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『資本論』序文 (si006)


『資本論』経済学批判 序文

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  1.  第1版の序文 1867年

「この著作は、1859年に公けにした私の著書『経済学批判』の続きであって、私はここにその第1巻を読者に提供する。・・右の旧著の内容は、この第1巻の第1章に要約されている。旧著の読者は、第1篇の注で、これらの理論の歴史にたいする新たな資料が提供されているのをみられるであろう。

 何事も初めがむずかしい、という諺は、すべての科学にあてはまる。第1章、とくに商品の分析をふくんでいる節の理解は、したがって、最大の障害となるであろう。 そこで価値実体と価値の大きさとの分析をより詳細に論ずるにあたっては、私はこれをできるだけ通俗化することにした。完成した態容(すがた)を貨幣形態に見せている価値形態は、きわめて内容にとぼしく、単純である。ところが、人間精神は2000年以上も昔からこれを解明しようと試みて失敗しているのにお、他方では、これよりはるかに内容豊かな、そして複雑な諸形態の分析が、少なくとも近似的には成功しているというわけである。なぜだろうか?でき上がった生体を研究するのは、生体細胞を研究するよりやさしいからである。そのうえに、経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学的試薬も用いるわけにはいかぬ。抽象力 Abstraktionskraft なるものがこの両者に代わらなければならぬ。しかしながら、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態は、経済の細胞形態である。」

 〔*抽象力 Abstraktionskraft
 
 経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学的試薬も用いるわけにはいかぬ。抽象力 Abstraktionskraft なるものがこの両者に代わらなければならぬ。しかしながら、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態は、経済の細胞形態である。

 ① 抽象 Abstraktion「小論理学」§115

 「本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性( Identität mit sich )である。
  この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。

 ② 力 Kraft (c相関Verhältnis)§135-137.

 「§137  力は、自分自身に即して自己へ否定的に関係する全体であるから、自己を自己から反撥し、そして発現するものである。しかしこのような他者への反省、すなわち諸部分の区別は、同様に自己への反省でもあるから、発現は、自己のうちへ帰る力が、それによって力として存在するところの媒介である。力の発現はそれ自身、この相関のうちにあるこつの項の差別の揚棄であり、潜在的に内容をなしている同一性の定立である。力と発現との真理はしたがって、その二つの項が内的なものと外的なものとしてのみ区別されているような相関である。」 〕

「ここでは、個人は、経済的範疇の人格化〔Personifikation ökonomischer Kategorien〕であり、一定の階級関係と階級利害の担い手であるかぎりにおいてのみ、問題となるのである。私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史(的)過程〔naturgeschichtlishen Prozeß〕として理解しようとするものであって、・・・それは、支配階級のうちにおいてすら、現在の社会が硬い結晶体ではなく変化しうるもので、不断の変転の過程をたどっている有機体であるということが、ほのかに感じられはじめているのを示すものである。」    1867年7月25日カール・マルクス

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 2. 第2版の後書 1873年

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  ・方程式の分析
  ・社会的有機体

「私は第1版の読者にたいして、まず第2版中でなされた変更について報告しておこう。目立った変更は、各篇をずっと見渡し易いように分けたことである。追記した注は、みな第2版中と明記しておいた。本文そのものについては、もっとも重要なのは次のようことである。

 第1章第1節で、一切の交換価値が表現される方程式の分析〔Analyse der Gleichungen〕を通じて価値を導き出すことは、科学的にずっと厳密にやっておいた〔wissenschaftlich strenger durchgeführt〕。同じく、第1版で示唆を与えただけにとどまっていた価値実体と社会的に必要なる労働時間による価値の大きさの規定との間の関連は、はっきりと強調しておいた。第1章第3節(価値形態)は全部書き改めた。・・・― 第1章の最期の節「商品の物神的性格云々」大部分書き改めた。第3章第1節(価値の尺度)には綿密な訂正を加えた。」

「かの筆者(I・I・カウフマン)は私の方法の唯物論的基礎を論じた『経済学批判』の序文から引用をなしたあとで、こう続けている。
 「マルクスにとっては、ただ一つのことだけが重要である。すなわち彼が研究に 従事している諸現象の法則を発見すること、これである。そして彼には、これらの現象が完成した形態をとり、与えられた期間に観察されるような一つの関連に立っているかぎり、これを支配する法則が重要であるばかりでない。彼にとっては、なおとくに、その変化、その発展の法則、すなわち一つの形態から他のそれへの移行、関連の一定の秩序から他のそれへの移行ということが、重要なのである。ひとたび彼がこの法則を発見したとなると、彼は詳細に諸結果を研究する。法則はこの結果となって、社会生活の中に現れるのである。・・・マルクスは、社会の運動を自然史(的)過程として考察する。・・・あらゆる歴史時代はその固有の法則をもっている。・・・人の世は、与えられた発展期間を生き終わり、ある与えられた段階から他のそれに移行すると、また他の諸法則によって支配されはじめる。要するに、経済生活は、われわれにとって、生物学の他の諸領域における発展史に似た現象を示す。・・・
現象をより深く分析してみると、社会的有機体〔soziale Organismen〕は、お互いに、植物有機体や動物有機体〔Pflanzen-und Tierorganismen〕のちがいと同様に、根本的にちがっているということが証明された。・・・
否、一つの同じ現象が、全くちがった諸法則の支配に服するのであって、それは、かの有機体の全構造がちがっている結果であり、またその個々の器官のちがい、さらにそれらの諸器官の機能する諸条件がちがっている結果なのである、等々。・・・

 このような探究の科学的価値は、ある与えられた社会的有機体〔gesellschaftlichen Organismus〕の成立・存続・発展・死滅と、この有機体の他のより高いそれによる代替等のことを規制する特別の法則が明瞭にされるところにある。そして事実、マルクスのこの書はこのような価値をもっている。」

 私の弁証法的方法は、その根本において、ヘーゲルの方法とちがっているのみならず、その正反対である。・・・しかし、ちょうど私が『資本論』第1巻の述作をつづけていた時には、いま教養あるドイツで大言壮語しているあの厭わしい不遜な凡庸の亜流が、誇り顔に、レッシングの時代に勇ましいモーゼス・メンデルスゾーンがかのスピノザを取り扱ったようにすなわち、「死せる犬」として、ヘーゲルを取り扱っていた。したがって私は、公然と、かの偉大な思想家の弟子であることを告白した。

 そして価値理論にかんする章の諸所で、ヘーゲルに特有の表現法を取ってみたりした。弁証法は、ヘーゲルの手で神秘化されはしたが、しかし、そのことは、決して、彼がその一般的な運動諸形態を、まず包括的に意識的な仕方で証明したのだということを妨げるものではない。弁証法は彼において頭で立っている。神秘的な殻につつまれている合理的な中核を見出すためには、これをひっくり返さなければならない。・・・」           1873年1月24日カール・マルクス


 3. フランス語版にたいする序文と後書  1872年


「すなわち、私が用いた分析の方法は、まだ経済上の問題に適用されたことのなかったものであって、初めての諸章を読むのはかなりむずかしいのです。それでこういうおそれがありましょう。すなわち、フランスの読者は、結末を知るのにいつも気をあせり、一般原則と自分たちの現に心を奪われている問題との関連を識るに急であるために、つづけて読むのを厭うようになるであろうということです。というのは、彼らにすぐ最初のところで一切がわかるというわけではないのですから。・・・
真理を求めている読者に心の準備をさせておくほかありません。学問には坦々たる大道はありません。そしてただ、学問の急峻な山路をよじ登るのに疲労こんぱいをいとわない者だけが、輝かしい絶頂をきわめる希望をもつのです。」   
1872年3月18日カール・マルクス

エンゲルス 『経済学批判』について 1859年

 〔 科学はどのように取り扱われるべきか 〕

 〔■ヘーゲルからマルクスへ〕

 「マルクスは、ヘーゲルの論理学の皮をむいて、この領域におけるヘーゲルの真の諸発見を包有している核をとりだし、かつ弁証法的方法からその観念論的外被をはぎとって、それを思想の展開の唯一のただしい形態となる簡明は姿につくりあげる、という仕事をひきうけえた唯一の人であったし、また唯一の人である。マルクスの経済学批判の基礎によこたわる方法の完成を、われわれはその意義においてほとんど唯物論的根本見解におとらない成果であると考える。・・・

 この方法ではわれわれは、歴史的に、事実上われわれのまえにある最初の、そしてもっとも単純な関係から、したがっていまのばあいには、われわれのみいだす最初の経済的関係から出発する。この関係をわれわれは分析する。それが一つの関係であるということのうちに、すでに、それが相互に関係しあう二つの側面をもつということが含まれている。これらの側面のそれぞれは、それ自体として考察される。そこから、それらがたがいに関係しあう仕方、それらの交互作用があらわれる。解決を要求する諸矛盾が生じるであろう。だがわれわれがここで考察するのは、われわれの頭のなかだけで生じる抽象的な思考過程ではなくて、いつのときにか実際に生じた、あるいはいまなお生じつつある現実の事象であるから、これらの矛盾もまた実際に発展して、おそらくその解決を見出しているであろう。われわれはこの解決のしかたを追求しよう。そうすれば、それが一つのあたらしい関係の相対立する二つの側面を、いまやわれわれが説明しなければならないことなどが、わかるであろう。

 〔■人と人との関係が物と物の関係として現われる〕

 経済学は商品をもって、すなわち、諸生産物―それが個々人のものであれ、原生的共同体のものであれ―が相互に交換されるのを契機としてはじまる。交換にはいりこむ生産物は商品である。だが生産物が商品であるのは、ただ、生産物という物に、二人の人間または二つの共同体のあいだの関係が、このばあいはもはや同一個人のなかに結合されていない生産物と消費者のあいだの関係が、結びつくからである。・・・
 経済学は物をとりあつかうのではなく、人と人との関係を、究極においては階級と階級とのあいだの関係をとりあつかうのである。だがこれらの関係は、つねに物にむすびつけられ、物としてあらわれる。
 さてわれわれが、商品を、しかも二つの原始的共同体間の原生的な物々交換においてかろうじて発展したばかりの商品ではなく、完全に発展しつくした商品を、そのことなる側面について考察するならば、それはわれわれに、使用価値と交換価値という二つの観点のもとにあらわれる。そしてここでわれわれは、ただちに経済学上の論争の領域にはいりこむのである。・・・・」