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『資本論』抄録 第1章(si004-05)

『資本論』抄録 第1章 商品

『資本論』経済学批判 第1版 第2版 文献比較研究
抄録 si004-01 序文 はこちら 『資本論』序文・説明
si004-02 第1章 1節はこちら 第1節商品の2要素
si004-03 第1章 2節はこちら 第2節労働の二重性
si004-04 第1章 3節はこちら 第3節価値形態または交換価値
si004-05 第1章 4節はこちら 第4節商品の物神的性格
si004-06 第2章はこちら 第2章 交換過程
si004-07 『経済学批判』 第1編資本一般 第1章 商品 
『経済学批判』A 商品分析の歴史
si004-08 第3節価値形態 概要  貨幣発生の証明の概要
 


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  第4節 商品の物神的性格とその秘密

第1版 第2版 文献比較研究  ー第4節ー
 ・中見出しー編集部作成 第2版・岩波文庫 第1版・国民文庫
1. 感覚的に、超感覚的な物  p.67-69 p.19-21
2. 商品形態の神秘-物神的性格   p.70-72 p.22-24
3. 労働生産物の価値発見は人類史上の画期 p.72-74 p.24-26
4. 物の運動に規制される p.74-76 p.26-29
5. 商品世界の一切の神秘
6. 社会の生産有機体
*参考文献 『経済学批判』第1編 資本一般 第1章 商品
 
 

 第4節 商品の物神的性格とその秘密 
   Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis

 〔■第4節 目次〕
 1. 感覚的にして超感覚的な物
 2. お互いの労働は社会的の形態を得る
 3. 謎にみちた性質はこの形態から
 4. 商品形態の神秘-物神的性格
 5. 私的労働の複合が社会的総労働
 6. 私的労働の二重の社会的性格
 7. 労働生産物の価値発見は人類史上の画期・・・新約聖書「ヨハネの黙示録」
 8. 彼等の社会的運動は物の運動形態をとる
 9. 価値性格の確定は貨幣表現から
 10. 商品世界の神秘
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
   
  第4節 商品の物神的性格とその秘密
 
                                     
   〔 1. 感覚的に、超感覚的な物 〕

1. 一つの商品は、見たばかりでは自明的な平凡な物であるように見える。
これを分析して見ると、商品はきわめて気むずかしい物であって、形而上学的小理屈(けいじじょうがくてきこりくつ)と神学的偏屈(へんくつ)にみちたものであることがわかる。商品を使用価値として見るかぎり、私がこれをいま、商品はその属性によって人間の欲望を充足させるとか、あるいはこの属性は人間労働の生産物として得るものであるとかいうような観点のもとに考察しても、これに少しの神秘的なところもない。人間がその活動によって自然素材の形態を、彼に有用な仕方で変えるということは、真昼のように明らかなことである。例えば材木の形態は、もしこれで一脚の机を作るならば、変化する。それにもかかわらず、机が木であり、普通の感覚的な物であることに変わりない。しかしながら、机が商品として現われるとなると、感覚的にして超感覚的な物 sinnlich übersinnliches Ding に転化する。机はもはやその脚で床(ゆか)の上に立つのみでなく、他のすべての商品にたいして頭で立つ。そしてその木頭から、狂想を展開する、それは机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議なものである(注25)。

    (注25)シナと机とは、他のすべての世界が静止しているように見えたときに踊りはじめた(他の人々を元気づけるために)、ということが想い起こされる。


  〔 お互いの労働は社会的の形態を得る 〕

2. だから、商品の神秘的性質はその使用価値から出てくるものではない。それは、同じように価値規定の内容から出てくるものでもない。なぜかというに、第一に、有用な労働または生産的な活動がどんなにいろいろあるにしても、これが人間有機体の機能であり、かかる機能のおのおのが、その内容その形態の如何にかかわらず、本質的に人間の脳髄と神経と筋肉と感覚器官等の支出であるということは、生理学的真理であるからである。第二に、価値の大いさの規定の基礎にあるものは、すなわち、それらの支出の継続時間、または労働の量であるが、この量は、労働の質から粉(まご)うかたなく区別できるといってよい。どんな状態においても、生活手段の生産に用いられる労働時間は、発展段階のことなるにしたがって均等であるとはいえないが、人間の関心をもたざるをえないものである(注26)。 最後に、人間がなんらかの仕方でお互いのために労働するようになると、その労働は、また社会的の形態をも得るのである。
   
 (注26)第2版への注。古代ゲルマン人においては、一モルゲンの土地の大いさは、一日の労働にしたがって はかられた。したがって、一モルゲンは(日仕事)(男仕事)(男力)(男草地)(男刈地)等々と呼ばれた。ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・マウレル『マルク・農園・村落および都市諸制度ならびに公権の歴史序説』ミュンヘン、1854年


  〔 謎にみちた性質はこの形態から 〕

3. それで、労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみちた性質はどこから発生するのか?明らかにこの形態自身からである。人間労働の等一性は、労働生産物の同一なる価値対象性 Wertgegenständlichkeit の物的形態をとる。人間労働力支出のその継続時間によって示される大小は、労働生産物の価値の大いさの形態をとり、最後に生産者たちの労働のかの社会的諸規定が確認される、彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態をとるのである。


  〔 2. 商品形態の神秘ー物神的性格 〕

4. それゆえに、商品形態の神秘に充ちたものは、単純に次のことの中にあるのである。すなわち、商品形態は、人間にたいして彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として、反映するということ、したがってまた、総労働にたいする生産者の社会的関係をも、彼らのほかに存する対象の社会的関係として、反映するということである。このquid proquo(とりちがえ)によって、労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的な物となるのである。このようにして、ある物の視神経にたいする光印象は、視神経自身の主観的刺激としてでなく、眼の外にある物の対象的形態として示される。しかしながら、視るということにおいては、実際に光がある物から、すなわち外的対象から、他のある物、すなわち眼にたいして投ぜられる。それは物理的な物の間における物理的な関係である。これに反して、商品形態とそれが表われる労働諸生産物の価値関係とは、それらの物理的性質やこれから発出する物的関係をもっては、絶対にどうすることも出来ないものである。このばあい、人間にたいして物の関係の幻影的形態をとるのは、人間自身の特定の社会関係であるにすぎない。したがって、類似性を見出すためには、われわれは宗教的世界の夢幻境にのがれなければならない。ここでは人間の頭脳の諸生産物が、それ自身の生命を与えられて、相互の間でまた人間との間で相関係する独立の姿に見えるのである。商品世界においても、人間の手の生産物がそのとおりに見えるのである。私は、これを物神礼拝 Fetischismus と名づける。それは、労働生産物が商品として生産されるようになるとただちに、労働生産物に付着するものであって、したがって、商品生産から分離しえないものである。


 〔 商品世界の物神的性格・・労働の独特な社会的性格・・〕

5. 商品世界のこの物神的性格は、先に述べた分析がすでに示したように〔*注1〕、商品を生産する労働の独特な社会的性格から生ずるのである。



   〔 私的労働の複合が社会的総労働の形成 〕

6. 使用対象が一般に商品となるのは、もっぱらそれが相互に相独立して営まれる私的労働の生産物であるからである。これらの私的労働の複合が社会的総労働をなす。生産者たちは、彼らの労働生産物の交換によって、はじめて社会的接触にはいるのであるから、彼らの私的労働の特殊的に社会的なる性格も、この交換の内部においてはじめて現われる。いい換えると、私的労働は、事実上、交換のために労働生産物が、そしてこれを通じて生産者たちが置かれる諸関係によって、はじめて社会的総労働の構成分子たることを実証する。したがって、生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的連結は、あるがままのものとして現われる。
すなわち、彼らの労働自身における人々の直接に社会的な諸関係としてでなく、むしろ人々の物的な諸関係として、また物の社会的な諸関係として現われるのである。


  〔 私的労働の二重の社会的性格 〕

7. 労働生産物はその交換の内部においてはじめて、その感覚的にちがった使用対象性から分離された、社会的に等一なる価値対称性を得るのである。労働生産物の有用物と価値物とへのこのような分裂は、交換がすでに充分な広さと重要さを得、それによって有用物が交換のために生産され、したがって事物の価値性格 Wertcharakter が、すでにその生産そのもののうちで考察されるようになるまでは、まだ実際に存在を目だたせるようにはならない。この瞬間から、生産者たちの私的労働は、事実上、二重の社会的性格を得るのである。これらの私的労働は、一方においては特定の有用労働として一定の社会的欲望を充足させ、そしてこのようにして総労働の、すなわち、社会的分業の自然発生的体制の構成分子であることを証明しなければならぬ。これらの私的労働は、他方において、生産者たち自身の多様な欲望を、すべてのそれぞれ特別に有用な私的労働がすべての他の有用な私的労働種と交換されうるかぎりにおいて、したがって、これと等一なるものとなるかぎりにおいてのみ、充足するのである。(全く)ちがった労働が等しくなるということは、それが現実に不等一であることから抽象されるばあいにのみ、それらの労働が、人間労働力の支出として、抽象的に人間的な労働としてもっている共通な性格に約元されることによってのみ、ありうるのである。
私的生産者の脳髄は、彼らの私的労働のこの二重な社会的性格を、ただ実際の交易の上で、生産物交換の中で現われる形態で、反映するのである。すなわち――したがって、彼らの私的労働の社会的に有用なる性格を、労働生産物が有用でなければならず、しかも他人にたいしてそうでなければならぬという形態で――異種の労働の等一性の社会的性格を、これらの物質的にちがった物、すなわち労働生産物の共通な価値性格の形態で、反映するのである。


  〔  3. 労働生産物の価値発見は人類史上の画期をなす 〕

8. したがって、人間がその労働生産物を相互に価値として関係させるのは、これらの事物が、彼らにとって同種的な人間的労働の、単に物的な外被(がいひ)であると考えられるからではない。逆である、彼らは、その各種の生産物を、相互に交換において価値として等しいと置くことによって、そのちがった労働を、相互に人間労働として等しいと置くのである。彼らはこのことを知らない。しかし、彼らはこれをなすのである。したがって、価値のひたいの上には、それが何であるかということは書かれていない。〔→新約聖書「ヨハネの黙示録」〕 価値は、むしろあらゆる労働生産物を、社会的の象形文字(しょうけいもじ)に転化するのである。後になって、人間は、彼ら自身の社会的生産物の秘密を探(さぐ)るために、この象形文字の意味を解こうと試みる。なぜかというに、使用対象の価値としての規定は、言語と同様に彼らの社会的な生産物であるからである。労働生産物が、価値である限り、その生産に支出された人間労働の、単に物的な表現であるという、後の科学的発見は、人類の発展史上に時期を画するものである。しかし、決して労働の社会的性格の対象的外観を逐(お)い払うものではない。この特別なる生産形態、すなわち、商品生産にたいしてのみ行なわれているもの、すなわち、相互に独立せる私的労働の特殊的に社会的な性格が、人間労働としてのその等一性にあり、そして労働生産物の価値性格の形態をとるということは、かの発見以前においても以後においても、商品生産の諸関係の中に囚(とら)われているものにとっては、あたかも空気をその成素に科学的に分解するということが、物理学的物体形態としての空気形態を存続せしめるのを妨げぬと同じように、終局的なものに見えるのである(注27)。

 (注27)第2版への注。したがって、ガリアニが、価値は人々の間の関係であるといっているとすれば、彼はこう付け加えなければならなかったであろう、すなわち、物的外皮の下にかくされた関係と(ガリアニ『貨幣について』221ページ。クストディ編『イタリア古典経済学著作集』近代篇、第3巻、ミラノ、1803年)




   〔  4. 物の運動の形態をとり規制される 〕

9. 生産物交換者がまず初めに実際上関心をよせるものは、自分の生産物にたいしてどれだけ他人の生産物を得るか、したがって、生産物はいかなる割合で交換されるかという問題である。このような割合は、ある程度習慣的な固定性をもつまでに成熟すると同時に、労働生産物の性質から生ずるように見える。したがって、例えば1トンの鉄と2オンスの金とは、1ポンドの金と1ポンドの鉄が、その物理学的化学的属性を異にするにかかわらず同じ重さであるように、同じ価値であることになる。事実、労働生産物の価値性格は、価値の大いさとしてのその働きによってはじめて固定する。この価値の大いさは、つねに交換者の意志、予見、行為から独立して変化する。彼ら自身の社会的運動は、彼らにとっては、物の運動の形態をとり、交換者はこの運動を規制するのではなくして、その運動に規制される。相互に独立して営まれるが、社会的分業の自然発生的構成分子として、あらゆる面において相互に依存している私的労働が、継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは、私的労働の生産物の偶然的で、つねに動揺せる交換諸関係において、その生産に社会的に必要なる労働時間が、規制的な自然法則として強力的に貫かれること、あたかも家が人の頭上に崩れかかるばあいにおける重力の法則のようなものであるからであるが(注3)、このことを、経験そのものの中から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには、その前に完全に発達した商品生産が必要とされるのである。
労働時間によって価値の大いさが規定されるということは、したがって、相対的商品価値の現象的運動のもとにかくされた秘密である。その発見は、労働生産物の価値の大いさが、単なる偶然的な規定であるという外観をのぞくが、しかし、少しもその事物的な形態をなくするものではない。

 (注28)「周期的な革命によってのみ貫徹されうる法則を何と考えるべきであろうか?それはまさしく一つの自然法則であって、関与者たちの無意識にもとづいているものなのである」 (フリードリヒ・エンゲルス 『国民経済学批判大綱』、『独仏年誌(アーノルト・ルーゲおよびカール・マルクス編、パリ、1844年)


   〔 価値性格の確定は、貨幣表現から 〕

10. 人間生活の諸形態に関する思索、したがってまたその科学的分析は、一般に現実の発展とは対立した途を進む。このような思索は、(後から)始まり、したがって、発展過程の完成した成果とともに始まる。労働生産物に商品の刻印を捺(お)し、したがって、商品流通の前提となっている形態が、すでに社会生活の自然形態の固定性をもつようになってはじめて、人間は、彼らがむしろすでに不変であると考えている、このような諸形態の歴史的性質についてでなく、それらの形態の内包しているものについて、考察をめぐらすようになる。このようにして、価値の大いさの規定に導いたのは、商品価格の分析にほかならず、その価値性格の確定に導いたのは、商品が共同してなす貨幣表現にほかならなかったのである。ところが、私的労働の社会的性格を、したがって、私的労働者の社会的諸関係を明白にするかわりに、実際上蔽いかぶせてしまうのも、まさに商品世界のこの完成した形態――貨幣形態――である。私が、上衣、深靴等々は、抽象的人間的労働の一般的体現としての亜麻布に関係しているというとすれば、この表現の倒錯(とうさく)は、目を射るように明らかである。しかし、もし上衣や深靴等々の生産者たちが、これらの商品を一般的等価としての亜麻布に――あるいは事実上すこしもことなるところはないのだが、金や銀に―関係せしめるとすれば、彼らにとっては、その私的労働の社会的総労働にたいする関係は、正確にこの倒錯した形態で現われる。


  〔  5. 商品世界の一切の神秘、一切の魔術と妖怪は、
     他の諸生産形態に移って見ると消えてなくなる 〕

11. このような形態が、まさにブルジョア的経済学の諸範疇(しょはんちゅう)をなしているのである。それは、この歴史的に規定された社会的生産様式の、すなわち、商品生産の生産諸関係にたいして、社会的に妥当した、したがって客観的である思惟形態なのである。それゆえに、商品生産にもとづく労働生産物を、はっきり見えないようしている商品世界の一切の神秘、一切の魔術と妖怪は、われわれが身をさけて、他の諸生産形態に移って見ると消えてなくなる。


   〔 6. 社会の生産有機体 1 〕

12 経済学はロビンソン物語を愛好するから、まず、ロビンソンをかれの島に出現させよう。本来彼は控え目な男ではあったが、それでもとにかく彼は、各種の欲望を充足せしめなければならない。したがってまた、各種の有用労働をなさなければならない。道具を作り、家具を製造し、ラクバを馴らし、漁りし、猟をしなければならない。祈禱その他のことはここでは語らない。というのは、われわれのロビンソンは、このことに楽しみを見出し、このような活動を休息と考えているからである。彼の生産的な仕事がいろいろとあるにもかかわらず、彼は、それらの仕事が同じロビンソンのちがった活動形態にすぎないことを知っている。したがって、人間労働のちがった仕方であるにすぎないことを知っている。必要そのものが、彼の時間を、正確にそのちがった仕事の間に分配しなければならないようにする。
彼の総活動の中で、どの仕事が割合をより多く、どのそれがより少なく占めるかということは、目的とした有用効果の達成のために克服しなければならぬ困難の大小にかかっている。経験が彼にこのことを教える。そして、時計、台帳、インクおよびペンを難破船から救い出したわがロビンソンは、よきイギリス人として、まもなく自分自身について記帳しはじめる。彼の財産目録は、彼がもっている使用対象、彼の生産に必要な各種の作業、最後に、これら各種の生産物の一定量が、平均して彼に支出させる労働時間の明細表を含んでいる。ロビンソンと彼の自分で作り出した富をなしている物との間の一切の関係は、ここではきわめて単純であり、明白であって、M・ヴィルト氏すら、特別に精神を緊張させることなくとも、これを理解できるようである。そしてそれにもかかわらず、この中には価値の一切の本質的な規定が含まれている。

 (注29) 第2版への注。リカードにも彼のロビンソン物語がないわけではない。「彼は原始漁夫と原始猟師を、ただちに商品所有者にして魚と野獣とを交換させる、これらの交換価値に対象化されている労働時間に比例して。このおり、彼は、原始漁夫と原始猟師とが、彼らの労働要具の計算のために、1817年ロンドンの取引所で行なわれるような減価計算表を利用するという、時代錯誤に陥っている。″オーウェン氏の平行四辺形″は、彼がブルジョア的社会形態以外に識っている唯一の社会形態であるように見える」(カール・マルクス『批判』38.39ページ〔岩波文庫版、69.70ページ。新潮社版『選集』第7巻、86.87ページ〕)。

14 いまわれわれは、ロビンソンの明るい島から陰惨なヨーロッパの中世に移ろう。ここでは独立人のかわりに、すべての人が非独立的であるのを見出す―農奴と領主、家臣と封主、俗人と僧侶という風に。人身的な隷属ということが、物質的生産の社会的諸関係にも、その上に築かれている生活部面にも、特徴となっている。しかしながら、与えられた社会的基礎をなしているのは、まさしく人身的隷属関係であるのであるから、労働と生産物とは、その実在性とちがった幻想的な態容ihrer Realität verschiedne phantastische Gestaltをとる必要はない。それらのものは、奉仕として、また現物貢納として、社会の営為の中にはいる。労働の自然形態Die Naturalform der Arbeitと、そして商品生産の基礎におけるようにその一般性Allgemeinheitではなく、その特殊性Besonderheitとが、ここでは労働の直接に社会的な形態unmittelbar gesellschaftliche Formである。径役労働は、商品を生産する労働と同じように時間によってはかられる。だが、各農奴は、彼がその主人の仕事のために支出するのが、彼の個人的労働力の一定量であるということを知っている。

僧侶にたいして納むべき10分の1税は、僧侶の祝福よりずっとはっきりしている。したがって、人々がここで相対して着ている仮装die Charaktermaskenをどう観るにしても、彼らの労働における人々の社会的関係は、いずれにしても彼ら自身の人的の関係persönlichen Verhältnisseとして現われ〔gegenübertreten:向かい合って歩み出る〕、 物の、すなわち、労働生産物の社会的関係に扮装してはいないsind nicht verkleidet in gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen, der Arbeitsprodukte.。

15 共同的な、すなわち直接に社会的となっている労働を考察するために、われわれはその自然発生的な形態、すなわち、すべての文化民族の歴史の入口で、われわれが出会うような形態に帰る必要はない。もっと身近な例をあげると、自家の欲望のために穀物や家畜や撚糸や亜麻布や衣服等を生産している、農家の田園的家父長的な産業がある。これら各種の物は、家族にとって、その家族労働のそれぞれの生産物である。しかしそれがお互いに商品として相対するのではない。これらの生産物を作り出す各種の労働、すなわち、農耕、牧畜、紡績、機織、裁縫等々は、それぞれの自然形態のままで社会的な機能gesellschaftliche Funktionenをなしている。というのは、それらは、商品生産と同じように、それ自身の自然発生的な分業naturwüchsige Teilung der Arbeitをもって行なわれている家族の機能であるからである。性別や年齢別、ならびに季節の変化とともに変化する労働の自然諸条件が、家族間における労働の分配と個々の家族員の労働時間とを規制する。しかしながら、継続時間によって測定される個人的労働力の支出は、ここでは、初めから労働自身の社会的規定として現われる。というのは個人的労働力は、本来家族の共同の労働力の器官としてのみ作用するからである。

 (注30) 第2版への注。
「自然発生的な共有財産制の形態が、特殊的にスラブ人的の形態であるとか、さらには、ロシア以外にはない形態であるなどというような主張は、最近拡がっている笑うべき偏見である。それは、ローマ人、ゲルマン人、ケルト人に立証されうる原始形態であるが、これについては、いろいろな見本でいっぱいの見本帳が、インド人の間に、部分的には崩壊しているが、なお依然として存している。アジア的な、とくにインドの共有財産形態のより正確な研究は、各種の自然発生的共有財産制の形態から、いかにその崩壊の種々の形態が出てくるかということを証明するであろう。こうして例えば、ローマ人やゲルマン人の私有財産制の各種の原型を、インド共有財産制の種々なる形態から導き出すことができるのである」(カール・マルクス『批判』10ページ〔ディーツ版『全集』第13巻、21ページ。邦訳、岩波文庫版、31ページ。新潮社版『選集』第7巻、63ページ〕)。


  〔 社会の生産有機体 2 〕
16 最後にわれわれは、目先きを変えて、自由な人間の一つの協力体を考えてみよう。人々は、共同の生産手段をもって労働し、彼らの多くの個人的労働力を、意識して一つの社会的労働力として支出する。ロビンソンの労働の一切の規定がここで繰り返される。ただ、個人的であるかわりに社会的であることがちがっている。ロビンソンのすべての生産物は、もっぱら彼の個人的な生産物であった。したがってまた、直接に彼のための使用対象であった。この協力体の総生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部は、再び生産手段として用いられてそれは依然として社会的である。しかしながら、他の部分は生活手段として、協力体の成員によって費消される。したがって、この部分は彼らの間に分配されなければならぬ。この分配の様式は、社会的生産有機体 gesellschaftlichen Produktionsorganismus 自身の特別な様式とともに、またこれに相応する生産者の歴史的発展の高さとともに、変化するであろう。ただ商品生産と比較するために、各生産者の生活手段にたいする分け前は、その労働時間によって規定されると前提する。したがって、労働時間は二重の役割を演ずるであろう。労働時間の社会的に計画的な分配は、各種の労働機能が各種の欲望にたいして正しい比例をとるように規制する。他方において、労働時間は、同時に生産者の共同労働にたいする、したがってまた共同生産物の個人的に費消さるべき部分にたいする、個人的参加分の尺度として役立つ。人々のその労働とその労働生産物とにたいする社会的な連結は、このばあい生産においても分配においても簡単明瞭であることに変わりない。


 

17 商品生産者の一般的に社会的な生産関係は、彼らの生産物に商品として、したがって価値として相対し、また、この物的な形態の中に、彼らの私的労働が相互に等一の人間労働として相連結するということにあるのであるが、このような商品生産者の社会にとっては、キリスト教が、その抽象的人間の礼拝をもって、とくにそのブルジョア的発展たるプロテスタンティズム、理神論等において、もっとも適応した宗教形態となっている。古代アジア的な、古代的な、等々の生産様式においては、生産物の商品への転化、したがってまた人間の商品生産者としての存在は、一つの副次的な役割を演ずる。だが、この役割は、その共同体が没落の段階にすすむほど、重要となってくる。本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、あるいはポーランド社会の小穴の中のユダヤ人のように、古代世界の合間合間にのみ、存在している。かの古代の社会的生産有機体は、ブルジョア的なそれにくらべると、特別にずっと単純であり明瞭である。しかし、それは個々の人間が、他の人間との自然的な種族結合の臍の緒をまだ切り取っていない、その未成熟にもとづくか、あるいは直接的な支配関係または隷属関係にもとづいているのである。これらの諸関係は、労働の生産諸力の発展段階が低いということ、これに応じて、人間の物質的な生活をつくり出す過程の内部における諸関係、したがって相互間と自然とにたいする諸関係が、狭隘であるということによって、条件づけられている。このような実際の狭隘さは、思想的には古い自然宗教や民族宗教に反映されている。現実世界の宗教的反映は、一般に、実際的な日常勤労生活の諸関係が、人間にたいして、相互間のおよび自然との間の合理的な関係を毎日明瞭に示すようになってはじめて、消滅しうるものである。社会的生活過程、すなわち、物質的生産過程の態容は、それが自由に社会をなしている人間の生産物として、彼らの意識的な計画的な規制のもとに立つようになってはじめて、その神秘的なおおいをぬぎすてるのである。だが、このためには、社会の物質的基礎が、いいかえると一連の物質的存立条件が、必要とされる。これらの諸条件自体は、また永い苦悩にみちた発展史の自然発生的な産物である。


18 さて経済学は不完全ではあるが (注31) 価値と価値の大いさを分析したし、またこれらの形態にかくされている内容を発見したのではあるが、それはまだ一度も、なぜにこの内容が、かの形態をとり、したがって、なぜに労働が価値において、また労働の継続時間による労働の秤量が、労働生産物の価値の大いさの中に、示されるのか?(注32)という疑問をすら提起しなかった。生産過程が人々を支配し、人間はまだ生産過程を支配していない社会形成体に属するということが、その額に書き記されている諸法式は、人問のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと同じように、自明の自然必然性と考えられている。したがって、社会的生産有機体の先ブルジョア的形態は、あたかも先キリスト教的宗教が、教父たちによってなされたと同じ取扱いを、経済学によって受けている(注33)。

 (注31) リカードの価値の大いさの分析
 ―そしてこれは最良のものである―に不十分なところがあることについては、本書の第3および第4巻で述べる。しかしながら、価値そのものについていえば、古典派経済学はいずこにおいても、明白にそして明瞭な意識をもって、価値に示されている労働を、その生産物の使用価値に示されている同じ労働から、区別することをしていない。古典派経済学は、もちろん事実上区別はしている。というのは、それは労働を一方では量的に、他方では質的に考察しているからである。しかしながら、古典派経済学には労働の単に量的な相違が、その質的な同一性または等一性を前提しており、したがって、その抽象的に人間的な労働への整約を前提とするということは、思いもよらぬのである。リカードは、例えば、デステュット・ド・トラシがこう述べるとき、これと同見解であると宣言している、すなわち「われわれの肉体的および精神的の能力のみが、われわれの*1本源的な富であることは確かであるから、これら能力の使用、すなわち一定種の労働は、われわれの本源的な財宝である。われわれが富と名づけるかの一切の物を作るのが、つねにこの使用なのである。……その上に、労働が作り出したかの一切の物は、労働を表わしているにすぎないことも確かである。そしてもしこれらの物が、一つの価値をもち、あるいは二つの相ことなる価値をすらもっているとすれば、これらの物は、これをただ自分がつくられてくる労働のそれ(価値)から得るほかにありえない」(リカード『経済学および課税の原理』第三版、ロンドン、1821年、〔邦訳、岩波文庫版、下巻、19ページ〕。〔デステュット・ドゥ・トラシ『観念学概要』第四・第五部、パリ、1826年、35・36ページ、参照〕)。われわれはリカードが、デステュットにたいして、彼自身のより深い意味を押しつけていることだけを示唆しておく。デステュットは、事実、一方では*1富をなす一切の物が「これを作り出した労働を代表する」と言っているが、他方では、それらの物が、その「二つのちがった価値」(使用価値と交換価値)を「労働の価値」から得ると言っている。彼は、これをもって、俗流経済学の浅薄さに堕ちている。俗流経済学は、一商品(この場合労働)の価値を前提して、これによって後で他の商品の価値を規定しようとするのである。リカードは彼をこう読んでいる、すなわち、使用価値においても交換価値においても、労働(労働の価値ではない)が示されていると。しかし彼自身は、同じく二重に表示される労働の二重性を区別していない。したがって、彼は、「価値と富、その属性の相違」という章全体にわたって、苦心してT・J・B・セイ程度の男の通俗性と闘わなければならない。したがって、最後にまた彼は、デステュットが、彼自身と価値源泉としての労働について一致するが、また他方で価値概念についてセイと調和することを、大変に驚いている。

 (注32) 古典派経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが達成されなかったということは、この学派の根本欠陥の一つである。A・スミスやリカードのような、この学派の最良の代表者においてさえ、価値形態は、何か全くどうでもいいものとして、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして取り扱われている。その理由は、価値の大いさの分析が、その注意を吸いつくしているということにだけあるのではない。それはもっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式のもっとも抽象的な、だがまたもっとも一般的な形態であって、この生産様式は、これによって社会的生産の特別なる種として特徴づけられ、したがって同時に歴史的に特徴づけられているのである。したがって、もし人あって、これを社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的に価値形態の、したがってまた商品形態の、さらに発展して、貨幣形態、資本形態等の特殊性をも看過することになる。それゆえに、労働時間による価値の大いさの秤定について全く一致する経済学者に、貨幣、すなわち一般的等価の完成体についての、もっとも混乱した、 そしてもっとも矛盾した観念を見ることになるのである。このことは、はっきりと、例えば銀行制度の取扱いにあらわれる。ここでは、貨幣の陳腐な定義だけでは、もはや間に合わなくたる。反対に、価値を社会的形態とだけ考え、あるいはむしろその実体のない幻影としか見ないような新装の重商主義(ガニール等々)が、ここに発生した。―これを最後にしておくが、私が古典派経済学と考えるものは、W・ペティ以来の一切の経済学であって、それは俗流経済学と反対に、ブルジョア的生産諸関係の内的関連を探究するものである。俗流経済学は、ただ外見的な関連のなかをうろつき廻るだけで、いわばもっとも粗けずりの現象を、尤もらしくわかったような気がするように、またブルジョアの自家用に、科学的な経済学によってとっくに与えられている材料を、絶えず繰りかえして反芻し、しかもその上に、ブルジョア的な生産代理者が、彼ら自身の最良の世界についてもっている平凡でうぬぼれた観念を、体系化し、小理窟づけ、しかもこれを永遠の真理として言言する、ということに限られているのである。

 (注33) 「経済学者たちは一種独特のやり方をするものだ。彼らにとっては、制度に二種類があるだけである。人工的なそれと、自然的なそれである。封建体制の制度は人工的のそれであり、ブルジョアジーの制度は自然的である。彼らはこの点では神学者に似ている。彼らも同じように二種の宗教をたてる。彼らの宗教でない宗政は、すべて人間の作ったものであるが、彼ら自身の宗教は神の啓示である。―かくて、歴史はそのようにつづいたのであるが、もはや歴史は終わった」(カール・マルクス 『哲学の貧困。プルードン氏の″貧困の哲学″に答えて』 1847年、112ページ〔ディーツ版『全集』第4巻、139ページ。邦訳、山村喬訳『哲学の貧困』岩波文庫版、132-133ページ。新潮社版『選集』第3巻、93-94ページ〕)。

 古代ギリシア人やローマ人が掠奪だけで生きていたと思っているバスティア氏は、まことにおかしい考え方だ。しかし、もし数世紀を通じて掠奪で生きられるとすれば、絶えず何か掠奪さるべきものが、ここになければならない。いいかえれば、掠奪の対象が継続的に再生産されなければならない。したがって、ギリシア人もローマ人も、一つの生産過程をもっていたようである。したがって、ブルジョア経済が今日の世界の物質的基礎をなしているのと全く同じように、彼らの世界の物質的基礎をなしていた経済をもっていたようである。それともバスティアは、奴隷労働にもとづく生産様式が、一つの掠奪体制によるものであるとでも考えているのだろうか? こうなると、彼の立っている土台があぶないことになる。アリストテレスほどの巨人思想家が、奴隷労働の評価において過っているとすれば、バスティアのようなこびと経済学者が、どうして賃金労働の評価において正しいことをいえようか?

 ―私はこの機会を摑んで、私の著書『経済孚批判』(1859年)の刊行に際して、一ドイツ語アメリカ新聞によってなされた抗議を駁しておきたい。この新聞は、こういうのである、私の見解、すなわち、一定の生産様式とこれにつねに相応する生産諸関係、簡単にいえば「社会の経済的構造が、法律的政治的上部構造のよって立ち、かつこれにたいして一定の社会的意識形態が相応する現実的基礎である」ということ、「物質的生活の生産様式が社会的政治的および精神的生活過程一般を条件づける」〔ディーツ版『全集』第13巻、8-9ページ。邦訳、岩波文庫版、13ページ。新潮社版『選集』第7巻、54ページ〕ということ、―すべてこれらのことは、物質的利益が支配している今日の社会にとっては正しいが、カトリック教が支配していた中世にたいしても、政治が支配していたアテネやローマにたいしても、当たらないというのである。まず第一に、おかしなことは、中世と古代世界にかんする、よく人の言うこれらのきまり文句を、誰か知っていない者がいると、前提したがる男がいることである。これだけのことは明らかである。すなわち、中世はカトリック教によって生きていられたわけでなく、古代世界は政治によって生きえたのでもない。彼らがその生活を維持していた仕方が、逆に、なぜ古代に政治が主役をつとめ、なぜ中世にカトリック教が主役であったかを説明するのである。なお、土地所有の歴史が、その秘密を語っているということを知るためには、例えばローマ共和国の歴史にそれほど通暁している必要はない。他方において、すでにドン・キホーテは、遍歴騎士が、社会のどんな経済形態とでも同じように調和するものだ、と妄信していた誤りにたいして、充分につぐないをうけた。

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19 一部の経済学者が、どんなに商品世界に付着している物神礼拝、または社会的な労働規定の対象的外観gegenständlichen Scheinによって、謬(あやま)らされたかということを証明するものは、ことに、交換価値の形成における自然の役割についてなされた、退屈で愚劣な争論である。交換価値は、ある物の上に投ぜられた労働を表現する一定の社会的な仕方であるのだから、それはちょうど為替相場と同じように、少しの自然素材Naturstoffも含みえない。

20 商品形態は、ブルジョア的生産のもっとも一般的でもっとも未発達の形態であり、そのために商品形態は今日と同じように支配的で、したがって特徴的な仕方ではないが、すでに早く出現しているのであるから、その物神的性格Fetischcharakterは、比較的にはもっと容易に見破られていいように思われる。より具体的な形態を見ると、この単純さの外観dieser Schein der Einfachheit.すら消える。重金主義(モネタル・ジュステム)の幻想はどこから来たか?重金主義は、金と銀とにたいして、それらのものが貨幣として一つの社会的生産関係を表わしているが、特別の社会的属性をもった自然物の形態で、これをなしているということを見なかった。そして上品に重金主義を見下している近代経済学も、資本を取扱うようになると、物神礼拝Fetischismusにつかれていることが明白にならないか?地代が土地から生じて、社会から生ずるものでないという重農主義的な幻想は、消滅して以来どれだけの歳月を経たか?

21 だが、あまり先まわりしないために、ここではなお商品形態自身について、一例をあげるだけで沢山だろう。もし商品が話すことが出来たら、こういうだろう、われらの使用価値が人間の関心事なのであろう。使用価値は物としてわれらに属するものではない。が、われらに物として与えられているものは、われらの価値である。商品物としてのわれら自身の交易が、このことを証明している。われらはお互いに交換価値としでのみ、関係しているのである。そこでいかに経済学者が商品の心を読みとって語るかを聴け。曰く「価値(交換価値)は物の属性であり、富(使用価値)は人の属性である。この意味で価値は必然的に交換を含んでいるが、富はそうでない(注34)」。「富(使用価値)は人間の特性であるが、価値は商品の特性である。一人の人間または一つの社会は富んでいる。一個の真珠または一個のダイヤモンドには価値がある。……一個の真珠または一個のダイヤモンドは、真珠またはダイヤモンドとして価値をもっている(注35)」。

 (注34) „Value is a property of things, riches of men. Value,in this sense, necessarily implies exchange, riches do not.“ (『経済学におけるある種の言葉の争いについての考察、とくに価値ならびに需要および供給に関連して』ロンドン、1821年、16ページ)

 (注35) „Riches are the attribute of man, value is the attribute of commodities. A man or a community is rich, a pearl or a diamond is valuable. ・・・・・ A pearl or a diamond is valuable as a pearl or diamond.“ (S・ベイリー『価値の性質、尺度および原因にかんする批判的一論考』165ページ〔邦訳、鈴木鴻一郎訳『リカード価値論の批判』151ページ〕)

22 これまでまだ、一人の化学者として、真珠またはダイヤモンドの中に、交換価値を発見したものはない。しかし、特別の深い批判力をもっているこの化学的実体の経済学的発見者たちは、物財の使用価値が、その物的属性から独立しているのに反して、その価値は、物としての属性に属しているということを発見している。彼らがここで立証することは、物の使用価値は人間にとって交換なしで実現され、したがって、物と人間との間の直接的関係において実現されるのに、逆にそれらの価値は交換においてのみ、すなわち、社会的過程においてのみ実現されるという特別の事態である。誰かここであの愛すべきドッグベリを思い出さないであろうか。彼は夜警人のシーコールにこう教えている、「立派な容貌の男であるのは境遇の賜物だが、読み書きが出来るということは生まれつきだ(注36)」〔シェイクスピア『むだ騒ぎ』。……訳者〕。

 (注36) 『考察』の著者およびS・ベイリーは、リカードを非難して、彼は交換価値を、相対的にすぎないものから、何か絶対的なものに転化したと言っている。逆だ。彼は、これらの物、例えばダイヤモンドと真珠とが交換価値として有する仮装相対性を、この外観の背後にかくれている真の関係に、すなわち、人間労働の単なる表現としてのそれらの物の相対性に、約元したのである。リカード派の人々がベイリーにたいして粗雑に答えて、的確に答えなかったとすれば、これはただ彼らが、リカード自身に、価値と価値形態または交換価値との間の内的関連について、少しも解明を見出さなかったからであるにすぎない。

・・・以上、第4節 終わり・・・


>第1版・国民文庫  【第1章 商品と貨幣】

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  第4節 商品の物神的性格とその秘密

第1版 第2版 文献比較研究  ー第4節ー
 ・中見出しー編集部作成 第2版・岩波文庫 第1版・国民文庫
1. 感覚的に、超感覚的な物  p.67-69 p.19-21
2. 商品形態の神秘-物神的性格 p.70-72 p.22-24
3. 労働生産物の価値発見は人類史上の画期  p.72-74 p.24-26
4. 物の運動に規制される p.74-76 p.26-29
5. 商品世界の一切の神秘
6. 社会の生産有機体
 

  第1版 〔 第4節 商品の物神的性格とその秘密 〕

  〔1. 感覚的に、超感覚的な物

80. 商品は、一見したところでは、自明的な、平凡な物に見える。商品の分析は、商品が非常にへんてこなものであって、形而上学的な小理屈や神学的な気まぐれでいっぱいになっている、ということを示す。単なる使用価値としては、商品は一つの感覚的な物であって、それには、私がいまそれを、その諸属性〔属性:Eigenschaft、特性〕が人間の諸欲望を満足させる、という観点から見ても、あるいはまた、それが人間労働の生産物としてはじめてこれらの属性を得る、という観点から見ても、少しも神秘的なところはない。人間が自分の行為によって自然素材の諸形態を自分にとって有用な仕方で変化させるということには、まったくなにも謎のようなものはない。たとえば、材木で机をつくれば、材木の形は変えられる。それにもかかわらず、机はやはり材木であり、ありふれた感覚的な物である。ところが、机が商品として現われるやいなや、それは一つの感覚的であると同時に超感覚的な物 〔ein sinnlich übersinnliches Ding 〕 に変わるのである。机は、その脚で地上に立っているだけではなくて、すべての他の商品に対立して頭で立っているのであって、その木頭から、机が自分かってに踊りだすときよりもはるかに奇怪な妄想を繰り広げるのである(25)。

  (25) ほかの世界がすべて静止しているように思われたときに、シナと机たちが踊りだした-ほかのものを励ますために*、ということが思い出される。*ほかのものを励ますために(Pour encourager les autres) ― 1848-49年の革命の敗北後、ヨーロッパでは暗い政治的反動期が始まった。そのころヨーロッパの貴族仲間は、またブルジョア仲間も霊交術や特に卓踊術に熱中していたが、他方シナでは特に農民のあいだに強力な反封建的解放運動が広がっており、それは太平天国の乱として歴史に残っている。

  〔2. 商品形態の神秘

81. だから、商品の神秘的な性格は商品の使用価値からは出てこないのである。それはまたそれ自体として考察された諸価値規定からも出でこない。なぜならば、第二に、いろいろな有用労働または生産活動がどんなに違っていようとも、それらが他の諸有機体とは違う独自に人間的な有機体の諸機能であるということや、このような機能は、その内容や形式がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出であるということは、生理学上の真理だからである。第二に、価値の大きさの規定の根底にあるもの、すなわち前述の支出の継続時間、または労働の量について言えば、この量は感覚的にも労働の質とは区別されうるものである。どんな状態のもとでも、生活手段の生産に費やされる労働時間は、たとえ発展段階の相違によって一様ではないにしても、人間の関心事でなければならなかった。最後に、人間がなんらかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまたある社会的な形態をもつことになるのである。


  〔3. 社会的生産有機体 1

82. われわれは彼の島の上でのロビンソンを例にとってみよう。生来質素な彼ではあるが、彼とてもいろいろな種類の欲望を満足させなげればならないのであって、したがって道具をつくり、家具をこしらえ、ラマを馴らし、漁猟をするなど、いろいろな種類の有用労働をしなければならない。祈祷とかそれに類することは、われわれはここでは問題にしない。というのは、わがロビンソンはそういうことを楽しみにし、この種の行動を保養だと思っているからである。彼の生産的な諸機能はいろいろに違ってはいるが、彼は、それらの諸機能が同じロビンソンのいろいろな活動形態でしかなく、したがって人間労働のいろいろな仕方でしかない、ということを知っている。必要そのものに迫られて、彼は自分の時間を精確に自分のいろいろな機能のあいだに配分するようになる。彼の全活動のうちでどれがより大きい範囲を占め、どれがより小さい範囲を占めるか、ということは、目ざす有用効果の達成のために克服しなければならない困難の大小によって定まる。経験は彼にそれを教える。そして、わがロビンソンは、時計や帳簿やインクやペソを難破船から救いたしていたので、りっぱなイギリス人として、やがて自分自身のことを帳面につけ始める。彼の財産目録のうちには、彼がもっている使用対象や、それらの生産に必要ないろいろな作業や、最後に、これらのいろいろな生産物の一定量が彼に平均的に費やさせる労働時間やの、一覧表が含まれている。ロビンソンと彼の自製の富をなしている諸物とのあいだのいっさいの関係はここではまったく簡単明瞭なので、たとえばM・ヴィルト氏でさえも特に心を労することなくこの関係を理解することができたことであろう。それでもなお、これらの関係のなかには価値のすべての本質的な規定が含まれているのである。

  〔3. 社会的生産有機体 2

83. 次にわれわれは、ロビンソンではなくて、共同の生産手段をもって労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的な労働力として支出する自由な人々の結合体 を考えてみよう。ロビンソンの労働のすべての規定が再現するのであるが、ただ、個人的にではなくて、社会的に、というだけのことである。とはいえ、一つの本質的な相違がはいってくる。ロビンソンのすべての生産物は、ただ彼ひとりの個人的生産物だったし、したがって直接に彼のための使用対象だった。この結合体の総生産物は、一つの社会的な生産物である。この生産物の一部分は再び生産手段として役だつ。それは相変わらず社会的である。しかし、もう一つの部分は生活手段として結合体の成員たちによって消費される。したがって、それは彼らのあいだに分配されなければならない。この分配の仕方は、社会的生産有機体 gesellschaftliche Produktionsorganismus そのものの特殊な種類と、これに対応する生産者たちの歴史的な発展の高さとにっれて、変化するであろう。ただ商品生産と対比してみるために、われわれは、各生産者の手にはいる生活手段の分けまえは、各自の労働時間によって規定されている、と前提しよう。そうすれば、労働時間は二重の役割を演ずることになるであろう。労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望にたしするいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働への生産者の個人的な参加の尺度として役だち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的な分けまえの尺度としても役だつ。人々が彼らの労働や彼らの労働生産物にたいしてもっている社会的な諸関係は、ここでは生産においても分配においても相変わらず透明で簡単であろう。


  〔 4. 人的な関係が物的な形態によって隠されている

84.  それでは、労働生産物が商品の形態をとるとき、その謎のような性格はいったいどこからくるのであろうか?

85. もし人間たちが彼らの諸生産物を、これらの諸物が同質の人間労働の単に物的な外皮として認められるかぎりにおいて、諸価値として相互に関係させるのだとすれば、このことのうちには同時にそれとは逆に、彼らのいろいろに違った労働はただ物的な外皮のなかの同質な人間労働としてのみ認められているのだ、ということが含まれている。彼らが彼らのいろいろな労働を相互に人間労働として関係させるのは、彼らが彼らの諸生産物を相互に諸価値として関係させるからである。人的な関係が物的な形態によって隠されているのである。したがって、この価値の額には、それがなんであるか、は書かれていないのである。人間は、彼らの諸生産物を相互に諸商品として関係させるためには、彼らのいろいろに違った労働を抽象的な人間労働 abstrakt menschlicher Arbeit gleichzusetzen. に等置することを強制されているのである。彼らはそれを知ってはいない。しかし、彼らは、物質的な物を抽象物たる価値に還元することによって、それを行なうのである。これこそは彼らの頭脳の自然発生的な、したがってまた無意識的、本能的な作用なのであって、この作用は、彼らの物質的生産の特殊な様式と、この生産が彼らをそのなかに置くところの諸関係とから、必然的に生え出てくるのである。第一に、彼らの関係は実践的に存在している。しかし、第二に、彼らは人間なのだから、彼らの関係は彼らにとっての関係として存在している。それが彼らにとって存在している仕方、または、それが彼らの頭脳のなかで反射している仕方は、この関係そのものの性質から生ずる。後には彼らは科学によって彼ら自身の社会的生産物の秘密を明らかにしようとする。なぜならば、ある物の価値としての規定は、言語と同じように、彼らの所産だからである。そこでさらに価値の大きさについて言えば、互いに独立に営まれているところの、といっても、自然発生的な分業の諸分肢であるがゆえに全面的に互いに依存し合っているところの、私的諸労働は、次のようなことによって、絶えずそれらの社会的に釣合いのとれた標準に還元されるのである。すなわち、彼らの諸生産物の偶然的な、そして絶えず変動する交換割合のなかでは、それらの生産物の生産のために社会的に必要な労働時間が、たとえばある人の頭上に家が崩れ落ちるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として強力的に貫徹される、ということによって、そのような標準に還元されるのである(26)。

それだから、労働時間による価値の大きさの規定は、相対的な諸商品価値の現象的な諸運動の下に隠されている秘密なのである。生産者たち自身の社会的な運動が彼らにとっては諸物の運動の形態をもっているのであって、彼らは、この運動を制御するのではなくて、この運動によって制御されているのである。そこで、最後に価値形態ついて言えば、この形態こそは、まさに、私的労働者たちの社会的な諸関係を、したがってまた私的諸労働の社会的な諸被規定性を、顕示するのではなくて、それらを物的に蔽い隠すのである。もし私が、上着や長靴などが抽象的な人間労働〔abstrakter menschlicher Arbeit〕の一般的な物質化としてのリンネルに関係するのだ、と言うならば、この表現の奇異なことはすぐに感じとられる。ところが、土着や長靴などの生産者たちがこれらの商品を一般的な等価物としてのリンネルに関係させるならば、彼らにとっては自分たちの私的労働の社会的な関係がまさにこのような奇異な形態をもって現われるのである。

   (26) 「ただ周期的な革命によってしか貫かれることのできない法則というものを、われわれはどう考えればよいのだろうか? それは、関与者たちの無意識にもとづいている自然法則にほかならないのである。」(フリードリヒ・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、所収、『独仏年誌』、アルノルト・ルーゲおよびカール・マルクス編集、パリ、1849年〔1844年の誤植〕、103ページ。)

86. このような諸形態こそは、まさにブルジョア経済学の諸範躊をなしているのである。それらの形態こそは、この歴史的に規定されている社会的生産様式の諸生産関係についての社会的に認められている、つまり客観的な、諸思想形態なのである。


87. 私的生産者たちは彼らの私的生産物たる諸物に媒介されてはじめて社会的な換触にはいる。それだから、彼らの労働の社会的な諸関係は、人々の労働における人々の直接的に社会的な諸関係として存在し且つ現われるのではなくて、人々の物的な諸関係または諸物の社会的な諸関係として存在し且つ現われるのである。ところが、その物が最初に且つ最も一般的に一つの社会的な物として現わされるということは、労働生産物の商品への転化なのである。

  〔 商品世界の一切の神秘

88. つまり、商品の神秘性は次のようなことから生ずるのである。すなわち、私的生産者たちにとっては彼らの私的労働の社会的な諸規定が労働生産物の社会的な自然被規定性として現われるということ、人々の社会的な諸生産関係が諸物の対相互的および対人的な社会的な諸関係として現われるということがそれである。社会的総労働にたいする私的労働者たちの諸関係は、彼らに対立して対象化され、したがってまた彼らにとっては諸対象の諸形態において存在するのである。商品生産者たちの一般的な社会的生産関係は、彼らの生産物を商品として、したがってまた価値として取り扱い、この物的な形態において彼らの私的労働を同等な人間労働として互いに関係させる、ということにあるのであるが、このような商品生産者たちの社会にとっては、抽象的な人間にたいする礼拝を伴うキリスト教、ことにそのブルジョア的発展であるプロテスタント教や理神論などとしてのキリスト教が、最も適当な宗教形態である。古代アジア的、古代的、等々の諸生産様式においては、生産物の商品への転化、したがってまた人間の商品生産者としての定在は、一つの従属的な役割を演じている、とはいえ、その役割は、共同体がその崩壊段階にはいるにつれて重要さを増してくる。本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、またはポーランド社会の気孔のなかのユダヤ人たちのように、ただ古代世界のあいだのすきまに存在するだけである。あの古い社会的な諸生産有機体は、ブルジョア的な生産有機体よりも異常なほどにずっと単純で透明ではあるが、しかし、それらは、他の人間との自然的な種属関係の臍帯(へその緒・お)からまだ離れていない個人的な人間の未成熟か、または直接的な支配隷属関係かにもとづいている。このような生産有機体は、労働の生産力の低い発展段階によって制約されており、また、それに対応して局限されている、彼らの物質的な生活生産過程のなかでの人間たちの諸関係によって、したがってまた彼らどうしのあいだの関係と自然にたいする関係とによって、制約されている。このような現実の被局限性は、観念的には古代の自然宗教や民族宗教に反映している。現実の世界の宗教的な反射は、実践的な日常生活の諸関係が人間にとって相互間および対自然の日常的に透明な合理的な諸関係を表わすようになったときに、はじめて消滅しうるのである。しかし、このような諸関係は、ただ、そのあるがままのものとしてのみ、現われることができる。社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の、姿は、それが自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御のもとに置かれたとき、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てるのである。しかし、そのためには、社会の物質的な基礎または一連の物質的な諸存在条件が必要なのであって、これらの条件そのものがやはりまた一つの長くて苦悩にみちた発展の歴史の自然発生的な所産なのである。
  
 * エピクロスの神々―古代ギリシアの哲学者エピクロスの見解によれば、神々は世界と世界とのあいだの空所に存在していて、万物の発展にも人間の生活にもなんの影響も及ぼさない。

89. ところで、経済学は、不完全ながらも(27)、価値と価値の大きさとを分析してはきた。経済学は、なぜ労働が価値に表わされるのか、そしてその継続時間による労働の計測が価値の大きさに表わされるのか、という問題は、いまだかつて提起したことさえなかった。そこでは生産過程が人間たちを支配していて人間はまだ生産過程を支配してはいないという社会構成体に属するものだということがその額に書かれてある諸形態は、経済学のブルジョア的な意識にとっては、生産的労働そのものとまったく同じように自明的な自然必然性として認められているのである。それだから、社会的生産有機体の前ブルジョア的な諸形態が経済学によって取り扱われるのは、たとえばキリスト教以前の諸宗教が教父たちによって取り扱われるのと同じようなのである。
   
(27) リカードによる価値の大きさの分析における不十分さ―といってもそれは最良の分析なのであるが―は、本書の第三部および第四部を見ればわかるであろう。しかし、価値一般について言えば、古典派経済学は、価値となって現われる労働を、労働の生産物の使用価値となって現われるかぎりでの同じ労働から、どこでも明文と明瞭な意識とをもって区別してはいないのである。古典派経済学ももちろん実際にはこの区別をしている。というのは、それは労働を、あるときには量的に、他のときには質的に、考察しているからである。しかし、次のようなことには古典派経済学は考えつかないのである。すなわち、諸労働の単に量的な相違はそれらの質的な一元性または同等性を前提しており、したがってまた諸労働の抽象的人間労働〔abstrakt menschliche Arbeit〕への還元を前提している、ということがそれである。たとえば、リカードは、デステュット・ド・トラシが次のように言うとき、彼との同意を表明している。
「 ただわれわれの肉体的および精神的な諸能力だけがわれわれの根源的な富である、ということは確かであるから、これらの能力の使用、なんらかの種類の労働は、われわれの根源的な財宝である。そして、われわれが富と呼ぶいっさいの物は、いつでもこの使用によってつくりだされるのである。……さらに、すべてこれらの物は、ただ、それらをつくりだした労働だけを表わしている、ということもまた確かである。そして、もしこれらの物が一つの価値を、または二つの違った価値をさえ、もっているとすれば、これらの物は、ただ、これらの物の根源である労働のそれ(価値)からそれらの価値を導き出すことができるだけである。」(リカード『経済学原理。第3版、ロンドン、1821年』、334ページ〔岩波文庫下巻p.102〕)。
われわれは、ただ、リカードが彼自身のより深い意味をデステュットに押しつけている、ということだけを示唆しておく。じっさい、デステュットは、たしかに一方では、富を形成しているすべての物は「それらの物をつくりだした労働を表わしている」と言っているが、しかし、他方では、それらの物はそれらの「二つの違った価値」(使用価値と交換価値)を「労働の価値」から得るのだ、と言っている。こうして、彼は、ある商品(ここでは労働)の価値を前提しておいて、それによってあとから他の諸商品の価値を規定する、という俗流経済学の浅薄さに陥っているのである。リカードは、使用価値にも交換価値にも労働(労働の価値ではない)が表わされる、というようにデステュットを読んでいる。ところが、リカード自身は、二重に表わされている労働の二重の性格をほとんど区別していないので、そのために、「価値と富、両者を区別する諸性質」という章〔第20章〕の全体にわたって、J・B・セーのような男の愚論と争うのに苦労しなければならないことになるのである。したがってまた、最後に彼は、デステュットが価値源泉としての労働についてはたしかに彼自身と一致しているのに、他方、価値概念についてはセーと一致している、ということにひどく驚いているのである。

 (28) 「経済学者たちは一つの奇妙なやり方をもっている。彼らにとってはただ二つの種類の制度があるだけである。人為的と自然的と。封建制の制度は人為的な制度であり、ブルジョアジーの制度は自然的な制度である。この点では、彼らは、やはり二つの種類の宗教をたてる神学者たちと似ている。どの宗教でも、彼らのものでない宗教はすべて人間の発明したものであるが、彼ら自身の宗教は神の啓示なのである。-こういうわけで、かつては歴史というものがあったこともあるが、もはやそれはないのである。」(カール・マルクス『哲学の貧困。プルドン氏の貧困の哲学への返答。1847年』、113ページ。)古代のギリシア人やローマ人はただ略奪だけで生きていたと思っているバスティア氏は、まったくおかしな男である。だが、幾世紀も続けて略奪で生きて行くとすれば、そのためには、いつでもそこにはなにか略奪されるものがあるか、または略奪の対象が絶えず再生産されるかしなければならない。それだから、ギリシア人やローマ人も一つの生産過程を、したがってまた一つの経済を、もっており、それは、ブルジョア経済が今日の世界の物質的な基礎をなしているのとまったく同じように、彼らの世界の物質的な基礎をなしていたと思われるのである。それとも、バスティアは、奴隷労働にもとづいている生産様式は略奪体制の上に立っている、とでも考えているのであろうか? もしそうだとすれば、彼はあぶない地盤の上に立っていることになる。アリストテレスのような思想の巨人でさえも奴隷労働の評価では道に迷ったのに、どうして、バスティアのようなちっぽけな経済学者がその賃労働の評価において正しい道を行けるはずがあろうか?―この機会に、私の著書『経済学批判。1859年』が刊行されたときにアメリカのあるドイツ語新聞が私に向かって唱えた異論を、簡単に反駁しておこう。同紙は次のように言った。私の見解、すなわち、一定の生産様式と、そのつどこれに対応している諸生産関係、簡単に言えば「社会の経済的構造は、法律的および政治的上部構造がその上に立ち、一定の社会的意識形態がそれに対応するところの、現実の基礎である」ということ、「物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活過程一般を制約する」ということ、―すべてこのようなことは、物質的な利害関係が支配している今日の世界についてはたしかに正しいが、しかし、カトリック教が支配していた中世についても、政治が支配していたアテナイやローマについても、正しくはないのだ、と。まず第一に奇異なのは、中世や古代世界についてのこの世間周知のきまり文句をまだ知らない人があると前提して喜んでいる者がある、ということである。中世もカトリック教によって生きて行くことはできなかったし、古代世界も政治によって生きて行くことはできなかった、ということだけは明らかである。それとは逆に、これらの世界がその生活を維持した仕方こそは、なぜ、あちらでは政治が、こちらではカトリック教が、主役を演じたのか、ということを説明するのである。さらにまた、たとえば、ローマ共和国の歴史はろくに知らなくても、土地所有の歴史がその隠れた歴史をなしているということはわかるのである。他方、遍歴騎士道が社会のどんな経済的形態とでも一様に調和するかのように考える迷妄の報いは、すでにドン・キホーテが受けているのである。



90.  商品世界に付着している呪物崇拝 Fetischismus、 または社会的な諸労働規定の対象的な外観によって、一部の経済学者たちがどんなに惑わされているか、このことをとりわけよく示しているのは、交換価値の形成における自然の役割についての長たらしくてつまらない争論である。交換価値はある物に投ぜられた労働を表わす一定の社会的な仕方なのだから、それがいたとえば為替相場などと同じように、自然素材を含んでいる、ということはありえないのである。


91. ブルジョア的な生産の最も一般的で最も未発展な形態、それだからこそ、すでに以前の諸生産時代においても、たとえ同じように支配的な、したがってまた特徴的な仕方においてではないにせよ、出現している形態としては、商品形態はまだ比較的容易に見抜かれるものだった。しかし、より具体的な諸形態、たとえば資本のようなものはどうであろうか? 古典派経済学の呪物崇拝 Fetischismus はここでは手にとるように明らかになるのである。


92.  だが、先まわりすることをやめて、ここでは商品形態そのものについてのもう一つの例だけで十分だとしよう。すでに見たように、商品にたいする商品の関係、たとえば脱靴器にたいする長靴の関係においては、脱靴器の使用価値は、つまりそれの現実の物的な諸属性は、長靴にとってはまったくどうでもよいことである。ただそれ自身の価値の現象形態としてのみ、長靴という商品は、脱靴器に関心をもたされるのである。だから、もし諸商品がものを言うことができるとすれば、彼らはこう言うであろう。われわれの使用価値は人間の関心をひくかもしれない。使用価値は物としてのわれわれにそなわっているものではない。だが、物としてのわれわれにそなわっているものは、われわれの価値である。われわれ自身の商品物としての交わりがそのことを証明している。われわれはただ交換価値として互いに関係し合うだけだ、と。では、経済学者がこの商品の心をどのように伝えるかを聞いてみよう。「価値(交換価値)は諸物の属性であり、富(使用価値)は人間の属性である。価値は、この意味では、必然的に交換を含んでいるが、富はそうではない(29)。」「富(使用価値)は人間の属性であり、価値は諸商品の属性である。人間や共同体は富んでいる。真珠やダイヤモンドには価値がある。……真珠やダイヤモンドには、真珠やダイヤモンドとして価値があるのだ(30)。」真珠やダイヤモソドのなかに交換価値を発見した化学者はまだ一人もいない。ところが、特に批判的な深慮を自称するわれわれの著者たちは、諸物の使用価値はそれらの物的な諸属性にはかかわりがないのに、それらの交換価値は物としてのそれらにそなわっている、ということを見いだすのである。ここで彼らの見解を裏づけるものは、諸物の使用価値は人間たちにとって交換なしに、したがって物と人間との直接的関係において、実現されるが、諸物の価値は逆にただ交換においてのみ、すなわち一つの社会的な過程におしでのみ、実現される、という奇妙な事情である。ことであの好人物のドッグベリが思い出されないだろうか。彼は番卒のシーコールにこう教えている。「容貌がいいのは境遇のたまものだ、が、読み書きができるのは生まれつきなのだ」と。

 (29) „Values is a property of chings, riches of man. Value, in this sense, necessarily implies Exchanges, riches do not.“(『経済学におけるある種の用語論争の考察。特に価値および需要供給に関連して。ロンドン。1821年』、16ベージ。)

 (30) „。Riches are the attribute of man, value is the attribute of commodities. A man or a commodity is rich, a pearl or a diamond is valuable…A pearl or a diamond is valuable as a pear1 0r diamond.“(S・ベーリ『価値の性質、尺度および諸原因に関する批判的論究』、165ページ。)

 (31) 『考察』の著者やS・ベーリは、リカードに、交換価値を単に相対的なものから或る絶対的なものに転化させた、という罪を負わせている。逆である。リカードは、これらの物、たとえばダイヤモンドや真珠が交換価値としてもっている外観的相対性を、外観の背後に隠されている真の関係に、人間労働の単なる諸表現としてのそれらの物の相対性に、還元したのである。もしリカード派の人々がベーリにたいして大ざっぱに、だが適切にではなく、答えたとすれば、それは、ただ、彼らがリカード自身のもとでは価値と交換価値との内的な関連についてなんの解明も見いださなかったからにすぎないのである。

93. 商品は、使用価値と交換価値との、したがって二つの対立物の、直接的な統一体である。それゆえ、商品は一つの直接的な矛盾である。この矛盾は、商品がこれまでのように分析的に、あるときは使用価値の観点のもとで、あるときは交換価値の観点のもとで、考察されるのではなくて、一つの全体として現実に他の諸商品に関係させられるやいなや、発展せざるをえない。そして、諸商品の相互の現実の関係は、諸商品の交換過程なのである。


 ・・・・以上、 (1) 商品 終わり ・・・