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『資本論』総論2022.
資本論用語事典2021
ー 等価形態 ー
関連資料
→ 商品の価値関係ー価値表現と価値方程式
商品の物神性論 源流
『資本論』 第1章 商品
第3節 価値形態または交換価値
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
3 等価形態 (抄録)
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資本論用語事典2021
ー 等価形態 ー
価値形態と商品の物神性の秘密
『資本論』 第1章 商品
第3節 価値形態または交換価値
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
3 等価形態 (抄録)
1. われわれはこういうことを知った、すなわち、商品A(亜麻布)が、その価値を異種の商品B(上衣)という使用価値に表現することによって、Aなる商品は、Bなる商品自身にたいして独特な価値形態、すなわち、等価の形態を押しつけるということである。亜麻布商品は、それ自身の価値たることをば、次のことによって現わしてくる、すなわち、自分にたいして上衣が、その肉体形態とことなった価値形態をとることなくして、等しいものとして置かれるということである。このようにして、亜麻布は自分自身価値であることを、実際には上衣が直接に自分と交換しうるものであるということをつうじて、表現するのである。
一商品の等価形態は、それゆえに、この商品の他の商品にたいする直接的な交換可能性の形態である。
2. もし上衣というような一商品種が、亜麻布のような他の商品種にたいして、等価として用いられるとしても、したがって、上衣が亜麻布と直接に交換しうる形態にあるという独特の属性を得るとしても、これによって、決して上衣と亜麻布とが交換されうる割合も、与えられているというわけではない。この割合は、亜麻布の価値の大いさが与えられているから、上衣の価値の大いさにかかっている。
上衣が等価として表現され、亜麻布が相対的価値として表現されるか、それとも逆に亜麻布が等価として表現され、上衣が相対的価値として表現されるか、そのいずれにしても、上衣の価値の大いさが、その生産に必要な労働時間によって、したがって、その価値形態からは独立して決定されているということには、変わりはない。しかし、上衣なる商品種が、価値表現において等価の地位をとることになると、その価値の大いさは、価値の大いさとしての表現をもたなくなる。
その価値の大いさは、価値方程式において、むしろただ一物の一定量として現われるだけである。
3. 例えば、40エレの亜麻布は、一体何に「値する」のか?二着の上衣に。というのは、上衣なる商品種は、ここでは等価の役割を演じているのであり、上衣という使用価値は、亜麻布にたいして価値体とされているのであるから、一定の価値量としての亜麻布を表現するには、一定量の上衣ということで充分である。したがって、二着の上衣は、40エレの亜麻布の価値の大いさを表現することはできるが、決して自分自身の価値の大いさを、すなわち、上衣の価値の大いさを表現することはできないのである。
等価が価値方程式においてつねに一物、すなわち、一使用価値の単に一定量の形態をもっているにすぎないというこの事実を、皮相に理解したことは、ベイリーをその先行者や後続者の多くとともに誤り導いて、価値表現においてただ量的な関係だけを見るようにしてしまった。一商品の等価形態は、むしろなんらの量的価値規定をも含んでいないのである。
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si052 等価形態
4. 等価形態の考察に際して目立つ第一の特性は、このことである、すなわち、使用価値がその反対物の現象形態、すなわち、価値の現象形態となるということである。
5. 商品の自然形態が価値形態となる。しかしながら、注意すべきことは、このquid pro quo〔とりちがえ〕は、商品B(上衣または小麦または鉄等々)にとっては、ただ他の適宜(てきぎ)な商品A(亜麻布等々)が自分にたいしてとる価値関係の内部においてのみ、すなわち、この関連の内部においてのみ起こるということなのである。いかなる商品も、自分自身にたいして等価として関係することはなく、したがってまた、自分自身の自然の皮膚を、自分自身の価値の表現となすことは出来ないのであるから、このような商品は、他の商品を等価として、これに関係しなければならぬ。
いいかえれば、他の商品の自然の皮膚を自分自身の価値形態にしなければならぬ。
6. このことを明らかにするために、商品体としての、すなわち、使用価値としての商品体に用いられるをつねとする度量衡の例を見よう。一つの砂糖塊は、物体であるから、重い。したがって重量をもっている。しかしながら、人は、砂糖塊をなでてさすっても、その重量を見つけることはできない。そこでわれわれは、あらかじめ重量の定められている種々なる鉄片を取り出すのである。
鉄の物体形態も、砂糖塊のそれも、それだけを見れば、ともに、重さの現象形態ではない。だが、砂糖塊を重さとして表現するためには、われわれは、これを鉄との重量関係におく。この関係においては、鉄は、重さ以外の何ものをも示さない一物体となっている
。
従って、鉄量は砂糖の重量尺度として用いられ、砂糖体にたいして単なる重量態容、すなわち、重さの現象形態を代表する。鉄がこの役割を演ずるのは、ただこの関係の内部においてのみであって、この関係の内部で、砂糖は、あるいは重量を測ろうという他のどんな物体でも、鉄と相対するのである。両物が重さをもっていなければ、これらの物は、この関係にはいりえないであろうし、したがって、一物は他物の重量の表現として役立つことはできないであろう。われわれは、両者を秤皿(はかりざら)に投ずるならば、実際にこれらの二物が重さとして同一なるものであり、したがって、一定の割合において同一重量のものでもあるということを知るのである。鉄なる物体が、重量尺度として砂糖塊にたいして、ただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現においては、上衣体は、亜麻布にたいして、ただ価値を代表するだけである。
7. だが、ここで比喩は終わるのである。鉄は砂糖塊の重量表現で、両物体に共通なる自然属性、すなわち、それらの重さを代表したのであるが、――他方の上衣は亜麻布の価値表現において両物の超自然的属性を、すなわち、それらのものの価値を、およそ純粋に社会的なものを、代表しているのである。
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8. 一商品、例えば亜麻布の相対的価値形態は、その価値たることを、何かその物体と物体の属性とから全く区別されたものとして、例えば、上衣に等しいものとして、表現しているのであるが、この表現自身が、一つの社会関係を内にかくしていることを示唆している。等価形態では逆になる。等価形態であるゆえんは、まさに、一商品体、例えば上衣が、あるがままのものとして価値を表現し、したがって、自然のままのものとして、価値形態をもっているということの中にあるのである。このことは、もちろんただ亜麻布商品が、等価としての上衣商品にたいして関係させられた価値関係の内部においてだけ、妥当することなのである。 しかし、一物の属性は、他物にたいするその関係から発生するのではなくて、むしろこのような関係においてただ実証されるだけのものであるから、上衣もその等価形態を、すなわち、直接的な交換可能性というその属性を、同じように天然にもっているかのように、それはちょうど、重いとか温いとかいう属性と同じもののように見える。
このことから等価形態の謎が生まれるのであって、それは、この形態が完成した形で貨幣となって、経済学者に相対するようになると、はじめてブルジョア的に粗雑(そざつ)な彼の眼を驚かすようになる。そうなると彼は、金や銀の神秘的な性格を明らかにしようとして、これらのものを光り輝くことのもっと少ない商品にすりかえて、いつもたのしげに、すべて下賤な商品で、その時々に商品等価の役割を演じたものの目録を、述べ立てるのである。彼は、亜麻布20エレ=上衣1着というようなもっとも簡単な価値表現が、すでに等価形態の謎を解くようにあたえられていることを、想像してもみないのである。
9. 等価のつとめをしている商品の物体は、つねに抽象的に人間的な労働の体現として働いており、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。したがって、この具体的労働は、抽象的に人間的な労働の表現となる。例えば、上衣が、抽象的に人間的な労働の単なる実現となっているとすれば、実際に上衣に実現されている裁縫が、抽象的に人間的な労働の単なる実現形態として働いているわけになる。亜麻布の価値表現においては、裁縫の有用性は、裁縫が衣服をつくり、したがってまた人をもつくる〔ドイツには「着物は人をつくる」という諺がある。訳者〕ということにあるのでなく、次のような一つの物体をつくるところにあるのである。
すなわちこの物体にたいして、人は、それが価値であるという風に、したがって、亜麻布価値に対象化されている労働から少しも区別されない、労働の凝結物(ぎょうけつぶつ)であるというように、みなしてしまうのである。このような一つの価値鏡を作るために、裁縫自身は、人間労働であるというその抽象的な属性以外には、何ものをも反映してはならない。
10. 裁縫の形態でも、機織の形態でも、人間労働力は支出されるのである。したがって、両者は、人間労働の一般的な属性をもっている。そしてこのために一定のばあいには、例えば、価値生産においては、ただこの観点からだけ考察すればいいのである。すべてこれらのことは、神秘的なことではない。しかし、商品の価値表現においては、事柄は歪(ゆが)められる。
例えば、機織が機織としての具体的な形態においてではなく、人間労働としてのその一般的な属性おいて、亜麻布価値を形成するということを表現するために、機織にたいして、裁縫が、すなわち亜麻布等価物を作りだす具体的労働が、抽象的に人間的な労働の摑(つか)みうべき実現形態として、対置されるのである。
11. それゆえに、具体的労働がその反対物、すなわち、抽象的に人間的な労働の現象形態となるということは、等価形態の第二の特性である。
12. しかしながら、この具体的労働、すなわち裁縫は、無差別な人間労働の単なる表現として働くことによって、他の労働、すなわち、亜麻布にひそんでいる労働と等一性の形態をもち、したがって、他の一切の商品生産労働と同じように私的労働ではあるが、しかし直接に社会的な形態における労働である。まさにこのために、この労働は、直接に他の商品と交換しうる一つの生産物に表わされている。このように、私的労働がその反対物の形態、すなわち、直接に社会的な形態における労働となるということは、等価形態の第三の特性である。
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si052 等価形態
13. 最後に述べた等価形態の二つの特性は、価値形態、ならびにきわめて多くの思惟形態、社会形態および自然形態を、最初に分析した偉大なる探求者にさかのぼって見るとき、もっと解りやすくなる。それはアリストテレスである。
14. 商品の貨幣形態が、単純なる価値形態、すなわち、なんらか任意の他の商品における一商品の価値の表現のさらに発展した姿にすぎないということを、アリストテレスは最初に明言している。というのは彼はこう述べているからである。
「しとね〔寝台〕5個=家1軒」 ということは
「しとね〔寝台〕5個=貨幣-定額」 ということと「少しも区別はない」と。
15. 彼はさらにこういうことを看取している。この価値表現をひそませている価値関係は、それ自身として、家がしとねに質的に等しいとおかれるということと、これらの感覚的にちがった物が、このような本質の等一性なくしては、通約しうる大いさとして相互に関係しえないであろうということとを、条件にしているというのである。彼はこう述べている。「交換は等一性なくしては存しえない。だが、等一性は通約し得べき性質なくしては存しえない」と。しかし、彼はここで立ちどまって、価値形態を、それ以上分析することをやめている。
「しかしながら、このように種類のちがった物が通約できるということ」、すなわち、質的に同一であるということは「真実には不可能である」。この等置は、物の真の性質に無関係なものでしかありえない、したがって、ただ「実際的必要にたいする緊急措置」でしかありえないと。
16. アリストテレスは、このようにして、どこで彼のそれ以上の分析が失敗しているかということについてすら、すなわち、価値概念の欠如(けつじょ)についてすら、述べているわけである。等一なるものは何か?すなわち、しとね〔寝台〕の価値表現において、家がしとね〔寝台〕に対していいあらわしている共通の実体は何か?そんなものは「真実には存しえない」と、アリストテレスは述べている。
なぜか?家はしとね〔寝台〕にたいしてある等一物をいいあらわしている、家が、しとね〔寝台〕と家という二つの物で現実に同一なるものをいいあらわしているかぎりにおいて。そしてこれが――人間労働なのである。
17. しかしながら、商品価値の形態においては、すべての労働が等一なる人間労働として、したがって等一的に作用しているものとして表現されているということを、アリストテレスは、価値形態自身から読み取ることができなかった。というのは、ギリシア社会は奴隷労働にもとづいており、したがって、人間とその労働力の不等を自然的基礎としていたのであるからである。価値表現の秘密、すなわち一切の労働が等しく、また等しいと置かれるということは、一切の労働が人間労働一般であるから、そしてまたそうあるかぎりにおいてのみ、言えることであって、だから、人間は等しいという概念が、すでに一つの強固な国民的成心となるようになって、はじめて解きうべきものとなるのである。しかしながら、このことは、商品形態が労働生産物の一般的形態であり、しがってまた商品所有者としての人間相互の関係が、支配的な社会的関係であるような社会になって、はじめて可能である。
アリストテレスの天才は、まさに彼が商品の価値表現において、等一関係を発見しているということに輝いている。 ただ彼の生活していた社会の歴史的限界が、妨げとなって、一体「真実には」この等一関係は、どこにあるかを見いだせなかったのである。
・・・3 等価形態 終わり ・・・
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資本論ワールド編集部 はじめに
*『資本論』に登場する“商品種 Warenart”の翻訳に対して、向坂訳以外は、“-art (Art:生物の種) ”に対して岡崎訳をはじめとして「種類-商品種類」と翻訳しています。この翻訳語の違いは、『資本論』と“どのように向き合う”という姿勢の違いが顕著に現われています。ここにも、西洋文化に対する「認識の差異」あるいは「無意識的欠如の発露」とでも言える現象が、翻訳家個人個人の深層心理に根差しています。古代ギリシャは、考えられているよりも、ずっと存在の彼方だったのです。・・・
今回紹介する二つの『西洋哲学史』は、古典的な名著として定評のある書物です。
シュヴェーグラー著『西洋哲学史』 (岩波書店上巻 1939年発行)と今道友信著『西洋哲学史』 (講談社 1987年発行)
いずれも大変読みごたえがあり、西洋の伝統的思考方法を学ぶうえで、必須のテキストといえます。とくに、古代ギリシャ時代-アリストテレスの論理と思想は、中世から近代にわたって、西洋人の科学的思考の枠組みに根底的に、決定的な影響を及ぼしています。ヘーゲルはもとより、マルクスにおいてもこれら西洋科学の思考形式を継承し発展させながら『資本論』の叙述を行っています。『資本論』の科学史ハンドブック2019-1の中心テーマである「成素形態Elementarform」の「form」の語源とも直接に結びつく大変重要な論点です。
さて、『資本論』の科学史ハンドブック2019に先立って、中核的な「形相と質料(形式と素材)」を中心に探求してゆきます。まずは最初に、今道氏のテキストから「形相エイドス」を研究します。古典ギリシャの「形相」は、私たちが『資本論』で理解している「形態/Form」や「形式/Form」の語源的な源流であり、マルクスの用語法の“背骨”を形成していますので、日本文化の代表的な作品として先に探索してゆきます。
次に、ヘーゲルの後継者であり、世界的なベストセラーであるシュヴェーグラーの「四原理-形相と質料」そして「デュナミス(dynamis〔可能態〕)とエネルゲイア(energeia〔現実態〕)」を探求します。
今回は、二つの『西洋哲学史』の当該箇所の紹介し、次回に『資本論』の関連個所と比較対照しながら分析をーマルクスの「経済学の方法」とともに行いますので、よろしくご検討ください。(〔〕の中見出しと段落分けの数字は、編集部による。)
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第1章 アリストテレスの「形相エイドス」について
-今道友信『西洋哲学史』- 講談社 1987年発行
〔第1節〕 アリストテレースの形相とは… (『西洋哲学史』 74ページ)
1. こういうソークラテースやプラトーンの伝統を継いでアリストテレースという人が出ました。先ほどプラトーンの年代をいうのを忘れました。ソークラテースは死んだ年だけがはっきりしていると申しましたが、これは前にもふれましたように、紀元前399年に死にました。 フラトーンは紀元前427から347年まで生きた人です。アリストテレスは、これから述べますが、紀元前384年から322年まで生きた人です。お互いが約40年の差で続いています。アリストテレースは東洋の大哲学者シナの荘周〔荘子〕と同時代者です。
このアリストテレースは、プラトーンが考えて、神の創造の原型であるとしたイデア、それから、道徳をはじめ価値の理念的極点としてのイデア、精神の目でみなければならない支配的な法則としてのイデアという考え方に対して、現代的なわかりやすい考え方でエイドスを説明しました。これはイデアと同義ですが、彼はこれを好みました。
アリストテレースは18歳のときにプラトーンに弟子入りをしたものですから、プラトーンにならってイデアとかエイドス(εἰδoς)という語を使いますが、後者のほうが多い。形相(エイドス)とは、手っ取り早く申しますと、生物の種(類種関係の種)だといってよろしい。エイドスとは、それゆえ、個物に内在して内的規定原理であるということになります。
2. たとえばアリストテレースは、有名な言葉、「アントローポス・アントローポン・ゲンナイ」と書きました。これはギリシア語で「人は人を生む」ということです。アントロポスというのは「人」という意味ですが、皆さまこのごろ人類学とか人間学とかいう言葉をお聞きになるでしょうが、文化人類学というときの人類学はアンソロポロジーと申します。アンソロポロジーというのはアントロポスからくる言葉です。哲学では、同じアンソロポロジーというのを人間学といっておりますが、それもアントロポス(人)のロゴス(論理)ということです。
それはともかく、アリストテレースの言葉に戻りましょう。単語の意味がわかると覚えやすくなりましたでしょう。もういちどくり返しますと、「アントローポス・アントローポン・ゲンナイ(人は人を生む)」とアリストテレースはいっております。
これはどういう意味かと申しますと、生物の種別は厳格で、定められた種〔「種」のドイツ語はArt、ラテン語で genusですが、 ギリシャ語は形相と同じ、「エイドス είδος : eidos 」〕しか生まない、ということです。犬は犬を生み、猫は猫を生む。それはなぜかといえば、みえざるある原理としてのエイドスが個体内にあって、それが誕生を通じて生物界を支配している。自然界の大きな現象である生殖の秘密を握っているものとして、生物の種があって、それはそれぞれの個体に内在し、そのかぎりにおいて自然の世界のなかにおける動きを支配しつづけている。それから考えつくものに、成立しているあらゆる事物について、それの設計図のようなものとしての形相(エイドス)がありはしないか、という問いがあります。
たとえば大工が家を建築するというときに、あるタイプの設計図ができて、そのタイプに従って同じ形ではあるが、それぞれ違った家をどんどんつくってゆく。形相は同じでも一つ一つ別の家族の住んでいる違った家ができてゆく。そういうことを考えると、形相というのは設計図のようなもので種別の原理であると考えることができ、個別化の原理は物質のほうにあることになります。こうして、生物の種とか事物の設計図というような形で、アリストテレースはエイドス、すなわち形相という存在者をわれわれにわからせるように語りかけました。
〔第2節〕 精神で本当のことを見ようとする努力
3. この形相が設計図であるというのであれば、図面になって外在的なものか、というとそうではない。図面がなくても、つくる人の頭のなかに明瞭に見取図があればそれでよいわけで、それを外化すれば設計図になる、というものです。
設計図というのは頭のなかにある精神の目でみたものを紙の上に書くのですから、設計図がではなく、設計図のもととなる構想が形相だと考えなければならない。そうすると、一言でいうならば、ソークラテース、プラトーン、アリストテレースという、三人のギリシアを代表する哲学者たちは、ちょうど多くの人びとが、縄を使って土地を測っていたときに、夕レースがその縄を于がかりにして、実際の目にはみえない直線を考えていったように、つまり長さだけがあって、幅も大きさもない純粋幾何学的な直線を考えてゆくことができたように、実際の現象を手がかりにして、じつは現象を支配するみえざる世界を考えようとしたということ、多少の違いはあるが、現象を支配するみえざる形相をみつけようとした点では同じになります。そして、それが哲学の原型だといってよろしいと思います。そういう意味においては、ギリシアの哲人たちは、哲学の原型(Urtypus)をこしらえる努力をしていった人たちなのでございます。 ・・・略・・・
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第2章 シュヴェーグラーによる「アリストテレスの哲学」
- シュヴェーグラー『西洋哲学史』 上巻 岩波書店 1939年発行より
資本論ワールド編集部 はじめに
マルクスが古代ギリシャの巨人たちの末裔であり、『資本論』には度々アリストテレスが登場してきます。『資本論』の精華である商品と貨幣の「価値形態」に見られるアリストテレスの分析事例は、古典ギリシャ時代の到達点が示されています。
★デュナミス(dynamis 可能態〕)とエネルゲイア(energeia 現実態)
「貨幣形態という概念の困難は、一般的等価形態の、したがって、一般的価値形態なるものの、すなわち、第三形態の理解に限られている。第三形態は、関係を逆にして第二形態に、すなわち、拡大された価値形態に解消する。そしてその構成的要素konstituierendes Elementは第一形態である。すなわち、亜麻布20エレ=上衣1着 または A商品x量=B商品y量 である。したがって、単純なる商品形態〔A商品x量=B商品y量〕は貨幣形態の萌芽〔Keim:胚芽〕である。」(『資本論』第1章商品 岩波文庫 p.129)
〔第1節 アリストテレスの「形相と質料」について〕
〔プラトンのイデア〕
1. プラトンでは個物とイデアとの関係が全く曖昧である。かれはイデアを原型と呼び、事物はイデアを分有する(metechein)とする。しかしこれは空虚な詩的比喩にすぎない。超越的な典型の「分有」、模写とは一体どう考えたらよいのか。プラトンにはこの点についてもっと立ちいっか説明は少しもない。質料がいかにしてまたなぜイデアを分有するかはまったくわからない。これを説明するには、事物の「分有」の原因を含んでいるような、もっと高い原理をイデアに認めなければならないであろう。というのは、動かすものなしには「分有」の根拠は理解できないからである。とにかくイデア(例えば人間のイデア)と現象(例えば個々の人々)との上に、両者を合一する第三のもの、共通のものがなければならないであろう。すなわち、アリストテレスが慣用している非難の言葉を用いれば、イデア説は「第三の人間」(tritos anthrōpos)の想定に導くのである。
〔アリストテレスのイデア説批判〕
2. ―このようにイデア説を批判した結果アリストテレスがどうしているかと言えば、かれは普遍が個物のうちに内在するものとしている。個物の本質としての普遍を見出して概念的定義を与えようとしたソクラテスの方法は、普遍的なものなしには学は不可能なのだから、きわめて正しかったのであるが、といつてこの普遍的概念を独立させて実在する個別的実体にまで高めあげたプラトンの学説は誤っている。普遍的なものである種や類は、けっして個物以外に個物から離れて存在しはしない。事物とその概念とは互に分離して存在することのできないものである。
このように言っているからといってアリストテレスは、普遍的なものだけが真実在であり個物の本質であるとするプラトンの根本観念からはなれたのではない。かれはむしろそれを、それにつきまとっている抽象性から解放し、それをいっそう密接に現象界と結びつけたのである。かれの根本前提は、一見師の説に反するように見えるが、プラトンのそれと同一であってかれもまた概念のうちに事物の本質(to ti estin, to ti ēn einai)が認識され表現されるとしているのである。ただかれは普遍的なもの、概念が、形相と質料とが不可分であるように、特定の現象から不可分であると考えている。かれによれば、もっとも本来の意味での本質すなわち実体(ousia ウーシア)とは、他のものについて述べられず、他のものがそれについて述べられるものだけである。すなわち「このもの」(tode ti)、個別的存在、個物であって、普遍ではないのである。
〔 アリストテレスの四原理あるいは四原因、および形相と質料との関係〕
3. プラトンのイデア説の批判から直接に、アリストテレスの体系の枢軸をなしている、質料(hylē ヒュレー:素材、材料)および形相(eidos エイドス)という二つの根本規定が生れてくる。アリストテレスは、完全を期するばあい、概して形而上学的原理(archē)あるいは原因を四つ挙げている。質料、形相、運動因(to dia ti)、目的(to telos, to hou heneka)がこれである。家屋を例にとれば、質料は木材であり、形相は家屋の概念、運動の原因は建築師、目的は現実の家屋である。しかしながら、すべての存在の以上四つの根本規定は、つきつめて見れば質料と形相との対立に還元される。第一に運動因という概念は、二つの観念的原理である形相因および目的囚と合致する。すなわち、運動因は完成されていない現実態すなわち可能的存在(dynamei einai)を現実態あるいは完全現実態(energeia, entelecheia)へ、質料を形相へともたらすものである。しかし、不完全なものが完全なものへ向って運動するばあいには、必ず完全なものが概念上この運動に先だっており、その概念的動機をなしている。したがって質料の運動因は形相である。
人間を生みだす運動因は人間であり、彫刻家の芸術的直観のうちにある彫像の形相は、彫像を作りだす運動の原因である。また、健康はそれが快癒の運動因となる以前に、医者の観念のうちにあるのである。したがって、健康は或る意味において医術のはたらきをし、家屋の形相は建築術のはたらきをする。しかし同様に、あらゆる生成と運動との動機は目的であるから、運動因すなわち第一原因は、目的因すなわち究極原因と同一である。家屋の運動因は建築師であるが、建築師の運動因は実現さるべき目的である家屋である。この例を見てもわかるように、形相および目的という根本規定も、両者がエネルゲイアすなわち現実態という概念のうちで結びつきあうかぎりでは、合致する。というのは、すべての物の目的は、その完成された存在である概念、すなわち形相であり、事物のうちに可能的に含まれているものを開示して完全な現実態へもたらすことにあるからである。手の目的は手の概念であり、種子の目的は、同時にその本質でもあるところの木である。このように見てくると、われわれに残るものは、互に他のうちへ還元されない二つの根本規定、質料と形相である。
〔自然物は現実に到達した“可能的なもの”〕
4. アリストテレスによれば、質料とは、形相を捨象して考えられるばあい、まったく述語をもたず無規定で区別のないものである。それはすべての生成の根柢に常に存在しており、まったく反対の形相をさえ受けいれるが、それ自身としてはすべての生成したものとは異なっており、少しも特定の形相をもたない。それは何にでもなりうるものであるが、現実的には何でもないものである。椅子にたいして木材があり、彫像にたいして青銅があるように、すべて規定されたものの根抵には第一質料がある、とアリストテレスは考える。そしてこの質料という概念によって、存在するものは存在するものからも存在しないものからも生ずることができないのに、一般に或るものがどうして生成することができるかという、多くの論議をまねいた難問を解決したと考えているのである。というのは、或るものは絶対の非有からではなく、ただ現実には存在しないもの、すなわち能力から言えば存在するものから生ずるのだからである。可能的存在は、非有でもなく現実でもない。すべて現存している自然物は、現実へ到達した可能的なものである。質料はしたがってアリストテレスにあっては、質料をまったくの非有としたプラトンにおけるよりも、はるかに積極的な基体である。アリストテレスが質料を形相に対立させて、積極的な消極、形相に対立するものと考え、積極的な否定(sterēsis)と名づけることができたのも、ここから説明される。
〔質料から形相への不断の移行〕
5. 質料がデュナミスと一致するように、形相はエネルゲイアと一致する。区別なく規定のない質料を、区別あるもの「このもの」(tde ti)、現実的なものとするのは形相である。それはあらゆる事物に特有の能力、完成された活動、魂である。したがってアリストテレスが形相と呼んでいるものを、われわれの言う型(Façon)のようなものと混同してはならない。例えば、切断された手もなお手の外形をもってはいるか、アリストテレス的に考えれば、これは手の質料にすぎず、手の形相ではない。現実の手すなわち形相としての手とは、手に特有の働きをなしうるものである。純粋な形相とは、質料をもたぬ本質(to ti ēn einai)、純粋な概念である。しかしこのような純粋な形相は、限定されている存在の世界には見出されず、限定されている存在、個別的実体(ousia)、「このもの」は、すべて質料と形相とから合成されたもの、シュノロン(synolon)である。したがって、存在するものが純粋な形相、純粋な概念であることをさまたげるのは質料である。質料は生成、多、多様、および偶然の原因であり、同時に学を限界づけるものである。なぜなら、個物は質料を含む程度に応じて認識できないものだからである。
しかし、以上述べたことから、質料と形相との対立は固定したものでないこと、或る関係において質料であるものも他の関係においては形相であることがわかる。材木はできあがった家屋にたいしては質料であるが、切られない木にたいしては形相である。魂は肉体にたいしては形相であるが、形相の形相(eidos eidous)である理性〔ヌース〕にたいしては質料である。このような見地からすれば、存在全体は一般に、少しも形相を含まぬ第一質料(prōtē hylē)を最下段とし、少しも質料を含まず純粋な形相である究極の形相(絶対的、神的な精神)を頂点とする、一つの段階をなしているはずである。そして両端の間にあるものは、或る観点からすれば質料であり、他の観点からすれば形相であって、言いかえれば、質料から形相への不断の移行である。
全自然は質料が永遠に段階的に形相となることであり、この尽きぬ根源が次第により高い観念的形成物へ発展することである―これが特にアリストテレスの自然観の根柢にある見地、まず分析的な自然観察によつて見出された見地である。もちろん、すべての質料が形相となり、すべてのデュナミスがエネルゲイアに、すべての存在が知識になるということは、実現されえぬ理性の要求であり、すべての生成の目標である。なぜ実現できぬかと言えば、アリストテレスがはっきり言っているように、質料は形相の欠如であるから、決して完全にエネルゲイアに達することはなく、したがってまた完全に認識されることはないからである。これを見れば、アリストテレスの体系も結局質料と形相との二元論を克服していないのである。 |
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〔第3章 デュナミス(dynamis〔可能態〕)とエネルゲイア(energeia〔現実態〕)〕
6. 質料と形相との関係は、これを論理的に理解すれば、デュナミスとエネルゲイアとの関係であることがわかった。デュナミスとエネルゲイアという言葉は、哲学的意味においては、アリストテレスがはじめて創ったものであって、アリストテレスの体系の特性をもっともよく示している。可能的に存在するものが現実的に存在するものになるということのうちには、生成の概念が顕現的に示されているのであって、一般にアリストテレスの四原因は生成の概念をその諸モメントへ分解したものである。したがってアリストテレスの体系は生成の体系であり、エレア学派の原理がプラトンにおいてそうなっているように、アリストテレスにおいてはヘラクレイトスの原理がより豊かにより発展したかたちで復帰しているのである。アリストテレスはこれによってプラトンの二元論を克服する重要な一歩を進めたのである。質料が形相のデュナミスであり、生成しつつある理性であるとすれば、イデアと現象の世界との対立は、少くとも原理的、可能的には克服されている。というのは、質料および形相としてあらわれるものは、ただ発展段階を異にした同じ存在だからである。デュナミスとエネルゲイアとの関係を具体的に説明するに、アリストテレスは、加工されぬものと加工されたもの、建築師と現に建築に従事している者、眠っている人とめざめている人との関係を例にとっている。木のデュナミスは種子であり、エネルゲイアは生長した木である。可能的に哲学者である人は、現に哲学的思索をなしつつある人ではない。可能的な勝利者は、戦場にのぞむ以前にもすぐれた将軍である。
可能的には空間は無限に分割できるものである。一般に、運動、発展、変化、他在の原理をもつもの、妨げられさえしなければ自分自身によって存在するようになるものは、可能的にあるのである。エネルゲイアあるいはエンテレケイアとはこれに反して、完全な行動、到達された目標、完成された現実性であり(例えば、生長した木は種子のエンテレケイア〔実現態〕である)、行為と行為の完成とが合致している活動である。例えば、見ること、考えることについて言えば、われわれは見つつあると同時に見てしまったのであり、考えつつあると同時に考えてしまったのであって、二つのものは同一である。(生成と結びついている活動、例えば学ぶこと、行くこと、健康になることなどにおいては、二つのものは同一でない。)このように形相(すなわちイデア)をエネルゲイアあるいはエンテレケイアとして、すなわち生成の運動と結びつけて理解するのが、アリストテレスの体系がプラトンのそれと異なっている主な点てある。プラトンはイデアを静止したもの、生成と運動とに対立したもの、自立的存在としているが、アリストテレスにあっては、イデアは生成によって永遠に作り出されるものであり、永遠のエネルゲイア、すなわち完全な現実性のうちにある活動であり、アン・ジヒ〔an sich : 自己の即して〕にあるもの(可能的なもの)のフュール・ジヒ〔für sich : 自己が分化して〕にあるもの(現実的なもの)への運動によって不断に到達される目標であって、できあがった存在ではなく、不断に産出される存在である。 ・・・以下、省略・・・
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