいる。言いかえれば、それは自分自身へ関係する形式として質料の規定をなすべきものを持っている。両者は即自的に同じものである。両者のこうした同一の定立されたものが、同時に異ったものでもあるところの質料と形式との関係である。
§130
物はこのような統体性として矛盾である。すなわち、物は、否定的統一からすれば形式であり、質料はそのうちで規定されて諸性質にひきさげられているが(125節)、同時に物はもろもろの質料からなっており、これらは物の自己への反省のうちで、否定されたものであると同時に独立的なものでもある。かくして物は、自分自身のうちで自己を揚棄する現存在としての本質的な現存在、すなわち現象(Exscheinung)である。
物においては、もろもろの質料の独立性と同時にそれらの否定が定立されているが、この否定は物理学では多孔性(Porosität)という姿をとってあらわれている。多くの質料(色素、嗅素、およびその他の諸質料。音素、熱素、電素等々というようなものなどまで考えている人もある)の各―は否定されてもいる。そしてこれらのこうした否定性、すなわち、これらが持っている多くの孔のうちに、他の多くの独立な質料が存在し、それらも同じく孔を持ち、かくして互に自分のうちに他のものを存在させるようになっている。この孔なるものはけっして経験的に見出されるものではなく、悟性の作りものである。悟性は、独立的な諸質料が持っている否定のモメントをこのような仕方で考え、そして矛盾のそれ以上の進展を、そのうちではすべてが独立的であるとともに、またすべてが互のうちで否定されているところの混沌をもっておおいかくすのである。―同じような仕方で精神の諸能力や諸作用が実体化される場合、それらの生きた統一は、それらが互に作用しあうという混乱となってしまう。
孔が観察によって確証されうるものでないと同じように(ここで孔というのは、例えば木材や皮膚の孔のような有機体の孔をさすのではなく、色素とか熱素とか、あるいは金属や結晶などのような、いわゆる質料のうちにある孔である)、質料そのものとか、質料から切りはなされた形式というようなもの(その最も手近な例は、物が質料から成立しているという考え、および物はそれ自身存立していて諸性質を持つにすぎないという考えである)もまた反省的な悟性の産物である。この悟性は、観察しそして観察するものを記述すると称しながら、かえって一種の形而上学を作り出しているのであり、そしてこの形而上学は、あらゆる方面で矛盾にみちているのに、悟性はそれに気づかないのである。
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上記のカテゴリーがみられる箇所は、『大論理学』初版と第2版とではかなりずれている(とくに「質」の位置づけにかんして)。以下では第2版を中心に説明するが、初版の方が論理的であることも多い。上上記のカテゴリーがみられる箇所は、『大論理学』初版と第2版とではかなりずれている(
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上記のカテゴリーがみられる箇所は、『大論理学』初版と第2版とではかなりずれている(とくに「質」の位置づけにかんして)。以下では第2版を中心に説明するが、初版の方が論理的であることも多い。上上記のカテゴリーがみられる箇所は、『大論理学』初版と第2版とではかなりずれている(
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