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絶対的剰余価値の生産

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『資本論』労働力商品02   2023.08.20

 『資本論』の構図        ー2023.08.20ー

 『資本論』経済学批判から資本の経済学へ
 貨幣の資本への転化
   労働力商品01
 絶対的剰余価値の生産
   労働力商品02
    1.剰余価値の生産ー価値増殖過程
    2.不変資本と可変資本
 相対的剰余価値の生産
   労働力商品03
    3.協業
    4.分業とマニュファクチャ
    5.機械装置と大工業

 
     作業中2023.08.05


労働力商品01
1 資本-貨幣の価値変化G―W―G (G´)
2 価値の源泉-価値創造要因の使用価値-労働力商品
3 労働力の商品化と商品市場
4 労働力の売り手市場-資本の成立条件
5 労働力商品の価値構成と価格
6 労働力商品の使用価値-労働力の消費で剰余価値の生産過程

労働力商品02-絶対的剰余価値の生産2023.08.13
第5章 労働過程と価値増殖過程


   第1節 労働過程

1. 原料
 労働はまず第一に、人間と自然とのあいだの一過程である。労働過程の単純な諸要素
は、目的に合致する活動または労働そのもの、その対象、およびその手段である。労働対象が、それ自体すでにいわば過去の労働によってろ過されているならば、われわれはこれを原料という。一切の原料は、労働対象であるが、労働対象は、すべて原料であるとは限らない。労働対象は、すでにそれが労働によって媒介された変化を受けているときにのみ、原料である。

2.
 労働手段は労働者が自己と労働対象とのあいだに置き、この対象にたいする彼の活動の導体として彼に役立つ物または諸物の複合体である。労働者は、物の機械的、物理的、化学的諸属性を利用して、それらを彼の目的に応じて、他の物におよぽす力の手段として作用させる。労働者が直接に支配する対象は――彼自身の肉体諸器官のみが労働手段として役立つ完成生活手段の獲得、たとえば果実のそれのようなものを別として――労働対象ではなく、労働手段である。かくて自然的なものそれ自体が、彼の活動の器官となる。
聖書の言葉にもかかわらず、彼が自身の肉体諸器官に付加して彼の自然の姿〔「身の丈云々」。マタイ伝、六章二七節。1訳者〕を延長する器官となる。土地は、彼の本源的な生活必要品倉庫であると同様に、彼の労働手段の本源的な武器庫でもある。たとえば、土地は、彼が投げ、擦り、圧し、切りなどするに用いる石を供給する。

 土地そのものが、一つの労働手段ではあるが。しかし農業における労働手段として役立つには、さらに一連の他の労働手段と、すでに比較的高度な労働力の発達とを前提する。一般に労働過程が多少とも発達しているならば。それはすでに加工された労働手段を必要とする。最古の人間の洞窟においても、石製の道具や武器が見出される。加工された石、木、骨、貝殻のほかに、馴らされた、したがってそれ自体すでに労働によって変化された、飼育動物が、人類史の端初において、労働手段としての主要な役割を演じている。労働手段の使用と創造とは、萌芽状態においては、すでにある種の動物にも具わっているが、特殊人間的労働過程を特徴づけるものであり、またそれゆえにフランクリンは人間を „ a toolmaking animal “ すなわち道具を作る動物と定義しているのである。遺骨の構造が、死滅した動物種属のからだつきの認識にたいしてもつのと同じ重要さを、労働手段の遺物は、死滅した経済的社会形式の判定にたいしてもっている。何が作られるかではなく、いかにして、いかなる労働手段をもって作られるかが、経済上の諸時代を区別する。

 労働手段は、人間労働力の発達の測度器であるのみでなく、そのうちで労働が行なわれる社会的諸関係の表示器でもある。労働手段そのもののうちでは、その総体を生産の骨格系統および筋肉系統と名づけうる機械的労働手段は、労働対象の容器としてのみ役立つような、その総体がきわめて一般的に生産の脈管系統と呼ばれうるような労働手段、たとえば管、槽、寵、壷などよりも、はるかに決定的な社会的生産時代の特徴を示す。これらの容器は化学工業において、はじめて重要な役割を演ずるのである。(中略) p13


3.  労働手段と生産手段

 かくして、労働過程において、人間の活動は、あらかじめ企図された労働対象の変化を、労働手段によって生ぜしめる。労働過程は生産物となって消失する。その生産物は一つの使用価値であり、形態変化によって、人間の欲望に適合するものとされた自然素材である。労働はその対象と結合した。労働は対象化され、対象は加工される。労働者の側に不安定な形態において現われたものが、いまや安定的な性質として、存在の形態において、生産物の側に現われる。労働者は紡いだのであり、生産物は紡がれた物である。
 この全過程を、その結果なる生産物の立場から見れば、労働手段と労働対象との二つは、生産手段として、労働そのものは生産的労働として、現われる
ある使用価値が生産物として労働過程から出てくると、以前の労働過程の生産物たる他の使用価値は、生産手段としてそれに入りこむ。この労働の生産物なる同じ使用価値が、かの労働の生産手段をなす。ゆえに、生産物は労働過程の結果であるのみでなく、同時にその条件でもある。(中略)p15

4.
 原料は、生産物の主要実体をなすこともあり、あるいは単に補助材料として、その形成に立入ることもありうる。補助材料は、石炭が蒸気機関によって、油が車輪によって、乾草が輓馬(ばんば・車やそりなどを引かせる馬)によって消費されるように、労働手段によって消費される。または、塩素が未漂白の亜麻布に、石炭が鉄に、染料が羊毛に付加されるように、素材的変化を起こさせるために、原料に付加される。または、たとえば、作業場の照明および採暖のために用いられる素材のように、労働の遂行そのものを助ける。主要材料と補助材料との区別は、本来の化学工業にあっては曖昧になる。充用された諸原料が、いずれも生産物の実体としては再現しないからである。

5. 原料と生産手段
 すべて物には種々の性質があり、したがって種々に利用されうるから、同じ生産物が、きわめて種々の労働過程の原料となりうる。たとえば穀物は、製粉業者、澱粉製造業者、酒造業者、飼畜業者等々にとっての原料である。それは種子としては、それ自身の生産の原料となる。同様に石炭は、生産物として鉱山業から出てくるとともに、生産手段としてそれに入りこむ。


6. ” 使用価値 ” の脱落-転換-生産物の「使用価値の変転」 p.17

 同じ生産物が、同じ労働過程において、労働手段および原料として用いられることもありうる。たとえば、家畜の肥育のぱあいがそうであって、そこでは加工原料たる家畜が、同時に肥料製造の手段である。
 消費のために完成した形態で存在する生産物が、葡萄が葡萄酒の原料となるように、新たに他の生産物の原料ともなりうる。あるいは、労働が、その生産物を、再び原料としてしか使用しえない形態で、手放すこともある。

 この状態にある原料、たとえば綿花、繊維、撚糸等々のようなものは半製品と呼ばれるが、中間製品と呼ぶ方が良いであろう。最初の原料は、それ自身すでに生産物であるにかかわらず、ちがった各過程の全段階を通過せねばならないことがあり、そこでは、それを完成生活手段、または完成労働手段として押出す最後の労働過程に至るまで、つねに変化した姿をもって、たえず新たに原料として機能するのである。

7.
 
要するに、ある " 使用価値 " が原料として現われるか、労働手段として現われるか、それとも生産物として現われるかは、全く労働過程におけるその特定の機能に、労働過程においてそれが占める位置によるのであって、この位置の転換とともに、かの諸規定も変わるのである。

 ゆえに、生産物は、生産手段として新たな労働過程に入ることによって、生産物たる性格を失う。それらはもはや、生きた労働の対象的要素として機能するにすぎない。紡績工は、彼がそれをもって紡ぐ手段としてのみ紡錘を取扱い、彼が紡ぐ対象としてのみ亜麻を取扱う。もちろん、紡績材料および紡錘なくしては紡ぐことはできない。したがって、これらの生産物があるということは、紡績の開始にあたって前提されている。しかし、この過程そのものにおいては、亜麻および紡錘が過去の労働の生産物であるということは問題でなく、それは、パンが農民、製粉業者、製パン業者などの過去の労働の生産物であるということが、栄養という作用においては問題でないのと同様である。反対に、生産手段は、労働過程において、過去の労働の生産物としてのそれらの性格をあらわすようなばあいがあるとすれば、それはそれらの欠陥によってである。切れない小刀、たえず切れる糸、等々は、刃物職のAや蝋引工のEをまざまざと想起させる。優秀な生産物にあっては、その有用性が過去の労働によって媒介されているということは、消え去っているのである。  
8.
 労働過程において用いられない機械は無用である。そのうえに、それは自然的物質代謝の破壊力に侵される。鉄は錆び、木は朽ちる。織られもせず編まれもしない糸は、駄目になった綿花である。生きた労働は、これらの物を捕え、蘇えらせ、単に可能的であったにすぎない使用価値から、現実的にして効果的な使用価値に、転化せねばならない。これらの物は、労働の火に舐(な)められ、労働の肉体として取込まれ、労働過程におけるそれらの概念および職分にふさわしい機能を吹きこまれて、消耗でれるのではあるが、しかし充分な目的をもって消耗されるのであり、生活手段として個人的消費に入りうるか、または生産手段として新たな労働過程に入りうる新たな使用価値の、新たな生産物の形成要素として消耗されるのである。


9 生産的消費

 かくして、現在ある生産物が、労働過程の結果であるだけでなく、その存立条件でもあるとすれば、他面では、労働過程への生産物の投入が、したがって、生きた労働とのその接触が、これらの過去の労働の生産物を使用価値として維持し、また実現するための唯一の手段なのである。
 労働は、その素材的要素を、その対象および手段を消費し、それを食いつくす。しだがって、それは消費過程である。この生産的消費が、個人的消費から区別されるのは、後者は生産物を生きた個人の生活手段として消耗し、前者は労働の生活手段として、個人の活動しつつある労働力の生活手段として消耗する、ということによる。したがって、個人的消費の生産物は、消費者それ自身であり、生産的消費の結果は、消費者からは区別された生産物である。
その手段およびその対象が、それ自体すでに生産物であるかぎり、労働は生産物を作り出すために生産物を消耗する。いいかえれば、生産物の生産手段として生産物を消耗する。しかし、労働過程が、はじめは、人間と人間の助力なしに存在する土地とのあいだにのみ行なわれるように、いまなお労働過程においては、天然に存在して、自然素材と人間労働との何らの結合をも示さないような生産手段も用いられるのである。

10.
 われわれがその単純にして抽象的な諸要素において叙述したような労働過程は、使用価値を作り出すための目的に合致した活動であり、人間の欲望のための自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的条件であり、人間生活の永久の自然条件であって、したがって、この生活のいかなる形態からも独立したものであり、むしろ、人間の一切の社会形態に等しく共通なものである。



11.
 われわれは、われわれの生成中の資本家のもとに帰ろう。彼が、労働過程に必要なすべての要素を、対象的要素または生産手段、人的要素または労働力を、商品市場で買ったのちに、われわれは彼のもとを去った。かれは抜け目のない玄人眼で、かれの特殊の営業、紡績業、製靴業等々に適する生産手段と労働力とを選び出した。かくして、われわれの資本家は、彼の買った商品、労働力を消費することにとりかかる。すなわち、彼は労働力の担い手、労働者をして、その労働によって生産手段を消費せしめる。労働過程の一般的性質は、労働者が自分自身のためではなく、資本家のためにそれを行なうということによっては、もちろん変化しない。また、深靴を作ったり糸を紡いだりする特定の仕方も、さしあたり資本家の介入によっては変化しえない。彼は労働力を、さしあたりは市場で彼が見出すままに受取り、したがってその労働をも、資本家がまだいなかった時代にそれが行なわれたままで、受取らねばならない。労働の資本への従属による生産方法そのものの転化は、のちになってはじめて起こりうるのであり、したがって、後にはじめて考察されるべきである。


12. 資本家による労働力の消費過程
 ところで、資本家による労働力の消費過程として行なわれるような労働過程は、二つの特有な現象を示す。
 労働者は、彼の労働を所有する資本家の管理の下に労働する。資本家は、労働が整然と進捗し、生産手段が目的に合致して使用され、かくして原料は浪費されることなく、労働用具は大切にされるように、すなわち、労働によるその使用で、止むをえない損傷に限られるように、注意する。
 また第二には、生産物は資本家の所有物であって、直接生産者の、労働者の、所有物ではない。資本家は、たとえば、労働力の日価値を支払う。かくして、労働力の使用は、すべての他の商品の使用、たとえば彼が一日間賃借りした馬の使用と同様に、その一日は彼に属する。商品の使用は商品の購買者に属する。そして、労働力の所有者は、彼の労働を引渡すことによってのみ、実際に、彼の売った使用価値を与えるのである。彼が資本家の作業場に入った瞬間から、彼の労働力の使用価値は、したがってその使用、労働は、資本家に属しだのである。資本家は、労働力の購買によって、労働そのものを生きた酵母として、同じく彼に属する死んだ生産物形成要素に、合体させたのである。彼の立場からすれば、労働過程は、彼によって買われた商品なる労働力の消費であるにすぎないが、しかし彼は、それに生産手段を付け加えることによってのみ、それを消費することができる。労働過程は、資本家が買った物と物とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの一過程である。したがって、この過程の生産物は、彼の葡萄酒窖(あなぐら:葡萄酒保存用に地下につくってある倉)における醗酵過程の生産物と全く同様に、彼に属するのである。
(岩波文庫②.p22)




   第2節 価値増殖過程

〔① 労働力商品の使用価値と価値 〕
〔② 資本の経済学 〕

1.
 生産物―—資本家の所有物―—は、使用価値、撚糸、深靴等々である。しかし、たとえば深靴は、ある意味では、社会的進歩の基礎をなすものであり、またわれわれの資本家は、断乎たる進歩派の人であるとしても、彼は深靴を深靴そのもののために作るのではない。商品生産においては、一般に使用価値は、それ自身のために愛される物ではない。ここでは一般に使用価値は、それが交換価値の物質的土台、その担い手であるがゆえにのみ、またその
かぎりにおいてのみ、生産される
。そして、われわれの資本家にとっては、二つのことが肝要である。

2. 生産過程
 第一に、彼は、交換価値をもっている使用価値を、売ることに予定された品物を、すなわち商品を、生産しようと欲する。また第二に、彼は、その生産のために要した諸商品の価値総額よりも、すなわち、彼が商品市場で大切な貨幣を前貸しして得た生産手段および労働力の価値総額よりも、高い価値をもっている商品を、生産しようと欲する。彼は一つの使用価値のみではなく、一つの商品を、使用価値のみではなく価値を、そして、価値のみではなく剰余価値を生産しようと欲する

 ここでは商品生産が問題なのであるから、これまでわれわれが過程の一面のみを考察したにすぎないことは、実際に明らかである。商品そのものが、使用価値と価値との統一であるように、その生産過程は、労働過程と価値形成過程との統一でなければならない
そこでわれわれは、生産過程を価値形成過程としても考察してみよう。

 われわれは、各商品の価値が、その使用価値において物質化されている労働の定量によって、すなわちその生産に社会的に必要な労働時間によって、規定されていることを知っている。このことは、労働過程の結果として、われわれの資本家にもたらされる生産物にもあてはまる。したがってまず、この生産物に対象化されている労働を算定してみよう
たとえば、生産物が撚糸であるとしよう。
撚糸の生産には、まず第一に撚糸の原料が、たとえば10封度の綿花が、必要であった。綿花の価値が何であるかは、あらかじめせんさくされなくてよい。なぜかというに、資本家は市場でそれを価値どおりに、たとえば10シリングで買ったのだから。綿花の価格において、その生産に要した労働は、すでに一般的社会的労働として表示されている。さらに、綿花の加工で消耗された紡錘量は、それが用いられた他の労働手段を代表するものとして、2シリングの価値をもつと仮定しよう。12シリングの金量が、24労働時間あるいは2労働日の生産物であるとすれば、さしあたり、撚糸には、2労働日が対象化されていることになる。
 綿花がその形態を変え、消耗された紡錘量が全く消滅した、という事情に惑わされてはならない。40封度ポンド撚糸の価値=40封度の綿花の価値+1個の完全紡錘の価値とすれば、すなわち、この方程式の両項を生産するために等しい労働時間を要するものとすれば、一般的価値法則にしたがえば、たとえば、10封度の撚糸は、10封度の綿花と4分の1個の紡錘とにたいする等価物である。

このばあいには、同一労働時間が、一方では撚糸なる使用価値において、他方では綿花および紡錘なる使用価値において表示される。したがって、価値が撚糸、紡錘、綿花のいずれにおいて現われるかにたいしては、価値は無関係である。紡錘と綿花とが、しずかに並んでいるかわりに、紡績過程において結合され、この結合によって、それらの使用形態が変えられ、それらが撚糸に転化されるということは、それらが単純な交換によって、撚糸という等価物と置換えられるばあいと同様に、それらの価値には影響しないのである。
 綿花の生産に必要とされた労働時間は、綿花を原料とする撚糸の生産に必要とされた労働時間の一部分であり、それゆえに、撚糸の中に含まれている。紡錘量の磨滅または消費なくしては、綿花は紡がれえないのであるが、この紡錘量の生産に必要とされた労働時間についても、同様である。

かくして、撚糸の価値が、すなわち撚糸の生産に必要とされた労働時間が考察されるかぎりでは、綿花そのものおよび消耗された紡錘量を生産するために、最後には綿花と紡錘とで撚糸を作るために通過されねばならない、種々の特別の、時間的および空間的に分離された諸労働過程は、同一の労働過程の各種のひきつづいて行なわれる諸段階と見なすことができる。(中略)
かくして、12シリングの価格に表現された生産手段、すなわち、綿花および紡錘の価値は、撚糸価値の、あるいは生産物の価値の構成部分をなす。(中略)


3
 われわれはこの労働を、いまや、労働過程におけるばあいとは、全く別な見地から考察せねばならない。労働過程のばあいには、綿花を撚糸に転化するという目的に合致する活動が問題であった。すべての他の事情が変わらないものと前提すれば、労働が目的に合致するほど、撚糸は上等である。紡績工の労働は、特殊なものとして、他の生産的労働とちがったものであった。そしてこの差異は、紡績の特殊な目的、その特殊な作業方法、彼の生産手段の特殊な性質、その生産物の特殊な使用価値において、主観的にも客観的にも、明らかに現われていた。綿花と紡錘とは、紡績労働の生活手段としては役立つが、それらをもって施条砲(ライフル砲)を作ることはできない。これに反して、紡績工の労働が価値形成的であるかぎり、すなわち価値源泉であるかぎりでは、それは砲身穿孔せんこう工(砲身に穴あけ工)の労働と、あるいはここではさらに手近なものでいえば、撚糸の生産手段に実現されている綿花栽培者および紡錘製造工の労働とまったく違ったところはない。まったく同一であるからこそ、綿花栽培、紡錘製造、および紡績は、同じ総価値の、すなわち撚糸価値の、単に量的にのみ異なる諸部分を形成しうるのである。もはやここでは、労働の質、性状、および内容が問題となるのではなく、ただその量が問題となるにすぎない。これは簡単に算定することができる。われわれは、紡績労働が単純労働、社会的平均労働であると仮定する。反対の仮定も、なんら事態を変えるものでないことは、後にわかるであろう。

4.
 労働過程にあるあいだ、労働はたえず不静止の形態から存在(ザイン)の状態に、運動の形態から対象性の形態に転換する。1時間の終わりには、紡績運動がある定量の撚糸に表示され、したがって、一定量の労働、すなわち一労働時間が、綿花に対象化されている。われわれが一労働時間、すなわち1時間のあいだにおける紡績工の生命力の支出という理由は、ここでは紡績労働が、労働力の支出であるかぎりにおいてのみ、当てはまるのであって、それが紡績という特殊な労働であるから当てはまるのではないからである。
 過程の継続中に、すなわち綿花の撚糸への転化の継続中に、ただ社会的に必要な労働時間のみが消費されるということは、いまや決定的に重要である。正常な、すなわち平均的な社会的生産諸条件の下では、a封度ポンドの綿花が一労働時間中にb封度ポンドの撚糸に転化されていなけれぱならないとすれば、12× a封度の綿花を12×b封度ポンドの撚糸に転化する労働日のみが、12時間の労働日として考えられる。なぜかというに、社会的に必要な労働時間のみが、価値形成的として数えられのだからである。
労働そのものと同様に、ここでは原料および生産物もまた、本来の労働過程の立場から見るのとは、全くちがった姿で現われる。原料は、ここでは、一定量の労働の吸収物としてのみ考えられる。この吸収によって、それが実際に撚糸に転化するのは、労働力が紡績の形態において支出されて、それに付加されたからである。しかし、生産物なる撚糸は、いまでは、綿花に吸収された労働の測度器であるにすぎない。1時間に1封度3分の2の綿花が紡がれる、あるいは1封度3分の2の撚糸に転化されるとすれば、10封度の撚糸は、吸収された6労働時間を示す。いまや特定量の、経験的に確定された定量の生産物が表示するものは、特定量の労働にほかならない。すなわち、特定量の凝固した労働時間にほかならない。それらは、もはや、社会的労働の1時間分、2時間分、1日分の体化物にすぎない。 
労働がまさに紡績労働であり、その材料が綿花であり、その生産物が撚糸であるということは、労働対象そのものがすでに生産物であり、したがって原料であるということと同様に、ここでは問題ではなくなる。もし労働者が紡績工場のかわりに炭坑で働くとすれば、労働対象である石炭は、天然に存在するであろう。しかしそれにもかかわらず。炭層から裂き取られた石炭の一定量、たとえば1ツェントネルは、一定量の吸収された労働を表わすであろう。(中略) p29~p33



5. ◆労働力の使用価値と剰余労働-p35

 さらに詳しく見よう。労働力そのものには、半労働日が対象化されているから、すなわち、労働力の生産のために、日々必要な生活手段は、半労働日を要するのであるから、労働力の日価値は3シリングであった。しかし、労働力に含まれている過去の労働と労働力が遂行しうる生きた労働とは、すなわち労働力の日々の維持費と労働力の日々の支出とは、二つの全くちがった大いさである。前者はその交換価値を規定し、後者はその使用価値を形成する。労働者を24時間生かしておくために、半労働日が必要であるということは、決して、彼がまる1日間労働することを妨げない。したがって、労働力の価値と、労働過程におけるその価値増殖とは、二つの異なる大いさである。資本家が労働力を買ったとき、彼はこの価値差額に着目していたのである。撚糸または深靴をつくるという労働力の有用なる属性は、価値を形成するためには、労働が有用なる形態において支出されねばならないゆえをもってのみ、不可欠な条件だったにすぎない。そして、事を決定したものは、価値の源泉であり、しかもそれ自身がもつよりも、より多くの価値の源泉であるという、この商品の特殊な使用価値であった。これが、資本家がこの商品に期待する特殊な用〔spezifische Dienst : 特殊な業務,職務〕 である。そして彼は、その際、商品交換の永久の諸法則にしたがつて行動する。実際に、労働力の売り手は、すべての他の商品の売り手と同じく、労働力の交換価値を実現して、その使用価値を譲渡する。彼は、後者を手放すことなくしては、前者を受取ることはできない。労働力の使用価値、労働そのものは、売られた油の使用価値が、油商人のものでないのと伺様に、その売り手のものではなくなる。貨幣所有者は、労働力の日価値を支払った。それゆえに、その日の中の労働力の使用、すなわち、1日中の労働は、彼のものとなる。

労働力はまる1日はたらき、労働しうるにもかかわらず、労働力の日々の維持が、半労働日しか要しないという事情は、したがって、労働力1日間の使用で作り出される価値が、労働力自身の日価値の二倍であるという事情は、買い手にとっては、特別な幸運であるが、とはいえ、売り手にたいする不法では決してないのである。
われわれの資本家には、彼を喜ばせるこの事情が、前からわかっていたのである。それゆえに、労働者は、6時間に止まらず、12時間の労働過程に必要な生産手段を、作業場に見出すのである。10封度の綿花が、6労働時間を吸収して10封度の撚糸に転化したとすれば、20封度の綿花は、12労働時間を吸収して20封度の撚糸に転化されるであろう。われわれは、この延長された労働過程の生産物を考察しよう。20封度の撚糸には、いまや5労働日が対象化されている。4労働日は、消耗された綿花量および紡錘量に対象化され、1労働日は紡績過程中に綿花によって吸収されている。しかして、5労働日の金表現は、30シリング、すなわち1ポンド10シリングである。したがって、これが20封度の撚糸の価格である。1封度の撚糸は、依然として1シリング6ペンスの値である。しかし、この過程に投ぜられた商品の価値総額は、27シリングであった。撚糸の価値は30シリングである。生産物の価値は、その生産のために前貸しされた価値よりも、9分の1だけ増加した。かくて、27シリングは、30シリングに転化した。それは3シリングの剰余価値を産んだ。手品はついに成功した。貨幣は資本に転化されたのである。(中略)
 資本家は、新たな生産物の素材形成物として、または労働過程の諸因子として役立つ商品に、貨幣を転化することによって、諸商品の死んだ対象性に生きた労働力を合体させることによって、価値を、過去の対象化された死んだ労働を、資本に、自分自身を増殖する価値に、胸に恋でもあるように「作業し」はじめる生気ある怪物に、転化するのである。




6.
 いま、価値形成過程と価値増殖過程とを比較してみるならば、価値増殖過程は、ある一定の点越えて延長された価値形成過程にほかならない。後者は、資本によって支払われた労働力の価値が、新たな等価によって代置されている点までしか、継続しないのであるが、かくては、それは単純な価値形成過程である。価値形成過程がこの点を越えて継続するならば、それは価値増殖過程となる。
  さらに、価値形成過程を労働過程と比較してみるならば、後者は、使用価値を生産する有用労働である。運動はここでは質的に考察される。その特別な仕方において、目的および内容にしたがって。同じ労働過程が、価値形成過程においては、その量的な側面からのみ示される。もはや問題となるのは、労働がその作業に要する時間のみであり、あるいは、労働力が有用に支出される継続時間のみである。ここでは、労働過程に入る諸商品もまた、目的に合致して作用する労働力の機能的に定められた素材的諸因子ではない。それらは、ただ対象化された労働の一定量として数えられるにすぎない。生産手段に含まれているにせよ、労働力によって付加されるにせよ、労働は、もはやその時間尺度にしたがって、数えられるにすぎない。それは幾時間、幾日間等々と計算される。(中略)
 
p41~
7.
 要するに、以前には商品の分析から得られた、使用価値をつくるかぎりでの労働と価値をつくるかぎりでの同じ労働とのあいだの区別が、いまでは生産過程の異なった側面の区別として示されたのである。
 労働過程と価値形成過程との統一としては、生産過程は、商品の生産過程である。労働過程と価値増殖過程との統一としては、それは資本主義的生産過程であり、商品生産の資本主義的形態である。
 前にも述べたように、資本家によって領有された労働が、単純な社会的平均労働であるか、より複雑な労働、すなわち、より高い比重の労働であるかは、価値増殖過程にとっては、全く問題にならない。社会的平均労働にたいして。より高度な、より複雑な労働と見なされる労働は、より高い養成費を含み、その生産により多くの労働時間を要する、したがって単純な労働力よりもより高い価値をもつ労働力の発現である。この力の価値がより高いならば、それはまたより高級な労働において発現し、したがって。同じ時間内に、比較的により高い価値となって対象化される。しかし、紡績労働と宝石細工労働との等級の区別がどうであろうとも、宝石細工労働者が、彼自身の労働力の価値を置換えるにすぎない労働部分は、彼が剰余価値を創造する追加的な労働部分から、質的には決して区別されない。依然として剰余価値は、労働の量的超過によってのみ、同じ労働過程の、一つのばあいに捨撚糸生産の過程の、他のばあいには宝石生産の過程の継続時間の延長によってのみ、出てくるのである。
 他方、いかなる価値形成過程においても、高級な労働は、つねに社会的平均労働に約元されねばならない。たとえば一日の高級労働は、X日の単純労働に。かくして、資本によって使用される労働者は、単純な社会的平均労働を行なうという仮定によって、余計な操作がはぶかれ、分析が簡単にされるのである。

・・・・・第6章終わり・・・・・p.43・・・・・2023.08.15・・・・・・・