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価値形態 と形式 Form の二重性(1)~(3)

si050

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論点解題2022.08.28

 価値形態 Wertform と形式 Form の二重性(1)~(3)
              概要 2018.10.23 更新:2022.08.28




 ◆ 価値形態 Wertform と形式 Form の二重性(1)


「a 相対的価値形態の内実」の研究Gehalt(意義)、翻訳語を分かり易くすると・・・
  ・古典派とマルクス自身の分析
  ・商品価値は等価表現によって、価値物として形態形成されてくる>価値の形態化
  ・人間労働の凝結物としての商品価値は、“対象性”(関係概念が実在すること)で表現される
〔 4 古典派経済学価値分析の意義 〕
 * 価値としては、商品は人間労働の単なる凝結物(bloße Gallerten)であると、われわれ〔マルクスの時代の人々や古典派の人々〕がいうとすれば、われわれの分析は、これらの商品を価値抽象〔Wertabstraktion(*注8)〕に整約するのではあるが、これらの商品に、その自然形態とちがった価値形態 〔Wertform : 価値の形式〕を与えるものではない。〔価値関係における価値の形式についての分析の欠如のこと〕
 (*注8) この場合の「抽象」とは、ヘーゲル『小論理学』 A 現存在の根拠としての本質(Das Wesen als Grund der Existenz) §115 「抽象 Abstraktion とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。」(岩波文庫(下)p.18)
〔 5 マルクス自身による価値の分析によれば、〕
 * 一商品の他のそれにたいする価値関係においては、ことはちがってくる。その価値性格は、この場合には、それ自身の他の商品にたいする関係によって現われてくる。〔価値関係を分析することによって、一商品の価値性格が出現してくる〕




  ◆  価値形態 Wertform と形式 Form の二重性(2)

商品の価値対象性 序論 >第1章『資本論』のヘーゲル論理学について
  ・『資本論』第1章は、ヘーゲル論理学にそって展開している
  ・価値の「形式Form」と「機能Funktion」について -対象的性格として反映する-
  ・「A.(1)形態と(2)形式」の区別と移行について―形態・形式Formの2重性の根源
  ・エンチュクロペディ』 B特殊な個体性の物理学 §290~291>形式規定 Formbestimmung
 * ヘーゲルの『小論理学』を読んだ経験のある方は、お気づきのことと思いますが、第1部有論(Sein:存在)は、第2部本質論、第3部概念論を通して、Seinと実体論の展開となっているのです。ちょうど『資本論』第1章商品の成素形態 Elementarform と「人間労働の実体」が展開してゆく構図であり、論理構造となっています。したがって第1章「商品」論(価値論)が、「労働生産物の商品形態または商品の価値形態は、経済の細胞形態である」(『資本論』第1版序文)順序建てとして理解してゆくことになります。
 * また、『小論理学』第3部概念論では、概念そのものの3つのモメント(163節)-普遍Allgemeinheit、特殊 Besonderheit、個(個別) Einzelnheitとして、相互に相関関係を形成し、構造づけられています。しかしながら、『資本論』の価値形態論(第3節)ではそれぞれ「一般的等価形態allgemeine Äquivalentform p.124」「besonderer特別な等価besonderer Äquivalente p.124」「einzelne個々の p.114、einzelne個別的な等価einzelnen Äquivalent p.123」と翻訳されています。このように「allgemeine」を「一般的」と訳してしまうと、ヘーゲル論理学との弁証法的関連-普遍・特殊・個別の整合性と同義性(同じ意義)-が断ち切られてしまう恐れがあります。



  ◆ 価値形態 Wertform と形式 Form の二重性(3)

 ―第2章商品の価値対象性について―
  ・商品の価値対象性」を考える >使用価値の特別な形態に無関心ということ
  ・感覚的にして超感覚的な >物の関係の幻影的形態と対象的外観
  ・諸商品の価値対象性と社会的等一性>商品世界-労働の社会的性格は対象的外観として現象する
 * さて、『資本論』の出版状況を嘆いてばかりもいられませんので、思い切った対策を講じました。第1部は、「商品の価値対象性」の『資本論』本文抜粋抄録ですが、ヘーゲル関連個所に*印をつけておきました。ヘーゲルが隠されていますので、探り出しながらまず読んでみてください。その次の第2部では、同じ本文抄録の中に、ドイツ語のキーワードを挿入して、隠されていたヘーゲルが浮上するように工夫してありますが、どうでしょうか?
・・・ヘーゲルを参照することによって、『資本論』第1章全体の継続性が明確となりますので、探索してみてください。
 * もし諸商品が同一の社会的等一性 〔 同一の社会的単位-実体のこと 〕 である人間労働の表現であるということを想い起こして見るならば、おのずから価値対象性が、ただ*商品と商品との社会的関係においてのみ現われうるものであるということも明らかとなる。・・・人間労働の凝結物としての亜麻布価値を表現するためには、それは、亜麻布自身とは物的に相違しているが、同時に他の商品と共通に亜麻布にも存する「対象性」として表現されなければならぬ。
 * 一商品、例えば、亜麻布の価値は、いまでは商品世界の無数の他の成素 〔社会的単位-実体のこと 〕 に表現される。すべての他の商品体は亜麻布価値の反射鏡となる。こうしてこの価値自身は、はじめて真実に無差別な 人間労働の凝結物Gallertとして現われる。なぜかというに、価値を形成する労働は、いまや明瞭に、一切の他の人間労働がそれに等しいと置かれる労働として、表されており、その労働がどんな自然形態をもっていようと、したがって、それが上衣に対象化せられようと、小麦や鉄または金等々に対象化せられようと、これを問わないからである。したがって、いまや亜麻布は、その価値形態によって、もはやただ一つの個々の他の商品種と社会関係にあるだけでなく、商品世界と社会関係に立っているのである。それは、商品としてこの世界の市民なのである。同時に、この市民たる表現の無限の序列の中にあるから、商品価値は、 使用価値が、どんな形態であろうと、その特別な形態にたいして、 無関心であることにもなるわけである。

 * 使用対象が一般に商品となるのは、もっぱらそれが相互に相独立して営まれる私的労働の生産物であるからである。これらの私的労働の複合が社会的総労働をなす。生産者たちは、彼らの労働生産物の交換によって、はじめて社会的接触にはいるのであるから、彼らの私的労働の特殊的に社会的なる性格も、この交換の内部においてはじめて現われる。いい換えると、私的労働は、事実上、交換のために労働生産物が、そしてこれを通じて生産者たちが置かれる諸関係によって、はじめて社会的総労働の構成分子たることを実証する。したがって、生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的連結は、あるがままのものとして現われる。すなわち、彼らの労働自身における人々の直接に社会的な諸関係としてでなく、むしろ人々の物的な諸関係として、また 物の社会的な諸関係として現われるのである。
 * 労働生産物が、価値であるかぎり、その生産に支出された人間労働の、単に物的な表現であるという、後の科学的発見は、人類史上に時期を画するものである。しかし、決して労働の社会的性格の対象的外観をおい払うものではない。この特別なる生産形態、すなわち、商品生産にたいしてのみ行われているもの、すなわち、相互に独立せる私的労働の特殊的に社会的な性格が、人間労働としてのその等一性にあり、そして労働生産物の価値性格の形態をとるということは、かの発見以前においても以後においても、商品生産の諸関係の中に囚われているものにとっては、・・・終局的なものに見えるのである。


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